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北領のナターシャ  作者: Peace
北領のナターシャ
7/22

unlucky day




 辺り一面がまっ白い世界、そこでナタリアは目を覚ました。

 混濁る意識、微かにある浮遊感、彼女はここが夢の世界であるとすぐにわかった。

 彼女がそう意識した瞬間それに答えるように、彼女を中心に広がる様に世界は作り出されていく。



 現れたのはぎらぎらと凶悪な太陽と乾燥した殺風景な大地、辺りには血と火薬の匂いが漂っている。

 今のナタリアの目の前には、少年時代の自分がこちらに背中を向けて、頭にシュマグを巻いてタバコを咥え、小さな体に似合わない大柄な軍用ナイフを片手に、背中には身長ほどもあるドラグノフ狙撃銃を背負い立っている。

 その前には山に囲まれ隠れるように存在する町があり、そこでは大人たちが戦闘の余韻に浸りイワンの死体を踏み台にしながら、彼らの神を称賛する声と銃声を響かせていた。



 わずか数か月の訓練を受け、火薬と麻薬のハイブリットをたっぷりと傷口に入れられた少年たちは、戦闘の開始とともに最前線に送られ、頭の中を空っぽに肉の壁となって押し寄せ、掃射でミンチにされ、また多くのものが地雷で足を吹き飛ばした。

 掃射で即死した者は運がいい。地面に這いつくばって母親に助けを求めるうめき声をあげながら苦しむ必要がない。

 周りには目を覆いたくなる光景が広がっているが、大人たちはそれよりも戦利品の方が大切であるらしい。

 それもそうだ。今日もたくさん死に町が一つ潰れ、親を亡くした子供は食事を求めて少年が率いる部隊に集まってくる。

 なにも問題はない、いつも通りのことだ。

 長く続く戦闘、家を畑を焼かれ、文化を侮辱された彼らは理性を失い復讐の鬼となって、今日も正義の鉄槌をくだしたと喜び神を讃えている。



 その歓声を聞きながら、少年時代の自分は手に持ったナイフで地面に転がる仲間に慈悲を与えていた。

 機械のような手つきで淡々と行っていたが、口元を血で汚し虚ろな瞳で空を眺める一人の少女の前で少年の動きは止まった。



 彼女の事は数十年たった今でもよく覚えている。

 当時の自分の後ろをひよこのように付いてきたが、それは自分が彼女に興味を示さず、少年兵のまとめ役だった自分の傍が比較的安全だったからだ。

 家族が爆撃で殺されたと言っていた彼女は、自身も顔の半分がやけどで爛れて、片目は白く濁っていた。

 ひどく無愛想で無口、そのくせ残った片方の目はいつもギラギラとさせていた。

 これまで数度の戦場を無傷で生き残り、過酷な戦闘を求める彼女は自然と自分の傍で戦い、副官のようになっていて、ここでは珍しく長い付き合いだった。



 宙を彷徨っていた彼女の瞳が少年を貫いたのが、後ろから見ていた今のナタリアでもわかった。

 数回、彼女の唇が動き、花が咲いたような笑顔を少年に向けた。

 ……少年はナイフを振り下ろした。



 少年時代の自分を眺めながら、ナタリアはこの時の起きた事を、心情を鮮明に思い出していた。










 うつむいていた少年が、重力を感じさせない動きでこちらに振り返る。

 サーカスの道化師のような大げさな動きで一礼すると、「じゃじゃ~ん」と口で言いながら横にどいて両手でこと切れた彼女の事を指し示した。



どうだ?懐かしいか?

――ああ、最低な気分だ。

あん?なんだその姿。情けねぇな、タマを落としちまったのか?

――うるさい。

完全に女じゃねぇか。周りもそう扱ってる。教えてくれよ、男にセクハラされるのはどんな気分だ?

――うるさい!!

ここを見ろ、俺の、俺たちの世界だ。男は戦いで、女は売春でしか生きていけない世界だ。お前は売春婦か?

――黙ってろ!体は変わっても、俺は変わらず俺だ!!

威勢がいいお嬢さんだ。だがその腕を、足を見てみな。お前が睨んでも、相手は頬を緩ませるだけだ。これから先どうするつもりだ?

――代わりの武器を見つけるだけだ。今までだって、そうやって生きてきた。



 ふーん、と適当に返事し目の前の少年は足元の少女に目を向けると、丁寧に持ち上げ歩き出した。

 遠くなっていく少年と共に夢の中にも関わらず、瞼が重くなり始める。

 だんだんと意識が遠のく中、ナタリアは何度も「俺は俺だ」と自分に言い聞かせていた。

 どこからか聞こえる少年の笑い声が辺りに響いていた。







 一本の太い木を柱に、そこを中心に放射状に骨格となる木を組み、その上から麻布を被せた簡易的なテントの中でナタリアは目を覚ました。

 地面の上に直接敷いた布、入り口から微かに入ってくる焚火の光、テントの外からは騎士たちの鼾と虫の音が聞こえてくる。時間は遅く辺りは暗い。

 掛っていた毛皮を跳ねのけて上半身を起こし、荒い呼吸を繰り返しながら辺りを見渡したナタリアは、肌寒いにも関わらず汗をかき、心臓は未だに大きく躍動している。

 彼女は呼吸を整えながら、隣で穏やかな寝息をたてている少女を起こさない様に寝床の上で膝を抱えて丸まって、ここ数日続いている発作とも呼べる症状を必死におさえていた。



 ナタリア達がスコピテラから出発して、もう三日が経っていた。



 ジーマ達三人を含めた騎士、荷物持ちの従騎士と二人の修道士にナタリアを含めた一同は、アナトセティを目指し順調に進んだ。

 ジーマ達を除いた騎士たちは、ノルニグル族の村に着いた29人の中から立候補した10人で編制されている。

 帰還後のすぐの出発でまともに休む時間もなかったが、それに関わらず彼らの士気は高かった。

 ラブリュスの森の被害を聞き、改めて恐ろしさを知った彼らであったが、それと同時にナタリアと出会ってから被害が出ていないことに気が付いた。

 移動中は人形のように大人しく、愛想がよく、容姿もいい、それに加え縁起がいいとなれば、彼女に人気が出ないわけがなかった。

 彼らの特に若い者の中には、彼女を神聖視し始める者もいて、彼女の護衛の立候補者も数が多く、決める際には喧嘩も起きていた。

 ナタリアが移動に使っている箱馬車も、彼女に陶酔している騎士がスコピテラの商人から自費で借りたものだった。



 この三日間ナタリアに少なくとも表面上の変化はない。

 話しかけられれば愛想よく対応して、騎士たちにいじられては渋い顔をして笑いを誘っている。ただ、一人になると何かを考え込むように外の景色を眺めている時間が増えていた。

 そんな彼女の様子に敏感に反応した人間が何人かいて、修道士のセシル・ブルムがその一人である。

 ノームと人間のハーフのセシルは、60歳になるが身長は一メートルもなく、見た目は完全に10代前半の少女で、長く生きてはいるが、精神は肉体に依存しているらしく、好奇心旺盛、いつも笑顔で落ち着きがなかった。

 長い間、箱入りで育てられたセシルはナタリアの身に起きた不幸を断片的に聞いた時、彼女の傷を少しでも癒そうと積極的に話しかけた。

 様々な怪我人を見てきた彼女であったが、ナタリアに異常は見られなかった。

 ノルニグル族の強さに感心していたセシルだったが、その夜、夢でうなされている彼女のその異常としか言えない姿を偶然見たとき、自分の考えが間違えていることを思い知った。

 それからセシルは狭い馬車の中ではナタリアの隣に座って話しかけ、野営の準備中は彼女についてまわり、一緒の寝床に入ることに、とにかく彼女を一人にしない様にした。



 しかし、そんなことを知らないナタリアにとってはやりにくい相手であった。

 自分の後ろを体よりデカい杖を持って、先の尖った帽子を深くかぶり、ローブの裾を引きずりながら歩くセシルは、とにかくよく転んだ。

 その際に高齢者扱いすれば怒り、子ども扱いしてもまた怒った。頬を膨らませてぷりぷりしているくせに自分からは離れない。

 夜、むりやり寝床に潜り込んできたかと思えば毛布を奪い取り、こちらを蹴り飛ばしてくる。

 無邪気な笑顔でこちらのパーソナルスペースを侵略してくる打算のない彼女は、ナタリアの天敵と言っていい存在だった。










 発作が治まり始めた頃、ようやくナタリアは自分の片手がやわらかい物を握っていることに気が付いた。セシルの小さな手だ。彼女の話を信じるなら60年間使ってきた手のはずなのに、ぷにぷにとしていてやわらかく、熱を持っている。

 胸は穏やかに上下して小さな呼吸音が聞こえてきた。

 こちらに向ける寝顔は安心しきっていて、三日風呂に入っていないのに彼女からは砂埃と太陽の匂いがした。

 セシルの顔にかかる栗毛をどかそうとしたナタリアの手は、戸惑うように動き彼女に触れることはなく、宙を彷徨ったあと跳ね除けられた毛布を掛け直した。

 急に居心地が悪くなったナタリアは、外套を肩にかけてテントの外に出た。



 零れ落ちそうな星空に吐く息が白くなるほどの寒さ、ナタリアの前では巨大な焚火で炎が踊り、その周りでは騎士たちが蓑虫のように毛布をかぶり、身を寄せ合って眠っている。

 焚火の傍ではこちらに背中を向けた従騎士の少年が船を漕ぎながら火の番をしている。

 その右側ではナタリアのテントよりも二回りも大きく立派なジーマの使っているテントがあり、中からは明かりが漏れていた。

 人の密度の高い焚火の周りに行く気になれず、一団から離れるように少し歩くと、腰を下ろすのにちょうど良さそうな倒木を見つけたが、そこでは先客が星を眺めていた。

 ナタリアの足音に気付いた彼がゆっくりと振り向いた。



「眠れないんすか?……なにか、ありました?すごい顔色悪いっすよ」

「貴方もね」



 焚火に照らされた二人の青白い顔はよく似ている。それだけで二人は、お互いに相手に何があったか簡単にわかってしまった。

 気まずそうにしているグレゴリーの隣に、なんとなくナタリアは腰を下ろして、何を言うでもなく星を眺めた。気まぐれの行動であったが、二人で共有する時間は思いのほか心地の良い物で、徐々に気分が楽になっていく。

 夢で見た時代を思い起こさせるはっきり見える美しい星空と身を切る寒さが、ナタリアは好きではない。

 それでも今いる場所は、あの夢の頃に比べれば飢える心配も凍え死ぬ心配もなく、空爆を恐れる必要もない。周りからは丁重に扱われ、乱暴もされない、テントで眠ることもできるなんてずいぶんと恵まれているものだ。

 そんな風に前向きな考えができる事に、この星が関わっているなら、ほんの少し好きになれそうだった。



 わずかに調子を取り戻したナタリアは、隣の青い顔をした年若い青年を見ていると悪戯心が湧いてきた。年を取ってから、若者を困らせることが、彼女の趣味になっていて、それが顔を出した。



「ねぇ、私の体って、いくらで売れると思う?」

「ぶっっ!!!!!?? いきなり!! なんすか!!!!」

「公爵様が保護してくれるって言ってるみたいだけど、どうなるかわかんないし……。……グレゴリーなら、いくらで買う?」

「……冗談、きついっすよ。ナタリアの事は公爵様がしっかり面倒みてくれます。もしだめなら、おれらが援助しますよ。それに、金でナタリアをどうこうとか考えられないっす」

「そんなに、魅力ない?」

「いや! 魅力的っすよ!! とっても!」



 グレゴリーの慌てっぷりがあまりにもナタリアの想像通りすぎて、それが彼女のツボに入り、しばらくクスクスと忍び笑いを続けた。

 ようやくからかわれた事を察したグレゴリーはしばらく唖然としていたが、笑っているナタリアを見て全てがどうでもよくなり、遂に一緒になって笑い出した。

 しばらく二人で笑っていたが、落ち着いてきたナタリアが笑いすぎて出た涙を拭きながら、どうでも良さそうな声色で尋ねた。



「それで、どうしてあんな死にそうな顔してたの?」



 グレゴリーは先ほどまでと違う自嘲的な笑みを浮かべた。



「悪い夢を見たんすよ。ナタリアも同じっすよね?」

「そうかもね」



 ナタリアはそれだけ言って後ろに手をついて、また星を眺めはじめた。

 そっけないが詮索しない彼女の態度がグレゴリーにはありがたく、距離感が心地良かった。そうして二人でまた星を眺めていたが、雰囲気に流されてしまい、グレゴリーはぽつぽつと独り言のように語りだした。



「おれの隊のアレクサンドロ隊長が、おやっさんが、ラブリュスの森で死んだんすよ」

「……」

「オーラブ騎士団の団員は、五歳には貴族の屋敷にペイジとして仕えて、その後に従騎士として騎士についていって仕事を覚えるんすよ。

おれは、四歳の時からおやっさんについてて、戦い方から女遊びまで全部、おやっさんに教わったんです」

「……そっか」

「ラブリュスの森で、俺は木を避けるために隊を離れた。

自分の力を過信してるわけじゃないっす。けどもし、もし!! あの時、おれがおやっさんから離れなかったら……。

違う結果があったんじゃないか。この三日間、ずっとそのことばかり考えてしまって」

「……」



 言ってからグレゴリーは後悔した。全て話すつもりはなかった。彼女のいる心地よさに身をゆだねてしまい、折角、彼女の作ってくれた穏やかな時間を壊してしまった。

 横目でナタリアを盗み見たが、彼女は何も言わずに、ただ隣にいるだけだ。それが、グレゴリーにとって救いだった。



 しばらくの沈黙の後、急にナタリアはグレゴリーの方を向いた。



「立って」

「え?」



 理解しきれていないグレゴリーを置いて、ナタリアは勢い良く立ち上がり、髪をまとめてストレッチを始めた。

 焚火で照らしだされるナタリアを見ながらぼんやりとしていたグレゴリーに、彼女は羽織っていた外套を放り投げて手招いた。

 グレゴリーの顔にあたった外套からは彼女と初対面の時に嗅いだ匂いより濃い、脳みそに浸透する上品な甘い香りがした。

 名残惜しそうに外套を隣に置いたグレゴリーは、夏の虫のようにゆらゆらと彼女の方に歩いていく。近づいてきたグレゴリーに、彼女は指を二本立てて見せた。



「私たちには共通点がある。お互いに小さい頃から敵をぶっ飛ばすことばかり考えていて、今、もやもやとしたものを抱えている。

そうでしょ?」

「それは、そうなんすかね?」

「そう。そしてこんな時、私たちみたいな人間はどうする?」

「どうするって……」

「組手、わかりやすく言えば殴り合い。体を動かせば少しは気分もはれる、そうでしょ?」

「……本気っすか?」



 素早く距離をとって構えると彼女は質問には答えずにやりと笑った。

 細められた猛禽類を思わせる鋭い瞳が彼女がどれほど本気であるかを雄弁に語っている。

 グレゴリーは改めて目の前の少女を見た。

 身長は自分の胸元あたりまで、体重はきっと普段筋力トレーニングで使っている器具の方が重い。肉つきは良いが骨格が狭く肩幅なんかは自分の半分ほどしかない。

 彼女が弱いとは思えないが、自分の攻撃に耐えられるとは思えなかった。



「顔と玉、それから噛みつきとひっかきはなし。どう?」

「ほんとに、やるんすか?」

「ちょっとした遊び、それとも負けるのが怖い?」



 考えを巡らせた後、グレゴリーも構えた。

 右足を前に出したサウスポースタイルで跳ねるようにリズムをとるナタリアに対して、両足は肩幅に、わずかに左足を前に、両腕を顔の横で腰を落としどっしりと構えたグレゴリー。

 対称的な二人の構えが焚火に照らされ良く見えた。

 予想に反したグレゴリーのしっかりとした構えを見て、ナタリアの興奮の度合いが増していく。グレゴリーを励ますためだけではなく、彼女は自分がどれほど通用するのか確かめてみたった。

 火の番をしていた若い従騎士が二人の様子に気づき、緊張にあてられ手に持った木を落としてしまった。

 それはほんの小さな音であったが、集中力を高めていた二人にとってゴングとなった。




 先にグレゴリーが仕掛けた。

 油断を含んだ挨拶代わりの振り下ろすような左の突き、しっかり腰の入ったそれを放った瞬間、彼の目の前からナタリアが消えた。

 続いて左膝の裏に走る鈍痛に膝を地面につき、なにが起きたかわからないまま、それでも急いで立ち上がろうとした彼の頸椎にナタリアの容赦ない右足がめり込み、バチンと肉が肉を打ったとは思えない音が鳴った。



 ついにグレゴリーは何をされたかわからぬまま地面にキスをした。

 ナタリアは顎が外れんばかりに大きく口を開けてこちらを見てる唯一の観客に手を振って、外套をとりに向かった。



(あっけない……、がっかりだ)



 ナタリアの心を占めるのは失望と希望だ。

 彼の構えからは格闘技の心得が見て取れたのに、蓋を開けて見ればこれでは、物足りない。しかし、文明が前時代的なこの世界、格闘技もまたそうなのだとしたら、自分はここでも戦士としてやっていけるかもしれない。

 煮え切らない表情で思考を重ねるナタリアは、後ろから聞こえた音で足を止めた。

 恐る恐る振り返ると、首に手を当て具合を確かめるようにしながらグレゴリーが立っている。



(おいおい、冗談だろ。

殺さない様に手加減したが、それでも手応えがあった。どう考えたって朝まで目覚めるわけがない。いや、下手したら朝になっても起きるかわからん。ゾンビかよ……)



 手足の具合を確認する様に、動かしているグレゴリーに表情はない。ナタリアは自分の顔が引き攣っているのが良くわかった。

 全く未知のゴブリンなどと言った生物よりも、自分が知っているのにほんの少し違う生物の方が恐怖を感じる。



「あ、あの……。グ、グレゴリー?」

「ナタリア、おれ忘れてたっす」

「なにを……?」

「女だからとか、男だからとか、戦いには関係ないっすよね」



 その通りだ、と心の中でナタリアは同意した。

 どうやらグレゴリーにスイッチが入ったらしい、喜ばしいことであるが、ゾンビ退治は専門外だ。

 そもそも先ほどの急所への一撃は、今のナタリアのベストで、あれ以上となるともう命の保証ができない。



「殺し合いをするつもりはないよ」

「もちろんっすよ。でも、ここには修道士がいます。頭がついてて心臓が動いてれば問題ない。問題ないんすよ、ナタリア」



 怠慢な動きでグレゴリーは服を脱ぎ、その下からでてきた肉体にナタリアは思わず息をのんだ。

 立派な体をしていることは服の上からでもわかっていたが、正面からでもしっかり見える広背筋は羽のようで、砲丸をくっつけたように肩は丸い、肌着の上からでもわかる西洋の鎧のような胸筋、盛り上がった僧帽筋が彼をより大きく見せた。




 ゆらりと不気味に揺れたグレゴリーが、大きな体をコンパクトにまとめ、前のめりになり地面すれすれを蛇のように距離を詰めてきた。

 肉体に見惚れて初動を見逃すという大きなミスを犯したナタリアは、反応が遅れてしまい逃げることができない。

 中途半端に避けることは危険と判断し、タックルを捌こうと足を止めると、そんな彼女をあざ笑うように上半身を起こしたグレゴリーは、流れるような動きで大砲のような右のミドルキックを放った。

 早々に避けることを諦めたナタリアは、ヒットポイントをずらすために自分から距離を詰め、左手は頭をかばうように曲げ、腹に力をこめた。――そして、グレゴリーの蹴りに轢かれた。



 まるで交通事故にあった人間のように数メートル飛ばされると、空気の入っていないボールの様に小さく跳ねてゴロゴロと転がり、木の根元にぶつかり動きを止めた。

 見ていた観客が声にならない悲鳴を上げた。










(なんだ……そりゃ……)



 左肩は爆発し轢かれたが、頭をぶつけていないナタリアの意識はしっかりとしていた。体がバラバラになったような痛みに耐えて立ち上がると、左腕が彼女の意志に反してぶらりと垂れ下がった。

 千切れ飛んでいないことを意外に思いながら様子を見ると、ただはずれているだけだった。

 グレゴリーの位置までは彼女の思ったよりも距離があり、地面に残るあとからどれほど飛ばされたのかわかる。



(悪い夢だ。今時ワイヤーアクションだってここまで飛ぶもんか。

こりゃ男がどうだとか、そんな問題じゃないな。魔力ってやつが関係してるのか?

こいつらは俺と同じ言葉を話して、人間の様に振る舞うが、まったく別の生き物だ。

……マジで娼婦として生きたほうがいいか?)



 左肩の痛みで吐き気すら感じていたが、それでもナタリアは笑った。



(世界も体も変わったが、それでもこの痛みを俺は知っている。俺だけのものだ。この痛みだけが俺が俺だと証明してる。……男の上で腰振って生きるくらいなら、これで生きるぜ。俺は)



 彼女は近くに落ちている木枝を咥えると、強引に左肩の骨を入れた。

 不快な音が響き観客がびくついたが、グレゴリーは静かに彼女を待っていた。

 左肩はコンクリートで固められたように動かず、額には小さな傷があり血が目に入る。髪の毛は乱れていたが片手ではまとめることもできない。

 それでもしっかりとした足取りでグレゴリーに近づいていった。



「お待たせ。それじゃ第三ラウンドといきましょ」

「……これ以上は、どうなっても知らないっすよ」

「最高の口説き文句だな。ぞくぞくするよ」



 先ほど拾った石を、隠した手の中で確かめながら、ナタリアは獣のように笑った。

 彼女に感化されたように笑ったグレゴリーの表情も、また獣じみていた。










 深夜、ランプの明かりが照らすテントの中でジーマは、この三日間でようやく読み終えた資料をテーブルの上に放り投げた。

 ノルニグル族の村長の家から唯一持ち帰ったその資料には、彼らの家系図から交易の記録をはじめ、様々な有意義な事が記されていた。

近隣の他の集落とも決して多くはないが交流があり、その住民についても莫大な記述がある。

 ノルニグル族の全てというわけではないだろうが、それでも書かれていることは十分参考になるものが多い。しかし、やはりそこにナタリアの事は書いていなかった。そして何より……。



(奥様の血筋はすでに…………)



 深い失望を胸に酒の準備を始めると、テントの外から聞こえるざわめきが大きくなった。数分前、聞こえ始めた時は気にならないほどの声量であったが、これは注意が必要だ。

 一体こんな時間になにをしているのか、疑問とともにテントの入り口に手をかけたところで【ナニカ】がテントを突き破り、ジーマの数センチ横を通りすぎて、派手な音をたてながら椅子をぶっ壊して止まった。

 ジーマの部下たちが壊れたテントの向こうからはこちらを覗き込み、いくつもの瞳と目があい数人が気まずそうに逸らした。

 ジーマの後ろからくぐもった声が聞こえる。その声が高いことに嫌なものを感じつつゆっくりと後ろを振り返った。




 そこにいたのは、お互いに貪り合うように寝転がる二匹の獣であった。

 取っ組み合いをしているナタリアとグレゴリーだ。あまりの意味不明さに、ジーマはめまいがした。

 よくよく観察してみると、ナタリアの右腕がガッチリとグレゴリーの首を、両足が右腕をホールドしてる。グレゴリーの左腕は力なく垂れ下がり、抜けようと暴れているが緩む様子はない。

 目の前の光景は完全にジーマの理解を超えていて、彼は呆けるしかできない。

 そんな彼を放っておいて二人に動きがあった。グレゴリーが背筋だけでナタリアを持ち上げて、傍にあるテーブルに彼女を叩きつけた。テーブルはその威力に耐えきれず砕け散り、上に置いてあったジーマの秘蔵の酒も飛んでいった。



「ぐあっっ!!!

くっ、はっはっはっはっは!!!! あの体勢から持ち上げるか!! たまらんな!! 痛いぞ、グレゴリー!!」

「ぐあああぉぉおお!!!」



 ナタリアの狂喜を孕んだ声に対して、グレゴリーの獣のような悲鳴には余裕がない。

 テーブルの破片が散らばる中で次第にグレゴリーの抵抗は弱くなり、ついにはナタリアに抱き着くようにして動かなくなった。ゆっくりと手を放したナタリアの荒い喘ぐような呼吸音だけがテント内を満たしている。

 手に持ったコップ一杯の酒を飲んで気持ちを落ち着けたジーマは、幸せそうな顔でおっぱいに顔を沈めているグレゴリーをどかそうと唸っている彼女に手を貸した。



 引っ張り出した彼女はひどい有様だ。

 服は赤く染まりあちこち破れている、露出している左肩は青を通り越して黒く腫れていて痛々しい、額が切れていて鼻血も出ている。

 髪もぼさぼさに乱れていたが、表情だけはこの三日間で一番いい物で、立ち振る舞いも怪我を感じさせない生き生きしたものだ。なんとかジーマは言葉を絞り出した。



「……喧嘩かい?」

「まさか、ちょっと体を動かすつもりだったんだけど、お互い興奮しちゃって。私から誘った事だから、グレゴリーを怒らないでね」

「……とにかく、セシルに傷を治してもらってくれ」

「そうする。おやすみ、ジーマ。グレゴリーも、楽しかったよ」



 理性的な返答に、先ほどまでの狂気はない。

 とりあえず彼女の事は明日に回すことを決め、今にもスキップをはじめそうなほど上機嫌な彼女が、テントから出るのを見届けた。

 グレゴリーがむくりと起き上がる。



「ばれてたみたいだね」

「なんでわかったんすかね」

「そりゃ、気を失ったふりして胸を堪能すれば、ばれるさ」

「おっぱい、柔らかかったっす。

あ、いや、多分五秒くらいですけど、気絶したのは本当っすよ。だからそんな怖い顔しないでください」



 ジーマは深く深くため息をはいた。グレゴリーもまたひどい有様だ。刃物で切られたような傷が何ヶ所かあり、片目は塞がっていて、左腕はやはり動かないようだ。

 傷だらけでぼろぼろなのに、それでも楽しそうに笑いながら傷口を指でなぞっている。



「罰を与えるべきなんだろうけど、護衛対象と殴り合いして、しかも負けるなんて前例がなくてね。ぼろぼろにされた相手も喜んでいるし、訳が分からない。

もう、頭が痛くなってきた、早く寝たいよ。

キミも治してもらって早く寝ろ。詳しいことは、明日聞く」

「うっす」



 フラフラと出ていったグレゴリーを横目にテントの中を見渡した。

 椅子もテーブルも破壊され寝床にも破片が散らばっている。ナタリアの尻に敷かれた大事な資料は酒に濡れてぐしゃぐしゃになっていた。



(もう、なにがなんだか…………)



 お化けのようなナタリアの姿に驚いたのだろう、絹を裂くようなセシルの悲鳴を聞きながら、しばらくジーマは呆然としていた。






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