mind fuck
ニコラウスのケツを蹴り飛ばしながら案内されたのは、小さなベットに丸いテーブル、背もたれのある椅子が二つ、それだけで他になにも置くスペースのない小さな部屋だ。
木と埃の匂いがして、歩くたびに床は悲鳴をあげている。
テーブルの上のキャンドルホルダーには蝋燭が三本刺さっていたが、全てに火をつけても現代の電球に慣れたナタリアには部屋は薄暗く感じた。
窓もついていたが、もうすでに外は暗く景色は見えず、わずかに見える光は都市の中心にある屋敷の周辺に集中しているのがわかる。
部屋は閉じきっているのにかかわらず、隣からは先ほど別れた二人の騎士の声が、下からは喧騒が小さくこもって聞こえ、祭りの後のような寂しさがあった。
ナタリアは外套をかけた椅子に深く腰掛けて、テーブルの上に懐から取り出した手のひらサイズの袋を置き、なんともなしにそれをいじっていた。
この袋はこの宿の一階で自分の尻を掴んだ男の懐から失敬したもので、ゆるく開いた入り口からは銀貨や銅貨が数枚飛び出して、蝋燭の光を反射してキラキラと輝いている。
この財布の中に紙幣が入っていないのは彼が貧しいからか、それとも、この世界が本位貨幣だからだろうか。
ここの住民は男も女も貫頭衣のような、あるいはワンピースのような灰色の服を何重にも身にまとい、その上から外套を羽織っていた。
領主や貴族、騎士の存在、この都市の生活レベルに目の前の硬貨から考えるに、この世界は中世ヨーロッパに近いのだろう。あるいは指輪物語か。
少しずつこの世界の事がわかってきたが、そこに少しも希望を見いだせないのは、この体の事が一切わからないからだ。
(そもそも、この体はなんだ?
この十代後半ほどに見える女の体はどこから来た? 彼女は何者だ?
この体に成長するまでの彼女の十数年間はどうなっている?
俺の精神が彼女を乗っ取った?
俺の体がこちらの世界に来るときに、なにかしらの法則が働いてこの体になった?
………今、こうして考えている自分はこの体の生み出した人格で、この記憶も偽物じゃないと証明できるか?)
ふっー、と一つ大きく息を吐いて、それから深呼吸を四回繰り返す。
(体が疲れすぎて考えも悪い方へと向かっているな。
きっと俺の体に起きた事はこの世界に存在する魔力ってやつが関係しているんだ。状況は最悪だが、俺の人生は最悪なことだらけ、それならいつも通りだ。
そしていつも通りなら、最悪を作り出した原因をぶっ飛ばして、元の体に戻ってそれでおしまいだ。
今は犯人をいかに痛めつけるかを考えるだけでいい……)
そうして瞳を閉じたナタリアだったが、ふとこの部屋まで案内してくれたニコラウスの事が頭に浮かんだ。
顔に血をにじませながら、この部屋に着くまでずっと子犬のようにびくびくとしていた彼は、最初のふてぶてしい姿は影をひそめていた。
ああいった輩は人間よりも動物に近い生き物で、相手が弱いとわかると強気に出てくるタイプであるから、自分の対応はあながち間違いでもないと思うが、若い頃ならいざ知らず、少々大人げない行動だったかもしれない。
あれには八つ当たりも大いに含まれていたし、帰り際にでも少し硬貨を握れせてやろう。
(どうせ、俺の金じゃない。)
本格的なスリなんてガキのころ以来であったが、昔はこれで食べていた時代もあり、手先の器用さには自信があった。それでも、この体は自分の想像よりも、はるかにうまく動いてくれた。
距離を少々間違えてしまったが、次はもっとうまくやれる自信がある。
頭の中で仕事をシミュレートする彼女の様子からは、罪悪感などといったものは、一切感じることはできなかった。
硬貨入りの袋を片づけて、壁に立てかけていた弓を手に取ろうと立ち上がったところで、ドタドタと慌ただしい音がこの部屋に近づいていることに気がついた。
「どっち? こっち? ねぇ、こっち?」
「奥です。一番奥。……ああ!蹴らないで、今行きますから!」
「ニコラウス、おっそーい。……とりゃー!」
かわいらしい掛け声とは裏腹に、部屋の鍵を吹き飛ばし、湯気の立つ桶をもった赤みかかった髪の長身の女が現れた。
こちらを押しのけるようにしてテーブルの上に桶を置いた女は振り返り、そばかすのある鼻の頭を恥ずかしそうに掻いて、灰色の瞳をナタリアに向け、屈みこみ顔をぐいぐいと近づけた。
そのままペタペタとナタリアの頬を、髪を体を一通り触りはじめてしまった。
疲れていたナタリアの"来客であれば寝たふりで追い返してしまおう"という計画は、一瞬にして崩壊し、理不尽がまた彼女の前に出現していた。
しばらく触って相手は満足したのか、ナタリアを解放して、ほぅと小さく息をついた。
「すっっっごい綺麗。
その髪どうなってるの?手触りサラサラだし、全然痛んでないし、色も綺麗。ほら見てよ私の髪の毛、ゴワゴワでしょ?針金みたい。これぜっったいお父さんのせい。
あっ、私はアンナ、アーニャって呼んでね。
お父さんが別嬪さんが来たって言ってたから見に来たの。『顔は隠していたが俺には分かるあれは別嬪だ』なんて、信じてなかったけど本当にきれい。
お父さんってのは顔腫らしたドワーフの、、、下で見たでしょ?
それから、お風呂は用意できないけど、体拭けるようにお湯持ってきたから。それにしても細くてちっちゃいね。着替えのチュニックも持ってきたんだけど、ちょっとあなたにはでっかいかも。
…ああ、扉はごめんなさい。びっくりしたでしょ?この桶が思ったより重くって、限界だったの。
そういえば、あなたお名前は?」
そこでアーニャの攻撃は止まった。
ナタリアの斜め上から無数に降ってきた言葉は、まるで一つ一つが質量をもっているようで、途中で思わず膝をつきそうになった。
マシンガンの銃口は、今はこちらの返事を待って閉じているが、もごもごと動いていて次の瞬間にはまた火を噴きそうである。
いきなり触るとは何事だ、桶は床に置いてからノックすればいい、馴れ馴れしいにもほどがある、やかましい、いくつもの言葉が口から出そうになったが、そのすべてをナタリアは飲み込んだ。
できるだけ穏便にそうして即急に、彼女には退室してもらいたかった。扉の外からニコラウスが騎士二人に説明する声が聞こえていて、それがしばらくは二人きりだと証明していた。
「ナタリア」
「ナタリア、てことはナターシャね。よろしくナターシャ。
ニコラウスから聞いたよ。いつもは私が給仕してるんだけど、あの時間帯は下品な客が多いから表に出るなって、子供じゃないのにお父さんがうるさくて。ごめんね」
「いや、私もやりすぎたよ。それより、体を拭きたいんだけど、いいかな?」
出ていけと態度で強く表しながらできるだけ冷たく言ってみたが、アーニャはただニコニコと笑うだけだ。
「それなら私も手伝うよ。
ニコラウス!!服とタオルこっちにもってきてー!!」
「今行きます!」
そうなっては堪らないとナタリアは懐から硬貨を一掴みとると、アーニャの手に無理矢理握らせた。自分に向いている好奇心を逸らそうとしての行動でだったが、効果てきめんであった。
「心遣い本当にうれしいよ。これは感謝のしるし、ニコラウスと二人で分けて。
後は一人でできるから、もう夜も遅いし私の事は気にしないで休んで、……お願いだから」
「うえぇぇぇ!こんなにいいの!?
なんか催促したみたいで悪いなぁ。そうだこの石鹸もつけちゃう!」
「……ありがとう」
「それからその服、汚れてるし、もしもう着ないなら引き取ってもいいかな?」
「外套とズボン以外なら」
「……チッ」
かわらずニコニコと笑顔のままのアーニャの小さな小さな舌打ちは、しっかりとナタリアには聞こえていた。
ノルニグル族の村で適当に見繕った服は、この都市の住人の着ているものに比べると品がよく、特にフードつきの外套の右肩の部分についている刺繍はナタリアの目から見ても見事なものである。
「……ナターシャ。私たち、もう友達よね?」
「……もちろん。この街に来て始めての友達があなたでうれしいよ。アーニャ。」
言いながら残りの硬貨もアーニャに握らせると、彼女は一度ちらりと椅子に掛けられた外套を眺めると、扉付近で所在なげに立つニコラウスの持っていた服とタオルをひったくり、ナタリアに押し付け、もう二度と振り返ることなく扉に近づいて行く。
「洗い終わったら桶の水は窓から捨てちゃっていいから。終わったら廊下に出してくれれば勝手に回収するわ。
たっっっぷりサービスするから、なにかあったら私を呼んでね。
……おやすみ、いい夢を。ナターシャ」
「おやすみ、アーニャ」
今度こそアーニャは部屋から出ていった。
廊下から二人の足音が消えたのを確認して、ようやくナタリアは一息ついた。
所持金だけでなく着ている衣類すら狙ってくるとは、一日の終わりにとんでもないのが現れたものだ。硬貨はほとんど使ってしまったが、それもチップだと考えれば納得できる。
ドワーフの娘と言った彼女の背が高く、普通の人間に見えたことも気になるが今は置いておく。
意識は自然とテーブルの上に置かれた桶に吸い込まれていた。
ここに来るまでの土砂降りは天然のシャワーとなっていたが、服は今も乾き切らずにわずかに湿っていて不快で、内股にはゆるい痛痒さがある。
体は拭きたいし、湿った服で寝たくはない。寝たくはないが……。
(俺が、自分で、拭くのか?)
当たり前の話である。アーニャから手伝うと言われたとき咄嗟に拒否したことが今になって悔やまれた。
きっと彼女のマシンガントークは麻酔となって、苦痛を和らげることができただろうし、彼女に気をとられ、その時間もあっという間であったはずだ。
あの村で顔を見た時、感情が自分の制御を外れてしまっている。
「危険だ」、「寝てしまえ」と頭の中の感情的な部分は主張し、「どうせいつかは向き合うことになる」と合理的な部分が主張していた。
二つの相反する主張を聞きながらも、視線は魅せられたようにテーブルの上に固定されて、足はゆっくりと近づいて行く。
赤ん坊であればお風呂になるであろう大きさの桶にタオルをいくつか放り投げ、水面が見えない様にして顔を拭うと、冷えた鼻先を優しく温めてくれた。
その心地よさに背中を押され、ついに服を脱ぎだした。
チュニックの裾を持ち上げ、ズボンの腰の部分に手を当てるとそれをゆっくりとおろしていく。湿っていて脱ぎにくく何回かひっかけながらも脱ぎ終わると、辺りにほんの少しアンモニアの匂いが漂った。
屈辱を思いだし目を伏せながらも、チュニックに手をかけてめくり上げるように持ち上げていく。白く形の良い足が下から少しずつ姿を現していき、外気に晒されると、その寒さに体を震わせた。
脱ぎ終わると、上半身にはキャミソールのような形の体にぴっちりと張り付く服を着て、下半身には腰と両腿あたりに紐がついていて、膝下までの長さでそこにはかわいらしいフリルの着いたドロワーズを穿いたナタリアが立っていた。
恐る恐るその下を確認してみると、どちらも何もつけていない。これが下着であるらしかった。
その際に、思い切り、見てしまった。
ついてないことは感覚で分かっていた。しっとりとした肌と押した指を包み込むように沈んでいく胸が偽物のわけがない。
顔を見た時と比べ物にならない衝撃が体を走り、彼女の心を犯した。
ナタリアは糸の切れた人形のように脱力して、深く椅子に座りこんでいた。
そのまま、タオルで体をゆっくり拭いていくが温かさを感じる心は殺されてしまっていた。
最後の二枚すら脱ぎ捨てると、タオルで体をなぞる様に、あるいは確認する様に拭いていく。
ガラス球のような瞳で自分の体を拭きながらナタリアは唐突に理解した。
(俺は、男の俺は死んだんだ。
急に、交通事故にあった様に、運悪く死んでしまったんだ。)
(じゃあ、ここにいる俺はなんだ?
………いや、…俺は俺……だ…。しかし………)
自分の中で積み上げてきたナニカが崩れる音を聞きながら指先から胸、内股から足先まで機械のような動作で丁寧に拭いていく。
深く何かを刻みつけるように繰り返されるそれは、自傷行為に似ていたが、ナタリアにとって儀式だ。
神の啓示と難問を同時に突き付けられたような気分だった。
虚ろな表情のまま着替え、片づけを終えると椅子に座り、ゆらゆらと揺れる蝋燭を眺めたまま、誰にも知られることなく死んだ哀れな男の事を思い一筋の涙を流した。
月が姿を見せた深夜のスコピテラを街の中心に向けて歩く二つの影がある。グレゴリーとユーリだ。
深夜を過ぎ交代の騎士が現れ、生存を互いに喜び合っていたまでは良かったが、生き残ってこの街にたどりついた騎士の人数を聞いた瞬間、二人の世界から色が消えた。
ジーマ達村にたどり着いた29人を合わせて65人。
生き残った者の証言から19人の死亡は確定して、残りの23人は未だに行方不明。
二人は隊を離れていく騎士は見たが、死ぬ瞬間は見ておらず自分たちの帰り道が順調だっただけにその事実は衝撃だったジーマに呼び出された二人は、神妙な顔をしながらも無言で足を動かしている。
道は街の中心に近づくにつれて整備されていき、先ほどから石畳となり歩きやすくなっていたが、二人の動きは遅く甲高い足音だけが辺りに寂しく響いていた。
二人がジーマに指定された伯爵の屋敷にほど近い店は、この都市では珍しく中流階級以上をメインターゲットとしたバーだ。値段も張るがそれに見合うサービスを提供し、滞在中のオーラブ騎士団がよく愛用している場所である。
コーヒーとアルコールの香りが漂っているこのバーは、カウンターが15席、入り口の左右にテーブルが三席ずつ、さらに奥に隠れるようにテーブル席が2つ。
店内ではテーブルをどかして無理矢理作ったスペースで男が二人、楽器をならし数人の客が彼らの奏でる物悲しい音楽に酔っていた。
顔なじみのマスターに確認してジーマが来ていないこと知ると、胸をなで下ろした二人はきつい酒を頼んで奥のテーブル席についた。覗き込まないと見えない位置にあるこの席と店内の曲は、聞かれたくない話をするのにちょうどよかった。
ここまで無言であった二人は運ばれてきた酒を掲げるように持ち、始めて口を開いた。
「……友に」「友に」
一気に呷りグラスをテーブルに叩きつけ、荒々しく口元を拭いた二人はようやく落ち着いた。
周りの小奇麗に整理された店内に薄汚れた二人は浮いていたが、マスターは決して冷遇したりはしなかった。オーラブ騎士団はよく金を落としていき、礼儀正しく、この店の治安の維持にも貢献していて、願ってもいない上客である。
彼らを離すものかと少々過剰なサービスをすることが増えていて、今回も注文していないつまみがテーブルの上には置かれていた。
それには手を付けずユーリは視線を彷徨わせ、手元のグラスをいじっていた。
「……久しぶりだな。僕の事を覚えているか?」
「うっす。四年前っすよね」
「話したのは四年前が最後だが、昨年の君の叙任式で会ってるし、そのあとも何度か顔を合わせたことがあるぞ。……まぁ、いいさ。
それより今は作戦行動中じゃないんだ。その敬語もどきはどうにかならんか?」
「……もう、癖みたいなもんすよ」
いいながらグレゴリーは気まずそうに、手に持ったグラスを傾け顔を隠した。
アナトセティに駐留している隊に所属しているユーリと、北領内の様々な土地に出向くグレゴリーは出会う機会が少ないが、かつて二人が従騎士だった時に一度話した事が強く印象に残っていた。
それだけでなく周りからよく噂される二人は、互いに互いのことを知っていた。
「21で騎士になって、周りから久しぶりの天才と言われたものだったが、わずか数か月で君に抜かれるとはね」
「……偶然っすよ」
「大隊長の女を寝取ったって話も、偶然の事?」
「それは!!……それは、むしろ、おれが、被害者で」
「あっはっは、わかっているよ。少しいじわるしたくなったんだ。
でも君の女と訓練にだけに向ける情熱をもう少し他の事に使えれば、もう一年は早く騎士になれただろうに」
戦友との穏やかな空気がここにはあった。
話したことは四年ぶりであったが、二人の間には気心知った長年の友人同士のような絆が確かにあった。
舌が回る様になってきたユーリは、愉快そうに新しい酒の入ったグラスの水面を見つめていたが、すぐに表情を引き締めて、まっすぐグレゴリーを見た。
グレゴリーには、彼の姿が説教をする前の上官の姿に重なって、静かに佇まいをただし話しだすのを待った。
「スタビリースでのことはもちろん覚えているだろう?
僕たち騎士はガキの頃からチャンバラして馬に乗ってる。
この短刀を見ろ、僕が七歳の頃には腰からぶら下げてて、もう体の一部だ。柄に虫が乗ったって気付く自信がある。
……それなのに僕は、カウンターにこの短刀が刺さっても、しばらく何があったかわからなかった」
手に取ったグラスに顔が隠れる一瞬前、ユーリの表情が屈辱で歪んだ。それに気付かないふりをしながらグレゴリーは無言で続きを促した。
「あの女は僕の腰から短刀を抜くとき、こちらを見もしなかった。
席に座ったときにはどこに何があるか理解して、どう動くかを決めてたんだ。
危険だよ。少なくとも任務じゃなければ近づこうとは思わない。今からでも両腕を拘束したいくらいだ」
「……ナタリアは見境なく人を襲ったりしないっすよ」
ナタリアの異常性はグレゴリーにもよくわかっている。始めてくるはずのこの都市への妙な順応、メニューの文字が読めないようであったが、上流貴族も顔負けのテーブルマナーを心得ている。
セクハラに対して無反応かと思えば、従業員の軽口は許さない。
無垢の少女のようでありながら熟練した兵士のようであり、すべてがちぐはぐてかみ合っていない。
一日ナタリアと一緒にいたグレゴリーであったが、未だに彼女の価値観や物事の判断の基準がわからずにいた。
「そうじゃないだろ。どうしてかばう?
グレゴリー、お前はあの女に近づきすぎてる。あんなゲロ女、どこがいいんだ。
どうせこの後、アナトセティまで移送してそれでおしまいだ。変な期待をしているならさっさと忘れろ」
「そんなんじゃ、ないっすよ。ただ彼女は……」
「あの女は?」
「こう、……うまく言えないっす。
……それより、アナトセティに着いたら彼女はどうなるんすか?」
「……さぁな。僕たちの使命は無事にアナトセティに送ることだ。そのあとの事は僕たち下っ端には関係ないし、知る権利もない。
それよりも自分の心配をしろ、隊が壊滅したんだ。再編成と再配置が待ってるんだぞ」
露骨に話題を逸らしたが、ユーリはそれを追求しなかった。それよりも、どこか腑に落ちない様子のグレゴリーを見て、ため息をついた。
ユーリには目の前で唸っている青年がまさか本当にあの女に惚れたとは思えない。しかし、どうしてそこまで執着するのかわからなかった。
(先輩風を吹かせて警告してみたが、やはり僕には向いてなかったな……)
視線を落とすとグラスの水面に、目の下には隈ができたひどく疲れた顔をしてるユーリの顔が映った。それを見てようやく寝ていないことを思い出した。
店内には音楽と抑えた笑い声、小さな話し声が響いている。
十数時間前は死を覚悟したのに、今は穏やかな時間の中で上等の酒を飲んでいる事の違和感に、胸の辺りに言葉にできないもやもやとしたものがあった。
ユーリにはこの店の中では目の前の青年を除いて、同じ時間を共有できていないような、同じ世界に生きていないような感覚がある。
それを寂しく思って、慣れない忠告なんかしてしまったのかもしれない、と唸っている後輩を見ながら他人事のように考えていた。
二人の前にジーマが現れたのは、それから少ししてからであった。
寝ぼけたような客の多い店であったが、彼が店に現れ、さらに一歩一歩進むたびに空気が変わった。
生地のしっかりしたズボンに、装飾のあしらわれた短めの白いチュニック、そのうえから着た紺色のサーコートにはオーラブ騎士団の紋章である乗馬した黒い騎士とそれを囲むように体を横たえる二匹のドラゴン、それが大きく金色の糸で刺繍されている。
その上から深いワインレッドのマントを羽織っていて、腰に携えた大小二本の礼式様のロングソードは見ていておもわずため息のでる出来栄えである。
どこかの物語から抜け出してきた王子のような恰好のジーマが登場し、店内はざわめき始める。
彼の登場をいち早く察知した二人は迷わず直立不動の姿勢をとったが、ジーマはただ苦笑いをするだけですぐに楽にするように指示を出した。
酒を運んできたマスターの手がわずかに震えているのを見て、ジーマは悪いことをした気分になっていた。
「ちょっと派手だったかな?着替えてから来るにも、周りが面倒くさくて。……ああ、遅れてすまない。伯爵がなかなか離してくれなくてね」
「いえ、問題ありません。ドミトリー卿」
「よしてくれ!!……まだ僕にその名前は重いんだ。作戦行動中だと思ってくれ、ジーマで良いし、敬語もいらない」
「……わかったっす」
「それでいい。ああ、疲れたところを呼び出して悪かったよ。ただ、明日出発するナタリアの護衛をする隊に君たちもどうかと思って。彼女も見知った人間の方がストレスも少ないだろう」
「おれは元からそのつもりっす」
「……命令とあれば」
ふむ、とジーマは顎を撫でた。
さらりと答えたグレゴリーと違い、ユーリの言葉には含みがある。一瞬、グレゴリーに対して怪訝な表情をしたのも見逃さなかった。
若い二人の相性はいいものと思っていたし、楽観的なグレゴリーと現実的なユーリなら良いコンビになると思って組ませたが、もうなにかあったらしい。
そのことを心にとめながら、話し続けた。
「まずは、良い知らせだ。伯爵からは正式に通行許可が出た。ないならないでやりようはあるが、穏便に行くならそれが一番いい」
「ナタリアもっすか?」
「ああ、彼女はここを出るまで70キロのビールだ。……いや、70キロ分の料金を取られたという意味だ。決して彼女の体重の話をしているわけじゃない。言わないでくれよ?」
小さく三人で笑いあった後、ユーリとグレゴリーの視線がジーマに刺さった。
二人が何を求めているか、わかっていたジーマはため息をついた。
「次は、悪い知らせなんだが……」
ジーマは懐から二枚の紙を出して、二人に見えるようにテーブルの上に置いた。
インクが滲んだ走り書きで42名の騎士の名前が示されている。息をのんだ二人はそこに刻まれた名前を一つずつ指でなぞりながら、読み上げていく。
死体を見ていない、死ぬ瞬間も見ていない、現実味のなかった仲間が死んだという事実が、二人の中に少しずつ溶け込んでいった。
42行がとても長く、手に持った薄っぺらい紙が堪らなく重かった。
グレゴリーの手が一つの名前で止まった。同じ隊で彼の右隣を走っていた騎士の名前である。
ダイアウルフの群れが現れた時に足止めとして、小隊長がグレゴリーより右側にいる騎士を連れて囮となるために部隊から離れたのを思いだしていた。
さらに下を見ていくと、グレゴリーより右側に居て小隊長に連れて行かれた騎士は全員が行方不明扱いになっている。
ダイアウルフが現れる少し前、グレゴリーは地形に邪魔をされて、左にズレて隊から離れた位置にいた。
ひどく喉が渇いていた、そのほんの数メートルがグレゴリーを生かしたのだ。
名誉ある死であれば恐れることはない、しかし、あの薄暗い森の中、生きたまま魔物に食い散らかされ、挙句にアンデットとなって彷徨いだすなんて、それはあまりにも…………。
食い入るように紙を見つめる二人を前に目を細めて、ジーマは告解をはじめた。
「僕が殺した部下たちだ。連れて行く人数が多すぎて、視界の悪い森の中で連携がうまく取れなかった。ラブリュスの森について、あまりに無知で甘く見過ぎていた。しぶる修道士を縛り付けてでも連れて行くべきだった。
いくらでも問題点が思いつく、チーズのような作戦さ」
「全部、結果論っすよ。それに俺たちは正しく任務を遂行できた」
「ああ、彼らの死は決して無駄じゃない。
……一週間、この街で行方不明者の帰りを待つ。
森の近くまで行って目印になる様に火を焚く。……それが精いっぱいだ」
一息おいて懐からさらに一枚の紙をだし、ジーマは続けた。
「こっちの紙に書かれているのは、身体的、精神的に損傷の激しい仲間から聞いた被害だ。そっちより詳しく書いてある。
僕もここに来る直前に見た。最新の情報だ。
……グレゴリー、残念だよ。君の隊の小隊長は、アレクサンドロは戦死している。」
「……そう…っすか。」
完全に黙り切った三人の頭の中をいくつもの「もし」が浮かんでは消えていく。
ジーマの入店のショックから立ち直った音楽家が、やけに明るく美しい旋律の曲を奏でていて、仲間を侮辱されたような気分になった。
酔いの回ってきた客たちは声が大きくなって、俗にまみれた話しの内容が、こちらでも聞き取れてしまう。
いつもは気にならない笑い声が耳に絡みついて、いつまでも頭の中で反響している。
ジーマは立ち上がると力強くグラスをテーブルに叩きつけて、掲げた。二人もそれに続いて鼓舞する様に大げさに音を立てる。
三人の騎士の「友に」という声が、店内によく響いた。
今この瞬間だけは、この世界には三人の騎士しかいなかった。