Light My Fire
今回、少々下品な内容を含みます。
ノルニグル族の村では興奮したヴィクトールが、とある魔物の右腕を見つけたと報告してきた。それを見た団員の誰もが息をのんだ。
その右腕の持ち主は、人魔大戦の時に少数が確認されていて、どの戦場でも人間側に多大な損害を与えた存在であった。
北領ではその存在は一個体でありながら、ゴブリン二個師団と同等以上の戦力を持っていると公式に認めており、この森の名前はその存在の武器からとられている。
たった一振りで百の騎士を壊し、人間側を震え上がらせたその存在を、人々は畏怖をもって【ミノタウロス】と呼んだ。
ヴィクトールの興奮が感染したように周りの騎士たちも色めきたつ中、アンドレイはそれの中に希望を見出し、自然と頬があがるのを感じていた。
加工された高位の精霊、魔物の体液などは魔よけの効果がある。特に弱肉強食を地で行くラブリュスの森の中であれば、この血の香りは今の騎士団にとってはどんな宝石よりも価値のあるものだ。
無加工の魔物の体液は人間の害になるものでもあったが、騎士団の中にこの血を使うことに反対する者はいなかった。
なます切りにした右腕を絞り血を浴びる騎士団を横目で見つめながら、グレゴリーはなんとかナタリアをなだめようとしていた。
彼女の酒臭い息をあびていると、意味のないことだとしても、どうしてこうなったか考えてしまう。
原因は明白で右手に持っている革袋なのだが、ナタリアが酒を飲み始めた時、彼女の状況を考えるとそれを止めようとは思えなかった。
そもそも彼女が水を飲むように呷っているものは果実酒であると思っていたし、落ち込んでいた彼女が元気になっていくのが目に見えてわかり、気が楽になったのは事実だ。
彼女の歌はグレゴリーの知らないものであったが、ゆっくりとしたリズムに乗せられた彼女の澄んだ声は耳に心地よく。グレゴリーだけでなく騎士団全員の時間を奪うほど見事なもので、おとぎ話の中の妖精が彼女と重なって見えたものだった。
今にして思えば肩を無理矢理組まれ酒を勧められた時には、彼女はすでにおかしくなっていたのだろう。
わずかな下心とともにそれを口にして、即座に噴き出し彼女の状態に気付いたが、その時には全てが遅かった。
彼の予想に反し革袋の中身は、ドワーフの火の酒とも呼ばれる極めてアルコール度数の高い酒で、おもわず彼女の顔を思いっきり見返してしまった。そんなグレゴリーの反応を見て豪快に笑いだし、そこから彼女は完全にドワーフとなってしまった。
陽気なナタリアに背中を何回も強く叩かれながら、もし次の機会があれば、人に酒を勧めだす前の段階で何としてでも彼女を止める、とグレゴリーは強く強く心に誓ったのだった。
最終的に騎士団は全員が血で赤く染まり、速度を重視してナタリアに持たせていた荷物も捨てることにした。中にはチェインメイルを脱ぎ捨てる者すらいた。
グレゴリーはなんとか酩酊したナタリアを馬に乗せたのだが、彼女は決して酒の入った革袋と気味の悪い弓を手放さずに抱え込んだ。フラフラしていた頭はグレゴリーの胸元に寄りかかり、二、三度頭の位置を確かめるように変えると、そのまま寝る体勢に入ってしまった。
あまりの態度に感じた怒りは、彼女のリラックスしきった表情の前で維持することは難しく、「おれってやつは……」とぐちぐちと言いながらも、彼女が落ちない様に自分の体と紐で結んでいた。
悪戦苦闘しているグレゴリーの元に、苦笑いしながらジーマがやってくる。
「苦労してるようだね。……ナタリアは寝ているのかい?」
「寝てはいないみたいっすけど。完全に飛んじゃってるっすね」
「それはまた、……進軍の速度を落とした方がいいかい?」
「こんぐらい問題ないっす。……それよりなんかありました?」
「…………もし森を抜けたとしたら、報告は一番に公爵にするんだ。他の誰にも言わないようにしてくれ。頼んだよ。……ああ、それから、これを渡そうと思って」
そう言ってジーマが取り出したのは手のひらサイズの方位磁石であった。
羅針盤を改造したもので精度はあまりよくないが数が少なく貴重品と呼べる。西の港町に住む友人からジーマに贈られた物だとグレゴリーは聞いたことがあった。
渡した後は何も言わずに去っていった副団長の背中を見ながら、その見た目よりも重い方位磁石と彼からのメッセージを大事に胸にしまった。
日は頂点をとっくに過ぎ、天気が崩れ土砂降りの中、騎士団は密集して森の外を目指していた。
決死の覚悟で行われた魔の森からの脱出は、しかし彼らの予想に反して順調に進み。一回の戦闘もなく騎士団一行は出口に近づいていた。
ノルニグル族の村を出発してから出始めた霧が彼らの姿を、降り出した雨が痕跡を隠した。
身に浴びた血は雨と混ざり流されてしまったが、それでも効果ははっきりと出ていて、遠巻きにこちらを観察した魔物もいたが、それらは例外なく離れていった。
この森は奥に入るほど魔物は強靭に狡猾になる性質があり、出口の近づいたことで騎士団たちの中では楽観的な空気が流れていた。だが、ナタリアには危機が迫っていた。
横殴りの雨は彼女の酔いを醒ましてしまい。十時間にも及ぶ乗馬は腰と首、それから尻に致命的なダメージ与えて、アルコールに犯された体は、馬によって激しくシェイクされ今に至るまで嘔吐を繰り返していた。
背中におもいきりぶちまけるたびに馬は迷惑そうに嘶いていたが、度重なる嘔吐は少なくなった彼女の体力をさらに奪い、馬を気にする余裕などなくなっていた。
頼みの酒もとっくになくなっている。グレゴリーに体を完璧に密着させて彼のマントの両端を目の前で交差させ、そこからカンガルーの子供の様に顔だけ出しているのだが、まともな食事もなく雨で濡れた体では、自然と起こる震えを止めることはできなった。
その上、飲み過ぎと体が冷えたことで膀胱は危険な領域で、その一線だけは超えるものかと固めた決意は、馬の揺れが大きくなるたびに崩れそうになっていた。
結局、根性で生理現象を抑え込めるわけもなく、数分と経たずに限界を突破した。
ナタリアは尻の下に広がる生暖かい物を感じながら、羞恥を耐えるように奥歯を噛み締め、もう二度と酒は口にしないと強く強く誓ったのだった。
視界を埋める樹木はだんだんと背が低くなり、延々と続くかと思われた緑が消えた。
急に広がった視線の先には、不毛の大地が広がっている。
巨大な石がいくつもころがり、所々に元気のない草木が寒さに耐えるように身を寄せ合っていた。
その向こうに小さく最北の要塞都市【スコピテラ】とそれを守るようにいくつかの簡易的な砦が建っているのが見えた。
日が沈みかけるころに騎士団一行は、犠牲もなく森からの脱出に成功した。歓声を上げ、互いに抱きつき喜びを表す騎士団を他所に、一人ナタリアは地面に突っ伏して嘔吐いていた。
北領の中でも最も北に位置する都市スコピテラ。門が六ヶ所あり、二重の石造りの壁にその間に深く掘られた堀、外側の壁は何ヶ所か突起しており、稜堡式城壁に囲まれているこの都市は、北の土地の開拓と危険な生き物の多いラブリュスの森の封じ込めを基本政策とする北領を支える重要な拠点である。
しかし、重労働や命の危険に直結する仕事が多く、移民や亜人の多い北領では、最大の都市であるアナトセティで暮らしていくことのできない者や貧困層の受け皿のような一面もある。住民の多くが移民で多種多様の人間や亜人が入り乱れるこの都市は治安に問題を抱えている。
だから決して自分から離れずフードもとらない様に、とグレゴリーはしめくくったが、ナタリアは深くフードをかぶり下を向くばかりで、ピクリとも反応しなかった。
原因はわかっている。
無理を押しての進軍であれば馬上での排泄など普通の事で、現にグレゴリーもノルニグル族の村を出て少しのところで致したのだが、酔っぱらっているナタリアは気付かなかったのかもしれない。
そもそも気づいていたとしても慰めになるか不明だし、こういったときに論理的に説明しても意味がないことはグレゴリーにはよくわかっていた。
時間が解決してくれる事を期待して、できるだけ明るい話題をナタリアに振り続けることが彼できる唯一の事であった。
門番といくつかのいざこざを起こしながら、二つの門をくぐり抜けた頃にはある程度の元気を取り戻したナタリアを人々の熱気が迎え入れた。
目の前には都市の中心に向かう幅の広い道が一本あり、その道の両脇に木製の建物がズラリと並んでいて、道の先には石の壁に囲まれた屋敷のような建物が小さく見える。
もう日は沈んでいるが、都市は人工の明かりに満ちていて、道の端には鶏や山羊などが自由に歩いているのが見えた。
あたりは家畜の匂いで溢れていて、建物は高くても三階建て。古い造りのそれらを見ていると、ここが映画の撮影所にしか見えない。ひどい光景だった。
異世界と思いながらも、どこかで期待していたナタリアの心をへし折るには十分だったが、ここまでの事で麻痺した精神と疲れた体は感覚を鈍らせ、ただ茫然とさせるだけにとどめた。
都市に着いた騎士団員はみんな薄汚れていたにもかかわらず、数歩道を進んだだけで周りをさまざまな人間に取り囲まれた。
商売女が三人がかりで若い騎士の腕を引っぱって、その隣では宿屋と思われる者が強引に数少ない荷物をひったくろうとして吹き飛ばされている。
よくわからない物体を商品と言い張った男が、その商品を騎士の顔に付くほど近づけ、顔を真っ赤にして何事かしゃべっている。
あっという間もなく周りは商人たちに囲まれてしまい、前に進むこともできなくなってしまった。
紳士的に対応していた騎士たちであったが、人ごみに紛れて剣を盗もうとしたものが現れるに至って、ついに彼らの堪忍袋の緒が切れた。
強引にまとわりつく商人たちをふり払い、抜刀することでようやく彼らは解放された。商人たちは各々が店先に戻ってなにかひそひそと話しながらこちらをうかがっている。
「相変わらず商魂たくましいな。この洗礼をうけると、スコピテラに戻ってきたって気がする」
「笑い事じゃないです。持ってきた物資が馬一台分、帳面とずれていた時なんか、開いた口がふさがりませんでしたよ」
「ここに来た時のあれか。二週間前の出来事なのにずいぶんと懐かしく感じるな、はは」
そう言って愉快そうに笑うジーマは、今までの緊張から放たれて豪快になっているようだった。
それとは逆にアンドレイの頭の中はすでに今回の作戦の事後処理でいっぱいになっているようで、難しい顔をしている。対照的な二人はどこか滑稽であった。
そんなアンドレイにの事に考えがむいたらしいジーマは、一塊となっている団員の中からグレゴリーとユーリを呼び、肩を組んで顔を近づけた。
その際にユーリの息遣いがおかしくなったが、ジーマは努めて無視をした。
「いいかい。これから僕たちは伯爵への報告や生き残ってこの都市に戻ってきている騎士団員との合流、事故処理とやることがたくさんある。
伯爵にもありのまま報告することはできない。ナタリアの事もだ。まずは公爵様に報告するのが先決だ。わかるね?」
「うっす」
「ノルニグル族の村の事は話さなければ大丈夫だ。……問題は彼女だ。伯爵に会わせるわけにはいかない」
そこで三人の視線はナタリアに集まった。フードを深くかぶり口元しか見えず、顔色はうかがえない。しかし足取りは弱々しく、隣を歩くヴィクトールが気遣わしげに様子を伺いながら歩いている。
幼いころから馬に乗っている彼らは忘れがちだが、乗馬がどれほど体力を使うものなのか、そして十数時間も続く悪天候の中の進軍がいかに非常識であるのかを三人はようやく思い出していた。
「……ナタリアもずいぶん疲れているようだから、先に休ませようと思う。二人には隊を離れて彼女の護衛をしてほしい」
「任せてください」
「少し裏道に入るが、宿をとってある。四階建ての【スタビリース】って名前のとこで、ここからも見える頭一個でかいあの建物だ。
そこから見える景色がなかなかにいい物らしい。……間違えても隣に入らないでくれよ、そこは娼館だ」
穏やかに笑っていたジーマは一つ咳払いをして後、ばつの悪そうな顔をしてさらに続けた。
「……ナタリアには、しばらくそこにいてもらうことになる。早ければ明日の昼前までには公爵様の元まで行く騎士を選抜して隊を作るつもりだ。
…………それまで彼女がそこから出ない様に、問題を起こさない様にしてくれ」
「あの様子なら明日までぐっすりでしょう。大丈夫ですよ」
「そう願っているよ。
スタビリースではこれを見せて僕の名前を告げれば大丈夫だ。部屋は四階で端とその隣の二部屋とってある。
こちらも落ち着き次第、交代の騎士を送るから、それまで二人で彼女の護衛をしていてくれ。……ああ、それから一応サーコートとマントも脱いでくれ。彼女の事は頼んだぞ」
公爵への客人なら伯爵の家で接待するのが普通だ。いくつも疑問の残る副団長からの命令に、しかし二人は質問一つなく従った。やけに気合いの入っているユーリを二人は努めて無視をした。
ジーマは裏路地に入っていく三人を見つめながら、これから始まる貴族同士の腹の探り合いを思って憂鬱になっていた。
二人に話した通りノルニグル族の村の事は話さなければ大丈夫だ。適当に話をでっち上げてもわかりはしないだろう。しかし、ナタリアは門番に姿を見られている。
身分の証明する術のない彼女を、この時間帯この都市に入れるにはオーラブ騎士団という名前が必要であったが、それ故に彼女の事をなんとか隠さなければいけなくなった。
彼女が本当にノルニグル族なら伯爵に話しても問題ないだろうが、ジーマは彼女の歌を聞いてからそのことに強い疑問を持っていた。
ノルニグル族と唯一交流があるこの都市の伯爵は、ノルニグル族に詳しいと聞いている。もし彼女が違うと伯爵によって暴かれたら、公爵家としては面白くないことになる。
執事長が主張する様に公爵家にとって事実はどうでもいいのだが、それが暴かれるのは良くなかった。
はぐれた騎士が何人生き残ったのかも気になっていて、先ほどまであった解放感はとっくに消えている。長い夜になりそうな予感がしていた。
ナタリアは騎士団から離れ、グレゴリーとユーリと名乗った青年と一緒に、先ほどまでの通りよりも幅の狭い裏道を進んでいた。
グレゴリーとそう歳が変わらないだろうこの青年はやけに自分に対して無愛想、逆にグレゴリーに対して親しげで、人見知りか排他的な人物であるようであり少し居心地が悪かった。
これから向かう宿は景色がいいやら話しながら歩く二人は実に元気である。
自分は馬から降りた後、すぐには歩けなかったし、今も体中が悲鳴を上げているのに、彼らときたらもうぴんぴんしている。この姿になる前であればもう少し余裕があったと心の中で強がって、すぐに虚しくなった。
「嬢ちゃん、いいケツだな!」
そんな言葉が聞こえた時、ナタリアは話しかけられたとは思わなかった。何となく声が聞こえたからそちらを向いて、それで地面に座るいやらしく笑う中年の男と目が合い。声を懸けられたのだと、彼女は気づいた。すると、反応を見せたからか、それに触発されたように周りから「顔見せろ!」、「今夜、相手してくれよ……」といった野次が飛んできた。
からかいを含む下卑た笑いを無視することは難しくなかったが、不意に突きつけられる現実、それがつらかった。……その野次を、かつて自分も言ったことがあるという事実が余計に苦しい。
それでも実際に触られるといった被害がないのは、近づいてきた男たちがユーリによって逆にセクハラされたからである。おそらく彼なりのジョークなのだろうが、真っ青になって逃げていく男たちは見て、ナタリアもいくらか気分が楽になった。
道はすべて都市の中心に通じるようになっているようで、裏道を抜けると左にまた石の壁に囲まれた屋敷が見える。いくつかの道を通り過ぎることで、三人はついに宿屋の前に着いた。
木造の建物はあちこちに汚れが目立ち、一階の窓が大きくあけられていて、中からは騒々しい物音と怒声が響いていた。三人は入ることを戸惑ったが、隣の建物から娼婦が近づいてくることに気付いたユーリが扉を開けて中に入ってしまった。
続いて扉を潜ったナタリアの視界には、懐かしい光景が広がっていた。
広い店内。左の方で樽のような体型の背の低い髭面の男が、優男に馬乗りになり今のナタリアの腰回りほどある太さの腕を振り下ろしている。
優男の仲間と思われる別の優男が、後ろから髭面の男の後頭部を椅子で思いきり叩きつけたが、椅子が砕け散るばかりで効果はほとんどないようだった。
新しく取っ組み合いを始めた二人を見つめながら周辺では十数人の男たちが酒を片手に囃し立てていた。そこから離れたところでは土に汚れた男たちが、テーブルの上の料理を奪い合うようにして貪っているのが見えた。
まるで動物園のような場所であったが、ここの雰囲気はナタリアもよく知っているものである。
入り口で止まっていた三人であったが、右目を腫らした髭面の男が優男二人を引きずりながらこちらに近づいてくるのに気付いて、奥に見えるカウンター席に移動を始めた。
哀れな優男二人は扉からゴミのように外に投げられてしまう。外からは「今夜は、エルフ~」といった甘ったれた娼婦の声とそれに続いて、何かを引きずる音が聞こえてきた。
ひとしきり歓声を上げ見届けた何人かの客が、テーブルの上に硬貨をおいて立ち上がった。そのうちの一人がナタリアと通り過ぎる時に肩が当たって、自然と男の手がナタリアの尻を掴んだ。
乗馬で痛めた尻は敏感になっていて、悲鳴は飲み込んだが体が小さく跳ねてしまい、それに気をよくした男たちが何事か声をかけていたが、そのすべてを無視をした。
(変な歩き方をしているつもりはないのに、どいつもこいつも俺の尻を触りたがる)
だが、彼らの気持ちもわかってしまった。上品とは言えない店内に、自分のような小奇麗な服を着た小娘が現れたら面白くない。ケツくらい触るだろう。自分なら間違いなく触るし、冷やかす。
折角彼女の知る懐かしい雰囲気に出会えたのに、その中で彼女だけが異物だった。
カウンター席にナタリアを挟むように座った三人の前では、黒いエプロンをつけた店の従業員がコップを拭いていた。申し訳なさを体全体で表し、口を開きかけたグレゴリーを手で制してナタリアが先に口を開いた。
「大丈夫。いい光景も見れたし、ここの雰囲気も嫌いじゃないわ。それより、私はスープくらいしか入りそうにないんだけど、二人はどうする?」
皮肉を言ったつもりはなかったが、グレゴリーはデカい体をさらに縮こめながらも続いた。
「それなら大丈夫っす。……旦那、スープとパン、ワインを三つずつ」
「あいよ」
「ああ、私にはアルコールの入っていない飲み物をちょうだい」
「酒以外だぁ? 裏で飼ってるヤギの小便だってアルコールが入ってるぜ?……この時間ここは飲み屋だ。酒を頼みな、お嬢ちゃん」
この場においての模範解答であったし、普段であれば別段気にするようなやり取りではないが、この時のナタリアに小便という言葉は禁句であった。
わずかに彼女の雰囲気が変わったことに、すべてを知っているグレゴリーだけが気付いていたが、視線を二人に送る以外にどうすることもできない。
「…………無いわけじゃないんでしょう?コップ一杯で良いからもらえない?」
「しつけぇな。ないっつってんだろ。この小便臭いガ……」
全てを言い終わる前にナタリアは動いていた。
従業員の胸倉と耳をカウンター越しに掴み、体を倒し引き込むようにして彼の顔を力の限りカウンターに叩きつけた。
ナタリアはそこで止まらず、右隣に唖然としたまま座っているユーリの腰から短刀を抜くと、従業員の目の前数センチの位置に投げるように突き刺した。
従業員が顔を叩きつけられた音とそれに続いた椅子の倒れる音が周り喧騒を止め、カウンターに突き刺さりわずかに震える短刀のキーン、という音がやけに響いて聞こえた。
全てが一瞬の事だった。
「それで、私の注文に答えてくれるの?」
そういって彼の目の前の短刀をわずかに揺らす彼女は、フードで顔が隠れていることもあり、体型に似合わない威圧感がある。
「オーケー。オーケー。おれが悪かった。いくらでも用意させていただきますよ。レディ。……だからこの物騒なものをしまってくれ、頼むから」
「そう、それは良かった。おなか空いてるからいそいでね」
手を放した瞬間に従業員はナタリアの注文通り、目にもとまらぬ速さで裏に引っ込んで行ってしまった。
その情けない姿にグレゴリーは気の毒そうにしていたが、それに反して店内は爆発したような歓声に包まれた。一部始終を見ていた男たちは口々にナタリアの勇ましさを褒め称えて、従業員の情けなさを笑った。
周りの歓声の中にはセクハラも含まれていたが、ナタリアはようやく彼らに受け入れられたような気がしていた。
グレゴリーはどこか諦めたような顔をユーリは深刻そうな顔をしていたが、奥から優男を追い払った髭面の男が、お盆に料理を乗せて出てくると、同じような顔つきになった。
深い木製の皿に入っていたのは、トマトスープだ。
ナタリアは内蔵も疲労していたが、トマトの香りが鼻をくすぐり食欲をかきたてる。中に入っている豆とぶつ切りの野菜はやわらかく、口の中に入れただけで溶けるように消えた。
鶏肉もたっぷりと入っていて、野菜とは逆に歯ごたえのあるそれは、スープにもよく味がしみていた。全体的に雑味が多かったがそれもこのスープを引き立てている。
あっという間に食べ終えて樽ジョッキに入ったリンゴジュースをちびちびと飲んでいたナタリアは、片目を腫らした髭面の男がこちらを見つめていることに気がついた。
丸太のような腕に樽のような体、岩のような顔つき、赤毛に伸び放題の顎髭は先を三つ編みにしている。
まさにナタリアの想像するドワーフそのものが、確かに目の前に存在して、しかもこちらの様子を伺っている。なんとも不思議な気持ちになった。
「……何?」
「いや、ニクラウスが顔を腫らしてキッチンにきたからよ。なに聞いてもだんまりだし、嬢ちゃんなにかしらねぇか?」
「このお店の礼儀に従って、正しく注文をしただけ」
それだけで彼にはある程度なにが起きたかわかったらしく、大らかに笑い出した。なにかしら注意を受けると考えていたグレゴリーが安心から一つ息をつく。
「あっはっはっはっは! 豪気な嬢ちゃんだ。気に入ったよ、今夜の宿はうちにしな。特別に安くしてやる」
「もともとそのつもり」
そこでグレゴリーがジーマの名前を告げて預かった紙を渡すと、彼はいやらしくにやりと笑った。
「それじゃ、部屋まではニコラウスに案内させよう。」
ニコラウスの受難はもう少し続きそうだった。