妄想女子と羊吉さん 3
「羊吉、遅くなってごめんね!」
城山へ補習プリントを渡し終え、残りは明日必ず提出すると約束した弥宵は、まずは羊小屋の前へとやってきた。柵の向こう、屋根のある場所で丸くなっていた羊吉は、弥宵の声に反応して頭を上げる。
「餌、やっぱり残り少なかったね。水と一緒に、すぐ入れ替えるから」
話が通じているかは分からないが、せっせと動く弥宵の前に、羊吉は近寄ってきた。柵の隙間から頭を出し、新しくなったばかりの水を飲み始める。
「ちゃんと思い出してよかった……本当にごめんね。次からは気を付ける」
弥宵は餌入れの中の干し草を全て入れ替えた後、羊吉の頭を撫でた。羊吉は雄の羊だ。弥宵が高校に入学した時には既に飼育されており、名前はないとのことだったので、弥宵が勝手に“羊吉”と名付けて呼んでいる。よって、弥宵以外の飼育係はこのことを知らない。
羊吉が何歳なのかは不明だが、動きがゆったりしていてよく眠っているため、それなりの年齢なのではないか、と弥宵は推測していた。
弥宵が飼育係になった経緯は実に単純だ。この高校では、部活動に参加しない生徒は飼育係を務めるルールになっている。弥宵は特にやりたい部活もなく、家で馬を飼っていることもあり、自ら飼育係を選んだ。校内でも弥宵を入れて四人しか飼育係がいないため、担当順はすぐに回ってくる。
「他の小屋も行ってくるね。急がないと、日が暮れちゃう」
羊吉は水を飲むのを止め、潤った黒い瞳で弥宵を見上げる。弥宵は微笑み、再度その頭をわしゃわしゃと撫でてから、ウサギ小屋と鶏小屋に向かった。
毎日交替で掃除してはいても、小屋の中はすぐに汚れるものだ。水を入れたバケツとデッキブラシ、ゴム手袋を用意して、弥宵は作業に取りかかる。弥宵も今年で受験生。飼育係も三年目を迎えれば手慣れたもので、てきぱきとこなしていった。
鶏たちが弥宵と掃除道具を避けて、器用に通り過ぎていく。弥宵はふと、この動物たちは今何を考えているのだろうか、と思った。
(例えば……そう、羊吉が人間だったら)
擬人化--人ではないものを人に例える妄想は、弥宵の得意分野だ。つい最近、動物が人間になるというテーマのテレビゲームをプレイしていたこともあり、その画は弥宵の脳内で瞬く間に鮮明になっていく。
(髪は白くてふわふわで、巻いてある角がついていて……)
年齢はどのくらいか。若ければ弥宵とそれほど変わらないかもしれない。羊は比較的長生きすると聞くし、人間に換算する方法も分からないので、成人した男性を想像してみることにした。
(肌は、意外に茶褐色……?)
そういえば、羊毛の下はどうなっているのだろう。体格は引き締まっているのか、脂肪たっぷりなのか。いや、引き締まっている方にしよう。目はくりっとしていて、きっと二重だ。睫毛は絶対に長い。眠るのが好きだから、ぼんやりした顔をしていることが多そうだ。そういった様々な情報が弥宵の頭の中を駆け回っていく。
「はっ……! 早く終わらせなきゃ!」
鶏が一羽、足元でばたついたことで弥宵は我に返った。三度の飯よりも妄想が好きかもしれないと、それは自覚しているのだが。このところ、無意識のうちに頻度が増しているようだ。授業中に妄想に集中してしまったのも、弥宵にとっては予想外のことだった。今まで、授業はサボることもなく、きちんと受けてきたはずなのに、どうしたものか。
(今年は受験生だし、そろそろ本もゲームも封印かな……)
大学には行きたい。この町には高校までしかないので、必然的に外に出なければならないが、妄想のためなら新しい刺激は大切だ。大学では文学部に進んで、小説を書く勉強をしたいと弥宵は思っていた。親に成績のことをあれこれ言われたことはないが、自分の目標のためには好きなことも我慢しなければならない。
鶏小屋の掃除と餌やりを終え、続けてウサギ小屋へ。敷地面積が小さいので、これもすぐにこなせる量だ。途中で妄想に浸っていたとはいえ、完全に日が沈む前までには終了した。
「よし。終わりっと」
道具を片付け、それぞれの小屋を施錠した後、羊吉の様子を見てから帰ろうと、弥宵は羊小屋の前へと戻った。しかし、そこには羊吉の姿が見当たらない。
「あれっ? 羊吉?」
羊吉がよく寝ている屋根の下を覗き込んでも、いない。つまりは柵の中から、消えてしまったのだ。
「えっ……もしかして、逃げた!?」
弥宵は青ざめ、震える手で扉の鍵を開け、中に入った。どう探しても見つからない。柵を掴んで揺らしてみたが、脆くなっていたわけでもなく、壊された形跡もなかった。ならば、柵を飛び越えたのか。今まで一度も脱走したことなどないのに。
「ど、どうしよう……!」
逃げたばかりなら、まだ近くにいるかもしれない。弥宵はすぐに小屋の外に出て、校内を探そうと辺りを見回した。小さな町だ。どこかで誰かが見つけて保護してくれるかも、なんて甘い考えも浮かんだが、羊吉の身を案じる方がそれを上回った。




