結成
エルゼの心臓がひと際激しく脈を打った。直感でしゃがんだ彼女の頭上を甲高い風切り音が過ぎていく。後ろに転がり背を向け走って距離を取った。
相変わらず技は一切見えなかった。動く前の筋肉の緊張、呼吸、重心の移動、そういったものがない。いや、うまく隠しているだけなのだがエルザにわからない以上ないのと変わらなかった。
疲労の溜まった足は重く、全身には呪いのように怠さがある。一時間以上も走った後なのだから当たり前だったが、もはや足よりも内臓のほうに言いようのない気持ち悪さがあった。
一方で同じトレーニングをしていたナタリアの立ち振る舞いは静を体現していた。棒の切っ先がエルゼを捕えて離さない。半歩ずつ、いっそ優雅に距離を詰める。その黒く美しい瞳のみが獲物を見る獣のようにギラギラと輝いていた。
巨大な壁が圧し迫ってくる感覚に、エルザは自分の心が委縮するのを感じた。後ろにはいくらでも距離を取れる、だが一歩でも下がれば勝てない事にも気づいていた。
エルゼは大きく息を吐き、左目上に刻まれた傷に触れた。
地獄の業火を、人間の燃える匂いを、下劣な笑いを思い出す。恐怖は一瞬で消えた。悠然と待ち構えるナタリアに、エルゼは突っ込んだ。
「ぶはっ! 疲れたぁ、狂戦士かよ」
豪快に地面に尻を落としてナタリアは細くなっていた息を吐き出した。傍らにはピクリとも動かないエルゼが仰向けに転がっている。
三回は意識を断つにたる打撃を入れている、それにもかかわらず彼女は突っ込んできた。最後には白目を剥き半開きの口からは涎を垂らしながら来るものだから、少々強めに殴ってしまっていた。拳が今になって痛んだ。
ナタリアは少し心配になって倒れたエルゼを覗き込んだ。おそるおそると脈を測るために手を伸ばす。糸が切れた人形の様なダウンの仕方だったが、彼女なら噛みついてきてもおかしくないと思っていた。それほどの気迫が彼女にはあった。
想像に反し難なく脈を測り終え、正常な様子に一息つく。不意にはだけ露出していたエルゼのお腹が目に入った。白い肌の一部が変色し、肌が突っ張ったようになっている。火傷の跡、だった。ナタリアはそっと彼女の服装を正し、傷を隠すとそれから隣に寝そべった。
明け方の澄んだ空気、肌寒いそれが火照った体に気持ちよかった。頭が冷える。
戦いの中、ナタリアはエルゼの中に自分を見た。同じだった。焦がれ、心を燃やしている。……どこか哀れで滑稽だった。そのシンパシーを彼女もどこかで感じているからこそ懐かれているのかもしれない。
明け方の空を眺め気持ちよくなっているナタリアの視界に、アンナが覗き込むように顔を出した。
「お二人とも朝からお元気ですね~。走るのが速すぎて見失わないのがやっとでしたよ~」
「来たな、サボり」
「いやいや~、戦闘狂のお二人とただのメイドを比べないでくださいよ~」
「戦闘狂、か」
早朝、いつもより早く鍛錬に出るナタリアを当たり前のように待っていたのがエルゼとアンナだった。動きやすい服装のエルゼと釣竿を携えたアンナ、鍛錬と知りウキウキでついていくと言ったエルゼに比べアンナの狐顔は珍しく引きつっていた。彼女はブーツだった。ウォーミングアップの時点でアンナは遠く豆粒となった。
「白々しいな、あんなまずい紅茶しか入れられないメイドがいるもんか」
「メイドと言ったって花形のパーラーメイドから、私みたいに奴隷のように働いていたキッチンメイドまで。いくつも種類があるんですよ~? 紅茶葉を触ったことのないメイドなんて私以外にもたくさんいますよ~」
ゆっくり上体を起こすナタリアに対して糸目をさらに細めて、困ったように。しかしいつも通りのニコニコ顔でアンナは笑った。
普段通りの彼女だった。普段通り過ぎた。
息を乱さずに汗もほとんどかいていない。出発地点から近道がないコースを走っている。多少遅れたからと言ってどうこうできるものではない。それもブーツで。となると、普段から体を動かしているだけというわけでもなさそうだ。
ナタリアの右腕が動く。アンナは飛来する小石をほとんど本能で弾き、間髪いれずナタリアは小刀で斬りかかった。手加減のない一撃だ。アンナはそれを前腕で受け止めた。想像に反し、硬い感触に甲高い音が鳴りナタリアの小刀が弾かれた。アンナが素早く距離を取り、構える。顔はまだニコニコと余裕があった。
「ご乱心ですか~?」
「戦闘狂だからさぁ、強そうな奴にはとりあえず殴りかかっちゃうの。許してよね、手甲ちゃん」
「斬れないだけで痛いんですよ~」
「? 私は痛くないから」
「そろそろ怒っちゃいますよ~???」
再び斬りかかったナタリアの小刀に合わせてアンナの拳が振るわれた。守ではなく攻め。右のストレート、それも体当たりするような体捌きだ。意外過ぎる行動にナタリアの体は一瞬止まりかけるが、瞳はアンナの拳を追いかけた。指に光る物をはっきりと捕えた。
メリケンサック。そんな単語が浮かぶ前にナタリアの小刀は飴細工のように容易く砕け。その音をかき消すほどアンナの踏み込みの音が大きく響く。ナタリアの顔の横数センチを通った拳圧に髪が躍った。
グレゴリーほどではないが、酒場にいた男たちの拳が可愛く思える威力。フォームだとか技術だとかそういった理屈の外にある力に感じた。少なくともナタリアにはこのフォームでこの威力を再現できない。
距離を取りナタリアが投げた無残な姿の小刀を掻い潜ってアンナの胴タックルが奇麗にナタリアに入り、流れる様な動きで馬乗りとなった。振り上げられた右手のメリケンが光る。
(組み技もできるのか。総合的によく鍛えられてる。前にグレゴリーも使ってたやつだ)
「いきなり人を襲っちゃだめですよ~? 反省しました~? ……それとも反省させてあげましょうか~? 昔から口で言ってわからなければ、と言いますし~」
アンナはメリケンサックをちらちら見せナタリアを見下ろして得意げに笑った。鬼の首を取った様子の彼女にナタリアも冷静に返す。
「パンクラチオンだな。それも正統派だ。衛兵か騎士が使うやつだが、拘束までの動きが奇麗だったから衛兵寄りだ。打撃力を道具で補ってるってことは男に混ざって訓練をしていた経験があるな?」
「…………はぁ~、まいっちゃうなぁ。戦闘狂だなんて言って全然冷静じゃないですか~」
「いい加減あなた達の立ち位置をはっきりさせときたくてね。あんたらの親玉はある程度絞れているんだ」
「……もうちょっと緩くいきましょうよぉ~。あっさりマウント取られて怒っちゃいました~?」
「いや、全然?」
言うが早いか彼女は一瞬でエスケープした。かと思えばアンナの背後に回り首を絞め両腕を固め一気に自由を奪った。柔術も嗜むナタリアにとってグラップリングは十八番の一つだ。単純な体格差、力の差からグレゴリー等、騎士団員にはあまり有効ではないが。グレゴリーと戦った時も最後は閉め落としている。それこそ相手が女ならナタリアは無敵だ。
ナタリアがアンナの耳元で囁いた。
「ごめんねぇ、強すぎて」
「やっぱり、気にしてるじゃないですか~」
「そろそろ、あんたの立ち位置を教えてもらおうと思ってね。バトルメイドってわけじゃないんだろう?」
「……ただの格闘技が趣味のメイドですよ~?」
ナタリアは首をきゅっと絞めた。アンナはうっと小さく声を漏らした。
「あなたが最近入ってきた新人メイドだっての事はわかってる。だけどね。イエヴァが新入りをいきなりレディースメイドに配置するなんて思えない。それがたとえ私みたいに爵位も持っていない小娘でもね。ならそれをゴリ押しできる人間、あなたの上司って、さぁ誰かな。……黙っといてあげるから言いな」
「…………もぉ~~」
この屋敷の人間に限った話でいえば一番トップに立つ人間はアレクセイ公爵だ。その下にテオドールがいて、その下に騎士団をまとめる騎士団長、メイドをまとめるメイド長、敷地内の衛兵たちをまとめる衛兵長などの各隊長が横並びになっている。
各隊長には部下の雇用や解雇など人員の管理。与えられた予算の管理をある程度個人の裁量で決めることが許されている。他の部署に口出しすることは原則ありえない。外部からの干渉を考えなければ、イエヴァの管理するメイドの人事に影響を与える事ができる人物は二人、彼女より上の立場のアレクセイかテオドールだ。そのどちらが親玉かによって、アンナの意味合いは大きく変わる。
アンナは大きなため息をついてナタリアの腕をタップした。技を緩めると演技臭い動作で二、三回咳き込んだが、ナタリアはそれ以上は技を緩めなかった。
「絶対に秘密にしてくださいよ? 絶対ですからね?……私とエルゼは衛兵でしたが、メイドに扮しナタリア様をお守りする様にと閣下にスカウトされたのです」
「ふーん、叔父さまが。私を守るために、ねぇ。……命令はそれだけ?」
「はい。うっ! 本当です。絞めないでぇ」
「グレゴリーたちを私の親衛隊にすることだって相当に異例なことでしょう?」
「彼らは強力ですが男です! 常にナターシャ様のお傍にいられるわけではありません、女である私達の方がなにかと都合がいい場面が多いのです」
的外れなことは話してないだろう、しかし彼女の発言を深く考えても真実には近づけそうにない。
「隠す必要があるとは思えないけどね」
「詳しい事情はわかりません。私はただ命じられ動くだけです。……あの、私が喋ったこと秘密にしてくださいね? すっごい人たちが関わってますから、バレたらどうなるか……」
公にしないのは身内を疑っているからだ。公爵家内は政治の場、日常業務をしている部下は北領内の貴族で構成されているし、他領、他国からの客だっている。彼らの他愛のない会話一つにはいくつもの意味がこめられ。常に相手を疑い、探りながら生活していた。
北領内には中央政権からの離脱を目指す"独立派"を筆頭に反南領、反帝国といくつもの派閥が存在する。世代交代の近づく北領で、"ナタリア"がどれほど重要か。接触し、唾をつけ始めている者もいた。命だけではなくそういった政治的思想を警戒している、と言われれば納得できない話でもない。
だが、どうしてもナタリアにはあの男の影がチラついて仕方がなかった。奴の事を考えると、どうしても絞める腕にも力が入る。
「それって、テオドール様も関わっているの?」
「執゛事゛長゛でずが?」
「あっ、ごめん」
「うっ、ゲホゲホッ。……私が知る限り閣下以外は衛兵長、メイド長だけだと思います」
「ふーーーん」
ナタリアはアンナを素早く離すと大きく伸びをした。密着したアンナからは汗の芳ばしい匂いがした。見かけよりは疲労していたのかもしれない。
ナタリアの指が自身の顎を撫でた。アンナには背を向けているため表情は伺えないが、彼女は川の流れを眺めながらしばらく沈黙を貫いた。アンナはただいつもより低い位置で結ばれた彼女のポニーテールを見つめていた。
しばらくした後。「まっ、いっか」とナタリアはいつもの明るい表情で振り返るとノビてるエルゼを見つけ「教会に運ばなきゃな」と話しかけた。さっきまであったことを感じさせない淡々とした動作だ。
そのままアンナにしゃがむ様に指示するとその背中にエルゼを乗せ、ナタリアは悠々と先を歩き始めた。どこか腑に落ちないものを感じながらアンナはだまって従った。なにを言っても言いくるめられる未来しか見えなかったからだ。
背中に汗で湿ったエルゼを感じながら、それでも何とか一太刀ナタリアにいれたいアンナは、彼女の弱点を突くことにした。
「ナタリア様。エルゼの傷は、……エルゼの事は、聞かないんですか~」
「……不思議とね、知りたいことは伝わってくる。口下手なだけで多弁だから、その子」
「……なんだかなぁ~」
アンナの背負うエルゼを見るナタリアの瞳は、見たことがないほど柔らかいものだ。
もう三、四年ほど前、アンナのいたところに転がり込んできたのがエルゼだ。当初はひどいものだった。話すことを忘れたかのように無口で獰猛な彼女を辛抱強く面倒見たのがアンナだ。二人はそれだけ長い付き合いだった。
そんなエルゼが見たことがないほどナタリアに懐いているし、ナタリアもエルゼには特別な態度を取っている。それがなんだかおもしろくない。
逆にやり返された形となったアンナに、ナタリアは続けて言った。
「羨ましいけどね、古傷」
「えっ?」
「古傷ってのは決して消えない思い出でしょう? 見るたびにその時の感情とか記憶を思い出す。生きて積み上げて来たものの証っていうか……。唯一の自分自身を証明するものだと思う」
「……変わった思想ですね~。ノルニグル族らしいっていうか~。いえ、決して馬鹿にしているわけじゃないんですよ~」
「ははっ、わかってる。……つまらない話をしたよ。エルゼを教会まで頼んでいい? 私は釣りの準備をしておくよ」
先を歩いていたナタリアは不自然に道を逸れて歩き出した。感傷だった。
男だった時の自分は傷だらけで、そのひとつひとつにストーリーがあった。晩年も酒の席で古傷の話をするのが定番で。思い出すたびに生きている、そう感じた。親も名前も生まれも人種も、なにもかも自分のことがわからない中で唯一の自分の生きた証だった。なくなった今それが自分の全てだった気さえしてくる。
「それじゃ、第一回ドブネズミどもボコボコにしちゃう会議をはじめまーす」
ナタリアの部屋、おおよそ簡単に入れはしないその一室に一同はいた。彼女が招き入れての事だった。
質素な部屋だった。無駄な物や嗜好品はない。ドレッサー、衣類をしまうタンスが二つ、五人掛けのテーブルセット、シングルベッド、本棚、暖炉。それだけしか置かれておらず、年頃の娘とは連想しにくい雰囲気だった。専門書で充実した本棚だけ見れば清貧とした学者のようですらあった。
壁の一面に今まで奪い取った資料がいくつかのグループに分けられ張り付けられていた。壁には直接メモがかかれ、資料の間には紐がくくられ関連付けられている。
その壁の前に差し棒を片手に立つナタリアはまるで講師のようであった。彼女の前で体育座りしていたダブルアルは知性を感じさせない動きで沸いていた。なんせ彼らは年頃の娘の部屋に招かれたのはじめての事だった。
「いえーい! 今日も可愛いよーナタリアちゃん」
「ナタリアちゃん最高! 愛してるー!」
彼女は二人を前にぶりっ子全開の可愛い声でテンション高めにピースサインを横に目元に持っていき笑顔を作った。
「ありがとー! きゃはっ」
「うおおおぉぉぉおお!!」
その地獄の様な光景を椅子に座り紅茶を手に見ていたアンナとユーリは互いに目配せをした。いつも以上にキマッている。アンナに至っては今朝のしんみりしたナタリアとの落差に精神的な病気を疑い始めた。
そもそもオーラブ騎士団員が部屋に入っている事を現実と認めたくなかった。オーラブ騎士団員は特殊な事情を除いて、公爵家のアナト川以南に来ることは禁止されている。
何でこんなことになったかというと、今朝方の釣りをしている時に船で対岸に近づきすぎ浅瀬に引っかかったところを彼らに助けられたことが原因で接触し話が弾み、連れてきたのだが。警備担当を怒鳴りつけてやりたい気分だった。なにしろ皆ナタリアのわがままに甘すぎる。やっぱりメリケンサック付きで一発殴っておけばよかった、とちらりと思った。
温室育ちのメイドは彼らと至近距離で会うとそのあまりの下劣さに気絶する。グレゴリーやユーリは紳士と呼ばれる希少種と呼べる存在だった。ナタリアにはメイドが五人ついているが三人には同席を遠慮してもらっていた。
アンナもグレゴリーはギリギリ大丈夫だったが、ダブルアルはきつかった。エルゼは奥歯に挟まった昼食の残りかすを気にしてそれどころではない。
「ナタリア様ぁ~、輩二人はまずいんじゃないですか~? 後でイエヴァ様に怒られますよ~?」
「私の親衛隊だし、原隊から離れているわけだし。大丈夫でしょ」
「もぉ~、知らないですよ~。いた場所に返してきた方がいいと思いますけど~」
「女ァ!! 目ぇ開いてんのか!! テメェなま言ってると引ん剝くぞォ、女ァ!」
「そこのだんまりしている乳なし!!てめぇも一緒にやっぞ!! こら!」
いかにも貴族らしい、メイドを下に見た言いざまだ。いや、それ以前の問題の様な気もするが、下劣すぎる野次にアンナは隠していたメリケンを握りしめた。
静観し口元をもごもごと動かしていたエルゼの動きも止まった。彼女も今朝方の特訓での興奮は未だ冷めていない。
「……それが騎士の発言か? 人の胸をどうこう言える顔面か? 私の胸よりも薄い財布を気にしたらどうだ?」
「ヒャーー!!! 言ったな???」
アンナ、エルゼは武器を抜き、ダブルアルはニヤニヤしながら立ち上がった。基本的に誰もが沸点が低く、気に入らない奴はとりあえず殴る蛮族スタイルだ。
呆れ顔でナタリアが止めに入ろうというタイミングでユーリが口を出す。
「前から思ってたがあんたのネーミングセンスは狂ってるしあんたの考える可愛いはカビが生えてる。キメてんのか?」
「はぁいぃ? ちょっと乗っただけでそこまで言われるのは心外なんですけど? そもクスリを追ってる人間がラリってるなんてセンスのない冗談だ。あんた父親もゲイなのか?」
「あ?」
ナタリアとユーリは睨み合う。彼女は図星を突かれるとカチンとくる節があった。釣りの後、朝食の前にやった薬がまだ抜け切っていないという事も大きい。彼女は少しラリっていた。
ナタリアの元に急遽集められたメンバー、相性がいいとは言えなかった。部屋の中は四つのチームに分かれ睨み合いを続けている。
動機は軽すぎるし争う意味はない。何人かはどうしてこうなったか疑問を持っていたが、とにかく誰かが動けば全員が本気で殴りあうことになるだろうピリピリとした雰囲気が部屋には漂っていた。
殴り合いをしたら気持ちいいんだろうな、と考えたナタリアが決意をしたあたりで部屋の扉がほんの少しだけ開かれた。静寂の空間にその音はあまりにも大きく響き。部屋中の視線は自然とそちらに集まった。わずかに開いた隙間、その腰の高さ辺りからひょこりと薄灰色のモップが出てきた。かと思えばモップは動き部屋に入り全身が現れる。モップと思われたものの正体はモップのような毛をした大型犬だった。
その犬は部屋の中の剣呑さなど知らんとばかりにゆっくりとナタリアに歩み寄ると、彼女の腹に自身の頭を擦り付け始めた。
茫然としながらもナタリアは慣れた手つきでしっかりと撫でる。反射だった。犬は寝転がって腹を見せると前足を漕ぐように動かして催促する。ドレットヘアーの様な特徴的な毛がカーペットのように広がる。
コモンドール、通称モップ犬などと呼ばれるハンガリー原産の犬だ。そこまではナタリアもすぐにわかったが疑問は尽きない。あまりにも唐突な登場に、もしかして幻覚かもしれない、と周りを見渡せば全員が目を点にして犬を見ていた。ナタリアはとりあえず安心して存分に犬の腹を撫でた。
半開きの部屋の扉が音を上げて全開に開かれる。満面の笑みでグレゴリーとセシルが入ってきた。一目でテンションが高いことがわかる。めんどくせぇ、と率直にナタリアは思った。
「どうですか? どうですか? ナターシャ様。かわいいでしょう?」
「癒されるっすか? 安らぐ感じっすか? 心が満たされる感じしますか?」
「う、うん?」
よくわからないままナタリアは犬の腹を撫で続けた。犬を飼っていた習慣ともいえる本能的な動作だった。ハイテンションな二人はイエーイとハイタッチをかますとコソコソと話し始めた。
「んふー、よかったですね、グレゴリー卿。大成功ー!って感じじゃないですか?」
「いやー、セシルのアドバイス通りですよ。ちょっと値は張りましたけど、めっちゃ撫でてるじゃないっすか。イイ感じっすよ」
二人を部屋の全員が茫然と見ていた。剣呑な雰囲気は消え去り、ダブルアルは興味津々に犬の毛を触り尻尾を引っ張り、メイド組も剣を収め何事もなかったように座りなおした。
ユーリは地獄のように冷めた目で侵入者を眺めたが、二人は揃うと無敵だから意味がなかった。
「なんと! その犬はナターシャ様にプレゼントするっす! いえーい!」
「きゃー! グレゴリー卿ったら太っ腹ー!」
「えっ……。ありがとう? (犬を? なんで? 俺が世話すんの? めっちゃ被毛の手入れ大変そうなんだけど……。……あっ! これもしかしてセラピードッグか?)」
犬はダブルアルに弄り回されても嫌な顔せず耐えている。コモンドールは護畜犬、愛嬌のあるシャギーコートだって狼の牙などから身を守るものだ。体は強く、警戒心の強い大型犬。自ら知らない人間に触られに行ったりしない。媚びることない番犬。ナタリアの知るコモンドールと言えばそうだった。
この世界にアニマルセラピーなどの概念があるのかは知らないが、何かしらの訓練は受けていそうだと、ナタリアは思った。
飼っていいのか、ナタリアはメイド二人を見た。結局のところ世話をするのは使用人になると思われたからだ。アンナは肩をすくめて答える。そういったことの決定権を持っているのはターニャだ。五人いるメイドの中で一番戦闘力がないが一番強く怖いのが彼女だ。ナタリアは迷ったが、セシルに言われては断れなかった。
「……ありがとう、責任もって飼わせてもらうよ。……セシル様もわざわざありがとうございます。きっとグレッグがなにか無理を言ったのでしょう? 付き合わせてしまい申し訳ない」
「全然良いんですよ! そんなに改まらないでください」
「そうっすよ、共に旅した仲じゃないっすか」
犬を撫でまわしていたナタリアの手が止まった。二人は揃うとまるで兄妹のようで、今にも肩を組みそうなほどに仲が良い。メイド達が二人が手をつないでいたという噂をわざわざ教えに来たのをナタリアは思い出した。彼女たちはどんなリアクションを期待したのだろうか。……そして自分はどんなリアクションをしたのか。
気にしていたわけではない。彼らがどうあろうと知ったことじゃない。ただ立場の違いを知らない暢気なグレゴリーがもどかしかった。
前髪をガシガシと掻いてナタリアはグレゴリーを見た。その目で見られると不思議とグレゴリーは責められているような気分になる。
「あんたねぇ、セシル様は聖都で叙階された司祭様なのを知ってて言ってるの? 本来ならそう安々と口も利けない、今だってこの部屋の中で一番偉いお方よ」
「でぇえええ!!?」
「あれ、グレゴリー卿には言っていませんでしたっけ? これでも四十年以上も修道士してますからねぇ」
いつも通りのほのぼのとした様子で話すセシルだったが、驚きのあまりアンナとユーリは紅茶をこぼし、ダブルアルの口からは何かがピュッと出た。グレゴリーとエルゼはいまいちよくわからなかった。
いつもより硬い表情でナタリアはセシルは見た。グレゴリーも初めて知る表情だ。
「ご足労いただき申し訳ないのですが、こちらにはおもてなしをする準備ができていないのです。数々の非礼、なんとお詫びすればいいか……」
「構いませんよ。私も約束もなしに来ちゃいましたから。また折を見て伺いますよ。その時はいっぱいお話しましょうね!!」
「私でよろしければいつでもお相手いたします。お待ちしていますね」
ナタリアはどこか事務的に淡々と告げると丁寧にセシルの事を見送った。見た目は若くとも世代が上かつ立場のある相手には苦手であっても敬意をもって接する。媚びる、ともいう。
逆にメイド組など若年層に対し冷たく接したところでナタリアの男性的良心は痛まない。年を取ってから若すぎる娘には女性的な魅力をあまり感じなくなり、残酷なほどに冷たくなることができた。女は四十を過ぎてからと本気で思っている。だからイエヴァには下心から少し紳士的になる。
グレゴリーはセシルがめちゃくちゃに偉い、という事は理解できた。だがそれで対応を変えるナタリアに違和感を抱き、丁寧すぎる彼女には線引きを感じた。
セシルがナタリアは聖職者が嫌いと言っていたことを思い出したが、それはあまりにも露骨だった。思わず「ちょっとあの言い方は冷たいんじゃないですか?」とグレゴリーは言った。それに対してナタリアはそっぽを向いたまま「……それよりもあんたは他に心配することがあるんじゃない? こわーい先輩が二人も来てるんだから」と答えた。
四つん這いになって犬と同じ目線でワンワン言ってたダブルアルが、ナタリアの一言で思い出したようにグレゴリーに絡みだした。
「昨日ぶりだねっ! 会いたかったよっ! グレゴリーちゃん」
「来ちゃった!」
「うわっ」
心の底から疲れた顔でグレゴリーはユーリを見た。
以前に酒場で彼らの処遇の話をしたことがある。あまりに個性が強すぎる部下八人を制御しきれないとユーリの独断専行でそれぞれに休暇が出されていた。騎士も貴族だ。自分の領地があり、領民がいる。時間があればやることはいくらでもある。
そのはずだが、なぜか二人はいつも公爵家にいた。酒場では殴り合いにまで発展しそうなほど議論をしたことだっただけに、彼らが公爵家の川辺でボーっとしているのを見るたびに釈然としないものがグレゴリーの中にはあった。
「…………ユーリ?」
「言いたいことはわかる。だが俺は全員に手紙を出したぞ、連絡を入れるまで各自領地の仕事にあてよってな。現にビーとフレッド、それからダニエル以外からは快諾が来てる」
「すいませんねぇ! 副隊長!!!! 俺の領地が狭すぎるばっかりに!! なんせ半日あれば全部把握できるんですから!!」
「なんなら住民タメ口聞いてくるし。爺と婆と畑しかないんですけど???? そも領地でなんかすることあんの???」
「あー……」
「まぁね?? 最年少でオーラブ騎士団入りする稀代の天才様で?? 実家が大貴族の隊長殿には??? わからん話でしょうなぁ??」
「許せんよなぁ、俺らより先に出世するし……。よし! やるべ!!」
ダブルアルがいきり立った。昨日の痛みを思い出してグレゴリーが立ち竦む。
威嚇しているダブルアルにナタリアは「お座り」を命じた。コモンドールとダブルアルはお座りしてナタリアを見る。
「まぁまぁ、落ち着いて。ビーとフレッドを呼んだのは私よ。……二人には話を聞いて乗るかどうかは決めてほしい。仮に乗らないとしても二人の立場は保証する」
「へぇ、イイ誘い文句、しょんべんちびっちゃいそう」
「イイ女は誘い方すら魅力的だ。見習えよメイド共」
「ブフッ」
不服そうなメイドにナタリアは噴き出した。おじいちゃんに女子力を学ぶティーンの娘はあまりにも哀れすぎる。コホン、と咳払いをして彼女は続けた。
「私たちが追ってるのはパーチェムとその周辺組織なんだ。要はドブさらいとネズミ駆除ね」
「ほーん、壁の資料はそうゆう事ね。パーチェムなんて聞いたことないしなぁ。……やる気はでねぇーな。なぁビー」
「あん? 勝手に俺まで降ろすんじゃねぇーよ。……ビビってんのか? ビビってんだろ!! てめぇー本当にあのブスと結婚してから変わったよなぁーー!! 妹もブスだし悲惨だな!」
「おっ??? おっ???? おっ????????」
(これで既婚者なのか……。ダメだ、笑うな)
立ち上がり喧嘩を始めそうな二人にまたナタリアは「お座り」を命じた。興奮収まらず膝立ちからのスパーリングを始めそうな二人の間に体を入れて止めると両手でそれぞれの頭を犬にするように撫で回して落ち着かせた。両手の塞がったナタリアを犬が寂しそうに見ていた。
「とにかく、一番大事なのはボスの私を尊敬して、隊長と副隊長をイジメない事!」
「でもナタリア、あいつら生意気なんだよ、俺達の方が八つも年上なのに」
「そうそう、俺達の実家が商家で貴族じゃないから馬鹿にしてるんだ」
「(二十九歳なのか……ダメだ、笑うな。優しい顔を作れ)……だからって同じ部隊なんだから仲良くしないとダメでしょ?」
「……」
「仲良くできる?」
「うん……」
「我慢できる?」
「我慢する……」
「よしよしよしよし」
ユーリとテオドールは狂犬を手懐けたナタリアに敬意を抱き、メイドはよくそんな汚い物触れるな、と気味悪がった。ダブルアルはユーリとグレゴリーに勝ち誇った。
ナタリアは一同を見渡すとパンと手を打った。
「よし、これで私たちは仲良しチームだ。とっておきの北領クリーン作戦を話そう。三週間だ、三週間で北領に大きな変化を起こす!」
↓本編と関係ない話↓
いつも読んでいただきありがとうございます。読んでくださる皆さまのおかげでモチベーションは高いのですが時間があまりとれず、プロットはあり終わりまでの道筋はできているにもかかわらず、遅々として話が進まないのが現状です。現状どれだけ進んでいるかというと、、、
ここまで進むのにまさか、四年かかってしまいましたが突然死しない限り必ず完結させます。更新の遅い北領のナターシャではありますが、穏やかな気持ちで待っていただければと思います。よろしくお願いします。
感想もありがとうございます。いつも見ており非常に励みになっております。時間ができたら一つ一つに返信をしたいと思います。少々お待ちください。