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北領のナターシャ  作者: Peace
北領のナターシャ
9/22

北領のナターシャ(後編)


 ナタリアはイエヴァに連れられて宮殿から離れ、別館の三階に案内された。

 廊下の隅に忘れられた様に存在する部屋の前では、二人の武装したの兵士が立っている。ナタリアたちの到着を知った彼らは荒々しく扉をノックすると、鉄でできた分厚い扉を体を大きく反らせて開いた。重々しい音を鳴らしながら開いた扉は長編叙事詩の有名な一文を思い出させる。そこから先は薄暗く見えず、まるで巨大な怪物が口を開けて獲物が入ってくるのを待っているようだ。

 動きを止めたナタリアの方に、先に部屋に足を入れたイエヴァが振り返った。彼女の上半身は陰に隠れて表情はよく見えなかったが、光を反射したメガネがきらりと煌めく。両脇の兵士が急かすようにナタリアを見た。



(こんなとこに連れてきて、こいつら何が目的だ?殺すつもりならとっくに殺してるだろうし、貴重なアクセサリーを集める感覚で俺を手元に置きたいとか?)



一体、なにを言われるのか。話だけでも聞いてみようとナタリアは軽い気持ちで足を踏み入れ、そしてすぐに後悔することとなる。

中で椅子に座りイエヴァと言葉を交わしている30代ほどの目の下に隈を作った骸骨のような男、こちらは問題ない。しかし、その後ろの壁に寄りかかり腕組みしてナタリアをにやにやと観察しているぼさぼさ髪の赤マントの威圧感、そしてその匂い。

 かつて幼く力もなかった頃、生き残るために彼女は強者には従い、媚びへつらって生きてきた。その時に培った危機察知能力、さらにその後の過激な人生で磨かれ精度を増したその能力は野生の動物すら上回る。それが今までにないほどの警鐘を鳴らしている。

 ナタリアはすぐに目を合わせない様に逸らした。視界の端に映る彼に全神経を集中させる。背中には滝のように汗が流れ、喉がひりつき、足が地面についてないような浮遊感に包まれた。

 


 年老いた自分は戦場に慣れ過ぎてそんな感情には錆びがついてしまい、しばらく味わうことがなかった感覚。しかし、この世界に来てから何度も体験した感覚。

 やはり自分は弱くなった、とナタリアは改めて実感した。体が女になる、それですべてが変わってしまったのだ。あるいは肉体だけでなくその精神すら……。

 認めたくない、その一心で体に喝を入れて、前に足をだし用意された彼らの対面に堂々と腰を下す。ぼさぼさ髪の赤マントの笑みが深まった。

 高まる二人の緊張感に気付いていない骸骨の様な男がまず口を開いた。



「待たせたみたいだな。僕はテオドール・オルロフスキー。ここのランドスチュワードを任されている。まぁ、周りからは執事長なんて呼ばれているがね」

「ナタリア。……後ろの彼は?」

「俺かい? オーラブだ。一応、騎士団長をしてる。よろしくなお嬢ちゃん」



 視界の端でおどけた様にウィンクするのが見えたが、ナタリアの緊張は一切緩まなかった。グレゴリーと戦いオーラブ騎士団の化け物のような強さは良くわかっている。これがあの集団のボスなら納得だ。

 椅子に浅く腰掛け右手をテーブルの下に隠す彼女の姿は威嚇する野生動物のようであったが、部屋の中で唯一彼女の警告に気付いているオーラブに特に気にした様子はない。

 テオドールは懐からシガリロを取り出すと、紫煙を燻らせた。干草の腐ったような熟成臭と芳ばしいフルーティーな香りは、ナタリアもよく知る最も知名度の高い葉巻に似ていた。



「ナタリアか。――ナタリア、いい名前だな」

「……」



 じっとりと爬虫類の様なテオドールの瞳がナタリアの頭からつま先までを舐めるように見た後、ナタリアの前に一冊の本を置いた。表紙はしわしわで飲み物をこぼしたようなシミがついている汚い本。テオドールは指でそれを叩きながらナタリアの瞳を覗き込んだ。



「この本がわかるか? ジーマがノルニグル族の村で見つけたものだ。

この北領を除いた民衆の大部分はノルニグル族は野蛮で粗暴、角と牙が生えていて棍棒を振り回してると本気で信じている。だが、実際は文化的で統一された一族だし、少数民族の彼らは仲間の数に敏感だ。この本がそれを証明してる」

「……それで?」

「本によるとノルニグル族全体に存命中のナタリアは六人いる。10歳未満が二人、30代が三人、そして50代が一人だ」

「……」



 ナタリアが何者かを最後に尋ねられたのはノルニグル族の村。ここまで一切尋ねられたことがなく、もうすっかり彼らは自分をノルニグル族と疑ってないと彼女は信じていた。スコピテラから移動中にセシルから話を聞き。自分の容姿やこの世界の常識を知らないところは彼らの勘違いを助けていることを知って、そのことも警戒心が緩む原因となった。

 テオドールの絡みつくような視線を見て、彼女は自分の体にゆっくりと忍び寄ってくるものを感じた。



「なぜ家名を名乗らない? ラブリュスの森の深くで何をしていた?」

「さぁ?」



 反抗的なナタリアの態度に、しかしテオドールは笑って札をきった。



「『チキュウ』、『ヨーロッパ』、『アメリカ』、『ニホン』これらの単語に聞き覚えは?」

「ッ!……どうだったかな」

「知らないのか? キミの世界の言葉だろう?」

「何を言っているのか、わからないな」



 急にテオドールから飛び出した言葉にナタリアの視線が一瞬ブレたが、彼女の反応はそれだけで返答にも淀みがない。予想と反した淡白な反応にテオドールは怪訝そうな顔をする。



「魔術師どもは世界の歪みやら魔力の乱れが原因と言ってるが、詳しいことはわかっていない。ごく稀に起こる現象で、急に人間が現れるんだ。いや、人間みたいな何か、がね。

私たちは【流浪の民】と呼んでいるんだけど、そいつらはみんな危険思考の持ち主で訳がわからないことばかり話し、精神的に未成熟なものが多い。頭痛の種だよ」

「私もそうだと?」

「キミは特殊みたいだけどね。うまく隠したもんだ、話していても違和感が全然ない。グレゴリーたちが騙されるのも無理はない」

「……」

「うちは亜人との歩み寄りが進んでる領土でね。ああ、亜人ってのは人間と同等の知能を有していると領主に認定された種族の事で人間と対等に扱われる存在だ。

もちろん領土によって亜人の数は違う。ある領土ではドワーフは亜人でも、隣の領土では奴隷扱いなんてあたりまえにある。

そんなうちでもキミたち流浪の民は人間扱いも亜人扱いもしていない。この意味が分かるな?」

(……ここら辺が限界か? いや、だがなぜばれたのか。そして俺をどうしたいのか。そこは聞いときたいな)



 テオドールは新しいシガリロを取り出すと火をつけ、ナタリアの反応を伺った。話しながら彼はこの事に対して半信半疑である。どうにも彼女の反応は今まで見てきた流浪の民と重ならない。



 ちらりとナタリアの意識が窓の位置と隠し持った二本のフォークに移った。部屋の位置は三階、高さとしてはぎりぎりだろう、ここに来るまでに見た川までの距離は200歩前後。

 彼女がほんの少し椅子の座る位置を変えると、それに反応する様にオーラブも佇まいを正した。彼の腰にあるとても振ることができるとは思えない段平のブロードソードが不気味に存在感をアピールしている。

 それを確認しながらナタリアは口を開いた。



「私は、その流浪の民とやらじゃない」

「おや? そうなのか。じゃあだれなんだ? 時間はいくらでもあげるよ、しっかり自分の設定を考えな」

「なぜ、そう決めつける? この容姿を見ればわかるだろ」

「なるほど。ダークブラウンよりさらに黒い瞳、真っ黒な髪、確かにどちらもノルニグル族の中でも一部の部族に現れる珍しい身体的特徴。だが、流浪の民の中にはエルフやオークになった奴がいるそうだ。それならどんな姿をしていても不思議じゃない」

「何を根拠に……」

「ノルニグル族の村でのキミの歌さ。ジーマが数年前に聞いたことがあるって教えてくれた。正直それがなければ僕もキミをノルニグル族と疑わなかっただろうね。」



 ピタリとナタリアが動きを止め目を細めた。この世界で彼女が致命的な隙を見せたのは二回。ノルニグル族の村で鏡を見た時とスコピテラの宿で体を拭いた時。後者は次の日までに一人の時間があったが、前者はその後、酒の力を借り彼らの前に出て失言を重ねたのを覚えていた。

 上機嫌で歌ったのはお気に入りの曲。なんとも自分らしい間抜けっぷりだ。彼女はもうごまかせないことを悟った。



「そうかあれか、なるほどね、なるほど。――それで私をどうするつもりなんだ?」



 彼女の反応に今度はテオドールが驚いた。ジーマの歌の話は半分正しくない、フレーズが似ている部分があったと報告されたがそれは言葉狩りのようなものだった。

 それでも鎌をかけたのはテオドールの疑り深さゆえの事であり、彼の悪い癖なのだが今回はそれがうまく働いた。一気に有利な立場になったテオドールは、心の中で笑みを浮かべ気持ちよく説明を始めた。



「……現当主アレクセイ卿は一年前に奥様をなくされて以来、精神を病んでふさぎ込んでしまわれた。奥様もそれはそれは美しい黒髪と黒目をお持ちで、ノルニグル族とのハーフだった。

キミには奥様の姪を名乗ってもらう。まぁ代用品だな」

「ずいぶんと正直に話してくれるんだな」

「これは取引だからね。キミは頭も悪くないようだし、理性的に考えることができるだろう? 少し我慢すれば、キミの生活と身分が保証される」



「取引とはよく言ったものだ、脅迫の間違いだろう」と聞こえない様にナタリアは小さく呟く。少しずつこちらの退路を塞ぐようなやり方に、彼がランド・スチュワードだと名乗ったことを思い出した。確かそれは執政官みたいなものだったはずだ。

彼のなんともいやらしい攻め方が、かつて交友のあった政治家たちの姿とかぶり寒気がした。彼女の嫌いなタイプだ。



「それで私は見知らぬ親父に抱かれるわけだ。割に合わないな」

「そこはアレクセイ卿次第だ。今のあの方の精神状態でキミを見てどのような対応をするか僕には想像できない。だが領内のすべてはあの方が決める。だからこそ、この一年間困っているわけなんだが……。まぁ、あの方の奥様に対しての愛情は本物だ。

それにこれはキミがこの世界で人間になるチャンスだぞ?」

「断ればどうする?」

「キミにそんな選択がないのはわかるだろう?」



 テオドールの言葉に答えるようにオーラブが一歩前にでた。それだけでナタリアの闘争心は萎えてしまう。だが彼の話の通りなら、妻を思い出して不快だから死ねと公爵が言ったら殺されるし、命令されたら裸で踊らなくちゃいけない。彼の一言でナタリアは売春婦、妻、メイド、死体どれになってもおかしくない。

 オーラブはつまらなそうにしているし、イエヴァも冷たい視線をこちらに送っている。目の前の人物は自分の発言に欠片も疑問をもっていないようだ。本当にナタリアの事を人間と思っていないのだろう。

仲間のいない状況にナタリアは自嘲に頬を歪めながら言い放った。



「お前は最低の糞野郎だ」

「交渉の終わりになると、みんな僕にそう吐き捨てる。それを聞くと、自分の選択に間違いがなかったと安心するよ」



 ナタリアは息を吐いて背もたれに体を預けた。目の前の口から糞を垂れる機械を壊すには、後ろにいる化け物をどうにかしないといけないがそれは不可能だ、少なくとも今は。

 腹立たしいことに、知識層の集まりのこの場所には領土内の情報も集まってくる事は想像できる。この世界の知識や流浪の民の事、それから自分をこんな目に合わせたやつを調べるのにちょうど良さそうだ。

 問題となるのはアレクセイ公爵。残念なことにナタリアは公爵の事を今年で43歳になる人魔大戦後の北領をまとめた豪傑としか知らなかった。



(目的にてっとり早く近づくにはここに残るのが一番だ。……いっそ公爵を唆して乗っ取ってやろうか)



しかし、残りの人生あの南の島で最後の時を待つだけだったナタリアに、そこまでする元気も若さもない。彼女はようやく戦いや権力のしがらみから逃れる事ができると、この街でひっそりと生きていけると信じていた。彼女の中にある怒りは、より巨大な諦観に飲み込まれ姿を隠す。


 ちょうど吸い切ったシガリロを灰皿に押し付けながらテオドールは尋ねてきた。その声は絶対的な自信に溢れている。



「それで、引き受けてくれるんだろう?」

「……ああ」



 投げやりな彼女の声は、とてもその容姿からは考えられないほど年老いて疲れ切ったものであったが、テオドールは特に気にした様子もなく続けた。



「たった今からキミは悲劇の村で唯一生き残ったノルニグル族の少女だ。

これがキミのカバー・ストーリーの資料だ。できるだけ早く暗記するように、それからキミにはこの世界の常識を覚えてもらう。

後はお人形みたいなものだよ、ニコニコ笑っていたらいい」

「……文字。まだ自分の名前しか書けないし読めないんだ、この16ってのはもしかして私の年齢か?」

「結婚適齢期だ。キミが実際に何歳かは関係ない」

「(その3倍ほどの歳なんだがな。詐欺もいいところだ)……そうかい、それで全部?」

「まさか、大事なことが残っている。右手を出すんだ」

「右手?」



 近づいてきたオーラブはナタリアの右腕を抑えたが、彼女は抵抗する素振りも見せず静かにしていた。

 テオドールは服の内側から丸まった羊皮紙と短刀をわざとらしく取り出した。羊毛紙をテーブルの上に置き不思議な輝きを放つ石を四方に置いて固めると、その上にナタリアの腕を持ってきた。

 オカルトな光景。なにが起きるか彼女にはわからないが、決していいことではない。これは許容できないと隠していたフォークをオーラブの腕に突き刺し。そして、フォークが、折れ曲がった。


 オーラブのにやついた顔。切られた指から羊皮紙の上に垂れる一滴の血。そこから広がる様に表れる幾何学模様の魔法陣。それらが次々とナタリアの瞳に映り、そして、彼女の脇腹が爆発した。



「ッ!! ぐッ…………がぁぁあ!!」

「ふむ、どうやら成功らしい」



 オーラブが手を放した瞬間、ナタリアは引っ張られたように後ろに跳び体をくの字に折り曲げ、床を醜く転がりまわった。脇腹に焼き鏝を押し付けられたような激痛が体中を駆け巡り、彼女は涙を浮かべ歯を食いしばりながらひたすら耐えた。

 テオドールは羊皮紙を懐にしまうと、そんな彼女の様子を気にせずに説明を始めた。



「アレクセイ卿にキミみたいな野蛮人をそのまま近づけるわけにはいかないからな。保険を掛けさせてもらった。本当に痛い出費だよ。キミが残りの人生、体を売って過ごしても稼ぐことのできない金額だ」

「クソが!! ッうぐぁあ」

「ははは、効果は公爵家への忠誠。我々に対して敵意を持つと痛むようになっている。よくできているだろう? これが魔法だ」

「下種め、ッう!! ……ふっー、ふっー」

「よかった、まだ元気がありそうだな。身を整えてきてくれその後アレクセイ卿と謁見だ。

……オーラブ部屋まで送ってやってくれ」



 肩を竦めたオーラブはナタリアを無理矢理立たせると支えながら歩き出す。部屋を出る瞬間、ナタリアが底冷えする視線でテオドールを見た、苦痛に顔を歪めよろめきながらも彼女は決して倒れることはなかった。


 二人が出た後、上々の結果に満足しているテオドールにイエヴァが話しかけた。



「恐ろしいものを敵に回しましたよ、テオ」

「牙を抜いて爪を折り、翼を縫い合わせた。一体彼女のなにを恐れろと言うんだ? 我々が真に恐れるべきは、ここまで努力してもアレクセイ卿の一言ですべて無駄になるということだ」

「……若いわね、坊や。ここに来たときはあんなに可愛かったのに」

「よしてくれよ、もう20年以上前の話だろう。それに北領の財政状況の一端をキミだって知っているはずだ。

東や西にはきな臭い動きがあるし、現国王は南に首ったけだ!我々にはアレクセイ卿が必要なんだ!!」


 だんだんと熱くなっていくテオドールはイエヴァに食って掛かかったが、彼女の憐れむような視線を見て、吐き捨てるようにいった。


「それより謁見の準備だ。イエヴァは時間までに彼女に設定を読み聞かせてくれ」

「……警告はしましたよ」



 彼女の警告は、物事を合理的に考えるテオドールには理解できるものではない。北領の発展こそが第一の彼の頭の中はいかにナタリアをうまく使いアレクセイ卿を立ち直らせるしかなかった。

 ナタリアの持つ彼女本人すら自覚していない異常性。その片鱗をイエヴァは理性ではなく勘で感じ取っていた。







 ナタリアはその後、引きずれられメイドの待ち受ける部屋で解放された。

 風呂を用意した、着替えを用意した、と騒ぎたてる彼女たちを一睨みで黙らせ部屋から追い出すと、痛むわき腹を庇いながら裸になり風呂に向かった。

 普通の部屋の中央を布で仕切きり、片方にはこじんまりしたバスタブが置いてありその周りにはこぼれてもいいようにタオルが敷き詰められている。

 温かい湯に肩まで浸かって、ようやく彼女は自分の右わき腹にタトゥーのような模様が入っていることに気が付いた。

 手のひらに隠れるほどの大きさの紋章はこの宮殿で何回も目にした公爵家の家紋。そこから螺旋状に伸びるトライバルは彼女の趣味じゃない、昨日まではなかったものだ。ざわめき立つ彼女の心に反応する様にタトゥーの部分がじくじくと痛んだ。



(そりゃ対策を考えるのは当たり前だよな)



 この数日間、受け入れてはいないが慣れ始めたこの体を嫌いになる理由がまた一つ増えた。

 なにもされなければ大人しくしているつもりだった、若いころの身を焦がす情熱はもうなかった。

 しかし、この世界で自分の姿を自覚して以降燻り続け、グレゴリーとの戦いが火種となって、この呪縛が決定打となり晩年穏やかだった彼女の心に再び残酷な灼熱の炎が宿った。長い人生で燃料は使い果たしていたが、それでも炎は彼女の身を焦がさんばかりに大きい。彼女自身も何を燃料にしているのかわからないが。

 しかし、彼女はそれを気にすることもなく、この炎を爆発させるまで誰にも気づかれない様に隠し、より大きくしていくことを決めた。わき腹の痛みはもう気にならなかった。





 ドロワーズと肌着を身につけ部屋の真ん中で仁王立ちしているナタリアにメイドたちは誰も息をのんだ。

 一歩近づくごとにお菓子とも花とも違う芳香で上品な甘い香りが強くなっていく。彼女の腰の位置はこの場で誰よりも高くそこからすらりと伸びる足はしなやかな筋肉に包まれている。くびれた腰から女性らしくふっくらと膨らんだ臀部までのラインは魅惑的だ。

 ダブついた野暮ったい服を着ていて気付かなかったが、胸も大きく形がいい。それが歩くたびに揺れる様子を見て数人のメイドが恥ずかしそうに眼を逸らした。おろされた烏の濡れ羽色の髪とそれとお揃いの黒い瞳。そこには部屋に入ってきたときになかった力がある。しばしの間、メイドたちは直視できずにちらちらとナタリアを盗み見ていた。

 ナタリアはズラリと並んでいるドレスを一通り見て放心している近くのメイドに話しかけた。



「名前は?」

「え? あっ、タチアナ・ボチャロフです。ターニャって呼ばれてます」

「そう。ターニャ、服を決めてくれない?」

「あ!! そうだよ、みんな仕事しないと!!」



 次々と持ち運ばれ着せ替えられたが、なかなか服は決まらない。標準なドレスではぶかぶかになってしまい、子供用のドレスではウエスト部分でお尻が引っかかり入らない。結局、ウエストを紐で調整できる黒のドレスに決まったが、彼女には大きく少し野暮ったく見えてしまう。

 時間のかかったドレスアップに比べてメイクは一瞬であった。透明感のある白い肌に桜色の唇。風呂上りで上気した肌は血色もよく健康的で手の付けようがない、せいぜい髪型をこだわるくらいだ。

 メイドたちはひどい敗北感に苛まれながらナタリアの変身は終了した。







 宮殿の中でもより豪華な一室の前でテオドールは一度自分の身を整えた。変わらない扉を見るとこの中にいる人物が元気だった頃を思い出し、いつも入る前に祈ってしまう。強張った表情のテオドールがノックをしたが返事はない、それももう慣れた事であった。

 真っ暗な部屋の中を見て、テオドールの顔が歪む。アレクセイ卿の意識はあっちに行ったきりまだ帰ってきていないことがわかってしまった。ろうそくに火を灯しながら部屋を見ると、昼食を持ってきたときから何も変わっていない。

 心を病んだアレクセイ卿の意識はどこかに飛んで何かに囚われている。最近だんだんと帰ってくるまでの感覚が長くなっていて、それが使用人たち全員を不安にさせていた。高名な修道士にも医者にも見せたが、一向に良くならない。この呪われた宮殿が、不穏な雰囲気に包まれていることは誰もが知っている事実だった。



 明かりに照らされたアレクセイ卿はまさに朽ちた大木。伸びっぱなしの髪と髭はボサボサで、服も最後に着替えたのはいつかテオドールは覚えていない。椅子と一体になるかの様に深く座り頭を垂れる様子は、溶けたバターか道路にこびり付く手袋のようだ。あの女に頼らなくてはいけない不甲斐なさを恥じながら、テオドールは今までの彼からは考えられないほど優しく話しかけた。



「アレクセイ卿、ジーマ副団長率いる探索隊が本日帰投しました」

「……」

「ノルニグル族の村が一つ魔物によって破壊されました。保護できたのは少女一人です」

「……」

「彼らの村から見つけた資料と彼女の証言によれば、その保護した少女は奥様の姪にあたる人物かと思われます」

「……」



 反応は返ってこない。テオドールは彼の瞳がどこを向いているかわからなかったが、どこを向いていても何も見ていないことはわかっていた。

 自然に戻ってくるのを待つしかないか、と諦めかけた時アレクセイの唇が僅かに動き始めた。



「……姪…………か」

「ええ!! 奥様に似てとても利発そうな顔つきをしておりましたッ」

「ふふ。あいつも……悪戯をするときだけは……頭が回ったものだ。……会いたいな」



 テオドールは表情を隠すために紅茶を用意する、といってアレクセイに背負向けた。久しぶりに聞いたアレクセイの声、それに彼も笑えることをテオドールはすっかり忘れていた。久々に発せられた声はしわがられていて、言葉も切れ切れであったが、テオドールもよく知る懐かしいものだ。……アレクセイが最後に言った「会いたい」の一言が誰に向けられたものなのか考えたくなかった。



 紅茶を入れ終わったころに部屋の扉が小さくノックされる。アレクセイの暗いブルーの瞳がゆっくりと開かれる扉に釘付けにされ、イエヴァに続いて入ってきたナタリアを見つめて大きく開かれた。堂々とアレクセイの前に出たナタリアはドレスの両端を握り、ちょこんと頭を下げた。背筋をしゃんと伸ばし動き一つ一つが洗礼された理想的な礼は、テオドールから見ても見事なものだ。



「本日はこの場にお招きいただきまして、光栄の至りに存じます。アレクセイ閣下、私は……」

「そう畏まらずともよい、……君の言葉で話してくれ」



 ナタリアは笑顔のままちらりと横に控える二人の表情を伺った。どちらも目も合わせないのを確認してすべて自分に放り投げられていると確信した彼女は姿勢を崩した。



「ナタリア・ロストワ、ここに来ればあなたに保護をしてもらえると聞いてきた」

「保護、……保護か。他人行儀だな、儂たちは義理といえ叔父と姪の関係らしいぞ?」

「……私もさっき聞いたばっかりで実感が湧かないんだ」

「その話し方……。

もっとこっちに近づいて顔を良く見せてくれ」



 僅かに緊張したナタリアが座っているアレクセイの前で膝立ちになって顔を覗き込んだ。

 ナタリアには彼の姿が岩石に見えた。長い間、変わりゆく周辺を眺めながら少しずつ風化し、摩耗して今にも崩れ落ちそうな巨大な岩石。

 アレクセイの指が彼女を確かめるように体をなぞっていく、黒い髪を彼の乾燥したごつい手の上を滑らせ、彼女の小さな手をとって揉んでみた。

 彼女の顔を、その瞳を魅入られたように見つめ、宝石に触れるように頬に手を添えた。彼女の姿が、彼の中に眠っている遠い過去を思い起こさせ、少しずつ凍った心を溶かしていく。


 やがて一通り確認の終わった彼は、隣にナタリアを座らせ手をつなぎながら周りに目を向けた。その瞳には知性と理性が見える。



「もうすっかり暗くなったな。ずいぶん長い間眠っていた気分だ」

「アレクセイ卿……」

「夕食はまだだろう? 隠していたとっておきを全部出せ。使用人にも吐くほど飲ませろ」

「しかし、今月は追悼の月です。あまり派手に騒ぐわけには……」

「儂の姪が見つかったんだぞ。今を逃していつ祝う? いいから準備を始めろ」



 まるで奇跡の体現の様な光景。この一年間、これほど彼が話しているのを二人は聞いたことがない。テオドールとイエヴァは復活を遂げた主君に感動して、瞳をうるませていた。

 そんな二人を気にせず久しぶりに立ち上がった彼は、バランスを崩して倒れかかった。ナタリアがそれを助けるように動いたのは彼女の片手が未だに握られていたからだが、そうと気づかないアレクセイは嬉しそうに彼女の頭を撫でた。



「ナターシャ、かわいい姪よ。キミは責任を持って儂が援助する。不自由があれば何でも言えばいい」

「……いえ、充分です。――叔父さま」



 左腕が不自由だ、とは言えなかった。これで彼女は助かったのだから。

 ここに来る前の彼女は想像もしていない結果だが、テオドールとの取引を思えば悪い物じゃない。当面の懸念はいつまで自分の左手は繋がれているのかだ。


 そのひどく歪んだ叔父と姪は、しばらく宮殿内を駆け巡りメイドを驚かせていた。テオドールは宮殿のあちこちから聞こえる楽しそうな叫び声に、北領のさらなる発展を確信した。


 今ここからナタリアの新しい人生が始まろうとしていた。









 ここまでが、第一章になります。


 この後は、ここを中心に様々な問題に立ち向かう話になるんじゃないかなと。ここまでに致命的な矛盾がないことを祈っています。


 世界観や設定は次から深く説明していくことになると思いますが、もっとここは詳しく描写した方がいいなど、感想やご意見がありましたらどんどん報告してくだい。

 自分で書いているとわからない事を、感想を通して見つけより面白いものになればいいなと思います。



 活動報告で少々触れましたが、今後の投稿は遅れることになると思いますので、気長にお待ちいただけたら幸いです。

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