Howdy, World!
鬼ごっこは数分と経たずに終わりが見えていた。
一帯の草は背は低いが鋭く、布を巻いただけの足には少なくない傷がついていて、さらに慣れない体と一連の精神的ストレスで弱った心は想像以上に体力を削っていた。
なにが合図になったのか後ろの集団の進行速度は上がり、その距離はもう数十mほどになっていて、後ろからはわずかに金属が擦れ合う音も聞こえはじめていた。自分のすぐ後ろに荒い息遣いを錯覚し、彼女を余計に焦らせた。
少し前から道は緩やかな傾斜になっている。下って行くうちに木々の密度は広くなっていった。それに対して右手側はだんだんと高くなり、いつの間にか今いる場所と五、六mほどの高低差がある。
どうやってこちらを捕捉したのかその方法がわからない以上、逃げ切ることは無理そうであったし、彼らが善人の集団であること期待するほど楽観的にもなれない。
相手が自然保護官や地元の猟師とも思えない。人間ですらないかもしれない、と彼女は考え始めていた。不自然な人数の多さや光源が見えない事、なによりも僅かに聞こえる呻き声が、いかにも人間離れしていた。今はなんとか人数差を埋めることができる場所を探していた。そこで何とか交渉を行うつもりだった。
もはや願望に近い作戦ではあったが、30~40人などまともに相手にできるわけがない。
逃げ切れないならどうにか交渉で状況を打破しなくてはいけないが、言葉が通じるか、交渉のためには相手を殺すわけにはいかない、など問題はいくらでも思いついた。
後ろの集団が急に立ち止まったとき、彼女は経験から迷うことなく近くの木を盾にして、頭を抱え込んで様子を伺った。10秒を数えたあたりでいくつかの風切り音とともに飛来物が自分の隠れていた木と近くの地面に刺さり、ブサイクなアンサンブルを奏でた。
発砲音がしなかったことはここで目覚めて初めての吉報であったが、あの速度で走っていた相手が止まってからわずか10秒後にこちらに着弾する矢を放つ。その練度はどれほどだろうか。
精度も悪くないらしく彼女の隠れている木にも少なくない数が刺さっていて、見える範囲で10本ほどの矢が木と地面から生えていた。急いで一本引き抜いて走り出すと、後ろ集団が左右に分かれたのがわかった。
(野郎、仕掛けてきやがった)
後ろに少し残して、左右に分かれた少数が包囲するように動いている。この残った後ろの集団がひどくいやらしかった。
弓の有効射程などは知らないが、アーチェリーであれば90mが競技として最長だったはずだ。この木でできた粗末な矢を見ると、奴らの使っている弓はアーチェリーほど高性能だと思えないが、あちらが高所になっていることを考えれば今の距離は近すぎた。後ろの連中との間にある木々は枝葉が高い位置についているため、横に広がって行われた面攻撃全てを止めることはできない。
足に当たればおしまいだ。重要な器官を傷つけたって終わる。弓は前時代的な武器であるが、人を傷つけた歴史があり、決して軽視して良いものではなかった。
彼女が頭の中で八秒ほど数え近くの木に隠れると、同時に第二射が届いた。間隔が先ほどより少し短くなっている、第三射はさらに早くなるかもしれない。飛来物の間隔は近代兵器に比べると長いが、それでもこちらの機動力は削がれている。
短い手足を必死に動かして、こけそうになりながらも進んでいるが、射程から逃れるにはまだ時間がかかりそうであった。
後ろの集団から左右に離れた二組のうち右の崖側に展開した方は、少人数で足が速くすぐそこまで迫っていた。左側に展開した方はやや数が多く、壁になるように広がりながら徐々に距離を縮めていることがわかる。
右側の崖を上るには時間がかかりすぎ、左側からも奴らが迫る中、そちらに方向を変えても接触は避けられない。どちらにしろ弓の射程から離れたい今、後ろに対して平行に動きたくはない。反転して進むなんて選択肢は存在しない。
ならば直進するしか残されていないが、自分の耳にはすでに激しい水音が聞こえていた。ここまで計画されていることを考えるとこの先はおそらく…………。
また八秒たち木に隠れ第三射をやり過ごす。そこで右側の集団に完全に追いつかれ、ついには追い抜かれてしまった。数は四人、姿は見えない。崖はやや角度があるが、もし下りてくるのであればそれで包囲は完成したことになる。彼女は自分の理想を再現することが不可能であると静かに悟った。
未だぎこちなさが抜けないこの体でどこまで戦えるかわからない、ずいぶん久しぶりな純粋な恐怖が胸の中に広がり、心を犯す感覚に、彼女の意志に反して指先が小娘のように震えていた。
銃火器はない、と呟いて。腰の剣にすがるように触れた。戦いの時は近かった。
彼らがその夜狩りに出かけていたのは必然であった。
簡単な王制と狩猟採集社会を形成している彼らであったが、最近になり仲間が大幅に増え、それに対して狩りは不調が続き食料が足りず、状況を危惧したその群れの王…ロードはやや離たところにある鳥の巣を強襲することを決定した。
昼行性の鳥に対抗するために、月の光が強いこの夜が選ばれ、彼らの上位種一人をリーダーに38人で進軍し、目的地まで半分を過ぎた時、その匂いに誰ともなく気付いた。
人間にとって生臭く感じるそれは彼らの体液の匂いだ。個体の力がこの魔の森の中で他の生き物に大きく劣る彼らが自然と身につけた力であった。濃い匂いは、自分たちの仲間を大量に殺した者の存在を警戒させ、戦いの途中に獲物が逃げても匂いをどこまでも追いかけることができる。彼らの生命線のような能力である。
いつものように距離を開けながら観察をすると、上位の精霊の気配はなく、匂いが薄いことから少人数であることがわかった彼らは、群れから離れた可哀想な獲物を戦闘前の景気づけにいただくことにした。
匂いは移動しているが、距離は近づいているはずなのに一向に気配は感じず、姿は見えず、足音すら聞こえないことに仲間内からいくつも不満の声が漏れた。だがそれも、真新しい血の着いた葉っぱを見つけることで歓声に変わった。仲間に止められるよりも早くその血を舐めた【右頬に傷を持った彼】は、獲物を思い周りの抗議の声を無視して一人笑みを浮かべていた。
彼らの狩りは多数の待ち伏せ組と少数の追い込み組にわかれ、群れから離れた獲物や弱った獲物を狙う。待ち伏せしている場所に追い込み、時には囮になり誘い地形を利用して多方向からの攻撃によって殲滅することが基本である。今回の狩りは変則的であったが、彼らのリーダーはよどみなく指示を出した。
今回の少数組に選ばれた四人の中に【右頬に傷を持つ彼】もいた。右手の崖の上に獲物が逃げないようにする保険とリーダーには説明されたが、舐めた血から獲物が人間の女であると察していた【右頬に傷を持った彼】は、そんなものに従うつもりはなかった。
彼らのリーダーは、いつも彼らにしたら複雑で理解しづらい事を求め、それでいてそれが正しく、戦いもこの中の誰よりも強い。【右頬に傷を持った彼】はどうしてもそんなリーダーが好きになれなかった。
第三射が届くころには獲物の匂いに追いつき前に出ることができた。そこで【右頬に傷を持った彼】は、他の三人に獲物の血の味の事を話すと、三人とも二つ返事で襲うことに賛成した。この四人の中なら【右頬に傷を持った彼】が、一番強くお楽しみも最初に回ってくるはずで、本陣でふんぞり返っているリーダーが到着するまでに終わらせることができる。自分の体液に汚れた獲物を見てあのリーダーがどんな顔をするか、今から楽しみで仕方がなかった。
第四射は距離があったせいか精度が悪く、数本しか届いていないようであった。本隊もそろそろ動き出すだろうと判断した【右頬に傷を持った彼】に先行して、四人の中で特に弱い二人が一緒になって崖を下りだした。お楽しみの順番が遅くなる彼らは焦ったようで、その必死さに苦笑いを浮かべながらもう一人と一緒に先に降りた二人より着地点をずらして下りはじめた。
崖を下りている最中初めて獲物の影が見えた。それが急に速度を上げてこちらの着地点に走ってきたことに気付いた時、すでに勢いの着いた体を止めることはできなかった。
先についた二人が武器を構える間もなく崩れ落ちるのが見えたとき、【右頬に傷を持った彼】は、迷わず隣にいる仲間を相手の方向に蹴り飛ばした。自分は相手から距離をとって、地面にころがるように着地し、急いで立ち上がると腰の剣を抜いた。
目を離した少しの間に、相手はすでに隠れていて姿は見えない、彼が蹴り飛ばした仲間が地面に倒れ伏し、小さく痙攣を繰り返しているのが視界の端に映る。辺りは殺された仲間の匂いが強く相手の場所はわからない。
いくつもの後悔が頭をよぎった、先ほどまでの高揚感はとっくになくなり、嫌な汗が何本も背中を流れて喉の奥がひりついていた。風で微かに揺れる葉の音に大げさに反応し、ようやく自分のいる場所が月の光に照らされていることに気付いた【右頬に傷を持った彼】が、逃げようと動き出す前に崩れ落ちた。
それが足を切られたからだ、と気付く前に首が落ちた。
走り出しながら彼女は先ほどの戦闘について考えていた。崖から降りてきた敵のシルエットは小さく子供のようであったが、今の彼女には攻撃をためらう理由にはならなかった。自分の前に出てきた時点で交渉など頭の中から消えていた。
すべて着地の瞬間を狙って倒し、走り抜けてしまいたかったが、一人の機転によって少し足止めをくらってしまった。だが、収獲はあった。彼らと違い彼女はしっかりと相手を観察することができていて、いくつかの疑問が解消し、同じくらい疑問が増えた。
奴らの身長は110~120cm程、肌はオリーブグリーンで乾燥している。逆三角形の顔の輪郭の真ん中にデカい鷲鼻があり、頬まで裂けた口に他のパーツに比べて小さい瞳は琥珀色で、ロバ耳を地面に対して水平に生やしている。その姿は、彼女の知る言葉で表すとしたら、ゴブリンだろうか。
装備は4人ともバラバラで、裸同然のものもいれば時代錯誤した胸当てとガントレットをつけているものもいた。
戦利品は2人目から奪った全長70cmほどのマチェットで刀身は厚いわりに片手で振れるほど軽く、そして思いのほか切れ味がよかった。四人目の時など、撫でるような感覚で足の腱を切ることができた。
戦闘の高揚感と手に残る感触に恐怖は吹き飛び、精神は安定して、下っ腹が不思議な熱を持っていた。
敵の姿が見れた事と予想以上に戦えた事で、精神的にだいぶ楽になったが、交渉が不可能になった事は自分の詰みに近かった。
移動を始めたのか、後ろから矢が飛んでくることはなくなったが、先ほどの戦闘の間に左から詰めて来ている集団との距離は近づいていた。数にして10人ほどだろう。今だ半包囲状態である。
遮蔽物の多い森の中であることも、この暗闇も自分に味方した。二つに分かれているなら各個撃破のチャンスのようにも思えるが、それでも10人は多すぎる。先の戦闘なんかは手品か詐欺のようなもので、何もかもがこちらに有利に働いてくれていただけだ。同じことをもう一度やれと言われても無理だ。
奴らがただの素人なら迷いはないが、弓を一斉に射る有用性を知っていて、その弓を制圧射撃のように使いこちらの足を止めさせ歩兵を動かした。おそらく指揮官に相当する存在もいるのだろう。
なにより先の戦闘で四人目のゴブリンの、着地から剣を抜いて構えるまでの動作を見て、正面から戦いを挑む危険性を悟った。
統率のとれた10人に、たった一人で立ち向かうなんて悪夢だ。仲間の死体を見つけて帰ってくれればいいが、それは望み薄だろう。
弓の脅威にさらされながら右の崖を登るか、左の集団に挑むか、このまま奴らの望むままに直進か、何をするにも命をチップにした大きな賭けに出なくてはいけない。
右の崖を見上げ登ろうと手をかけた時、前方から新しい音が聞こえて動きを中断した。
おそらく馬の蹄のような音で数は多い、それが馬なのか馬のような生き物なのかわからないが、この暗いの森の中で馬を走らせるなどやはり普通ではないだろう。目が覚めてから、こんなことばかりでそろそろ慣れてきていた。若干、あきらめを含んだ慣れであったが、心は静かなものだった。
奴らが自分の進行方向を制限したのは、この馬のような連中の援軍を待っていたのだろうか。
追いつかれることを覚悟で近くの木に登り前方に目を凝らすと、人工的な光源がいくつか見える。その光は彼女の位置から左に向かって移動していた。
少し迷ったがどっちにしろ賭けだった。大きく息を吸い込み「こっちだ!」と叫ぶと、少しかすれたソプラノボイスは静かな森の中で、悲愴な色を含んで思いのほか大きく響いた。
その光はこちらに進路を変える。
ゴブリンと自分の距離は近かったが、それでも前方の集団と到着は同時であった。その集団は自分の目には馬に乗った人間――騎兵に映った、みな男で背が高く体格の良さが遠目からでもわかる。
自分の登った木の近くを騎兵が、器用に樹木をよけながら通り過ぎていき、ゴブリンと交戦にはいったが、勝負は一瞬のことだった。
たしかな規律のもとに密集し突撃する姿は、一匹の巨大な生き物のようで、その化け物相手に戦う意思を見せた勇敢なゴブリンは少数、大半が背を向け逃げ出し飲み込まれるように蹂躙されていった。
下馬した何人かの人間が、うめき声をあげているゴブリンにとどめを刺してまわる中、二人の男が集団から外れ「どこにいる!」と、声を上げた。自分も知っている言語であった。
様子を見ながらも先に重要なことを伝えることにする。
「50m先に20匹ほどいる、弓を持っているから気をつけろ」
「……ヴィクトール、12人ほど連れて見てこい。追い払うだけで良い、深追いはするな」
「まかせておけ」
ゴブリンの首を落としてまわっていた髭面の熊のような壮年の男が、威勢のいい声を上げ数人に声をかけ、馬に乗ってそのまま風のようにとんでいった。騎兵たちは、装備はバラバラであったが、共通の膝丈のサーコートとマントを羽織っている。武器は腰のロングソードと担いでいる弓のみで、一様に疲れた顔をしていた。
集団から離れたおそらく代表と思われる二人の顔が、掲げたランプに照らされて見ることができた。
顔の造形は違うが同じ共通点を持っている、白色人種で、濃さは二人で違うが亜麻色の髪、青い瞳に薄い唇、堀の深い顔は自分の知るスラブ系の人間のようであった。
20代中ごろに見える男は、どこか幼さが残り優男風で、顔についた数多の傷痕が、似合っていなかった。
もう一人は30代前半だろうか、体はやや細く、目線が鋭い、口元をむっつりと引き締めて、メガネが似合いそうな男だ。まだ話していないのにその気難しさがひしひしと伝わってくる。
ゴブリンの仲間じゃなかったようだ。そこの部分で賭けに勝ったが、彼らはゴブリンよりはるかに強いだろう。
「それで、姿を見せてくれないかな、お嬢さん」
「……ああ、今降りるから待ってくれ」
相手に理性があり会話ができるなら少しでも情報がほしい今、接触するのも悪い考えじゃないだろう。この森の中、情報も誰かの庇護もなしに生きていけるほど今の自分は強くないことは嫌というほど思い知った。
なにより、目の前の相手がコスプレ集団じゃないとすれば、服の素材や質感、装備から察するに彼らの住む場所の生活水準と文明のレベルは高くないようで、それも彼女を不安にさせた。少なくとも彼女の知る世界に、彼らのような変人は存在しない。
規律はしっかりとしているようであったが、大多数の男の中に女が一人入ることで起こる悲劇を男側として彼女はよく知っていて、それだけに気分は沈んだ。
(因果応報というやつか……。いや、そうなると決まったわけじゃない、か)
彼女にできるのは、自分が不細工である、或いは彼らが善意ある人間である、それを願う事だけだ。
一つ覚悟を決めて前に出ると、彼らの息をのむ音が聞こえた。特に目の前の二人の時間は止まっているらしく、彼女から話しかけなくてはいけないようだった。
「助かったよ。危ないところだった」
「……あ、ああ。いや、いいんだ。僕はオーラブ騎士団副団長ドミトリー=ドストエフスキー。ジーマと呼んでくれ」
「私は副団長補佐、アンドレイ=カラシニコフ」
彼女はなんと名乗るか、少し考えてクリスマスが近かったことを思い出した。人生、嫌なことはいつもクリスマスに起こっているような気がしてきた。それを振り払うように笑って答えた。
「……ナタリアだ」
歳の若い優男がドミトリー――ジーマと、メガネが似合いそうな方がアンドレイと名乗った。
しかし、想像はしていたが騎士団ときた。女になりゴブリンに襲われ、騎士団に助け出されてしまった。この後には王子様が待っているのだろうか。いろいろなことがめちゃくちゃすぎて笑い飛ばすことも出ない。
それに助けだされたと考えるには早いようだ、二人の後ろにいる数人は、さっきまでの雰囲気はどこにいったのか、今はとても友好的とは言えない。特に若い一人は左手に弓を強く握っており、こちらが少しでも動けば射られてしまいそうな威圧感がある。
「いろいろと聞きたいことはあるが、ここは危険だ。この森の中に安全な場所などないが、少し戻ったところに防衛に向いた川があった。ヴィクトール達が戻ってきたら、そこで話を聞きたい」
「君の警護は私たちが責任を持って行う。武器はいらない、足元に置いて膝をつけ」
「……」
「アンドレイ、そんな言い方はないだろう?」
「ですが副団長、私は規則通りにやっております」
「まったく、相変わらず頭が固い。気を悪くしないでほしい、こういう男なんだ」
「……いや、かまわない。そちらの指示に従うよ」
腰のマチェットとファックノウズを地面に突き刺し、両手をあげ一歩後ろに下がり膝立ちになる。その時ヴィクトールが戻ってきたらしく、ジーマはそっちに行ってしまった。
残ったアンドレイの指示によって隊の中から二人、前に出て一人が武器を回収した。もう一人によって地面に押し倒される。荒々しいボディーチェックにいやらしさはなかったが、優しさもなかった。
彼女は地面に押し倒された際に口の中に入った土の味をどこか他人事のように思いながら、人の住むところに連れていってもらえるまで、この身に起きる不幸について、ぼんやりと考えていた。