渦中
豪華絢爛。一言で言えばそんな部屋だった。最高級の調度品、テーブルももちろんその上に乗っている料理も最高と言える。食事係として部屋に控えるメイドも一流だ。
古典演劇の一場面の様な部屋であるからこそ、主役となる二人の人間は浮いていた。
一人は少年。椅子から少し浮いた足、細い体と痩せた頬、顔色も悪い。不健康な子供だった。
一人は大人になりつつある少女。特徴的な黒髪黒目。蠱惑的な美貌に躰、不思議な雰囲気を纏っていた。
少年が話しかけ、少女が答えた。二人の中で笑いが起きて穏やかな空気が流れる。少女が手に持った山盛りのスプーンが口と皿の間を高速で三往復する。そして、何事もなかったようにまた笑う。食べる、というより吸い込む。噛むというよりは飲む、と言った感じだった。
突っ込んでいいものか少年は迷った。
美味しそうに幸せそうに口いっぱいに食事を頬ばる彼女の周りにはアホのように皿が重なり積まれていた。貴族には適量より多くの食事が出され残すことが通例となっているにも関わらずだ。
部屋に控えていたのは一流のメイドだったがおかわりを要求する人間や小さな口に嘘のように食事が吸い込まれるのを見るのは初めてだった。おかわりにうまく対応できなかったのは彼女たちの失態だ。
どうにかしろ、というメイド達の無言の圧力に促されて少年は言った。
「健啖家ですね、ナタリア」
「……恥ずかしい話ですが、食欲だけは我慢できないんです」
小さな口をきゅっと閉じて、顔を伏せ気味に上目遣いで「おかしい、ですか?」と恐る恐るといった様子で尋ねる彼女にウィルは言葉に詰まった。
照れながら「いえ、その、……たくさん食べる女性は素敵だと思いますよ」と言えば、「よかったぁ!」と満面の笑みのナタリアが放つ前々から考え温めていた必殺のカウンターが決まった。ウィルは呼吸をするので精いっぱいだ。
様子に見ていたメイド達はかわいいと思いながらも"やってるな"と共通の感想を持った。
「外で貴族の方と食事をするのは初めてだったんです。幻滅されるんじゃないかと思いました」
「テーブルマナーなんてものは、昔から中央と西領の一部の貴族がありがたがっていたものです。北領には最近急激に広まったものらしいですよ? 気にすることはない……と言いたいところですが。ナタリアがいつも食事されている方を考えるとそうも言えないですね」
「叔父様は優しくしてくれるのですが……。使用人というものはどうしてあぁ口うるさいのでしょう」
「わかります。痛いほど」
リューリク家のメイド達が咳ばらいをした。彼女たちから見えないようにウィルは悪戯小僧のように舌を出し、ナタリアも微笑みで返した。
ウィルに出会った頃の大人ぶろうとした姿は消えていた。言葉使いこそ恭しいが反応は年相応のそれだ。この一週間で何かがあったのか、一度懐に入ってしまうとこうなのかはわからない。だが、随分と人懐っこい質のようではあった。
なんとなく犬を連想させる少年で、ナタリアは犬がダメだった。意味の分からない拉致でこの世界に来るまでは3匹の馬鹿犬を飼っていた。どこで拾ったかも覚えていない犬だが、人の足に腰を振るわ、自分の尻尾を追いかけるわ、目の焦点もあってないような馬鹿犬で、だからこそ可愛かった。
呼べば涎を垂らし舌をべろんべろんに出して向かってくる三匹を思って、ナタリアは強烈な郷愁に駆られた。最近は、何でもない光景にそんな気持ちになることが増えている。理由は彼女にもわからない。
じっと一点を見つめているナタリアに、ウィルから控えめに声がかかった。彼女が見れば、テーブルの料理は奇麗に片づけられ代わりに紅茶が置かれ。正面には心配そうにこちらを覗き込むウィルがいた。どうにか彼女は笑顔を取り繕った。
「すみません。少し考え事を」
「……そろそろ、本題に入りましょうか」
ナタリアの沈黙をどう受け取ったのか。ウィルはそう言うと、部屋に控えていたメイド達に退室するように命じた。
これにナタリアは驚いた。彼女たちがいなくなれば部屋には二人きりになる。北領内の警備を取り締まる最高位の立場の彼が高々一週間の付き合いの自分と二人きりになるというのは軽率すぎた。彼の父親は暗殺されていることもそれに拍車をかけている。
信頼のアピールにしても過剰演出だ。彼はともかくリューリク家の執事長には警戒され、嫌われている自覚すらナタリアにはある。あの男が二人きりなることを許可するとは思えなかった。
ナタリアが物を言う前にウィルが口を開いた。
「この紅茶は中央から仕入れました。ぼくはこれが好きなんです。北領流の紅茶は濃く、ジャムと共に飲むのが一般的です。父はそれが好きでした。だから今までリューリク家では紅茶と言えば北領流だった」
「……いい香りですね」
「そうなんです。こちらの方がなんとなく品がある。そんな感じがする。……先週、言ってやりました。ぼくが好きなのはこの紅茶だ!! と、使用人はびっくりしてましたよ。急に言われてなんのことかわかりもしなかったでしょう。あれはまさに癇癪だった。そして、それが始まりだった」
「というと?」
「今までぼくは執事長の言うとおりに過ごしてきた。何をすればいいかわからず、それが正しいかもわからなかった。まぁそれは今もわからないのですが。北領の現実を知って、僕の中で一つブレることがない指標を作ることができた。
そしてぼくは今日、あなたと二人きりで話したいと使用人に言い。だから今我々は二人きりなのです」
「男を上げましたね。何があったのですか?」
「聞いてくれますか?」
「聞かせてください」
曰く、ナタリアが北領で暴れ始め書類の量が激烈に増えた。暴れまわる彼女が持っているリューリク家の署名は本物なのかと問う常識を疑うものから、露骨に犯罪者側を擁護するような内容の陳述書とも呼べない愚痴を綴った紙が、取ってつけたよう敬意と共に山のように届いた。
その紙の誇張された彼女の過激なやり方に驚ろきはしたが、それよりも異常に犯罪者側に肩入れする態度に疑問を持ったウィルが調査室に背後関係を調べさせると、いくらでも黒い接点が見つかるありさまだった。
さらには、衛兵詰所の所長が自らウィルの前に現れ、小馬鹿にした態度で賄賂をチラつかせナタリアを売るように迫ったことで、ついに彼は北領の衛兵がいかに腐っているかを自覚した。
生まれて初めて怒りに理性を無くし、怒鳴り散らし追い返した。そんな話をウィルはどこか楽しそうに語った。
ナタリアはその話を聞き、いかにも申し訳なさそうな表情で俯きがちに紅茶を一口舐めた。だが衛兵が彼に対し対応を迫ることは彼女の想定内だった。やりすぎだと咎められるだろうとも考えていたし、それが一つの期限であるとも思っていた。
衛兵所長たちの想定していたよりもはるかに間抜けな立ち回りに助けられていた。彼らと対話していて感じたことだが、根本的に貴族を舐めている節がある。それが都合よく表れた。
「若輩者だと陰で馬鹿にされている事は知っていましたが。あなたの存在でここまで表面化するとは思いもしませんでしたよ。全く劇薬の様な人だ」
「私のように全方面に喧嘩を売るような命知らずな人間というものはなかなか居ないでしょうね」
「その通り。ぼくが今回あなたを呼んだのはまさにそのことなんです」
「……もう少し早く呼ばれると思っていました。私を罰することができるのはウィル様。あなただけだ」
ナタリアは沈痛な表情で言い切った。一つの山場だった。彼女が北領で一週間自由にできたのはリューリク家の威を借りることができたからだ。ナタリアの下乳に挟まれたウィルのサイン付きの一枚の紙が生命線で、破棄を命じられれば逆らうことできない。
縁を切られるわけにはいかなかった。だからナタリアはリューリク家に来る前に服屋に寄って、流行っているらしいものを見繕い。ボディラインのはっきりでた胸元の開いた服に着替えたし、ついでにセクシーな下着も選び。大人の店にも寄ってきた。そういう覚悟を、してきた。
入室して早々かつらも取っている。自分の持つ美をぐいぐいと押し付け、それに確かな手ごたえも感じていた。
(食っちまうか……?)
ウィルの言葉を待ちながら、ナタリアは横目でソファの位置を確認した。ポケットの中に忍ばせたゴムを握りしめると、彼女の頭に段取りが浮かぶ。力で勝っている自信もあり導入さえ強引にできれば後は流れでどうとでもなりそうだった。
未だに抵抗はあったが、殴ってどうにもならない問題に対して他に解決策が思いつかない。皮肉なことに喧嘩の次にテクニックに自信がある分野でもある。
貞操の危機にも気づかないままウィルは暢気に口を開く、その幼い唇に餓狼と化したナタリアが熱視線を注ぐ。
「罰するなんて、とんでもない! あなたのやったことは間違いじゃない。ぼくの考えていた内容とズレていましたが、ぼくが許可を出してあなたが実行したことだ。その責任は持ちたい」
「……………………そうでしたか」
ナタリアの全身から力が抜けた。背中を汗が流れ、ポケットの中ゴムを握りしめた拳は震えていた。
思っていたよりずっと緊張していたことに初めて気づいた。悪態をつきたい気分だった。ガキとヤるだけ。純情な乙女でもあるまいし、たったそれだけのことに何を今更緊張しているのか。自分が今まで何をしてきたと思っている。生きるためになんだってした。ウィルくらいの歳には男に突かれることだって、あった。今更だ。
なにを安心しているのか。どっちみち主導権を握るため、関係を深めるためにやっといて損はない。抱かれるという事がどんなものか、確かめるためにいい練習相手だ。
精神的唸り声をあげるナタリアに怪訝そうにウィルが声をかけた。
「ナタリア……? 怖い顔をしていますよ」
「…………なんでも、ないです。なんでもないんです」
「? そうですか。体調でも悪いのかと思いました」
――できなかった。結局。
自分が臆病だとナタリアは改めて痛感した。イケメンダンディ号はイケメンダンディ号ではいられなくなっていた。自分への失望で彼女は息が苦しくなった。
襲うかどうか迷っているなど毛ほども知らないウィルが、きょとんとした顔で続けた。
「そうですか? それなら本題に入らせてもらいます。やったことは責めません。しかし、ぼくに直談判しても効果がないとわかった彼らが次に取る行動は、直接あなたを排除することです。ですから少しばかりあなたには身を隠していただきたい。後はこちらで情報を集めうまく――」
「嫌だ!!!」
「……ナタリア?」
戦いまで奪われる恐怖に彼女は声を張り上げた。戦いだけが、暴力だけが今の彼女の最後の欠片だ。それを奪われれば正気でいられる自信のないナタリアは必死になった。尋常じゃない彼女の様子にウィルは怪訝な顔をした。
ナタリアは説得の言葉を探し、彼女らしくない不安げな様子のまま話だした。
「私は釣りが好きです。魚は歳を取り大きくなると、狡猾に強くなる。そんな大物を釣るには針が見なくなるほどの豪華な餌を使う必要がある」
「いや、しかしそれはあまりにも……」
「最初からそのつもりでした。そういったことに恐怖も不安もないんです。失敗する気もしない。"俺が一番だ"そんな事ばかり宣う屑どもの中で私は負けたことがない」
「……」
そもそも暴れまわっているだけで幹部級の情報が出てくるわけがない。本当は土竜を送り込んで何年もかけて行きたいところだが時間がないから仕方なく暴力的な方法に出た。下っ端どもが片づけられなければ必ず上の人間が出てくる。彼らがこちらを攻撃した瞬間にこそ隙ができる。
危険な方法だ。状況が許せばこんなことはしていない。全方面に先制布告をした。後はやるかやられるか。それだけだ。そのシンプルさが今のナタリアにとって救いだった。
ウィルはいつもと違うナタリアの様子をひとしきり見つめた後、一度瞳を閉じるとため息をついて口を開いた。
「調査室の人間にはもう会いましたね? それとは別に部隊がありました。金に困った半端者の軽犯罪とは違い組織化した、高度な技術を利用した犯罪に対抗するための特殊部隊。任務の性質上、彼らは衛兵の一部でありながら独立性を持ち、独自の戦術と情報網を持っていた。
隊員の高い秘匿性を維持するため彼らの具体的な情報は、リューリク家当主のみが知ることを許されていました。……ぼくが唯一父から引き継ぐことができなかったものです」
「……」
「二年前、父が暗殺され、その特殊部隊が数日で犯人を捕まえました。ぼくが見た彼らの最初で最後の姿です。彼らの解散の理由はぼくにもわからない。当時の事を詳しく知る人間はみな沈黙を貫いています。リューリク家現当主のぼくが聞いているにも関わらず、です。わかったことは数人の元隊員疑惑のある人間と"パーチェム"という言葉だけ。
……前回、ぼくの剣になると言われたのは渡りに船でした。部隊の再編を急いでいますが目途はたっていないのです」
「……そのことを私に話しても?」
質問には答えずに、ウィルはさらさらの前髪をかき上げると紅茶の香りを嗅ぎ、上品に一口含んだ。前に会ったとき髪をガチガチに固め光らせていたことをナタリアは思い出した。より子供っぽい印象を受けるのはそのせいかもしれない。
「よくないでしょうね。この事を知っているのはリューリク家でもほんの一部ですから。……あなたが命を懸ける覚悟を見せた以上、ぼくも最低限なにか返したかった」
「ウィル様、そのお気持ちだけで十分です。それに私が好き勝手をやれば、ウィル様の命を狙う人間だって出てきます」
「もちろん、父の後釜に決まった時からその覚悟はありますよ。今後も好きに動いていただいて構いません。かばいきれる範囲で、あなたの行動はぼくが保証しましょう」
そこまで言われてようやくナタリアも安堵した。
そして出てきた『パーチェム』先代リューリク家の当主の死にどれほど関わっているのか。ナタリアの頭にテオドールの顔がチラついた。なんとなく、彼女には見えてきていた。着地点は、もしかしたらひどくつまらないものかもしれない。
「元隊員疑惑のある人間とは誰です?」
「スラヴァ通りの八百屋や舟渡し。流れの芸者なんて真偽の怪しいものもありますが、やはり多いのは衛兵や従騎士、騎士出身の者ですね。あなたに身近なあの騎士団の中にもいるのではないか、とぼくは睨んでいます」
「スラヴァ通りの……。いえ、その騎士というのはもしかして……ゲイ、だったりしますか?」
「心当たりが御有りのようですね」
「その男はまさに今私の親衛隊の副隊長をしています」
「まさか!! いや、しかし、そんな偶然が。……我々も北領の大きな流れの小さな一つということですか」
「今はまだそうなのでしょうね」
その後もウィルとナタリアは2人っきりの部屋で会話を重ねた。
未婚の若い女が共も付けずに男と二人きりになることは貴族社会では珍しい事だった。理由もなく女から誘うことはふしだらな行為とされていたし、現代のように仕事を終わりに2人で飲み誘うなんてのはひどくビッチだった。
だだ中央発祥の宮廷恋愛では意中の騎士と2人になりたい令嬢が部屋にチェスを誘う話が流行し、それは男心をくすぐるいたいけな行為だとされ、年頃の男女の憧憬となっている。乙女百パーセントのターニャにその話をされ、違いの分からないナタリアは「は?」と一言言ったが。とにかく年頃の男女で二人きりとは神秘的でありながらふしだらな甘酸っぱいものだった。
特に経験のないウィルは仕事の話が終わったにも関わらず続く他愛のない会話に戸惑いながらも心地よさを感じていた。ナタリアに共がついていない事に驚きがあったし、彼女の欲情的な格好には視線のやり場に困った。
プライベートでのナタリアの会話は知性とユーモアに富んで面白く笑いが絶えなかった。彼女が持つ自分が自分自身として認められているような包容力は彼のコンプレックスを癒した。
教会の鐘の音が聞こえ、それだけ時間がたったことをウィルは初めて知った。そろそろ退室するというタイミングでナタリアが控えめに言った。
「ウィル様、髪を編むのを手伝ってくれませんか?」
「えっ?」
「かつらを取ったのは良いのですが、一人でつけるのにはまだ慣れていなくて……」
「で、では、メイドを呼びましょう」
「いえ、あまり見られたくないのです。一応お忍びですから。その、少し抑えていただくだけですので」
「しかし、無暗に女性の髪に触れるというのも……」
ウィルの頬は朱に染まり、目線は泳いでいた。強烈に性というものを意識していた。
「ウィル様がいいのです。ダメでしょうか……?」
「は、は、ぼ、ぼくで良ければ」
「こちらに、いらしてください」
ウィルは立ち上がると華奢な体が一段とよくわかった。ナタリアに向かう一歩は小さい。
背中を向けたナタリアの座る椅子、その背もたれに手の乗せたウィルはひどい罪悪感に襲われた。ガチガチの貴族社会のルールに縛られて育った彼は、性に慎ましく。彼女との距離すら罪のように思えた。
艶めかしくも美しい造形のナタリアの手が、髪をまとめて持ち上げる。部屋に刺す光を反射、あるいは吸い込んで彼女の濡れ烏はいくつもの姿を見せた。
それは焦らす様にゆっくりと持ち上げられ、普段見ることのできない彼女の華奢なうなじがウィルのほんのすぐ目の前に現れた。途端に今まで経験したことがない緊張感にウィルは襲われた。今にもこの部屋に執事長が飛び込んできて叱咤されるような、そんな緊張感だ。
視線だけで振り返ったナタリアと目が合う。いつもと変わらない純粋な黒に射抜かれて、許された彼は手をとられ彼女に髪まで誘導された。なにかを彼女に言われたが、脳が言葉を理解できなかった。
ただその髪の感触に。地獄のように熱く、悪魔のように妖艶で天使のように純粋で愛のように甘い。その感触に。心臓が痛いほどに脈打った。
後ろから覗き込む形で彼女の大きく開かれた胸元が見えた。北領の庶民、その中でも若い娘の間で流行っている洋服だ。元は南領の温暖な気候がさせた非常に開放的で欲情的な格好だ。北領の貴族なら一生しないであろう格好で、だからこそ変装として一級品と言えた。理屈では、わかる。
会話中もそこに視線がいかないように必死に耐えたが、見ても視線がバレる心配のない中で見ないというのは思春期の彼には不可能だった。手の届く位置でその肌色を見ることなど彼の人生で初めてで、その大きさと質感はなぜこんなにも心をかき乱すのか不思議なほどだ。
血が滾った。息苦しくて手と足が震えた、腰辺りが重い。初めての体験でどうすればいいのかわからない彼に追い打ちをかけるように煽られた髪から甘い、甘い匂いがした。どんな香水よりも柔らかく優しく甘く。包み込まれるような香り。ナタリアの匂い。
窓から差し込む西日に2人の影が重なり合うのが見えた。牧草を騒がせる風が柔らかく吹いて、向日葵が太陽を求めるように立ち上がった。
ウィル・リューリク。12歳。女とは頭に血が上って、前後不覚になり、脳が宙に浮いているような感覚になる存在だと初めて知る。春だった。
嘘のように一瞬で、すべてが終わった。かつらをかぶったナタリアが目の前に立ち、肩に手を置いてはじける様にウィルは彼女を見た。いつもよりずっと距離が近い。
悪戯っぽく笑う彼女はほんの少ししゃがむと彼の耳元に唇を近づけてボソボソと言葉を落とす。
「私の事はナターシャとお呼びください。親しい人にはそう呼んでもらいたい」
「ふぁい……」
「また近いうちに報告に伺いますね」
ナタリアはクスリと笑うとウィルの襟元を正すような撫でて退室していった。部屋に一人残されたウィルは、彼女の座っていた椅子に腰を下ろすと彼女の髪に触れていた右手を眺め、とんでもない体験をした、と思い。気怠さの中後始末をどうしようかと途方に暮れた。
達成感と虚無感に挟まれ渋い顔をしながら一人リューリク家の廊下をナタリアは歩く。途中通り過ぎたメイドにはひどく微妙な顔をされ執事長には四回舌打ちされた。だが、しかめっ面では彼女も負けていなかった。
博打に負けた後の中年男の様な悲壮感を背中に漂わせながら歩き、誰に見送られるでもなく正面玄関を抜けたところで入ってきた人と肩がぶつかった。こんなときまずぶつかった相手を睨んでしまう。機嫌の悪さもあるが本質がチンピラのナタリアの悪い癖だった。
男女の二人組でぶつかったのは女の方だった。ナタリアはスイッチを入れるように笑顔を作ったが、それより早く相手の連れの男が女を守るように間に割って入った。
「ごめんなさい。少し考え事をしていて」
「構わない。こちらも不注意だった。……っと、これは驚いたな。キミはもしかしてナタリア?」
「私をご存知? いつの間にか、有名人だ」
「ははっ、あれだけ派手に暴れればな。私はファンだよ、"巨悪に立ち向かう謎の少女"キミの話はどれも聞いててスカッとする」
「お名前を伺っても?」
「おっと、すまない。私はネル。こんななりだが冒険者ギルドの長をしている」
「あなたが。いつかお会いしたいと思っていたわ」
「奇遇だな、私もだ」
ネル、と名乗ったのは見たところ20前の若い娘であった。冒険者ギルドの長が若い娘であるという噂は耳にしていたがそれにしても彼女は若すぎた。男尊女卑の意識がDNAレベルで根付いていてるこの社会で女がトップに立つの言うことは非常に難しい。
ナタリア自身も噂を流され恐れられながら、屑と対立するとやはり彼らには侮りのようなものがあった。それは例え相手の命がこちらの手の中にあったとしても変わらず、それだけに苦労した。
貴族社会でも変わらない。長女であったとしても跡取りとはならない。結局は優秀な男を婿養子として向かい入れるための存在でしかないし、そのことに疑問を抱いたりもしない。女が独立独歩で生きていくには逆風が強い環境だった。
その中で彼女は冒険者ギルドの長をやっている。彼女をよく思っていない人間が多いだろう各ギルドからなるギルド会、三階級からなる北領会議などでうまく立ち回っているという事であり、彼女の能力の証明とも言えた。
そして、ナタリアは知っている。今は亡きエドモンド情報で彼女たちが北領産の武器の密輸に関わっていることを。
魔の森で採れた材料をふんだんに使いドワーフが作る武器は、非常に強力でその輸出は北領の財政を支える大きな要素だ。
7つの鍛冶ギルドがそれぞれ持つ7種類のギルド章が入った武器のみが北領産の武器と呼ばれるブランド品で、その強力すぎる力から輸出量は決められ、ダーシュコワ家の許可なく持ち出すことさえ禁止となっている。
彼女たちの密輸の規模まではナタリアも掴めていないが、相当儲けていることは想像できた。彼女の中で優先順位が高くないため放置していたが、いずれはそのネタで揺すろうと考えていた。
お互い一通り観察し合おうとナタリアから口を開いた。
「ウィル様にご用件ですか?」
「そうなんだ。いや困ったことにな、先日私のギルドの一級の人間が四人、酒場でファックされた。酔っていたとは言え四人がかりで一人の男にだ。それは良い、いや良くはないが北領じゃありえないとは言えない。しかし、その時エンブレムを盗られしかもそれが悪用されてると聞いてな。そのことでウィル殿に相談に来たわけだ」
酒場の事を思い出した。ナタリアが誘ってグレゴリーが倒した相手だ。エンブレムを未だに持っている。
鬼の首を取ったようで居るネルに、ナタリアもにっこりと笑った。
「なるほど。……私もエドモンドとお話した時にお友達の事をいろいろと聞きました。ここからずっと離れた聖都の新興宗派の人間が数も少ないくせにゲリラ的テロ活動で大活躍している話はご存知ですか? なぜか彼らは北領の武器を持ってるらしいのです。そんなところに輸出されるわけがないのに……。まだウィル様には話してないのですが不思議な話でしょう?」
「……なるほど、それは本当に不思議な話だ」
エドモンドからネタが漏れたことを彼女が知らない事はわかっていた。わかっていればもっと早い段階で接触してきているはずだ。
ネルは話し始めた時はどこか得意げだったにも関わらず急に顔色を変えるとナタリアに背を向けた。
「おや、帰るのですか? 今ならウィル様に拝謁できると思いますよ。微力ではありますが私からも口利きいたしましょうか?」
「……いや、結構」
「それでは冒険者ギルドのエンブレムを無断に使用している者の事は私からウィル様にお伝えしましょう」
「……それには及ばない。よくよく考えれば私だけで解決できないというのも情けない話だ。あの少年の荷を増やすのもつまらん」
ナタリアの煽りに青筋を浮かべながらネルは笑って見せた。ナタリアもネルの貧相な胸元を凝視した後微笑んで見せた。ナタリアの胸部は豊かだ。ネルの笑顔が引きつった。ナタリアには人を煽る天性の才能がある。
「そ、それよりキミ、強いんだってな。冒険者ギルドに興味はないか? 今度私の家に招待するよ。キミとはいろいろと話すことがありそうだ」
「私も忙しいので……時間がとれて、本当にどうしようもなく暇なら伺います」
「…………フッフフ。あぁ、そうしてくれ、ここに来て名前を言えばいつでも会える。待っている」
名刺と呼ぶにはいささか小汚い紙を渡し二人は去って行った。殴りかかってくる、そこまで想定したわけではないがなんともやりがいのない相手だった。突っかかってボロを出さないかと煽り気味に行ったが前のめりになった気分だ。隣の男、おそらく東洋人の方など物理的に目視できそうなほどの殺気を糞のようにまき散らしていたのに、相当飼いならされているらしい。
ナタリアはつまらなそうにもう一度渡された紙を一瞥すると、それを胸元にしまいユーリ達の待つ喫茶店に急いだ。
路地裏をネルは爪を噛みながら歩き、ナタリアから十分に離れると壁を思い切り殴りつけた。二階建ての建物はかすかに揺れ、窪んだ穴から壁を縦にヒビが屋上まで伸びた。彼女はメスゴリラだった。
隣の男――仁が控えめに話しかけた。
「良いのですか? オーラブ騎士団員が付いていない今なら確実にやれます」
「ダメだ、あの女の在り方。普通じゃない。身元もまだわかっていないのだろう?」
「……」
「気に入らんか? あの一件を知っているならいずれはあちらから接触がある。それからでも遅くないと私は思っている。……お前の直感はなんと言っている?」
「今すぐ殺すべきだと。あの目は、良くない」
「…………あの女を消したい奴はここにはいくらでもいる。そいつらが勝手に私の部下を使った。それがいい」
「御心のままに」
北領の薄暗い闇がナタリアに牙をむき始めていた。
50のおっさんがショタちんぽにビビり散らして、ショタちんぽが黒髪の乙女でしかイケなくなる話。性癖壊れる。