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北領のナターシャ  作者: Peace
本物の悪
18/22

正義の定義








 薄暗い部屋の中、ペンの先が紙の上を滑る音だけが響く。ナタリアが促せば、エドモンドは小鳥のように歌った。

 冒険者ギルドによる武器の密輸、と最後の情報を紙に書き留めたナタリアは深く息をついた。手持ち無沙汰に紙をつつく。

 北領は腐っている。ほんの少し覗き込んだだけで表も裏もクソだらけ、ナタリアの過ごしやすい環境ではあった。不憫な少年侯爵の顔が彼女の頭に浮かび、対応策もすぐに浮かんだ。彼女の気持ちを表すように、ペンから染みたインクが黒い染みを作った。

 だが彼の話の中で、とっておきのでかい糞の話が出ていない。パーチェム、と一言ナタリアは呟くとエドモンドの表情がみるみる変わっていく。



「いい、いい。そういう反応は見飽きた。知ってることを言え」

「……出所も卸してるところもわからねぇ。とんでもねぇ価値を持ってるナニカ。買えるのは上級貴族だけって噂だ。北領の支配層が顧客の法と常識の外側にある幻。どの組織も手に入れようと必死だ、耳かき一杯の情報だって漏れねぇ。いや、その存在すら疑わしい。関わりたくもねぇ」



 態度を一転、言いにくそうに話す彼からは言葉を選ぶような慎重さを感じた。おそらく、話していないことはある。だがこの状況で言わないのであればもう引き出せないとも思った。ナタリアとユーリは視線を交わすだけでそこまで意思疎通すると、ユーリはつまらなさそうにエドモンドを掴み上げた。



「他に、面白い話は何かないのかよ?」

「……一個だけあるぜ、ここまで聞いたらからにはもう後戻りはできない、俺たちもお前たちも地獄行きだ」



 無言で拳を振り上げたユーリをナタリアは止めた。暴力は役割を終えている。無意味に相手をいたぶる趣味は彼女にはなかった。



「やめとけユーリ。……よう、地獄には私にやり返したい連中が糞ほどいる。その行列の最後尾でどれだけ自分が間抜けだったのかよーく考えとけ」

「……」

「さて、聞きたいことは聞いた。約束は守る。さっさと、修道士を――。あ? いやちょい待て」



 ナタリアの感覚が階下の気配を捉えた。敵、にしては番犬エルゼの反応がおかしい。階段を上る足音に大体の体重と体格がわかり、荒々しさにその人物の激しい怒りがにじみ出ていた。

全てを察したナタリアがため息をつく。あの売春婦、名前は何だったか――。



「思い出した。キャロ、だったな。悪い子だ」

「あぁ? なんの話――」



 扉が吹き飛んだ。木っ端微塵に弾け飛び、ナタリア達に降りかかる。

 ユーリが立ち上がるのを横目で確認しながら彼女は慌てず、メモを胸の間に突っ込んだ。そうして余裕たっぷりに振り向く。



「そうだ。扉は蹴破るもんだ。もうナタリア流を実践してくれたのか? ふふっ嬉しいよ、グレッグ」

「コレは、、、どういうことっすか? キャロから色々聞いたんすけど、嘘ですよね?」



 グレゴリーの強い眼光。熱く、それでいて理性が働いている。状況を受け入れようとしている努力と葛藤が透けて見えた。

 その瞳に気付かされた。ナタリアは自分に対して反抗的な態度のグレゴリーが好きだった。躾のなった犬のように従順な男より餓えた狼のようにいつ首元に噛みつくかわからない男の方がおもしろい。

そんな気持ちが彼女に余裕を持たせ、グレゴリーを苛立たせる。

 ユーリは二人の様子を見て腕を組み、壁際まで下がった。グレゴリーの視線にも肩を竦めて答える。ナタリアがいつもの笑顔を浮かべて話す。小さい子供に言い聞かせるように優しく、朗らかに。



「あなたが見て感じ、あの娘に聞いた通りだと思うよ」

「……言い訳は、ないんすか?」

「何に対して? 私は間違ったことはしてない。……逆に聞きたいな何をそんなに怒っているわけ?」

「ッ!!」



 グレゴリーの視線が部屋を動く。血だらけで肉だるまとなったエドモンド、冷や汗流しながら変な方向を向いた足首をかばう金玉丸出しのベルディーゴ。

 ナタリアの真っ赤に染まった布が巻かれた拳、返り血が化粧のように着いた顔。床に転がる二人の瞳が攻めるようにグレゴリーを見た。あまりにも非現実すぎる現実。罪の意識のない彼女。

 出会った当時から感じていたナタリアの持つズレ。グレゴリーにとってそれが最悪の形で表れた。あまりにも平然としている彼女にグレゴリーの目の前が真っ赤になった。



「あなたは!! なんとも思わないのかっ!!!」



 魂の咆哮。肌を震わせる叫びだ。熱く若さを感じる。いつからあんな風に気持ちよく感情を表せなくなっただろう、と鳥肌の立った腕を撫でてナタリアはそんなことを考えた。

 ここまで彼が怒るのは予想外だった彼女のどこか間抜けな顔にグレゴリーの歯がゆさが溜まる。





 一つに、表面上の理解に過ぎないからということがある。こういうことをすれば、普通の人はこのくらい怒る、嫌がる。それを人生経験からなんとなく知っている。それだけだ。

 ナタリア自体は自分の行いに対して罪の意識も後悔もない。ただ、客観的に見た一般論を知っているだけだ。彼女の道徳心は無駄に長く生きた人生経験による後付に過ぎない。周りに合わせ人間に擬態しているだけだ。



 それは彼女の若い頃を力が支配した結果だった。彼女の人生は盗人から始まり紛争が起きた後はその渦中で生きていた。ハイティーンの頃、紛争地帯から離れやっと殺しが犯罪だと彼女は知った。

 それほどまでに当たり前だった。殺しが、強盗が、強姦が。殺せば褒められ、盗めば飯が食えた。女を力で従わせることに何の疑問も持たなかった。紛争地帯から離れた後も'普通の'生活には馴染めず、彼女は戦地に戻っている。







 反省する演技(フリ)をすることはできた。それでグレゴリーを誤魔化す自信もあった。正面から説き伏せば面倒くさいことになる。わかっていながら彼女は迷った。

 リューリク家からの帰り道で感じた直感を思い出していた。思想と哲学による衝突。想像よりずっと早いがそれがやってきた。どんな主張をしてくるのか。真っ直ぐ見つめる彼の若い熱に彼女はそそられた。

 ぺろりと妖艶に唇を舐め、手に巻かれた血まみれのバンテージを取りながら、夕食の話をするような気軽さで彼女は話しだした。



「なにも思わないわけじゃない。殴りすぎたかなって思うよ。柔らかいところを狙ったんだけどさ、もう拳が痛くって。次は道具を使うことにしようかな」



 グレゴリーがナタリアの腕を掴んだ。噛み締められた口元、黙った口の代わりに百の言葉を語りかける瞳、握る手は彼女が火傷しそうな程に熱い。

 ナタリアは気に入っている、この青年の純粋さを。だから、そういう言葉を選んだ。少しの期待を添えて。

 一歩前に出たユーリを片手で制し、「二人を修道士のとこへ。私は……ちょっと話していく」と言った。ユーリは小さく「甘ぇな」と呟くと二人を担いで降りていった。

 さて、とナタリアはいつものように笑う。



「茶でも煎れようか? ここのはなかなか「こんなことが許されると? これがナタリアの言う正義ですか?」

「せっかちだな。アイツらがゲロった話を聞けばグレッグの気だって変わるさ」

「あれだけ痛めつけて、助かるために嘘をついた可能性だってある!! 順番が逆だ、冤罪だったらどうするつもりだ!!!」

「もちろん、嘘の可能性は理解している。だからこれからサンプルを増やしていくのさ。その中から整合性のとれた物を抜き出していく」



 ナタリアの得意げな表情を前にグレゴリーは言葉を失った。

 真偽のわからないうちから振るう暴力を咎める彼に対し、話の信ぴょう性を心配する彼女。話がかみ合わないもどかしさに握りしめた拳は肉に爪が食い込んでいた。



「そうじゃないでしょう!!! こんなことを続けていくと言うんですか!!!」

「んー、今の北領じゃ、正攻法では時間がかかりすぎるし、証拠だって消されちまう。相手は平民で(アウトロー)を選んだし、リューリク家の後ろ盾もある……ってのは前に話したっけ? ……なぁ本気でわからないんだけど何が気に食わないんだ?」

「えぇ、えぇ!! あなたのやり方は、賢いかもしれない! だけど、この国には法律があり、俺には感情がある!! どんな人間だって生きているんだ!!」

「くはっは!! なるほどなぁ。貴族にしか意味がない法律。それに感情か。面白い考え方だ」

「馬鹿にして!!」



 ナタリアは笑った。そんなことを言い張れる彼が羨ましい、という感情と人権のひな型が彼の中に誕生している感心から出た笑顔だったが、頭が沸騰したグレゴリーは彼女の襟元を掴み上げた。抵抗しない彼女の体は嘘のように軽く吊り上げられる。

 ナタリアは錯覚を覚えた。彼女はこれから先の計画を思って暗い感情に支配されていた。座っていた彼女は暗闇の中だ。彼に光に引っ張り上げられている、そんな気がした。ひどく、息苦しい。



 時間があればナタリアももっとエグく賢いやり方をしている。こんなやり方は彼女だって本意ではないのだ。

 ただグレゴリーはナタリアとユーリに余裕がないことを知らない。彼女達も言うつもりがない。そこまで頼れないと彼女は思っていた。そこにもズレがある。

 激昂したグレゴリーの顔が目の前にあっても、恐怖は無かった。信頼もあったし、どうせ殴れはしないという侮りもあった。ただもし元の男の姿であれば殴られただろうか、と考えそのくだらなさに彼女はさらに笑った。

 それがグレゴリーの癪に触る。



「何がおかしいんです!! 重要なことだ!!」

「あんただって入口の男どもを殴り飛ばしたろう? 酒場じゃ一緒に暴れた。全部同じ暴力だ。怪我の度合いで善悪が決まるのか? 全て修道士の力で治るのに?」

「違う!! あれは戦いだった。だがこれは私刑だ。もっと平和なやり方があったはずだ!!」

「ないよ、そんなの。……いやいや、やめようこんな水掛け論、平行線だ。……そうだな。白状すれば私だってもっとスマートに進めたかったし進める自信もあった。だけど今回、奴らは私を尊重せず、中途半端にやって反撃をもらうのが怖かった、だからこうなった」

「そんなの嘘だ!! あなたの強さは知っている!! もっとうまくやれたはずだ。……ナターシャ、あなたは“理知的でタフで優しく、人の痛みのわかる人”だ。そんなに強くて、なぜこんなひどいことを……」

「……ふっ。あっはっはっははは!! はははっ。はぁー、なるほどね。わかった気がするよ」



 急に笑い出したナタリアに、思わずグレゴリーは手を離した。彼女は落ちるように椅子に座る。

 ナタリアの熱が冷めていく。懐かしい感覚がした。散々体験してきたことだ。周りが勝手に期待し、そして失望する。有名税みたいなものだ。一体何を期待したのだろう、と一瞬ナタリアは考えた。

 グレゴリーは盲目で全くナタリアを見ていない、そして彼女も彼を理解しきれていなかった。互いが互いにそうだっただけ、それだけだ。

 それだけのはずなのに。言い表せない怒りが彼女の中で燃え上がった。なにかのスイッチが入る音を彼女は自分の中から聞いた。



「私は私の正義(やり方)を貫いた。お前はそれが許せないんだ。なぜだかわかるか、坊や」

「それは暴力という行為に訴えたからで……」

「道徳心? 社会的常識に反したから?  ……いいや本質は違うさ。私がやったから怒ってるんだ」

「……なにを言ってる?」



 怪訝な表情を浮かべてグレゴリーは彼女を注視した。ナタリアの瞳を前に思考が止まる。いつもの奇麗な黒真珠の様な瞳は、今まで見たことがないほど暗く暗い光を放っていた。

 美しく見るものを底なしのナニカに引きずり込むような瞳。目を逸らさなくてはいけないと本能が強く訴えるが、決して離すことはできない。

 瞬間、月下美人という美しい花をグレゴリーは思い出した。北の果て魔の森でしか採れない世界一美しく世界一危険な花だ。魔の森にある美しいものは危険であるという事は北領民には常識だ。

 目の前にいるのが誰か、グレゴリーにはわからなくなった。



「別な言い方をするか。お前は、お前の考える“理想のナターシャ”を私が裏切ったから、怒ってるんだ」

「っ!!!」



 拳を振りかぶったグレゴリーを前にナタリアはうっすらと笑った。

 首から上が消し飛ぶような衝撃にたまらず椅子から崩れ落ち床を転がった。真っ当に受けていれば意識をやってしまいそうな威力に鼻の奥が熱くツンと詰まり、生暖かい液体が顔を流れた。鼻血なんて慣れたものだ。

 グレゴリーの位置を見失ったふりをしてナタリアは頭を振り彼を探すように視線を動かした。右手は鼻を抑え、驚いたような表情を作り彼を見つめた。鼻を打ち自然と涙目になっているのも都合がいい。すべて演技だ。

 細腕で殴るよりずっと彼にはキク、そうわかっていながら。なんて女々しい姿だ、と心の中で彼女は自嘲した。



「……ぁ」



 茫然と彼女を見ていたグレッグの表情が歪む。口が小さくすいませんと形作ったが、音にはならなかった。ぼうっと彼女を見つめる。ナタリアの想像通りだった。ちょっとした意趣返しでもある。

 イニシアチブは完全に彼女の手にあった。



「この世に普遍的な正義や悪なんてないんだ、グレッグ。自分が許せる(正義)か、許せない()か、それだけだ。そして今日、私もユーリも正しいことをした」



 反論はなく、グレゴリーの体から力が抜けた。言われたことを反芻し、否定、できなかった。

 グレゴリーはナタリアの持つ老成した包容力に、その心地よさに、彼女というシルエットに理想を詰め込み。だからこそ彼は彼の許せないことをしたナタリアに強い拒絶を表していた。心の何処かでそれを指摘されることを恐れていたのかもしれない。それは一つの事実だった。

 タイミングを測ったかのようにナタリアのがグレゴリーの肩に手を置いた。その手が優しすぎてグレゴリーはナタリアの顔を見れない。殴った右手には今まで感じたことのない痛みがあって、泣いてしまいそうだった。



「グレッグの評価は嬉しいよ。そういう一面も、もしかしたらあるのかもしれない」そこまで話すと区切り、ナタリアは微笑む。

「でもこれが私なんだ。こんな方法しか知らないしグレッグの正義は受け入れられない。怖がりなんだよ、私は。だからこれからもこうする。……失望したか?」

(そうやって優しく諭し、殴ったおれを責めないから!! 無償の愛をくれるクセに!!!! あなたは残酷だ)



 世界を包み込まん激情が、グレゴリーの中で四散していく。こうなっては彼は拗ねる他ない。互いに床に座り向かい合いながらグレゴリーは呟く。



「……そんなの間違ってる。憎しみの連鎖の果てにあるのは、地獄だ」

「それでも進むんだ」



 言い切った彼女の表情がオーラブ騎士団の先輩と重なった。戦い疲れた戦士の表情だ。諦観とも呼ぶ。グレゴリーは明るい彼女の持つ儚さや破壊的な部分の根本を垣間見た気がした。

 ――彼女は破滅願望を持っている。育った村が全滅し家族が殺されたことをまだ整理できていない。ようやく北領で見つけた居場所で自分の価値を高めようと躍起になっている。未だ十六歳の娘が。ただ一人で。

 リューリク家での会話で気づくべきだった。あの時のグレゴリーはただ彼女の持つ気高さに感銘を受けていただけだったが、あの時から異常な執念は見せていた。

 彼女は声にならない悲鳴を挙げ続けている。そんな危機感にグレゴリーは取り憑かれた。

 


 こうして二人はまた絶妙にズレる。



 彼女が行き着く先には破滅が待っている。

 グレゴリーの脳裏を母親の最後の姿が過ぎった。魔物に凌辱され食い散らかされた姿が、ナタリアに重なる。もう二度とあんな思いはしない。そのために強くなりオーラブ騎士団に入った。

 立ち上がり服についたホコリを払っていたナタリアの腕をグレゴリーが引く。体勢を崩した彼女の瞳を若い熱が捉えた。片膝を着き彼女の手を取るグレゴリーと彼を見つめるナタリア、二人の様子はさながら騎士の叙任式のようであった。



「……ぼくが、僕が許さない。あなたに、こんな酷いことはさせない。そんな顔をさせない。あなたを傷つける全てから守ってみせる。だから変わりましょう。僕と一緒に」

「……ぶはっ! あはははっっははあはあ!!!」



 建物が彼女の笑いで大きく揺れた。そんな錯覚を覚えるほど大口を開けて彼女は笑う。グレゴリーの好きな表情だった。馬鹿にされていたとしても、怒りはわかない。

 波が引くように彼女の笑いが収まる。それでも機嫌の良さが目尻に出ていた。



「笑い過ぎて涙がでらぁ。私は頑固なんだぞ」

「知ってるっす」

「私はあんたの期待には答えられない。これからも続ける」

「止めます。全力で」

「……負けたよ。今回はな。私の負けだ、そんな気がする」

「わかんないっす。全然勝った気がしないっすもん」

「馬鹿言うな。あんたの勝ちでもないよ。そういうもんだ。……行けよ、一人にしてくれ」







 グレゴリーの去った部屋でナタリアは一人虚空を見つめていた。右手だけがテーブルの上を這いタバコを捕まえ咥え。かと思えば床に叩きつけた。不意に口が開き「僕があなたを変えて見せる」と呟き、失笑する。



(変えるだぁ!? 守るだぁ!? まぁ素敵! なんて言うとでも思ったか!! 俺は五十年そうやって生きてきたんだ。それを全部否定しようってのかよ。昨日産まれたようなガキが!!! くだらねぇ戯言だ。……だってのになんなんだ。あぁ、畜生)



 部屋に充満した匂いが鼻についた。拳についた血に苛立ちを感じて思い切りテーブルに叩きつけた。胸に巣食う言葉にできない感情を彼女は持て余した。



(ほんの少し前まであいつの中で俺は理想だった。それを守るときた。自分より強い俺を! まいったね。あの天然記念物レベルの純な男が現実を知って、どう反応するか見たかっただけなんだがな。ははは、とんだしっぺ返しだ)



 開かれている扉がノックされた。反応せず拳から流れる血を茫然と見つめるナタリアの前にユーリが歩を進め、手に持っていた濡れタオルを彼女に投げた。鼻血を服の裾で拭っただけの彼女の顔は血が伸ばされひどい状態だった。



「気がきくな」

「今のアンタ、まるで傷心の乙女だぜ」

「笑える冗談だ出歯亀野郎。……頬の紅葉はどうした?」

「修道士がヒステリック女でよ。二人の怪我見るなりこれよ、命からがら帰ってきたぜ。……まぁ真実を伝えても今のかわいいあんたを見たら信じないだろうがね」

「好きでこんな姿を晒してるわけじゃない!!!!!」



 振り下ろされた一撃でテーブルの足が耐えきれず折れた。犬歯を剥き出しに唸り声すら聞こえそうな形相の彼女は、しかしすぐに落ち着きを取り戻し頭をガシガシと掻いた。



「フーーッ。いかんな情緒不安定なんだ。頭に血が登ると我慢できん。感情が爆発しちまう」

「(生理か? ってのは冗談にならねぇか) ……思っていたよりあんたの中でグレゴリーの存在はデカいみたいだな」

「はっ、笑えるね」


 ユーリはタバコを咥え、ナタリアを見た。心配というよりは観察するように。



「収穫はあった。もう辞めるか?」

「おいおい、何も始まってないだろ。心配しているのかよ? ……まぁ無理もないか」

「……」

「確かにグレッグには揺さぶられたよ。だが何も心変わりしようってんじゃない。変わりたいわけでもないのさ、今更」

「こんなのを続ければ怒るだろうな、グレゴリーは」

「関係ないね。私は続けるし、グレゴリーは止める。そういう関係になったってだけさ。そしてあいつじゃ私を止められない」

「ひねくれてるな。いや、真っ直ぐなのか?」

「さぁな。だが、お前しかり、ああいうのが私は大好きだ。生意気なことをされると思い切り抱きしめたくなる」

「ちょっかい出してやられてたら世話ないな」

「趣味なんだ。悪癖ってのはわかっているんだが、これも今更やめられん」



 けっ先行くぜ、と歩いていくユーリの背中に待って、と気楽な声がかかる。可愛らしいいつもの声、それなのにユーリの肝は冷え、足はその場に縫い付けられたように動かなくなった。



「グレゴリーに手を出すのはやめておけ。あいつは巨大な卵だ。どんな雛が産まれるか私の楽しみなんだ、奪ってくれるな」

「…………何の話だ?」

「アンタのお仲間とくだらないことはするんじゃないって言ってんだ。ここでくすねた物には目をつぶってやる。だが間違えるな、私を本気で怒らせないほうがいいぞ」

「……あの二人を尊敬するよ。そんな目で見られちゃ、おっかなくてはいとしか言えねぇや……まぁなんの話かよくわからんがね」

「……」

「僕だって命懸けなんだ本当さ。……いろいろ法外なことはやってきたつもりだがね、こんな刺激的なやり方は初めてだ。あんたのことは尊敬してるんだぜ。腑抜けにならない限りぼくは味方だぜ。ボス」

「お前みたいなのは思いっきり抱きしめてやりたくなるよ。本当に」



 うげぇ、と嫌な顔をしたユーリの隣にナタリアは立った。クズの隣は居心地がいい。限りなく素に近い自分でいることができるし、気を使わなくて済む。それは間違いなかった。

 チラリとユーリが一瞬彼女に視線を寄越す。あからさますぎてナタリアは吹き出しそうになった。



(不利になったら絶対裏切るなこいつ。とんだ跳ね返りだ。可愛くってしょうがないなこの糞ガキ。それに比べて)



 グレッグ。今まで彼のような純粋で初心の聖人のような人間の隣を歩くことなどなかった。居心地が悪いかと聞かれたらそんなことはないと答えるだろう。ただ何を考えているかわからなくそれが怖い。

 人はナタリアのような人間を悪と呼び嫌悪し悪魔と呼ぶが、ナタリアからすればグレゴリーのような清く正しい人間こそ恐ろしかった。正しすぎる人間など人間ではない。



 入口では三人が待っていた。グレゴリーがいつもの迷いない熱い瞳でナタリアを見つめる。その瞳の中に潜む今はまだ小さな可能性。

 彼か、もしくは別の者か、それはわからない。

 だが、あの瞳を持つ者にきっと自分は殺される。今日の会話を経て彼女はそんな確信を持ち、ほんの少し口角を上げると、いつもどおりの笑顔で3人に合流した。










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