妄想女子と羊吉さん 4
まだ職員室に残っているであろう城山や真由香を頼ることすら思いつかず、弥宵は走り出した。小屋のある中庭から始まり、グラウンド、校舎裏、非常階段、駐輪場の隅々まで探したが、やはり羊吉はいない。息を切らしながら、弥宵は混乱していた。
(なんでいないの……?)
誰かが羊吉を抱えて連れ去ったのか。それとも、羊吉は案外脚が速くて、あっという間に学校を飛び出して、どこかに逃げたのか。あらゆる可能性を思い浮かべては、そうであってほしくないと願うしかない。
弥宵が自分を落ち着けようと目を閉じた瞬間、がさがさと草むらをかき分けるような音が背後から聞こえた。びくっと肩を揺らして振り返ると、道路と駐輪場を隔てる生け垣の間から、羊吉が顔を覗かせているのが見える。
「羊吉!」
安堵感で涙ぐみながら、弥宵は羊吉へと駆け寄った。羊吉も逃げることはせず、器用に生け垣から身体を抜いて、弥宵を見上げる。
「もー、心配したよー! よかったぁ……」
弥宵は羊吉の前に屈み、その頭を抱きしめた。干し草と獣らしい独特の匂いが混ざっているが、嫌ではなく、むしろなぜか落ち着く心地がする。羊吉は弥宵の腕の中で、じっと動かなかった。
「どうやって柵を抜けたの? ジャンプして飛び越えた?」
話しかけても返事されるわけがない。それでも日頃の癖なのか、弥宵は自然と口に出して聞いてしまう。直後、腕の中の羊吉が、一瞬だけ強く発光したように見えた。
「……弥宵」
もごもごと、少し掠れた男性の声が聞こえた。誰かに呼ばれたと思って弥宵は辺りを見回す。聞き覚えのない声。しかも、名字ではなく下の名前を呼び捨てにする男性は、父親くらいだ。
周囲には誰もおらず、人の気配もしない。弥宵は不思議に思う。
「え? 空耳?」
「違う、こっち。ちょっと苦しいから、腕放して」
「……は?」
今度こそ、はっきりと聞こえた。それは、弥宵の腕の中から。そこには羊吉が居るはずだが。弥宵は腕を放して、羊吉の顔を覗き込もうとした。羊が、喋ったのか。
腕を動かした際に、さらりと白い髪の毛のようなものが弥宵の手に触れた。そして、弥宵はありえない光景を目の当たりにする。
「え、だっ……誰!?」
弥宵は驚き、即座に後ろへと飛び退いた。目と鼻の先にいたのは、白髪の男性だったのだ。
色あせ古びたベージュ色の布で全身を覆い、その隙間から茶褐色の肌が見える。瞳は黒く、潤っていて、側頭部には渦巻き状の角がそれぞれ付いている。気怠そうに首を傾げ、睫毛は悔しいほど長い。
よくよく見れば、その姿は先程弥宵が想像した、羊吉を擬人化した姿と瓜二つだった。
(な、なにこれ!? 夢!?)
弥宵は瞬きを繰り返し、両頬を強く叩いてみるが、夢から覚める気配はない。この非現実的な状況が、現実だというのか。
「信じてくれないかもしれないけど。僕は、弥宵が羊吉って名付けた羊だよ」
「……えっ」
羊吉だと名乗った男性は、すっと立ち上がった。その顔は無表情に近く、何を考えているのか見当もつかない。弥宵はこけて尻餅をつき、恐怖のあまり動けなくなってしまった。
「う、うそだっ……羊吉は、羊なんだからっ。ふ、不審者で、警察を呼びますよ!」
「やっぱり信じてくれないか。僕は君の名前も知ってるし、羊吉って名付けられたことも分かってるのに?」
「あ……なんで、それ、知って……?」
「だから、僕が羊吉だって言ってるでしょ」
弥宵は、彼に羊吉と名付けたことを、誰にも言っていない。父親にも叔母の真由香にも、友達にも。誰かに盗み聞きでもされない限り、それを知っているとすれば、弥宵と羊吉しかありえなかった。
(それで、信じろって言われても!)
考えれば考えるほどに、弥宵の頭の中はパニック状態に陥っていった。弥宵が想像した羊吉の人間の姿と、目の前の人物がほぼ一致するのも謎だ。羊吉は眠そうに顔を歪め、のんきに大きな欠伸をした。
(夢だ……これは、夢だ……)
膨大な情報を処理しきれなかった弥宵の脳は、考えることを放棄した。そのまま意識が遠のいていく。
「弥宵? 弥宵!」
脱力して後頭部から倒れていく直前に、彼が弥宵を心配そうに呼ぶ声がした。




