浮気騒動と謎の少女と『???』 8
日が沈み始め、一同は解散することにした。城山と真由香は、仕事はとっくに終えていたものの、事件の報告のために、実兎を連れて学校に行ってくるという。
「実兎、大丈夫? ちゃんと謝ってこられる?」
「僕をなんだと思ってるの? それくらいはできるよ。渉も真由香もいるし」
「……分かった。頑張ってきてね。ご飯作って、待ってるから」
「うん」
弥宵の言葉に、実兎は嬉しそうに返事をする。駐車場まで三人を見送って、弥宵と慎太郎は家の中へと戻った。羊吉と天馬、それから実兎のことも気がかりではあるが、今はおいしい夕食を作る以外、弥宵にできることはない。
「二人も増えちゃったし、仕入れの数量、変えなきゃだね」
「そうだな」
弥宵は冷蔵庫の中を覗き込みながら、慎太郎にそう話しかけた。稲葉家の食材は、肉と野菜、卵、米に至るまで、定期発注で商店街から届けてもらう仕組みになっている。檀家や近所からお裾分けをもらうこともあり、足りないものや調味料などは、弥宵がその都度買い足していた。
「実兎は何が好きで何が嫌いか、聞いておくんだったな……」
「弥宵、声が疲れてるが……大丈夫か?」
「……うん。でも、ちょっと混乱してるかも」
この二日間、問題が起きて、解決したと思ったらまた新しい問題が生まれて、あやかしという不思議な存在にも出会うし、弥宵はもう一杯一杯だった。今までの平穏な日常はどこへいったのか。探偵ごっこができると一瞬でも浮かれていた自分は、どこか螺子が飛んでいたのかもしれない。
玉葱の皮をむき始めた弥宵の隣に、慎太郎がやってくる。彼は、「ごめんな……」とかろうじて聞きとれるくらいに小さく呟いて、弥宵の頭に手を乗っけた。
「なんでお父さんが謝るの」
「いや、あやかしのことも、昔から教え込んでいたほうがよかったのかと思ったんだよ。でもそれだと、弥宵は優しいから、いろんなあやかしを見つけては、助けていただろうなぁ」
「……この寺ではお世話しきれないほどに、ってこと?」
「そうだね」
言われてみて、弥宵は図星だと思った。もし今、新たに助けを必要としているあやかしが現れたら、弥宵が実兎を受け入れたように、手を差し伸べずにはいられない。だがそれは、どれほどいるか分からないあやかし全てに対し、できることではない。慎太郎の判断は、きっと正しかったのだ。
「……それでも、私はできる限りのことをしてあげたいよ」
「そうか。まあ、無謀なことをしない程度に。そういうところは、母さんにそっくりだな」
「えっ。私、お母さんに似てるの?」
「ああ。高校生になって、最近は特によく似てきた。大きくなったな」
慎太郎が、珍しく母のことを口にした。弥宵がまだ幼い頃、どれだけ母のことを質問してもはぐらかされ続けたため、その話題は振ってはいけないのだと思っていたのだ。真由香も、弥宵が生まれた当時は遠方の大学に通っていたため、弥宵の母には会っていないし、見てもいないという。
「私、本当にお父さんとお母さんの娘なんだよね?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、お母さんの名前だけでも……教えて」
「……“日向”という。日向ぼっこの、日向だ」
「へえ……温かそうな名前……っ」
弥宵は、声を震わせ、泣いていた。玉葱の成分が目に染みたのかもしれないが、自分でも理解できないうちに、涙が零れたのだ。十七歳になるまで、母の名前を知らなかった弥宵にとって、今日は奇跡に近い日だった。
「帰りました……!」
「えっ、羊吉?」
玄関の方で、羊吉らしき声がした。弥宵は手を止めて涙を拭い、慎太郎と顔を見合わせる。聞き間違いではないようだ。二人で玄関へと向かうと、そこには羊吉と――その後ろに知らない男性が立っていた。
「羊吉、天馬は? この方は、誰?」
「えっとね、どう説明したらいいかな……」
耳の上で切り揃えられた明るい茶色の髪に、こんがりと焼けた肌。羊吉や実兎にも負けず劣らずのつぶらな瞳。細面で、顎までしゅっとしている。どこかで見たようなベージュ色の布を上半身に巻いており、下にはカーキ色のズボンを履いていた。裸足で、服はあちこちが破けていて、かなりボロボロだ。
(これ……昨日も……)
そう、弥宵はまた既視感を覚えた。羊吉が現れた瞬間が、こんな感じだったはずだ。可能性を頭の中で組み立てる前に、男性は羊吉の後ろから身体を出す。
「や、弥宵さんっ……あのっ」
「は、はい」
彼に突然名前を呼ばれ、弥宵はびっくりした。反射的に返事をしてしまったが。
(まさか……まさか、まさか!)
彼はおどおどしながら目を瞑り、頭を深々と下げた。
「お、おお俺が天馬です! 逃げ出して、心配を掛けてしまって、すみません!」
「……天、馬?」
もうどんなに非現実的なことがあっても、弥宵は慣れてきてしまって、驚かないだろうと心のどこかで思っていた。だが、まだまだ甘かったようだ。弥宵は、言葉を失っていた。




