妄想女子と羊吉さん 2
「多いよ、これは。絶対終わんないよ……」
放課後、机の上に広げた補習プリントの枚数を見て、弥宵はその上に突っ伏した。城山は静かに怒っていたらしく、表面に見せないその怒りをプリントの枚数という形に昇華したらしい。
「じゃ、弥宵。うちらは先に帰るから。補習頑張って~」
「はーい……。また明日ね」
気心知れた女友達も、さすがに補習が終わるまで待っていてくれることはない。紺色のプリーツスカートが教室の向こうへひらひらと消えていくのを見送って、弥宵は肩を落とした。
「はあ……やるしかないか」
こんな時間があるならば、小説の続きを書くことに費やしたいのに。そんな願望がふと弥宵の脳裏を過ぎったが、口が裂けても城山には言えない。授業中にルールを破ったのは自分なのだから、受け入れるべきだ。弥宵は頬を叩いて気合いを入れ直し、度々唸りながら空欄を埋めていった。
それからしばらく、弥宵は問題に集中していた。頭を上げると、オレンジ色の夕日が差し込んできている。春が終わりに近づき、日照時間が長くなってきたとはいえ、あまりに遅くなると弥宵の父が心配するかもしれない。
「う……まだあと三枚もある」
手を止めて背伸びをしながら、弥宵は窓の外を窺った。グラウンドには、部活に励んでいるような人影は既になく、静まり返っている。早く帰りたい、そんな気持ちが弥宵の中に湧いてきた。
「あら、弥宵。まだ残ってたの?」
「わ! 真由香ちゃ……稲葉先生」
「ふふ。もう二人きりだから、真由香でいいわよ」
廊下側の引き戸が開いて、稲葉真由香が顔を出した。真由香は弥宵の父の妹、つまり叔母にあたる。高校教師になって小さな田舎町へと戻ってきたため、偶然(とは言えない確率だが)、ここで教鞭をとっている。担当科目は現代文だ。
血縁とはいえ、学校では“先生”と呼ぶことが約束。だが、今は普段通り“真由香ちゃん”と呼んでいいらしい。“おばさん”と呼ぼうものならどんな反撃が待っているか分からないので、弥宵は幼い頃から気を付けるようにしている。とはいえ、真由香も三十代半ばのはずなのだが。
「城山先生の授業でやらかしちゃって。居残り補習してたんだけど、終わらないの」
「聞いた。小説を書いていたんですって?」
「うっ……先生、真由香ちゃんに言ったの?」
「あなたの叔母だから、特別にね。他の先生たちには言ってないみたいだから、安心しなさい」
真由香はくしゃっと笑って、呆れるような素振りもなく教室の中へと入ってくる。艶やかな栗色の髪が肩の辺りでくるくると巻かれており、歩みに合わせて柔らかく揺れた。半月型になった唇には、淡いピンク色の口紅が乗っている。弥宵はほっと息を漏らして、その場面を見つめていた。
真由香は親族の弥宵から見ても、美人で気立てがよく、スタイルもいい。それなのに、未だに結婚していない。
(真由香ちゃんは……どんな人と結婚するだろう?)
その隣に立つ男性を想像してみる。背が高く、体格もがっしりしていて、知的そうな――例えば、城山のような男性。お似合いだった。
「どうしたの? 私の顔をそんなに見つめて」
弥宵の机の前までやってきた真由香は、目を丸くした後に微笑んだ。きっと、弥宵が妄想に浸っていたことは気付いているだろう。それだけ、互いに長い付き合いになる。
「あ……ううん。これ、早く終わらせないとね」
「できたところまでを提出しなさい。残りは家でやればいいわ。外も暗くなってきたから、さすがにもう帰らないと私も心配だわ」
「そっか。じゃあ先生に、これ出してくるね」
「うん。気を付けて帰るのよ」
机の上を片付け、提出する分のプリントを除いて鞄に突っ込んだ弥宵は、真由香に手を振って教室を出ようとした。
「弥宵」
「ん? なあに?」
振り返った先で、真由香は戸惑いがちに目を瞬かせた。先程までの笑顔をとは打って変わって、思い詰めたような表情だ。
「あ……いや、なんでもない。今度、家に行った時にでも……ちょっとだけ、話を聞いてくれる?」
「もちろん! いいよ」
弥宵は僅かに首を傾げたものの、すぐに頷いた。弥宵と真由香は、年齢こそ一回り以上違うが、大切な家族に変わりはない。家族にしか相談できない悩みもあるだろう。それくらいは弥宵も分かっていた。
「ありがとう。引き留めてごめん。じゃあね」
「うん。ばいばい」
再度手を振って真由香と別れ、職員室へ向けて廊下を歩き出した。グラウンド側ではない、中庭が窓の外に見えてきて、弥宵はそこではっとした。大切なことを忘れていたのだ。
「あっ! 小屋の世話!」
本日の飼育係担当は、弥宵だった。通常ならば、放課後に一通りの世話をして帰るはずだったのだが、補習のせいですっかり弥宵の頭から飛んでいたのだ。慌てて廊下を駆け、職員室に到着した際には、「廊下は走るな!」と城山に注意されてしまった。




