ゲイと酒場
長い。ゲイ注意。安易なBLを入れないとは何だったのか。
三階建ての古い木造建築だった。軋む廊下はギリギリ二人が横並びで歩ける広さで、集合住宅らしく右手側にはいくつも扉が並んでいる。左手側にある両開きの窓から差す西日は、もう一、二時間したら沈みそうな位置にあった。
ナタリアの隣でグレゴリーは、慎重にドアに書かれた番号と手元の紙とを見比べながら歩いている。彼に、次はなかった。
この場所に着くまでの道は相当に複雑でグレゴリーは迷った。自信満々だった彼は大いに迷い迷って風俗街を通り情婦に絡まれ、スラム街を通過して物乞いに絡まれたどり着いた。何より偶然ボーチカ食堂の裏を通り仕入れを見たナタリアが呟いた「この野郎……」その一言が、グレゴリーの耳に残っている。
彼女は特に不機嫌に振舞うこともなかったが、それが逆に恐怖心を煽った。アンナは普通にグレゴリーを煽り罵った。
「この部屋っすね」
何度か確かめてから部屋の前に立ってグレゴリーは言った。窓から外を眺めていたナタリアが振り向いて、帽子をとり彼の横に並ぶ。いつもより彼女の黒い瞳が冷たい気がして、グレゴリーは急いでドアをノックした。ボーチカ食堂。迷子。これ以上の失態は許されない、何とか名誉挽回できないかと考えていた。
中から人の気配はしたが、しばらく待っても部屋からは誰も出てこなかった。もう一度、今度は強めに叩くと、ゆっくりと扉が開いた。
「どなた」
「オゥ、シィット!」
表れたのは細身の若い男だった。しなを作ってドア口にもたれかかっている。身に着けているホットパンツにランニングシャツ、とちらも黒い革製で夕日を浴びて妖しく照らされた。それはつやつやしていた。それはやけに露出が多く。どう見てもそいつは、ゲイだった。
彼の姿が見えた瞬間、グレゴリーはナタリアを自分の後ろに隠した。背中で彼女はグレゴリーのわき腹を思い切りつねる。グレゴリーは鈍い痛みに悶えながらアンナとエルゼをここまで連れてこなかった数分前の自分の英断を誉めたい気分だった。あの二人はナタリアより容赦がない。
後ろの彼女に意識が向いた隙をつくように、男は距離を詰めグレゴリーの頬に蛇のように指を這わせた。コヒュッと彼の喉から空気が漏れる。
グレゴリーは、そこで固まったから気づけなかった。その男の視線は腰の剣に向けられていたこと、背後にいるナタリアの右手が腰の短刀に触れたことに。
「ヒィッ」
「ヒィだって、かわいいわぁ。食べちゃいたい。キミ、お名前は?」
「グ、グレゴリーっす。ここにユーリがいるって聞いたっす。食べないで」
「あらぁ、ユー君のお友達? ふーーん」
「あ、あの、あなたはユーリのお兄……お姉さんっすか?」
「いいえ? わたしとユー君はもっと素敵な関係よぉ。……まざる?」
「いえいえいえいいえいえいえ、……あの、それで、ユーリ君はここにいるのかなぁって、ハハハ」
「そう、ねぇ」
男の視線がねっとりとグレゴリーの全身を上から下へと這い。今度は下から途中に股間で一度止まって、また顔に戻ってきた。
グレゴリーは耐えた。震えて、耐えた。セクハラされる女の子の恐怖が今、理解できた。
会話とは裏腹に男は真剣な様子でグレゴリーを観察した。グレゴリーにとって地獄の沈黙が数秒続いた後。まぁよし、と呟いた男が横を向き、開きかけた口が死角になっている位置から伸びた手が塞いだ。現れたのはユーリだった。
本当に友達だったのぉ、と不満そうな男の尻を叩いて揉んで、嬌声を挙げたところで奥に引っ込ませると煙草を咥え「思ったより遅かったな」とグレゴリーに向き合った。不健康な顔色に、伸びっぱなしの無精ひげ、瞳には剣呑な色が見え隠れしているが、服装だけはまるで今から出かけるかのように整っていた。
「それはこっちのセリフっすよ。居たなら早く助けてくださいよ」
「いや、反応がおもしろかったから」
「人の趣味に口出しはしないっすけどね。まじ勘弁っす」
「ま、僕もちゃんと仕事してたんだから、それに免じて許せよ」
「仕事っすか?」
「あの糞女の糞お守りのくそったれの糞親衛隊についてだ。まったく、糞やってらんないね。糞糞の糞だ」
「……あー、そのー」
「あん? なんだよ? ――うぉっ!!」
ユーリの視線がグレゴリーの少し横で固まり、硬直した。グレゴリーも恐る恐る視線の先を追い、そして心臓が止まるかと思った。
そこにはグレゴリーの体から顔を半分出し、こちらを覗いているナタリアがいた。彼女は限界まで目を見開き妬ましそうに睨み、顔の角度を調整して陰で濃淡を作っていた。髪の一房は唇の端に引っかかっている。彼女の美しさがそのまますべて恐怖に転換されたさまは、激しくホラーだった。
二人の視線を受けて彼女はゆっくりと左手を握りこぶしで出した。独特な動き過ぎて自然とそちらにユーリの視線が動くと、ピッと中指が一本立つ。彼女の端整な唇が「ファックユー」と動いたのが声が出ていなくともわかった。
ユーリのこめかみが引くついたのを見て、グレゴリーは急いで彼女の左手を隠し愛想笑いをした。自分を睨むユーリを見て怒りの矛先がこっちに向いたことを悟った。
「てめぇ、なんで先に糞女がいるって言わねぇんだよ。糞女に糞女っていっちまったじゃないか!」
「えぇ……」
「カマ野郎、言いたいことがあるなら直接言えよ。私は言うぞ、腐れカマホモ掘り殺されろ」
「……フフッ、白状するよ馬上ゲロ女ちゃん、一目見た時から大っ嫌いだ」
「ちょっと、!! 二人とも。これから、仲良くやっていかないといけないんすから」
仲裁に入ったグレゴリーに二人の視線が突き刺さった。そこで気づいたが、ユーリは心底不機嫌そうなのに対してナタリアはどこか楽しげだ。
彼女の悪い癖が出た、とグレゴリーは思った。煽って楽しんでいる。あれだけ言われて余裕がある事は尊敬できるが、性質が悪い。
そんな様子を知ってか知らずか、ナタリアを横目で見るとユーリは心の底から嫌そうな顔をした。
「こいつと? ……無理だ。男になって出直してくれ」
「てめぇ……今、なんつった? この野郎、あ"ぁ"!!?」
「ちょっと、ナターシャ! 何でそこでガチギレするんすか!? 落ち着いてくださいよ」
グレゴリーのよくわからない所で彼女は瞬間沸騰した。
さっきまでの余裕はどこへ行ったのか、小動物くらいなら視線だけで殺せそうな表情で、ナタリアはぐいぐい前にでる。いつかの宿で店員の頭をカウンターに叩きつけた時を思い出して、グレゴリーは全力で彼女を羽交い締めにした。
「離せグレック。私は落ち着いてる。ただこいつと話がしたいだけだ。おい、カマホモ表出ろ」
「ひねり潰すぞ。殺人犯みたいな目つきしやがって、僕はグレゴリーほど優しくないぞ」
「上等だよ」
花も恥じらう乙女がしてはいけない顔でナタリアは呟き、ユーリの右腕の緊張は剣を抜く前のそれだった。
グレゴリーは焦った。二人が本気でぶつかれば、止める頃にはこの建物は崩壊している。それほどの実力が二人にはある。
「ちょっと、ユー君。あんたのオーガみたいな腕っぷしで暴れられたら、私の家がぶっ壊れちゃうじゃない」
「……ちっ、ガキ相手に本気になりゃーしねぇよ」
いつの間にか近くに来ていた男の言葉でユーリは落ち着いた。グレゴリーは一瞬その男が天使に見えた。まばたきをしたら只のゲイにしか見えなくなったので本当に一瞬だったが。
あとは二人を睨んで唸っているナタリアを落ち着かせるだけだが、腕の中で威嚇している彼女は狂犬のようだ。いろいろ柔らかくていい匂いがしてグレゴリーは限界だった。
あたふたしているグレゴリーをしり目にその男はナタリアを見て鼻で嗤うと、ユーリといちゃつき始めた。「汚ぇよ!!」とさらに興奮するナタリアに見せつけるようにキスをした。
それを見た瞬間、グレゴリーの腕の中でナタリアの威勢は失せた。しなしなとなった彼女は「おえっ」とえずき。グレゴリーも相当キたので彼女を離すと、足首に激痛が走った。
ナタリアのローキックだ。結果としてグレゴリーが彼女を離さなかったため、二人の凶行を見せつけるようにしてしまった負い目はあったが、腰の入った蹴りは踝がぶっ壊れたと思うほど痛い。羽交い締めにした際、どさくさに紛れていろいろと触れていなかったら心が折れているところだ。
とりあえずチャンスと見たグレゴリーはまぁまぁ、と仲裁に入った。
「こ、これから、食事でも行って親交を深めましょうよ。お互い誤解してるみたいっすから。ね?」
「……」「……」
沈黙。二人とも頭は良い。互いが互いに相手が必要であることくらいはよくわかっている。ただ気にくわないだけだ。利点と気持ちを天秤にかけ、二人の頭の中が高速回転していることが傍から見てよくわかった。
しばらくしてナタリアはニコォと笑い、ユーリはニタァと嗤った。
準備をするから、とユーリが引っ込むとナタリアは閉まったドアに唾を吐きかけグレゴリーを睨み上げた。余りにチンピラ全開の彼女に思わずグレゴリーの背筋が伸びる。
見上げるナタリアの瞳にはもう憤怒の色はなかった。
ナタリアが酒場で暴れるほどプッツンしたとき、彼女は無言になり、ただ瞳がすっと細まり相手を観察していた。無駄に女性経験の豊富なグレゴリーは、それが彼女の危険信号だと知っている。案外さっきはあんまり怒っていなかったのかもしれない、と彼が思っていると彼女はいやらしい笑顔をうかべた。
「あの男、あんたに似てたな」
「本気でやめてください。おれもちょっと気になったんすから」
ユーリが連れてきたのはイギリスのパブに近い作りの店だった。テーブル席が三つ空いているのに、カウンター回りに人が溢れている。
仕事終わりに一杯引っ掻けているような男連中ばかりだが、その中にちらほら若い娘も混じっていてそれが彼らの気を大きくしているようで、大きな喧騒が店内を満たしていた。
慣れた様子でテーブル席に着き、嫌な顔をしている店員の名前を呼ぶユーリは常連らしく。注文をして金を両手で包み込むように渡すユーリは、また恋多き男でもあるようだった。ナタリアとアンナはそれを苦虫を噛み殺したような顔で見ている。
そんな二人を無視してユーリはグレゴリーに「いい店だろう? 活気がある。貴族と労働者を分けないのもいい。お気に入りなんだ」と穏やかに話しかけた。
焦れたナタリアがテーブルを指先でノックすると、ユーリはタバコを咥えながら面倒くさそうに彼女を見た。
「僕はお前が嫌いだ」
「いきなり挨拶だな。なんかしたか? 私はゲイが嫌いなだけであんたは嫌いじゃないよ。仲良くやっていこうじゃないか」
「黙れ。僕にそのつもりはない……だがな、親衛隊っていう役職をもらった以上、命を懸けてお前は守る。守らなきゃならない。僕もグレゴリーも」
「……んー」
ユーリはタバコを箱ごとテーブルの上を滑らせて隣のグレゴリーに勧めた。拒否した彼の隣から伸びた手がタバコを一本拝借する。
ナタリアだった。彼女はそれを咥えるとじっとユーリを見つめた。
「気が利かないな、火ぃぐらいつけろよ。私はあんたのボスだろう?」
「……」
「ははっ! そう怖い顔するなって。……それで? もし大人しくしてろって言いたいならそれは無理だ」
「……どうしてもか?」
「私を黙らせたいなら、この首を切り落とせよ。それかぬいぐるみにナタリアって名付けな」
「気狂いめ」
渋い顔をしたユーリがさらの言い募ろうとしたところで、注文した品が届き会話のタイミングは奪われた。
ナタリアは肩をすくめて、ウォッカを引き寄せタバコに火をつけようとして、左から伸びた手がタバコを右から伸びた手がウォッカをかっさらった。グレゴリーとアンナだ。
ナタリアが伸ばした手は叩かれ抗議の視線も黙殺された。わざとらしく叩かれた手を振ることが彼女にできた精一杯の抗議だった。
ユーリはウォッカを飲み、思いっきり煙草を吸い込んで煙をナタリアに吹きかけてから満足そうに口を開いた。
「今後の事を話しておきたい。親衛隊だが、実際動くのは僕達二人だけだ」
「……」「ちょっと! そんなの聞いてないっすよ!」
「今回のは完全に爺のわがままだろう。犠牲者は二人で十分だ」
「そんな勝手な! 俺が親衛隊長なんすよ!」
憤ったグレゴリーが立ち上がりユーリの胸元を左手で掴み上げた。椅子が派手に倒れ、カウンター席にいた客もこちらの様子に気が付き野次を飛ばした。
グレゴリーの吊り上がった目、固く握られた右手を見て、ナタリアは感嘆の声を漏らしそうになった。
なんといってもグレゴリーは平和主義的で優しすぎる。中途半端に咎めて終わりだろうと想像していただけに、彼女は嬉しかった。今にもおっぱじめそうな殺伐とした二人を見て、彼女は子供の成長を見ているようでほっこりした気分になる。
騎士を軍人として考えた場合、上官であるグレゴリーを無視して勝手をしたユーリは懲罰ものだ。完全にグレゴリーが正しい。
グレゴリーがユーリをテーブルの上に押し倒し拳を振り上げた。彼のパンチがどれほど痛いかナタリアも経験している。彼女は優しい笑顔を受けべながら二人を見ていた。
にわかにカウンター席からの野次も大きくなる。アンナもエルゼも冷めた目で事の成り行きを見ていた。どの野次よりも物騒なことを考えながらナタリアも二人を見守った。
(殴れ!! 首から上を吹っ飛ばしてやれ!!)
「グレゴリー、僕達みたいな若造があの性格破綻者どもを部下にできると本気で考えてるのか? 二人がかりで一人相手できるかすらわからないだろうが!」
「そういう話じゃない!」
(そうだそうだ! ぶん殴ってやれ! 二、三週間は固形物が食えないようにしてやれ!!)
「あの人たちにだって自分の領地がある。ただでさえ忙しいのにこんなことに付き合わせるわけにはいかないだろ! 相談がなかったのは悪かったが、時間もなかったんだ。小隊再編成までの待機時期である今を逃せばもう間に合わない」
「……」
(おいおい、嘘だろ……)
解放されたユーリは咳を二、三度すると、襟元を正しながら座りなおした。仏頂面したグレゴリーは一息でウォッカを飲み干し荒々しくテーブルに杯を叩きつける。
あぁー、と残念そうな声がカウンター席から聞こえたが、ナタリアの心の叫びはこんなものではなかった。
一体こいつはどこで男らしさを無くしちまったのか、と本気で考え始めていた。どっかで金玉を落としたに違いない。ナタリアも股についているものはどっかにいったが、心にはまだ立派なものがついている。
一段落ついたような雰囲気が気に入らない。形だけ怒って見せたことが気に入らない。酒もタバコも飲めない、セックスもギャンブルもできそうにない。ストレスが溜まっていく。ナタリアのテーブルをノックする間隔が短くなっていった。
どこか荒々しく彼女は口を挟んだ。
「それは困るな、人手は欲しい」
「……なに?」
「私はこれから衛兵の真似事をする。リューリク家から直接お願いされてね」
「なっ! グレゴリーお前、そばにいながら何で……」
「別に。おれはナターシャの考えを聞いて共感できたから止めなかった。それだけっす」
「……お前はわかっちゃいない、あの世界を。誰が好き好んで糞の山に首を突っ込むんだ? 確信をもって言えるがな。素人が集まっても、どうすることもできない」
「流石、そっちにどっぷりだった人間は言うことが違うっすね」
「お前……いや、そうだな。僕もお前も勝手をやったって訳か」
「隊長はおれっす。おれは勝手をやりますよ。そういうもんでしょう?」
「……」
「ヘイ、それなら私は二人のボスだろ。敬えとは言わないが、酒とタバコくらい許せよ」
「黙れ」「ちょっと黙っててください」
「……泣いちゃいそう」
微妙な空気だ。さっき殴らないからこんな空気になる、とナタリアは思っていた。
こういった雰囲気は嫌いで、だからいつも道化のようなことをして壊している。そんな気遣いも通じないとなると、もう帰りたくて仕方なかった。彼女はうんざりしていた。
人数のことなど、本当はどうでもよかった。裏社会に殴りこむ、と考えた時ほかの仲間の事など考えていなかった。自分と精々はグレゴリーがいれば十分だと思っていた。ただ蒸し返したかっただけだ。
面白い物はないかと店内を見渡すと、カウンター席の端にいた一団の内一人の若い男と目が合う。周りと比べると身なりがいい、羽織っているマントから貴族らしかった。相手は視線を逸らすでもなく見つめてきた。
よほどナタリアが暇そうだったからか、テーブルの雰囲気の悪さを察したのか。その男の表情は心配と下心が入り交ざっているのが、彼女にはわかった。悪魔的なひらめきが彼女の頭をかける。
ナタリアは視線を合わせたまま、帽子をとった。わずかに男が硬直する。そのまま薄く笑顔を浮かべた。男の喉がごくりと動く。
男は迷っているはずだった。いけるのか、自分の勘違いなのか。その境界で勇気を振り絞ろうとしている。ナタリアも経験したことがあるからわかる。だから最後に彼女はウィンクをした。それで、落ちた。
男は、最後に一杯の酒をあおって立ち上がった。周りが彼の背を叩き激励する。それを見届けてナタリアはテーブルに向きなおった。男を誑かすとこんな気分になるのか、と。今まで感じたことのない快楽が背中を走った気がした。
近づいてきた男にまず、ユーリが気づいた。怪訝な表情の彼の視線を追ってグレゴリーが振り向くのと同じくらいに、ナタリアの肩に男の手が置かれた。
「ちょっといいかな?」
「なに……なんすか、あんた」
「いやなに、彼女と話したくてね。どうも彼女は……退屈そうだ」
「なんすか急に……手、離してくださいよ」
「彼女は嫌がってないみたいだけど?」
「ナターシャ?」
ナタリアは答えず、自分の爪を見ていた。迷惑そうな表情から一転グレゴリーは困惑した。場違いナンパ野郎と思っていたら、自分のほうが場違いのよう空気を彼女が纏っていた。
「こっちに来ないかい? 一杯おごるよ」と満足げに男は元居た一団の方を顎で指した。気障で紳士らしい誘い方だ。ナタリアはそっちを向いて、次いでグレゴリーを見た。試すようでありながら、感情の読めない表情だ。彼女が腰を上げかけた時にはグレゴリーは立ち上がり、その男の腕を掴んでいた。
「なんだい、キミ? 俺が用事があるのはナターシャちゃんなんだけど」
「今、大事な話をしてるんすよ。諦めてもらえねぇすか」
「もちろん、彼女の口からそう言われたら諦めるとも」
「ナターシャ」
「さぁ、どうしようかな。酒も飲ましてもらえないし」
「ナターシャ、今は真面目になってほしいっす」
「おいおい諦めが悪いな。男の嫉妬は醜いよ。……痛いじゃないか、そろそろ手を放せよ」
「……」
「ふん、だんまりかい。さっきも見ていたが、君はでかい図体の割には肝っ玉の小さい男だな。そんなだから彼女に愛想を尽かされるのさ」
ヒューとナタリアは煽るように口笛を吹いた。
連れの女が他の男にもっていかれる。これほどの屈辱もないだろう。キレろ!! と心の中でナタリアは叫んだ。目の前の気障な男を黙らせろ、と。無くした金玉を取り戻せ、と。――しかし、グレゴリーは床に視線を向けてだんまりだった。
いつの間にか店中の注目を集めていた。カウンター席にいた酔っ払いが「あんまり虐めてやるなよ!!」と野次を投げ、笑いが起きた。男はグレゴリーに背を向けカウンター席に言葉を投げた。それでまた笑いが生まれる。
それでも黙っているグレゴリーを見て、ナタリアは自分の中の何かが切れる音を聞いた。
不意にその男の背中を彼女は蹴飛ばした。ダメージを与えるというより倒すように押し込む蹴りは、ちょうどカウンター席にから死角になるように計算されたものだった。無様に男は床に転がる。
一瞬、店内は沈黙に包まれ、次いで熱狂的な歓声に満たされた。
男はゆっくり立ち上がり、髪をかき上げ振り向いた。顔は真っ赤に染まり、誰の目から見ても怒っているのがわかる。
グレゴリーは急ぎナタリアを見た。そこには口を両手で抑え、信じられない、といった様子でグレゴリーを見つめる彼女がいた。あ、これダメなやつだ、と理解した瞬間、グレゴリーの右頬に男の拳が突き刺さった。
店内はお祭り騒ぎだ。何かが壊れる音。肉が肉を打つ音。くぐもった声、悲鳴、怒声。それらを聞きながらナタリアは店内で唯一の安全地帯といえるカウンターの内側に座り込み、紫煙をくゆらせウォッカをあおっていた。隣では死んだ目をしたこの店の店長が体育座りしている。ナタリアよりデカい体がひどく小さく見え、口から目に見えない何かがでかけていた。彼女は慰めるように彼の肩を叩いている。
呪詛のようなものが彼の口から洩れた。
「そりゃ、飲み屋と喧嘩なんて親子みたいなもんだぜ。ただこんなひどいのは開店以来初めてだ」
「わかるよ、そのリスクが想像を振り切っていく感じ。なにそのうちイイことあるさ」
「おかしいな。俺にはお嬢ちゃんが原因で始まって、お嬢ちゃんがここまで盛り上げたように見えたんだがな」
「私? 冗談! こんなか弱い細腕にそんな力はないよ」
「……二人いた従業員、どこ行ったか知ってるか?」
「一人は外にぶっ飛んでった。文字通り、窓から。もう一人は途中まで頑張ってたんだけどな。残念、怖いのに捕まって便所に連れていかれた。それ以降二人とも見てない」
「おかしいな。俺の頭が狂ってなければ、その二人はお嬢ちゃんとお嬢ちゃんの連れにやられたはずなんだけどな。どうしてそんなに他人事なんだ?」
「私? まさか! そんな事できないよ。それよりほら乾杯しよう」
ちょうど二人の上に飛んできた防具、おそらく肩当をナタリアは見もせずにキャッチして酒を注ぎ店長に無理やり持たせた。死んだ表情で受け取った店長は、まるで抵抗する気力の奪われた人質のようだ。
「乾杯って何にだよ」
「私たちの素敵な出会いに! いい店だ、本当気に入ったよ。これからも通うことにするぅ!」
「うぉおおおおおおおおお!!!」
突然ウォークライをあげた店長は、カウンターを飛び越えると一番近くにいた奴に殴りかかった。「俺の店で伸びた奴には弁償してもらうからなぁああ、ごらぁああああああ!!」と叫びながら喧噪の中に消えていった。ナタリアとしてもかわいい照れ隠しに自然と頬が緩んだ。優しく見送ると、ついでに戦況を確認した。
とにかく中心となっているのはグレゴリーと気障な男、その取り巻きの三人だ。彼らが意外と粘り強くグレゴリーに食らいつき、白熱した戦いは数十分に及んでいる。ちょっと他とはレベルが違った。そして彼らに巻き込まれない距離で小競り合い(一般の部)が起きている。
テーブルや椅子は原型をとどめているものはなく、壁には大穴がいくつも開いて、だいぶ風通しがよくなっている。また何人か壁から生えていて、そのうち二、三人はナタリアがやった。我ながら芸術点が高い、と彼女は自画自賛した。
アンナとエルゼは一緒にいた。エルゼが腰のものを抜こうとして、それをアンナがとどめている形だ。その周りには何人も男が積み重なり倒れている。ナタリアも想像はしていたが、紅茶もまともに入れられない彼女たちがただのメイドのはずはなかった。この二人はいつでも傍にいたがったし、つまりはそういう事なのだろう。今はナタリアを見失ってひどく焦っている。
こうするのはひどく簡単だった。グレゴリーと気障な男の殴り合いに集まった男たちに、ナタリアはちょこっとかわいい悪戯をした。もともと気が荒い連中が集まっていたのか後は雪だるま式だ。
ナタリアもここの連中がどのくらいやるのか、自分の力が通用するのか確かめるため騒ぎを収めようと動いていた人間を優先的に十人ほど摘み食いした。あとは酒とたばこをしこたま集めて店長と一服していた。テンションは爆上げだ。
何杯目かのウォッカを一気に飲み干し、気持ちよくなっているナタリアの背後にカウンター越しに人が立った。足音から誰かわかっていたため気にせずにいると、伸びてきた手が彼女の後ろ襟を掴み猫のように摘み上げた。青筋を浮かべたユーリと近距離で目が合う。待っていたと言わんばかりにナタリアはにへらっと笑った。どうしてもナタリアにはユーリと二人っきりで話したいことがあった。
「お客さん、何飲みます?」
「ふざけんじゃないぞ。最初にお気に入りの店って説明したはずだ。よりによって一級を誑しやがって」
「一級?」
「……知らなかったのか? 胸元にえっぐいエンブレムがついてるだろ。冒険者ギルドの上位の人間の証だ。手加減してるとはいえグレゴリーと戦ってこんだけもつってことは、そんな中でも相当強い方だろうよ」
「へぇ、知らなかったな」
ユーリは舌打ちをして、唾を吐き捨てた。
「おいおい、お前だって店員とよろしくやってたんだろ? そんなに責められるいわれはないね」
「……僕は和姦しかしないんだ。便所の個室まで入って本気で泣かれたから、やめた」
「おーーぅ、フラれたってわけだな。まぁ飲もう、今日はタダらしいからさ」
カウンター越しの席に座り直し、対面に酒を出し座るように勧める彼女をユーリは鼻で笑った。
「12時の鐘は鳴ったさ。お嬢様は帰る時間だ」
「そうしたいが、かぼちゃの馬車がどんな悪戯をしたのか気になってな。――あんた、追われてるだろ」
「……かぼちゃの馬車か、僕は」
ユーリの離れかかった体がカウンターに密着した。今まで見せたことのない真剣な表情でナタリアに詰め寄る。
ユーリが追われている。そう思った理由は、簡単だった。持ち家に帰らず友人の家に転がり込んだこと、いつでも外に出れるようにと整った身なり、なにより最初に家に訪れた時玄関の死角で殺気を振りまきながら隠れていた。あれはこちらの出方によっては、そのままグサッといかれるやつだ。ここまでくれば誰でも気づく。……グレゴリーが気づいたかは知らないが。
ナタリアの様子に根拠があると感じたらしいユーリは、ばつが悪そうに頭をかいて酒を受け取った。
「わかるか」
「わかるさ。雰囲気がそうだった。おとなしく私の部下になったのも、あの人の姪である私の庇護下に入るためってとこか?」
「……嫌なガキだよ、お前は。まぁ、そこは半分正解ってところか」
半分正解。ナタリアの庇護下でも安全とは言えない相手なのか。ほかに理由があるのか。しかし、北領で最強の権力者アレクセイ・ダーシュコワ公爵、その姪である自分では安全とは言い切れない相手となるとある程度決まってくる。思いのほかスケールがでかい。いや、オーラブ騎士団の詰め所に隠れない時点である程度はわかっていたことではあった。
彼女は酒をなめるように飲んだ。ほとんど酔ってはいない。混沌とした酒場の中で、二人の周りだけは静かだった。
遠くでグレゴリーに飛び掛かった男が投げ飛ばされ天井を突き破って、どこかに飛んで行った。本当にどこに行ったのかわからなくなるくらい遠くに飛んで行った。それをぼんやりとナタリアは見ていた。
「リューリク家に協力するってのはあんたにも悪い話じゃないと思うけどな。いつまでも逃げ回るつもりなのか?」
「単純にお前が信用ならない。貧弱な木の棒を渡されて、これで悪魔の頭をカチ割れと言われたら戸惑うだろう?」
おどけた様に笑うユーリをナタリアは真摯に見つめた。「ユーリ、私についてこい。後悔はさせない……今はそうとしか言えない」と言い切った。その姿にほんの少し見惚れた。
ユーリもナタリアの能力の高さは認めていた。ただ気に入らないのは、女で子供だから。そういった自分の中にある偏見という壁を彼女は越えつつある。
「…………何をするつもりなんだ」
「パーチェム、聞いたことあるか」
「無理だ!!」
即答だった。頭で考えた返事ではなく、体の芯から出た瞬間的な拒絶。すぐ正気に戻ったユーリは、恥ずかしそうに杯で口元を隠した。
「いきなり大声を出したのは悪い、だがそれだけはダメだ。……そもそも、それが何かすら知らないんだろう?」
「麻薬」
「なっ!! くっふっふ、そのことを知るために僕たちがどれだけ……。馬鹿々々しくなるな。お前が優秀すぎるのか、俺たちが間抜けだったのか。……どこで知ったんだ?」
「八百屋に聞いた」
「……くくく、あーーはっはっはははぁーー。あの気分屋が、あんたにそれを教えたのかよ! ……そうかい、そうかよ。これも運命ってやつかな」
ユーリは笑う。半狂乱になっていた。ひとしきり笑い、糸が切れた人形のようにうなだれた。
ナタリアはじっと待った。思っていたよりも、ユーリが裏の社会の深いところにいたことを理解し始めていた。彼の協力が必要不可欠で、おそらくテオドールもそこまで考えているだろうことも。
彼女はしばらく待って、黙って煙草を一本差し出した。ユーリが受け取り咥え、彼女も一本咥えた。
ナタリアが差し出した火をユーリが断り、先に彼女の煙草に火をつけた。二人の吐いた煙が混ざり合い天井で漂う。
「それで、どうするつもりなんだ」
「ターゲットは決まった。直接聞きに行くことにする」
「一番、荒いやり方だな」
「一番、効率がいいやり方だ。……それで、いいんだな?」
「……なんとなく、あんたが昔の上司とダブった。だから、とりあえずだ。とりあえず、ついていく。少しでもダメだと思ったら、あんたを椅子に縛り付けて安全な場所に監禁する」
「それでかまわない」
「それじゃあ、精々頑張ってくれよ。ボス」
どちらでもなく、握手のために手を伸ばし――その間に男が降ってきた。二人とも手を引っ込めぎょっとして見ると、それはナタリアをナンパしにきた気障な男だった。白目を剥いて泡を吹いている。イケメンが台無しだった。
いつの間にか店内は静まり返っている。店の真ん中には一匹の獣が立ち、手に一人ずつ男を引きずっている。ちょうど四人、グレゴリーは勝利したようだ。問題があるとすれば、瞳に知性が見えないことか。
「時にボス、知ってるか? オーラブ騎士団でも北の田舎出身、グレゴリーなんかはこんな言葉を使う。『誇りを忘れりゃ俺たちは魔物と同じだ』」
「いい言葉ね」
「俺たちの身体能力は人間より魔物に近い。それなら人間足らしめているものは何か、それが誇りだ。誇りにもいろいろなものがあり、グレゴリーなんかは一般人に手を出すことを特に嫌う。力で解決するようでは魔物と同じだ、と考えているんだ」
「なんだか、嫌な予感がしてきた」
「おそらく、当たりだ。奴みたいなタイプは誇りを手放すと知性のない獣になる。興奮と自己嫌悪で爆発しちまうんだ」
なるほど、と頷きグレゴリーを眺めていると彼は何かを吐き出した。金属片。よく見ればそれは四人がつけていた冒険者ギルドのエンブレムだった。相手のプライドを踏みにじるような態度。彼は金玉を取り戻したみたいだった。
一歩、金玉付きのグレゴリーが踏み出す。
「ずいぶん、楽しそうにお喋りしてるじゃねぇーっすか」
「ネズミより嫌いだった彼女の事が、なめくじより好きになった」
「素直じゃないな、またボスって呼んでくれよ」
「へーーーい、へいへい。イチャイチャしないでほしいっす。おれが男四人とシコシコやってる間にずいぶン近づいたじゃねぇーすか。たーまんねぇなぁー」
「ご苦労様って感じかな」
「へい、ナターシャ。おれ聞いたんすよ。どうやらナターシャから誘ったらしいじゃないっすかぁ。これ、おれ怒っていいっすよね」
「……ごめーんね(ハート)」
「フフッ、ウケる」
青筋を立てたグレゴリーがまた一歩踏み出し、面倒くさそうにユーリが立ち上がった。ナタリアもカウンターから飛び出し首を鳴らす。
最後の大仕事が始まろうとしていた。
結果として、酒場は半焼し、ユーリの肋骨は砕け、グレゴリーはナタリアのおっぱいで正気に戻り、ナタリアはアンナにビンタされ、テオドールに嫌味を言われ、イエヴァに説教された。三者痛み分けで終わった。