Somebody, shoot me.
日は昇り切らずあたりは薄暗く、それでいて星が隠れた時間帯、ナタリアは馬上の人となっていた。
グレゴリーは、彼が自慢する通りに乗馬がうまかった。
前に乗せると言われた時は捕まるものがない事がひどく不安であったが、どうやら馬は前に乗る方が揺れないらしい。そして彼の馬は大柄で重心が安定していて、乗り心地も悪くなかった。
それでも一時間ほどの慣れない乗馬は腰に負担をかけ、ワンピースでは内腿がスレて、当たり前ではあるがグレゴリーには後ろから抱きかかえられる体勢になっていた。
贅沢の言える立場ではないし、男と密着するのが嫌だ、などと主張するつもりも、彼に対する嫌悪感もない。だが手綱を握る野太い前腕や後頭部にあたる逞しい胸筋を感じるたびに、自分の情けない細腕や裾から覗く白い足が気になり、気分はどんどん沈んでいった。
自分にくっつけられたいくつかの荷物や、胸元に抱えた大量の矢の束もそれに拍車をかけた。
騎士団一行はナタリアたちを中心に周りを少数で固め、その周辺を目視ぎりぎりの距離で騎士たちが円形に馬を走らせていた。
それは先ほど発見した切り倒されたいくつかの木から、ノルニグル族の生活圏に入ったことを察し、さらなる彼らの痕跡を求めての判断らしい。
ひどく揺れる馬上では、矢をそのまま矢筒に入れてはすぐに抜けてしまうため、みな数本を服に挟むよう持ち、残りは馬にくくりつけていたのだが、二人乗りをするグレゴリーは戦力にならないと荷物持ちに任命された。
川での問答以降、ナタリアの待遇はよくなり、急に馴れ馴れしくなった騎士達が、出発前に荷物を入れた革の鞄を、ナタリアの腰に付け、あるいは首に下げ、さらには隊から集められた100本近い矢の束を抱えさせられていた。
そんな姿が滑稽なのか、周りを走っている騎士たちのナタリアを見る目は生暖かい。隣を走っている中年の騎士には自然と頭を撫でられてしまった。そこで湧き上がった彼女の怒りは空回りし、脱力してしまった。
武器は返してもらえないが、荷物を自分に持たせるということは、一種の信用の証なのだが、体に食い込む荷物は重く、血や汗に濡れ変色し、独特の匂いが止めとなって彼女はまいってしまっていた。
死んだ顔をして馬に揺られるナタリアを励ますようにグレゴリーが話しかけていたが、彼の口から出てくる地名は一つとしてナタリアの知るものではなく、貴族や領主などといった単語では彼女を励ますことはできなかった。
そのグレゴリーに関しても最初こそ話しやすく、態度の軽い小僧だと思っていたナタリアであったが、彼の祖母の名前や両親の恋愛事情なんかは会話を初めて五分で望まずに知ることになったが、騎士団の仕事内容となると曖昧に笑うばかりで決して口にしようとはしなかった
時々こちらの核心をつくような質問をしてきて、肝を冷やしたこともあったのだが、男の悲しい性か、疲れからグレゴリーに寄りかかるようなると、彼はより饒舌になり質問のキレも悪くなっていった。
意図してやったことではなかったが、目に見えてわかりやすい効果が出たことは、現実を突き付けられたようでなんとも複雑な気持ちにさせた。
実はその際の仏頂面に愛嬌があり、周りの騎士達に親近感を持たせ、それが原因となり悪乗りやちょっとしたからかいを誘発したのだが、それはいまのナタリアには想像もできないことであった。
わかりやすい守るべきお姫様の登場は騎士団の士気をあげ、特に彼女の周りには状況にあわない穏やかな時間が流れていた。
騎士団の先頭を走るジーマとアンドレイは、だんだんと増えていくノルニグル族の生活の痕跡から、ナタリアは朝の爽やかな空気の中に混ざる新しい血の匂いによって村が近いことを感じていた。
樹木の間にわずかに見え始めた黒みがかった赤に、ジーマとアンドレイは最初それがなにであるかわからなかった。
近づくにつれ匂いでその正体に気付き、呆然とした二人はほとんど馬が進むのに任せて村の前に到着した。
森の中で木を切り倒し作られた空間に、木材でできた壁で囲ったその要塞村はやや高所に位置していて、正面の両開きの門は立派なもので、壁の分厚さと頑丈さは一目見ただけですぐにわかった。
本来であれば厳格な態度で迎えてくれただろうその村は今、地獄となっていた。
壁の外にある堀の中にはいくつもの肉片が折り重なることによって天然の橋がかかっており、堀としての役目を果たしていない。その向こうに見えるのは、地面に斜めに刺さった先の尖った杭だ。そこには、いくつもの肉が団子のように突き刺さっていた。
簡易的なそれらでは防げなかったようで、何ヶ所か突破されていて、そこには様々な足跡が集中していた。
門から少し遠い壁の前では、いくつもの魔物が重なり、壁と同じ高さにまで達している。門は内側に踏み倒されていて、その壁の内側はおそらく今見ている光景よりもひどいことになっていると簡単に想像できた。
騎士団は自然とジーマの周りに集まっていた。
領土内では対人、対魔共に百戦錬磨を誇るオーラブ騎士団、ここに着くまでの間に何度も訪れた危機は、自然と彼らの中から強者を選別したが、それでも残った精強な29人の誰もが目の前の光景を受け止められずに夢見心地でいた。誰かが「こんなことが……」と小さく呟く。
彼らの中で無敵の英雄が、その神話が崩れた瞬間であった。
青ざめわずかに震えている者すらいる騎士団を見て、ナタリアはようやくこの森の異常性と自分達の状況の危険性を騎士団と同じレベルで理解することができた。そこから、彼女の次の行動は早い。
動かなくなったグレゴリーからファックノウズを勝手に拝借し、抱えていた矢と荷物を捨てるように地面に置き、門の方に近づいていく。地面は血と臓物でぬかるんでいて足をとられ、時々なにかやわらかい物を踏んでしまう。
できるだけそれらを意識しない様に周りを観察すると、辺りに散りばめられた肉片の中に人間の部位と認識できるものを見つけてしまった。
人間の死体など初めて見るものではなかったし、鼻の奥に突き刺さるような匂いに吐くこともなかったが、近代の銃火器や刃物のよる傷ではなく、強大な力によって地面にすりおろされるようにペースト状になったものなど、どのように受け入れればいいのかわからなかった。
比較的欠損の少ない巨大なオオカミが、門のすぐ近くの壁に不安定に寄りかかっていた。
背中からは剣の切っ先が突き出していて、その下から細い足が見えた。彼女は少し迷ったがそれをどかすことにした。好奇心と気まぐれの行為だ。
不安定そうな形のそれは、しかし肩を押し当てるようにして全体重をかけても自分の足が地面を抉るだけでビクともせず、自分の力の無さに意地になり始めたころ、横から手が伸びてきてあっさりとそれをどかしてしまった。
少し険しい顔をしたグレゴリーだ。騎士団はどうやら行動を開始したらしく、今は下でジーマの怒声が飛んでいる。
巨大なオオカミが覆い隠していたのは、白色人種の少年であった。
未発達な体は10代前半に見えるが、歯を強く噛み締め、目を剥いて激しい怒りを表しているその顔は、彼を20歳にも30歳にも見せた。左腕は肩からえぐられていて、腹からは中身が飛び出し、右足首から先はなかったが、それでも周りに比べればきれいな状態だ。
死してなお戦い続けている少年を解放するために、右手に握った剣をとろうとしても、虚空を睨む瞳を閉じようとしても、どちらも固く結ばれていてそれは叶わなかった。
ナタリアにはその固さが、死後硬直だけを根拠にしているようには思えなかった。
わずかに目を閉じ黙祷を捧げ、村の門を通るナタリアの少し後ろを歩きながら、グレゴリーは先ほど自分に下られた指示について考えていた。
騎士団が悪夢から覚めたのはナタリアのおかげであったが、そんな彼らの動きをしばし止めたのもまた彼女であった。
今の時勢、どこも小競り合いが絶えず、魔物が暴れ村が焼かれるような不幸はあったし、肉親が死ぬことも珍しいことではなかった。だが、この壮絶な光景とそれに向かって一人歩く小さな少女の背中は、見ている騎士団に小さくない衝撃を与えた。
この時代、村とはすなわち家であり、そこに住む村人が家族である。
衝撃から立ち直ったジーマが、ナタリアの護衛を命じたのは、おそらく彼女がはやまった決断を下さない様に見張るためだろうとグレゴリーは思った。
様々な女性と会話を重ねてきた彼であったが、この状況でナタリアにかける気の利いた言葉は見つからない。彼女が取り乱さないことは彼には救いであったのだが、気丈に振る舞う姿が無性に悲しかった。
ここまで見てきた愛嬌のあるむっつりとした困り顔や、苦笑いとは違う。あの少年に向けた無表情に、はじめて彼女の本当の顔を見た気がしていた。
たっぷり水気を吸ってびちゃびちゃになった毛皮の靴から嫌な音を立てながら、ナタリアは門を通り村の中心部に向かって歩いていく。
どの家も木造でほとんどが焼け落ち、あるいは大穴があいていて、そこには黒に限りなく近い赤で塗装されていた。状況だけを見れば、中東辺りの空爆後の市街に似ていた。
わずかに見える畑は、大きな鳥のような生き物の死体に埋め尽くされている。その怪獣のような鳥の存在は死体がある以上は諦めを持って受けいれることができた。
しかし、顔ほどある大きな蹄や嘴などが一部だけ落ちているのを見つけると、それが一体どんな生き物か不気味な想像だけが駆り立てられた。後ろを歩くグレゴリーが、それらを見て面白いほど反応した時など、こちらの状況を知っていてわざと不安を煽っているのか疑ったほどだった。
周りを観察しながらも、ナタリアは自分のとる選択を決めかねている。
自分を見つめる瞳には同情の色が濃く、ノルニグル族を名乗るのが順当のようであったが、ここに着くまでグレゴリーから聞き出した彼らの常識と、この村の様子からノルニグル族を演じればすぐぼろが出るだろうし一度名乗ればそれを貫かなくてはならない。
それに聞けば彼らは六日前に火の手が上がったのを見たと言っていた。そのことを聞かれたときは生返事をしたが、間違いなく不審に思われているだろう。
彼らも動揺していることがよくわかる。こちらが落ち込んだ様子を見せれば紳士的な彼らであれば深くは聞いてこないかもしれないが、もしノルニグル族を名乗るのならもうひと押しほしいところであった。
村の中はどこもひどいありさまであったが、ナタリアの心にあるのは、犠牲者へのわずかな憐憫と大きな自分の立ち位置の心配である。
村の中心にある半壊した木造の家。他と比べて立派なそこに入ることを選んだのは、軒先に落ちて踏みにじられている洗濯物の中に、今の自分にあいそうなサイズの衣服を見つけたからであった。
グレゴリーには入り口で待つように言って、横にあいている大穴ではなく本来の玄関から中に入ると、内装は赤一色であった。
この部屋の中はミキサーにかけたジュースを盛大にぶちまけたような有様だ。……そのジュースの材料が三人の人間であることは、不完全な状態ながら武器を握りしめた右手が三つ落ちていることでわかった。
その部屋の奥には壁に寄りかかるように大男が倒れている。
頭の先から真っ二つになっている事を除けば、門のところにいた狼の下敷きになっていた少年に次いできれいな状態で、濃褐色の瞳に栗毛色の髪は少年と同じ、そして顔立ちにも面影がある。おそらく、親子であると思われた。
簡単な黙祷を捧げ、右に見える扉に向かう途中になにか固い物を蹴ってしまった。
手に取ったそれは弓で、血に浸されたせいでわずかに濃さの違う黒の斑模様で染められ、全長一メートルもなく両端が外側にゆるく反っていて美しく、木でできた弓の中心部にあるくびれには熟練した娼婦のような魅力があった。
構えてみるとまるでそれが当たり前のように自分の手に収まって、初恋をした少年のようにナタリアはその弓に魅了された。
手放す気は完全になくなり血で汚れることもかまわずに担ぐと、やはりしっくりときた。
もはやその弓を持つことに少しの疑問も抱かずに、改めてナタリアは扉を進む。
扉を開けると少し大きめの部屋にでた。壊れたテーブルと倒れた椅子が六つ、左側には台所があるこの部屋は現代風に表現すればダイニングだろうか、奥には二階に続く階段と扉が見える。
半壊した家の二階に上がる気になれず、奥の扉を開けるとさらに左右に二つずつ計四部屋あり、いい加減めんどくさくなり適当に一部屋にきめた。
扉が開かれるについて小汚いベットに箪笥、机と順々に目に入っていく。
最後に、目の前に、見知らぬ女が、現れた。
驚いた顔をしているその女はまだ10代後半だろう。アジア系の面影もあるが、それにしては鼻筋と頬骨が高く肌が白く判断に困る。瞳の色は濃褐色よりさらに黒く、大きく見開かれているせいでよけいに幼く見せた。
ナタリアは目があった時には腰の武器に手が触れていて、相手も全く同じ動きをしたことでそれが鏡であることに気付いた。今の一連の動きが初めて鏡を見た猿のようで、それに小さく笑いながら改めてまじまじと観察をする。
前の自分の面影は一切ない。
無理矢理でも共通点を挙げるとすれば、人種が不明である事と、形は違うが瞳には言葉にできない暗いナニカが含まれている事くらいだろうか。
なかなかにかわいらしいお嬢さんである。自分がもっと若ければ声をかけていたかもしれない。
その顔をもう一度よく見て、これまで我慢してきたものが爆発した。
おとなしく入り口で壁を背に考え込んでいたグレゴリーであったが、家の中から何かが割れる甲高い音とそれに続いて物音が聞こえた時、後悔とともにナタリアのもとに急いだ。
安全の確認されていない家の中に一人で入らせる事も一人にすることも抵抗があったが、彼女の声の中に強い拒絶があって、どうしてもグレゴリーには今の彼女を止めることができなかった。
玄関を開けて見えた惨状に気後れしながらも血の足跡を頼りに急いで進み、武器を片手に最奥の扉を開けたがそこに居たのはグレゴリーの予想に反してナタリア一人だけであった。
部屋にある家具は倒れ、足元には鏡の欠片が散らばり、片手に持った折れた短剣を眺めながらベットに腰かけているナタリアは、乱れた部屋に対してあまりに小さく整っていた。
少し時間をおいてこちらに気付いたらしいナタリアが、流し目を送りながら「……何も言うな」と言っていたが、グレゴリーはほとんど上の空でそれを聞いていた。
上気した頬にわずかにうるんだ瞳、部屋に入る日差しに白い肌は溶け込んだ彼女は物語の中の存在のようで、グレゴリーは不謹慎ながらもしばし彼女に見とれて、なにも言えなかった。退廃的な雰囲気と彼女は、残酷なほど似合っている。
沈黙に耐えかねたナタリアが「着替えるから出ていってくれ」と言っても動かないグレゴリーであったが、痺れをきらしたナタリアが一枚服を脱いだところで、慌てて部屋を出た。
その拍子に何かにぶつけたグレゴリーは、部屋の前で扉に寄りかかり悶え苦しむ情けない声をあげた。
グレゴリーにそう言ったナタリアだったが、まだ動く気力は湧いてこなかった。
ここまでの一連の出来事でストレスが溜まっていることは理解していたが、まさか感情が自分の制御を超えて体を動かすとは思ってもいなかった。
心の中は未だ激情が渦巻きモヤモヤとしたものが大半を占めていた。だが、思いっきり暴れた事、そしてここ数年は感情の起伏が少なかったため予想以上に怒る事に疲れたため、これ以上暴れることはできなかった。
心は嵐の大海のように荒れ狂い、しかし体が前の自分よりも歳をとったように疲労で着いて行けず。そのアンバランスさがさらに精神を不安定にさせていた。
そんな中でグレゴリーのような存在は心の安定に大きく貢献した。
部屋に入ってきた彼の間抜け面を見た時、張りつめたものがわずかに緩んだ事がナタリアは自分でもよくわかった。
(もしあの時、彼が部屋に入ってこなかったら、俺は……)
そこで考えるのをやめて部屋に散らばった服をかき集め、灰色のズボンを履きフードつきの黒い外套を羽織り革の靴を履いた、どれもナタリアにはやや大きかったが気にならなかった。
扉の外にいたグレゴリーがナタリアを見て何かを言いかけたが、結局それは言葉にならず、先を進む彼女について来た時と同じように戻っていった。
ジーマは部下に村の中の探索と、住民の死体を一か所にまとめるように指示を出しながらも、頭の中はこれからの事でいっぱいであった。
部下から入ってくる報告はどれも芳しくなく、もはや休憩もノルニグル族の庇護も望めない。まさか彼らの村がこのような状態になっているなどジーマは考えもしなかった。
何か知っている可能性のあるナタリアも、村の中から幽鬼のような足取りで戻ってきてから、一言もしゃべっていない。
木に寄りかかり大股を開き、片手にどこから持ってきたのか革袋を、禍々しい弓をもう片方の手でいじりながらも、視線は宙にさまよわせている彼女は、ひどく不安定で問い詰めることを戸惑わせた。
この村に来るまでにも道中で多大な犠牲を払っている。この人数で戻ることは果たして可能なのだろうか……。暗くなっていく思考はアンドレイのこちらを呼ぶ声で中断した。
「ひとまず死体は一か所に集めました」
「ああ、ノルニグル族のアンデットなんてぞっとしない。ナタリアに一声かけてから荼毘に付すとしよう」
「それにしても、ひどいものですね。騎士として叙任を受けてから十年以上経ちますが、ここまで慈悲の欠片もないものを見たのは、初めてです」
「それに多種多様な魔物と魔獣が入り混じっている。僕たちの常識じゃ、ありえない」
「ええ、なにもかも、ありえないことばかりです」
「ああ」
そこまで話して少しの間お互いを探るような二人の視線が絡まった。
ジーマとアンドレイの間ではナタリアへの対応で意見が分かれていて、今もアンドレイがその事を話したがっていることをジーマはよくわかっていた。
わかっていながらも黙っていたジーマであったが、アンドレイはこのまま無言でいるつもりはないようだ。
「……彼女の様子はどうです?」
「……グレゴリーの話では村の中で一回爆発して、それからあの通りらしい」
「…………ノルニグル族の支援なしに、私たちが生きて帰ることは難しいです。彼女がこの村出身で偶然この悲劇から逃れたのか、それとも別の村にいたのか。後者ならその村までここからどのくらい距離があるか。彼女に聞かなければ」
「もし近くにノルニグル族の村があるなら彼女から話してくるさ、……今でこそ落ち着いているが、ナタリアが錯乱でもしたらどうしようもなくなる。この村を見ろ。彼女には時間が必要だ」
「私たちにはその時間がない!! ……暴れたなら、気絶でもさせればいい」
「……なんだと? 自分が何を言っているかわかっているのか! アンドレイ!!」
彼らの会話は次第に口論となっていた。
タイミングが悪いことに、二人を止めることができるヴィクトールをはじめとした古参の騎士はこの場におらず、周りの騎士も仲裁に入ろうとしていたが、興奮した二人の前ではあまりに無力だった。
ついに掴み合いにまで発展しかけた時、「なんでも聞けばいい」とこの場ではやけに明るく呑気な声が響いた。
右手に革袋を持って少しふらついたナタリアだ。
その後ろでは必死に止めようとしたのだろう焦った顔のグレゴリーが彼女の肘を引っ張っていたが、それはほとんど意味をなしていない。
アンドレイは中身のたっぷり入った酒臭い革袋をナタリアから奪い取りながら「ここはあなたの村ですか?」と努めて冷静に聞いた。ジーマは後ろに下がり、少し芝居がかったナタリアの様子を注意深く観察していた。
「ここかい? ああ、そうともいえるかもな」
「なにがあったんです?」
「さあね、わたしが知りたいよ。あんた達と同じさ、六日前の火を見てこっちに来たんだ」
「こっちに来た? 近くに別のノルニグル族の村があるのですか! どこから来たんです?」
「……どこから?」
急にナタリアは笑いだすと「どこから?」と繰り返しつぶやいた。ひとしきり笑った彼女は、アンドレイから革袋を奪い返すと止める間もなくそれを呷って、咳込んでから大きく両手を広げた。
「遠くさ、ずーっと遠いところ」
そういって妖しく笑うナタリアの目は据わっていて、相当に酔っぱらっているらしく動作はどれも大げさだ。ふらふらとしている様子はなんとも頼りなかった。
「今回の事は本当に残念だったよ。これから君のことを公爵領で保護しようと思うのだけど、僕たちと一緒に来てくれないか?」
目を合わせながらできるだけ優しくゆっくりしゃべったジーマであったが、ナタリアは聞いているのかいないのか。「どこにでも連れて行ってくれ」そう言ってまたふらふらとグレゴリーの肘を掴んだまま、木陰の方へ歩いて行ってしまった。
ジーマはグレゴリーにできるだけ飲まさない様にと注意したが、あの様子を見るに彼には荷が重いようである。
「めちゃくちゃですね。彼女、自分の村がこんなことになっているのに、あんなに飲んで」
「受け入れることができないんだ。落ち込まれるよりましさ、たとえ空元気でも彼女の陽気に当てられてこっちも気が楽になる」
「どこから来たのかも、結局よくわからない」
「この際、問題ないさ。僕たちの目的はこの村の惨状を報告する事と、彼女を公爵の元まで送ること。29人もいるんだ、グレゴリーと彼女の乗る馬を生きて帰すくらい訳ないさ」
「……なにか工夫が必要ですね」
二人には先ほどまでの剣呑な雰囲気はなかった。
惨劇の舞台となった小さな村には、騎士団たちの足音とついに歌いだしたナタリアの澄んだ鈴の音のような声が響いていた。
予定ではこの話で人里に下りるはずだったのですが、こんな結果になってしまいました。
話は遅々として進みませんが、週一回の投稿を目指して細々と続けていきたいと思います。