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北領のナターシャ  作者: Peace
本物の悪
21/22

過剰摂取







 男達がいた。十代から三十代の精悍な顔つきの男達だ。うめき声を漏らしながら腕立ての姿勢をとっていた。とっくに限界を超えた腕は馬鹿のように震えている。

 皆揃いの青い坊主頭にズボン一枚の半裸姿。一様にはち切れんばかりの筋肉を纏った上半身を晒し、古傷だらけの肉体はさらに泥にまみれていた。雲一つないが、それでも肌寒いなか汗をダラダラと流し息を弾ませ死んだ目をしながら。昨夜から与えられる続けている肉体的苦痛と精神的屈辱に歯を食いしばり時間が過ぎるのを敬虔なる信者のように祈っていた。



 彼らの理不尽の権化は若い騎士の姿をしていた。奇麗な衣服を身にまとう貴族然とした彼を前にすれば苦痛に震えている男たちはドブネズミだ。

 騎士――グレゴリーはアナト川を眺めていた。対岸には公爵家のお屋敷がいつもと同じく壮大な佇まいをしている。

メイド達が船から物資を下ろしていた。彼女たちは若き騎士見習いの半裸に頬を染めでもなく、黙々と作業を進める。どこか嫌忌しているような故郷と違う反応に寂しさを覚えた。

 グレゴリーはため息をつくと、男たちの中でも一番の年長の背中にどかっと腰を下ろした。百キロを優に超えるグレゴリーの体重に男からおふっと声が漏れ、彼の咎める様な鋭い眼光が男を射抜いた。



「なんか言ったか?」

「いいえ! 何も言っていません!」

「声が小せぇよ、飯食ったのか」

「すみませんでした!!!!! ご飯は頂きました!!!!」

「でけぇよ、蝉かお前は。殺すぞ」



 えぐい音をたてて拳が男の後頭部に落ちた。目ん玉が飛び出る様な衝撃に半分意識を飛ばしながら「ありがとうございます!!」と男は叫んだ。他の男たちは理不尽の刃が自分に向かないよう空気に徹している。いつも通りグレゴリーは不機嫌に見えた。男たちにとってこれほど怖いものもない。



「俺は心配なんだよ。上司が街で無茶をしていないかさぁ。俺が見てないとすーぐ無茶する癖に俺は当直だから外出できない。それにさっき運悪く会ったダブルアルには殺されかける」

「はい!!」

「椅子が喋んじゃねぇーよ、死ね」

「……!!!!」

「お前たちはこの体たらくだしよぉ。腕立てくらい無限にやれ。

……俺はお前に言ったよなぁ。しばらく忙しくなるからお前がしっかり面倒見てやれってよ? だってのにこの軟弱具合はどういう了見だ? あ?」

「……!!」

「だんまりか? 馬鹿にしてんのか?」



 ゴツンとまた鈍い音が川辺に響く。理不尽だった。だが日常だった。いつもは椅子にされている男がやっていることをより強いグレゴリーがやっているだけだ。他に比べれば彼の教育は優しい方ですらあった。

 男の刈り上げられた頭部をグレゴリーが撫でた。髪を伸ばせるのは一部の特別な人間だけだ。殴られるよりよっぽど堪えた。



「オーラブ騎士団ってのはなんだ?」

「北領で!!! この世で!! 一番強い男たちに贈られる称号です!!!!」

「その従騎士のお前らがそんなフニャチン晒してたら俺達の立場がねぇだろーが!!!」

「はい!!!」

「いいか、お前たちに限界はないんだ! わかったら辛そうな演技を今すぐ辞めろ!! ……根性つけてやる。3人1グループになって3グループ作れ、それぞれ空挺騎士団の騎士を襲ってサーコートとズボン奪ってこい。期限は二日後の教会の日没後二回目の鐘までだ」

「はい!!!」

「アダムスって奴を見つけたら乳首をちぎってやれ。追加で褒美をやる」

「はい!!!」

「よし! 訓示終わり解散」



 約束の時間が近づいていた。グレゴリーはゆっくりと立ち上がるとアナト川にかかる橋を目指して歩き出した。大半は暇つぶし目的だったが、一応は先の魔の森への行軍で殉職した元小隊長アレクサンドロ、その従騎士だった者を何人かグレゴリーは引き取っており、染まっているか確認しにきたという目的はある。

 心配はしてなかった。シャバに戻れる機会を蹴ってオーラブ騎士団の従騎士であり続けたいと望んだマゾヒストの変態どもがここで挫けるはずがない。



 従騎士は誰もが餓狼の様な瞳をしている。オーラブ騎士団の掟には"騎士団員を殺害もしくは戦闘不能にした者は次の騎士団員となれる"という一文があり、従騎士はしごきを受けながら誰もが虎視眈々と騎士団員の首を狙っている。一見、団の風紀を脅かすような狂った掟であるが実際に従騎士に殺される騎士などそういないのが現実だった。

 ちなみに空挺騎士団のアダムスを狙ったのは完全に私怨だった。ナタリアに嬉しそうに空挺騎士団の紐を自慢されて腹が立ったからだ。








 アナト川を公爵家側へ渡り、川沿いを東へ進む。しばらくすると道はレンガ作りの参道となりこじんまりとした一棟の建物に着く。緑に囲まれたそこは公爵家の中に唯一存在する神の家だ。

 教会というものに初めて近づいたグレゴリーはその佇まいに見惚れた。宗教関係の建物らしく、独特の造形をしている教会と庭園は圧してくるような独特な神聖さを帯びている。地母神教徒でない彼も神聖な空気を前にしばし二の足を踏んだ。

 庭園にある植物の手入れでしゃがんでいたため気づかなかったのだろう、修道士が一人ひょっこりと視界に現れた。正装をしてきたグレゴリーが片手を挙げ挨拶するより早く、彼女は汚物を見る様な目で一瞥すると教会に逃げ込んだ。教会内がにわかに騒がしくなる。

 女にそんな態度を取られる事など滅多にないグレゴリーが茫然としていると、くそデカい魔女帽子をかぶった童女が入れ替わるように出てきた。

 最北の都市よりナタリアの護衛として北領に共に帰ってきたメンバーの一人。ノームと人間のハーフのセシルだ。ハーフとはいえノームの血は濃いらしく身長は一メートル程。高齢らしいが容姿は完全に10代のそれだった。

 久しぶりに会ったその人物はグレゴリーの傍まで来て彼を見上げると、腰に手を当てふんぞり返り唇を突き出し「歩きましょうか」と言った。

 セシルの不機嫌に心当たりのないグレゴリーが暢気に「お久しぶりっす」と話しかけるとジトっとした目で見つめ、やがて彼女はわざとらしくため息をつき肩を落とした。



「まったく、あなたは不誠実な人です。何度もお会いしに行ったのに会ってくださらないなんて。ナタリア様はあれから幾度となく私を訪ねていらっしゃいましたよ」

「誤解っすよ。忙しかったんすよ」



 後ろで手を組んで不機嫌を作って歩くセシルがちらりと振り返ると意地が悪そうな表情から一転「ふふっ、冗談ですよ。男爵の叙任及び小隊長ご就任おめでとうございます。大出世ですね」と笑った。

 ナタリアがセシルを強く輝く小さな光と言っていたのを彼はふと思い出していた。彼女からは砂埃と太陽の香りがする、とも言っていたが、柔らかく優しいイメージは彼女によく似合いそうだと思った。



「先の魔の森からの撤退、お疲れ様した。そして守っていただき、ありがとうございました。……それが言いたかったのに、会ってくださらないんですもん」



 彼女を前に不意にグレゴリーの中で張り詰めていたものが緩んだ。とにかくあの頃から今まで精神を揺さぶられる出来事が彼にはありすぎた。ナタリアの周りが忙しなく動き続け、新しく小隊長に任命された緊張から麻痺していたが、おやっさん(アレクサンドロ)の死から立ち直れていない自覚もあった。

 一日ナタリアから離れ、セシルの笑顔で今まで溜まっていたものがあふれ出した。麻痺していた感性が元に戻ったともいえるかもしれない。



「忙しかったんす。……それに感謝はいらないっす、おれの仕事っすから」



 動揺がつまらない卑屈となって言葉に表れた。いつもならしない嫌な言い方だったと言った後に気が付いた。バツの悪い彼にきょとんとした顔でセシルが話しかける。



「私がグレゴリー卿の傷を治したら、卿は感謝してくださるでしょう? 例えその人には当たり前の事でも、善い行いには感謝を送るんです。それって普通で、でもとても特別なことなのですよ」



 感情が濁流となってグレゴリーの中に渦巻いた。当たり前のことを当たり前に、そんな普遍的な善行を肯定されて。でもグレゴリーはそんな当たり前でナタリアを説得することができないことが不甲斐なくて。

 どうしようもなく寂しくなった。そんなときが稀にある、初めての事ではない。じっと耐えるしか彼は対処方をしらない。そういったことに敏感なセシルはすぐに気づいた。



「……なにかありましたか」

「ないっす。なにも」

「嘘ですよ。地母神様には嘘は通じないのです、信徒である私にもあなたの迷いが伝わります」

「……」



 沈黙を貫くグレゴリーにセシルはため息をつきたくなった。



 男。特に戦いを生業にしている男は痛い事、辛い事を我慢し、死を恐れない勇気こそ美徳としている。まったく馬鹿げた考えだとセシルは思っていた。

 ほんの40年前、本当にそんな時代があった。修道士として参戦したセシルは未だにあの地獄を夢に見る。人がゴミのように死ぬ災害、最も人の命が軽かった戦争――人魔戦争。

 過去を振り返った貴族は名誉の戦いだったという。……あそこには名誉も大儀も正義も悪も悪魔も……超越者(地母神)もなかった。ただ死だけがあった。



 セシルは人命軽視は先代が残した悪しき風習だと嫌悪していた。

 だけど男の子は馬鹿だから、それを信じて疑わない。あの頃の真似事をしてる若い貴族が魔物に手痛い傷を負い、泣きながら治療を受けているのを見るたびに言いようのないもどかしさに駆られる。

 ただオーラブ騎士団なんてのは一等の見栄っ張りな馬鹿の集まりだから、指摘してもきっと追い詰めるだけだった。

 痛いのは痛い、死ぬのは怖い。そんな当たり前なことを気づかないぷりをして戦い続ける。止めることはできない。それは人生経験から知っていた。彼らは意地を張り、身も心も傷つきながら戦い続ける。

 セシルは黙ってグレゴリーの手を握った。ごつい彼の手は小さい傷が無数に刻まれ、真新しい傷が掌に刻まれている。それを治しながら彼の手を観察した。人生の苦労は手に表れる。指の節は異様に膨らみ20代も前半の手には見えなかった。



 少し遠くを歩くメイドが二人を見てきゃあきゃあと姦しく騒いぎながら通り過ぎて行った。

 公爵家は本当に明るくなったとセシルは思った。大抵、話題の中心はナタリアだ。あの騎士並みに意地っ張りの少女がここまでの変化を与えるなんて会った時には考えもしなかった。

 グレゴリーがメイド達に気づいたのか恥ずかしそうにセシルから離れる。



「セシルって体温高いんですね。子供みたいっす」

「もう! 怒りますよ!」



 ポカッ、と腰辺りを軽く叩いてセシルは許した。軽口がかわいい照れ隠しなんて彼女はわかっている。

 セシルが戦う男たちの軽率で明るい態度がいつ死ぬかわからない恐怖への裏返しだと知ったのはいつだったか。欲望に忠実なのもそこに起因しているとわかっている。だから彼らの素行は悪い。許される、という訳ではないが。そのことを理解し、付き合う事ができる器が彼女にはあった。残念ながらそれを理解できる修道士はなかなかいない。庭仕事をしていた新入りもオーラブ騎士団には嫌悪感を示していた。傷を作った時にしか来ないと愚痴っていたが、彼女達だって魔物が出た時にしか彼らを頼らない。



「あの、そろそろ……」

「……私達修道士は体にできた傷を治すことができますが、心の傷は治すことができません。できるのはその手助けくらいなんです」

「……」

「それに私はグレゴリー卿にとってお婆ちゃんくらいの歳なんですよ? ……頼ってくれませんか?」

「……話を聞いてもらえますか」

「少し座りましょう」



 歩道から植え込みまでの芝生にセシルは腰を下ろした。グレゴリーを見上げて隣を手でトントンと叩いて座るように促すと「いい天気ですねー」と大きく伸びをした。できるだけ自然体でいることを心掛けていた。

 セシルは魔の森でグレゴリーの小隊長が亡くなった事は知っていた。北領の西端、海岸沿いの街リャダモーレン出身の彼が毛並みの違う北領で不慣れな生活を送っていることも、先輩をまとめる小隊長という立場に戸惑いを覚えていることも知っている。

 だからいつもと同じように振る舞う。大きく変化した環境の中で変わらない存在というのはありがたいものだと知っていたからだ。

 彼女の気遣いを知らずか、隣に座り込んだグレゴリーはぽつりと呟いた。



「ナタリアの事なんです」

「はい」

「彼女は強く優しい聡明な女性なのですが、ときどきついていけないほどの凶暴性を発揮する。……口に出すのも恐ろしい。そんな凶暴性です」

「……なるほど」



 セシルの頭に初めてナタリアと出会った時の事が浮かんだ。北領最北の都市スコピテラで宿からパーカーをすっぽりとかぶりグレゴリーに促されて出てきた彼女を見た時のことだ。

 第一印象は空っぽ、だった。

 虚ろな瞳に流れるままに身を任せる彼女は破滅すら受け入れそうな雰囲気を漂わせ、絶望と諦観に包まれていた。健気に気丈を振る舞い歩く姿には同情すら誘われた。



 そんな印象は馬車の中で彼女と話して一転した。見識の深さとユーモアが混ざった喋りに豪快に笑う表情豊かな彼女は、一見健常な姿のようで。だからこそ深夜うなされ誰かの名前を叫びながら謝罪の言葉を呟くナタリアを偶然見た時の衝撃は大きかった。彼女の持つ強靭な一本の芯がひどく揺すぶられていることが痛いほどわかった。

 突発的にグレゴリーと戦い、処置を間違えれば後遺症を残しかねない怪我を負い。騎士ですら泣き叫ぶ治療を受けながら嗤う彼女の迫力は人魔大戦の全盛の頃の戦士のそれだ。思わず呑まれたのは思い返せば恥ずかしいことだった。



「北領に帰り数日後、落ち着いたころにナタリアは私に会いに来ました。見違えました、その時すでに彼女は燃える強大な炎だった。彼女は啓示を受けた信徒のように一つの目標、あるいは答えを手に入れていたんです。

それが地母神様の教えでないことは残念でしたが、彼女が健全に生きることができるのならばそれでも良いと思っていました」

「……」

「しかし彼女は誤った選択をしてしまった」



 深い影がセシルの心に落ちた。

 ナタリアは間違いなく迷える存在で、セシルには彼女を正しく導く義務があり。彼女に地母神の教えを説く機会があった。



「彼女の周りの環境はすべてが変わってしまった。その中で変わらなかった本質とも呼べる何か。それを彼女は信仰したのではないでしょうか」

「あんなものが!! あんな、暴力が……彼女の本質のわけがないっす……」

「……グレゴリー卿は、彼女の事をどれだけご存知ですか? ノルニグル族の事を、彼らの生活をどれほど知っているのですか?」

「それは……」



 セシルはグレゴリーの挙動に注意しながら続けた。



「ナタリアは村を焼かれ家族を殺されました。そういった災害に巻き込まれ生き残った人間が"なぜ自分だけ生き残ったのか"と自分を責めることが往々にしてあります。

それだけではなく、心に深刻な傷を負った人間がその後も精神的な苦痛に悩まされることもあります。そうなってしまうと常に精神が昂ったり、逆に何も感じなくなったり不眠になったりという症状が続き。ひどいときには、その時の記憶を突然思い出したり夢に見たりする、なんて事例もあるんです」

「……ナタリアもそうなんすか?」

「わかりません。ただ私は彼女が悪夢にうなされ飛び起きるのを見たことがあります。

……ここで大切なのは、あなたが悪と断じる凶行がナタリアにとって心の支えになっている可能性があるという事です。彼女がどんな酷いことをしたのかはわかりませんが、グレゴリー卿がそこまでおっしゃるのならきっと非道なことなのでしょう。それはよくわかります。

だからといって不安定な彼女のそれを否定することは彼女の拠り所を否定することに。彼女を追い詰めることに繋がる可能性があります」

「……」



 胡坐をかいていたグレゴリーが体育座りに変わった。膝の上で腕を組んでその上に頭を置くと大きく大きくため息をつく。



「しちゃったんすけど。否定」

「……あー。彼女大丈夫でした?」

「怒られて、優しく諭されて。……それから少し譲歩してくれたっす」

「……強いなぁ、ナタリア様は」



 セシルにはわかっていた。ナタリアは誰に対しても分け隔てなく接しているようで、すべてを拒絶している。そんな彼女が特別視しているグレゴリーからの否定はさぞかし効いたことだろうに。



「ガキっすね、俺は。自分の事しか考えてない。ナタリアの事、そんな風に考えたことなかったっすもん」

「でも私が知る限りナタリア様が一番心を開いているのはグレゴリー卿ですよ。間違いなく」

「おれよりセシルの方がずっと彼女の支えになるっすよ」

「……私じゃダメだったみたいです」



 セシルは悔しそうに笑った。見てしまえば何も言えなくなるような彼女の努力が透けて見える顔でグレゴリーはそれ以上何も言えなかった。



「彼女は宗教や聖職者を憎んでいるみたいなんです。個人としてのセシルは受け入れても、修道士としてのセシルは受け入れてもらえませんでした」

「……」

「とにかく親しい人を亡くした彼女に必要なのは、楽しい事やポジティブなもの。そして何よりも……愛です!! その中に身を置くことで彼女は癒され凶暴性も薄れるのではないでしょうか」

「愛、っすか」

「即効性のある方法ではありません。グレゴリー卿には彼女を否定せず、それでいて彼女の間違った行いを深い愛で正さなければなりません。もちろん私もできる限り協力しますが、微々たるものでしょう」



 セシルの含みのある愛という言葉にグレゴリーは照れもなにも反応を示さなかった。グレゴリーがナタリアの特別な人になればいい、とセシルは遠回しに言ったつもりであったが、どうもうまく伝わらなかったらしい。色恋に疎い男でもないことは知っている。彼は彼でまた歪みを抱えていることがセシルにはわかった。

 ナタリアとグレゴリー。互いが互いに特別である。それはおそらく間違いなく、かといって恋愛感情ではないらしい。



「とりあえず今できる対処法を一個知ってますよ。ちょっとお金が必要ですがいかがですか?」



 セシルの中で湧き出したもどかしい感情を青空を見上げて飲み込むと修道士らしい笑顔で提案をした。







 夕日が公爵家を囲む城壁の影に消えていく。高い城壁に囲まれた公爵家の日没は早い。

 ナタリアに与えられた空白の時間だった。日中暴れまわった彼女にはこれから公爵家重役との食事、糞のようなパワハラを受ける執事長への報告、そして虚無の時間な公爵が眠くなるまでの話し相手。本来の彼女に求められた仕事が待っている。

 憂鬱になり始めたナタリアは自室の窓の縁に腰を掛けた。三階に設けられた彼女の部屋からは夜に向けて準備を進めるメイド達の忙しない姿がよく見える。彼女は公爵家に段々と灯りが灯る姿を無機質な瞳で見つめた。



 ナタリアの周りには衛兵詰所から奪った資料が雑に置かれていた。過去で北領で起きた事件の新聞の切り抜きや報告書だ。正確性に不安はあったが、過去の情報を得られるのは貴重だった。

 彼女はその中から弾いていた二枚の資料を取り出し眺める。



 一枚は十年以上前の新聞の切り抜き。リャダモーレンにおける名家カチモフ家の事件だ。当時、オーラブ騎士団の大隊長だったニコライ・カチモフの駐屯する都市へ向かう途中の妻ユリアナと第二子グレゴリーの乗る馬車が魔獣に襲われたという内容だ。

 移動距離が短く警護の数が少なかったことが災いし一同は警護兵一名、ユリアナ、グレゴリーを残し全滅。生き残った三人の内、警護兵は北へ一キロの位置で死体で発見された。さらに北へ二百メートルの位置でユリアナを背負ったグレゴリーをニコライ卿が発見した。発見時ユリアナはすでに死亡しており、グレゴリーも重症を負っていた。



 もう一枚ある。今度は北領内、四年前の衛兵による報告書。オルロフ侯爵家に起きた事件だ。

 夜明け前頃、オルロフ侯爵家に強盗が侵入。二十人の使用人と子息三男四女を含む全員が惨殺され、家には火をつけられた。唯一生き残った末女アナスタシアは発見時、全身に軽度のやけどを負い、左目上には深い裂傷を負っていた。

 オルロフ家は反王家の北領独立派を政治的立場とし公的な場で強硬に主張し続けたため、反対勢力に見せしめとして襲撃された可能性が高く調査が必要。そう締めくくられた報告書の上には大きくバツをつけられ不許可、と書かれていた。



 肌寒さを感じてナタリアは視線を資料から外した。日は完全に落ちていた。北領は厳寒期を超えたが、日が落ちると一気に寒くなる。彼女は窓辺から離れると肩掛けを羽織り暖炉に近づくと、先ほどの二枚の資料を火にくべた。

 資料を独占し、二人より先に見つけることができたのは運が良い。変に刺激をしたくはなかった。つまらない。つまらない話だった。

 暖炉から離れナタリアは椅子に深く座った。右手が顎の辺りを擦るように動く。グレゴリーの事を考えていた。衝突した時、彼はナタリアに理想を持っていた。それが今になって嫌な説得感を与えていた。



(誰かの猿真似はエカテリーナだけで十分だぜ。坊や)



 後頭部の辺りにチリチリとした感覚があった。いつのまにか顎を擦っていたはずの右手、その親指の爪を噛んでいることに気づき、ゆっくりと口から離した。

 エカテリーナの面影を、自分とは性別も違う誰かを演じる。そのストレスを自覚できるほどに感じていた。ここにきてからずっと睡眠は浅く、嫌な夢ばかり見てしまっている。何十年と治っていた持病が再発していた。頼れる薬はない。



 全てを嘘で固め偽りだらけでいると何が本当か、わからなくなる。自分との境界が曖昧になっていき、次第に自分が無くなる。もう、自分がどんな顔をしていたかはっきりと思い出せない。







 ナタリアは紙の包みを取り出した。いくつのも視線を掻い潜り隠し持ち帰った一つの成果だった。

 貴重品を扱うように丁寧な手つきでゆっくりと包みを解き、現れた十グラムに満たない薄茶色の乾いた葉っぱを眺めた。感嘆を漏らすと、小ぶりな鼻の下に持っていき匂いを楽しんだ。バージニアブレンドによく似た香りは、それだけで絶頂ものの煙草葉だ。

 ここまで高品質な品を集めることは、彼女が想像した以上の苦労があった。なにしろ混ざり物や低品質な品が溢れかえりすぎていた。衛兵詰所の所長と交渉ができるようになって見えて来た品だった。



 ナタリアは煙草葉に混じっていた茶色いトリュフチョコの様な塊を手に取った。大本命。大麻の一種であるハシシだ。

手に入れたのが偶然なら誰の目にもバレずに隠しきれたのは奇跡だった。これを隠すためなら穴に突っ込む覚悟が彼女にはあった。

 前世、と呼べばいいのか。男だった時。これは欠かせないものだった。精通より先に覚えたし、飯は食わなくとも煙は吸った。自販機でジュースを買うような気軽さで嗜んだ。



 ナタリアはハシシを掌で転がして、ぼんやりと暖炉の温かいオレンジを見つめた。ぱちぱちと小気味良い音と踊る炎。本質は同じくせに、どうしてそうも穏やかであれるのか不思議だった。もう一度窓を見た。メイド達の笑い声の中に自分の名前が当たり前のように聞こえてくる。みんな“ナタリア”が好きなのだ。不快感が胸をよぎった。……煙草に火をつけた。



 部屋を揺らめく紫煙が、薄くなり天井付近でやがて消えるように。未来への不安も、不快感も、嘘のように消えた。すべてがどうでもよくなった。ただ多幸感と全能感が彼女を支配した。

 結局すべてが敵で、誰も信じたりはできない。そんな考えだけが残った。











ダメ。ゼッタイ。

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