夕飯の希望を回収
家に着いたところで雨がぽつぽつりと顔に落ちてきた。間に合ったことにほっと息をつく。
そのままだて眼鏡さんを中まで持ち込むと、リビングでくつろいでいた兄と妹が飛び上がって驚いた。二人が文字通り飛び上がっていたのでだて眼鏡さんがびくりと体を震わせたのを背中で感じた。コミカルな動きをする家族で申し訳ない。
「あゆが男連れ込んだ!」
「あゆちゃんが男の人連れ込んだ!」
「二人で同じこと言ってないで、手当ての用意してもらっていいですか」
戸惑ったままの兄が、未だ私に背負われたままのだて眼鏡さんの靴を脱がせてくれている間に、妹がパタパタと小走りでタオルを運んでリビングのソファに敷いてくれた。
救急箱を取りに行った妹の背にお礼を言いながら、敷かれたタオルの上にそっとだて眼鏡さんをおろした。
「大丈夫ですか?」
「へ? あ? ああ、う、うん」
彼は何故か私の顔を見て目を丸くして、嘘だろ、と小さく呟いた。そんな変な顔をした覚えはないのだけれど。
ああ、そういえば公園の彼がいた位置は薄暗かった上、そのあとはずっと背負ってきたから、彼は私の顔を今初めてまともに見たのか。……いやそれにしてもそんな変な顔をした覚えはないのだけれど。
妹がそわそわしながら救急箱を手渡してくれたので、受け取る。同じくそわそわした兄が水の入った洗面器とタオルを持ってきた。何かに一心に興味関心が向かうと、逆に他の行動が優秀になるなあこの二人。
「あ、歩ちゃん……?」
手当ての前にどろどろに汚れているのをどうにかしなければ、とタオルを濡らしていると、困惑した声が私の名前を呼んだ。返事をしようとして、しかし疑問が浮かび手の動きが止まる。絞りきれていない水分が手を伝ってから水面に落ちていった。
「……私、名乗りましたっけ?」
兄と妹は私のことを『あゆ』としか呼んでいない。つい警戒して固くなる私の声を聞いて、彼は焦燥に顔を歪めて両手を胸の前で振った。
「い、いや違う! えと、君、俊ちゃんと仲良い子でしょっ? 俺あのクラスだし、あのとき教室にいたから」
急に激しく動いてどこか痛んだのか、彼はそこまで言い終えてから、ぐっと喉の奥で堪えるような低い声をあげて項垂れてしまう。
あのとき? 教室? ……俊ちゃん?
「……ああ、だから私もあなたの眼鏡に見覚えがあったんですね」
公園に放置するのも憚られ、彼と一緒に持ち帰ってきただて眼鏡をポケットから出して眺めた。俊ちゃんが私を教室に連れ込んだときに教室内にいた、俊ちゃんのクラスメイトの一人ということか。
興味津々に私を眺める人は何人もいたから、その中にいたのだろう。
「眼鏡だけしか印象ないのかよ……」
「鏡見ますか? どんなに仲良しでも今のあなたほどボコボコにされれば知り合い判定に時間かかりますよ」
「あー……そうでした」
くったりとしてしまった彼の手当てを手早く済ませる。兄のおかげというべきか、兄のせいというべきか、すっかり手慣れてしまった行為は考え事をしながらも無意識に進められた。
俊ちゃんの知り合いなら、俊ちゃんに連絡をとった方がいいのだろうか。彼も兄と妹に無言で観察されて居心地が悪そうだし、そう長居はしたくないだろう。
外から聞こえる雨音は激しくなりゆくばかりだ。この天気の中今すぐあなたの友人を迎えに来い、なんて図々しいお願いはできなくとも、怪我だらけで苦しい中、知り合いと連絡を取れた方がだて眼鏡さんも安心できるんじゃないだろうか。
「……あ、でも私、俊ちゃんの連絡先知らないんだった」
はたと気が付き口に出すと、だて眼鏡さんが噴き出した。
「うっそぉ……俊ちゃんってそんな奥手なんだ……」
何やら肩が震えているけれど、どうかしたのだろうか。俯いてしまった彼を見つめていると、妹が横からにゅっと顔を出してきた。
「ねえねえあゆちゃん、この人誰なの? 俊ちゃんって? なんでこの人怪我してるの? あと今日のご飯何?」
「どっさり訊きますね。……お兄ちゃんも何か訊きたそうですね」
床に胡座をかいて私とだて眼鏡さんを睨むように見つめていた兄に話を振ると、兄は厳かに頷いた。
「今日の夕飯はなんだ」
食い意地の張った兄妹である。
「……何が食べたいですか?」
今日は親の帰りが遅いので、夕飯を用意をするのは私なのだ。二人に聞き返すと、彼らはすっかりだて眼鏡さんへの興味を失ったように悩み始めたので、その間に彼の手当てを終わらせた。
もうこんな時間だし、夕飯の内容は冷蔵庫の中身によるものになるのだけど、自由に悩む彼らは楽しそうだ。
「ああそうだ、お名前教えてください」
「え。あ、俺? 瑛一、です」
ああでもないこうでもないと言い合う兄と妹を呆気にとられた様子で見ていた彼は、ハッとしてから答えた。
救急箱を片付けながら彼の対処について悩む。触れた限りでは熱もまだまだ高そうだし、無理して帰ってもらうわけにはいかないだろう。
「あゆ、餃子が食いたい」
「あゆちゃん、餃子食べたい!」
意見が一致したらしい兄と妹が出した夕飯案を聞いて、冷蔵庫の中に思考を巡らせた。確か、冷凍の餃子がまだ結構な数、残っていたはずだ。
「わかりました。どうせなので瑛一くんも食べていってください」
受け取った餃子希望案に頷いて返すと、兄と妹は満足そうに頬を緩め、瑛一くんが再び目を丸くした。
私はカレーが食べたいです。