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北領のナターシャ  作者: Peace
本物の悪
14/22

リューリク家





 北領二十一侯爵と呼ばれる貴族たちがいる。人魔大戦時、大英雄ドミトリーと共に戦った英雄十六人と戦後に新たに加わった五人の侯爵から成る北領の有力貴族達だ。

 彼らはダーシュコワ家に領地を与えられ、それぞれがアナトセティ以北に街を作っている。雑な言い方をすれば、北領は巨大都市アナトセティと彼らが治める二十一の領地から成り立っていると言えた。

 北領二十一侯爵は、ダーシュコワ公爵家を支える部下である。彼らはある程度自由な統治が保証される代わりに、ダーシュコワ家への奉公、貢納、軍役が義務づけられていた。



 貴族は政治家、騎士は軍人、衛兵は警察のような役割を持っていた。

 移民が多いアナトセティでは、広大な領地に見合った多くの衛兵がいる。彼らを日ごろからダーシュコワ家の名の下に代理で運営しているのが、北領二十一侯爵の一つリューリク家だった。







 ナタリアは、ジャムを一口くわえると紅茶を飲んだ。ラズベリーの酸味と、濃く入れられた紅茶の味が口の中で混ざり合う。彼女はその味に満足げに頷く。控えていたメイドが、小さく会釈した。

 リューリク家当主への拝謁に来ていた。しばらく待っていてほしい、と通された部屋は広く。部屋に飾られた調度品は、どれも高級品ばかりであるが、下品には見えない。持ち主のセンスが伺えた。

 家具を眺めていた彼女の視線は、向かいに座るグレゴリーの真っ青な顔で止まった。ウプッ、と口から漏らし震えている。あまりにもガチガチの彼の様子に、ふぅと彼女は本日何度目かのため息をついた。



「硬くなりすぎじゃない?」

「へあ!? なんすか!?」

「どんだけ緊張してるの。陸に釣り上げられた魚みたいになってる。ビチビチッてはねる死ぬ寸前のやつ」

「……ナターシャ。正直、まずいっす。俺無理っす。ゲロ吐きそうっす。漏らしちゃいそうっす」

「あっちが会いたいって言ってるんだから、堂々としてなさいよ」

「ひぐぅう」



 口から不思議な音を出しながら、グレゴリーはうつむいた。それから思い出したように紅茶に手を伸ばすと、カップとソーサーを激しく鳴らしながら一口飲んだ。ナタリアはまた、ため息をついた。



 ナタリアは午前中、北領二十一侯爵の何人かに拝謁していた。金の事しか頭にないような肥えた中年、ぎょろっとした目の政治界の妖怪のような爺、逆に政治の匂いが一切しない好青年。侯爵と言っても、その在り方は千差万別だった。ナタリアにとって見慣れた相手で、いまさら緊張もない。セシルに手を握られていた時の方が、よっぽど緊張したくらいだ。

 リューリク家は、グレゴリーに同席を求めた。彼がナタリアの親衛隊隊長であることはまだ公表してないため、油断しきっていたグレゴリーは不意打ちをくらう形となった。以来、彼は処刑台に向かう死刑囚のような面持ちになっている。

 うつむきぶつぶつと呟いていたグレゴリーが、急に立ち上がった。決意のようなものが見える彼を、しかしナタリアは冷めた瞳で見上げた。



「やっぱりおれ、アンナとエルゼと一緒に外で待ってます」

「何回目だよ。……あのねぇ、お誘いを断ったら、失礼でしょ。貴方もう男爵なんだから、胸張っときなよ」

「侯爵の前じゃ騎士と男爵の違いなんて、タンカスとカス程しかないんすよ」

「……私、貴族じゃないし、まだ納税してないから北領民ですらないんだけど。あなたの理屈でいったら、なんになるの? 犬のクソ?」

 


 くひっと控えていたメイドから笑い声が漏れた。二人が見つめると、プルプルと震えだし途切れ途切れに「時間が来たら、お呼び、いたしますので、お待ち下さい」と言うと逃げるように部屋から出て行った。ツボに入ったらしい。ずいぶん下品な娘だな、とナタリアは思った。

 グレゴリーも噴き出した。それでいくらか緊張も緩んだようで、ソファに背中を預けると天井を仰いだ。



「前にも話ましたけど、おれは剣を振ってばかりで、貴族的な社交なんて全然わからない。リューリク家はドミトリー叙事詩にだって出てくる名家なんすよ。物語の中の存在に呼ばれるなんて……」

「オーラブ騎士団だって十分に伝説的存在だと思うけどね。それに社交なんて私だってわからないよ」



 嘘だった。ナタリアは元の世界では、知らぬ人のいない企業家だ。各国の要人とはファーストネームで呼び合う仲で、政界に与える影響力も計り知れないものがあった。社交パーティーに出席した事だって数えきれないほどある。冷静でいられるのは、そんな背景があった。

 それを知らないグレゴリーは、「よく平気でいられますね」と自嘲した。

 屈強な体に反して、情けない奴だとナタリアは思う。素直で、21歳にしては乳臭さが抜け切れていない。人生で醜いものをあまり見てこなかった、という感じだ。友人として付き合うには悪い相手ではなかったが、これから裏社会を相手に共に戦っていく相棒として考えると、不満はあった。

 しかし、同時に思う。グレゴリーはナタリアの半分以下の歳だ。彼女は子どもを作らなかったが、いたとしたら。まだ少し固い彼を見ていて、ふとそんな考えが彼女の頭に浮かんだ。

 彼女は困ったように笑うと、彼を励ます。



「貴族が偉いとか、爵位がどうとか、いまいちわかってないから……かも。馬鹿なのよ、私は」

「……そっちに座って良いっすか?」



 縋るようなグレゴリーの視線に、少し迷ってからナタリアは頷いた。グレゴリーは滑るように、彼女のいるソファまで来ると、触れることなく距離をとって座った。

 ナタリアはグレゴリーの胸を軽く叩く。彼が振り向くと、わざとらしく小ばかにしたように笑って見せた。



「落ち着きなよ、坊や(キッド)

「……おばあちゃん(グランマ)

「ふざけんな、このやろう! おばあちゃんはないだろ!」

「そっちこそ、坊やってなんすか、坊やって! 大体、ナターシャは大人っぽいってより、枯れてるんすよ! 服装だって、なんすかかその恰好。加齢臭がするんすよ!」

「……ふーん」



 ナタリアは面白くなさそうな顔をした。

 変装して街に出る、と決まった時ナタリアは自分で服装を考えることにした。メイドたちでは、どうしたって小奇麗にまとまりすぎるためだ。彼女たちでは、いくら崩そうとしても出来上がるのは貴族の気品が隠し切れない姿だった。

 五十近いおっさんが数百年前の十代の女の子の服装を本気で考えた。そんな悪夢みたいな事をした結果、出来上がったのは落ち着き過ぎた行き遅れ女の恰好オールド・ミス・ファッションだった。

 メイドたち、特にターニャには「帽子がでかくて、ださすぎる」と涙目で止められたが、途中から意地になったナタリアは強引に外出に踏み切っていた。彼女は二、三回服の裾を振って、気にする素振りを見せた。その態度で、グレゴリーは一部始終を悟った。途端、彼の背中を冷や汗が流れる。



「いや、今のは違うんすよ。ものの弾みというか、その」

「別にいいけど。私にセンスがないのは知ってるし」



 彼女が突き放すように言えば、面白い程グレゴリーはさらに弁解を重ねた。緊張も吹っ飛んだのか、すっかりいつもの調子に戻った彼を盗み見て、ナタリアはそれならいいかと思った。枯れている、と言われようとファッションを馬鹿にされようと彼女は特に思うことはない。

 ただ、『加齢臭』の一言に彼女はドキッとした。実年齢的に、相当くるワードだった。昔、若い娘に酒の席で「くさっ!」と言われた事が、ほんの少しトラウマになっていた。

 一度、確かめるように服の匂いを嗅ぐと、グレゴリーの謝罪は言葉が増えた。何となくおもしろくなった彼女は、しばらく拗ねたふりをして窓から外を眺めていた。











「ようこそ。ぼくがリューリク家当主、ウィル・リューリクです」



 日の光を背に受けながら彼は座っていた。

 大きな執務机。その上には書類が高く積み上げられ、インク入れの蓋は開いていた。羽ペンはたった今、放り投げたと言わんばかりに彼の右手付近に転がっている。

 ナタリアは余所行きの顔を作ったまま、騙されているのかと確かめるようにウィルの後ろの男にちらりと視線を移した。その男の氷像のような雰囲気は揺るがない。

 ウィルと名乗ったのは、まだ十歳前後の少年だった。幼い顔の目の下は隈で黒く、整髪剤で無理矢理に抑えられた髪が、日を浴びてテカっている。

 世襲制の弊害。一瞬頭に浮かんだ言葉を呑み込み、彼女は恭しく頭を下げた。



「お忙しい中、時間を作っていただきありがとうございます。ナタリア・ロストワです。本日はご挨拶に伺いました」

「噂はかねがね。せっかく来ていただいたのに、お待たせして申しわけない」

「私も急な訪問でした」

「いえいえ。スケジュールは、我が家の優秀な執事長が整えてくれました。しかし、なんとも当主の方がポンコツなもので」



 そう言ってウィルは、隣に控えていた男を指し示すと、彼は一歩前に出て頭を下げた。ニコリともせず「カルロです」とぽつりと言って、何事もなかったように元の位置に戻る。特徴のない男だ。雰囲気がテオドールに似ていて、ナタリアは苦手だと思った。

 ウィルは執務机から離れると、近くのソファーにナタリアをエスコートし、彼女が座るのを確認するとおどけた様に口を開いた。



「リューリク家現当主がこんな子どもで、おどろいたでしょう?」

「正直に言わせていただければ、衛兵をまとめているのは、もっと恐ろしい方だと思っていました」

「ははっ、素直な人だ。確かに父は"恐ろしい方"だったのですがね。ぼくはこの通り。周りには、小便も座ってしそうなガキとよく言われますよ」

「お戯れを」

「いや、失礼。女性にする冗談ではありませんでしたね。冗談もまだ未熟なもので」



 そう言って、愉快そうに少年は笑う。ひどく卑屈な笑いだった。

 年齢に見合った幼い顔立ちに、声変わりもしていない声だが、立ち振る舞いは堂に入っていた。しかし、言動の端に見える自虐が得も言えぬ気分にさせる。

 じっくりと観察しているナタリアの後ろにウィルの視線は動く。その明らかな催促に彼女もグレゴリー挨拶を、と答えた。

 彼はナタリアの後ろに控えたまま、グレゴリー・カチモフ男爵です、と簡単に挨拶をした。待合室ほどの動揺は見せないが、まだ固さはある。

 フォローするようにナタリアは「私の供をしてもらっています。優秀な男です。こういった場にはまだ慣れていないようで、不愛想なのは許してください」と続けた。

 彼女の話は耳に入ったのかどうか。ウィルは、視線を宙にやってカチモフ家と何度か呟いていた。それでも思い出せないようで、カルロに視線を向けると、すぐさま彼は「西海岸の」と囁いた。それでウィルも思い出したようだった。



「あぁ! カチモフ家というと、リャダモーレンの?」

「驚きました。片田舎の貴族をよくご存じですね」

「あなたのお父様がオーラブ騎士団の大隊長だったことも、副団長補佐の候補だったことも知っていますよ」

「……もう十年以上昔の話です」



 グレゴリーの固い口調は、先ほどまであった緊張と違う拒絶を表していた。その態度は明確で、この話題を避けたがっているのがはっきりと分かる。無礼すぎる態度に少しまずいかもしれない、とまたフォローを入れようとしたナタリアより先に、ウィルは気を悪くした様子もなく「そんなに昔でしたか」と話を区切った。

 目を伏せ謝罪を表すナタリアに、ウィルは苦笑いで応じた。

 そこから、他の侯爵と交わした会話の使いまわしをしながら、ナタリアは頭の中に『十年以上前、リャダモーレン、グレゴリーの父親』等のワードをしっかりと刻み込んだ。











 テンプレートに乗っ取った会話が一通り終わった。訪れた沈黙の中、ナタリアは手に持ったティーカップの水面を眺めながら、どうしたものかと考えた。

 裏社会に殴り込む。今後、それが彼女の計画の主軸となることは間違いなかった。過激にヤり、おいたが過ぎれば衛兵、つまりはリューリク家は敵になる。

 人生で、悪魔やサイコパスと非難され続けたナタリアだが、善悪の区別はつく。ただ、彼女の強い目的達成意識の前で法律の持つ拘束力があまりにも弱いだけの話だ。彼女に法を守る気はないが、リューリク家と対立する気もなかった。……対立する力も権限もないとも言えた。

 この場所は、フランスのリヨン、いや警察庁だ。せっかく、そんな場所まで来てそのトップと会っている。彼らに邪魔されないためにも、協力関係を築きたいと考えていた。その種を、今日のうちに蒔いておきたかった。

 残り少なくなった紅茶が、彼女に与えられた時間を物語っている。



(帰りたくない、とか言って甘えてみるか?)



 そんな手を考えていないわけではない。

 彼女は自分の容姿がそれなりに整っていることを、とっくに自覚をしていた。それは、自分の中の何か大切なものをゴリゴリと削る諸刃の剣であるが効果があることも分かっている。



 だが、相手は精通しているかもわからないお年頃。その上、会話をしていても、ウィルはグレゴリーを見ていた。あからさまに顔を向けるようなことはしていないが、大抵男の視線は自身の胸か太もも、もしくは目に集中していただけに、彼女は相手の視線に敏感になっていた。

 色仕掛けどころか、この会合の後にナタリアの顔をしっかりと覚えているのかすら怪しかった。



 彼女に時間はなかったが、相手は自分に興味がなかった。

 ティーカップを手の中で遊ばせ、そして彼女は諦めた。残っていた最後の一口を飲み干し、少し大げさにテーブルに戻す。客側の帰る合図だ。後はウィルが退室を促すのを待つだけとなる。それで会合は終わる。タイミングは良かった。その、はずだった。

 目の前で注がれた二杯目に、ナタリアは素直に驚いた。貴族たちの中でそれは、明確な意味を持っている。ナタリアは帰りたくなかったが、ウィルも彼女を帰したくないようだった。

 望外に訪れた機会。引き留めておきながら尚も沈黙を保つウィルに、それならとナタリアは切り出した。わかりやすくウィルの執務机の方を向き、少し緊張しながら質問する。



「公務もウィル様が自らなさっているのですか?」

「ええ。と言っても、ぼくは下から来る報告をまとめて、サインとハンコを押すだけですよ」

「……衛兵をまとめるというのは難しそうですね。今の北領では、特に」 



 女が、男の仕事に口を出す事は嫌忌されている、とナタリアも教えられていた。それも貴族でもない田舎出身のクソアマが、叔父の権力を傘に話し始めたら、これほど面倒くさいことはないだろう。そんなことは彼女自身わかりきっていた。

 ナタリアは、カルロの視線が馬鹿娘を見るそれに代わった事に気付いた。場が違えば、顔に唾でも吐きかけてきそな敵意を目に宿している。背後のグレゴリーの緊張が、痛い程伝わってきた。

 肝心のウィルは、唖然としたような困惑したような表情で、ナタリアの顔を凝視していた。初めてしっかりと目と目があった、とナタリアは思った。



「……確かに、難しいですね。ぼくのような若輩者には。特に」

「ウィル様がどうといった話でもないはずです」



 言い切った言葉に、ウィルの表情が歪み手に持ったカップが鳴った。何も知らない小娘の気休めに、怒っているのが手に取るように分かる。その表情に、態度にコンプレックスに触れたと彼女は察した。

 関心が今日初めて自分に向いていることにナタリアは一安心した。これでもまだグレゴリーに熱心なら、ゲイやろうと罵るくらいしか彼女には思いつかない。

 しかし、問題はここからだ。彼女はここ数日で学んだことを頭の中で思い返した。手札は少なく、それでも戦わなくてはならない。

 堰を切ったように、ウィルは喋りだす。



「北領が荒れているのは、ぼくの力不足です。父が当主の時は、北領は平和な街でした。犯罪も今より少なかった。ずっと、ずっと少なかった」

「単純に比較はできないでしょう。南の果てで帝国がエルフの里を焼いたのは私も知っています。里を焼かれたエルフが移民となり、亜人との共存を掲げるこの北領に流れてきた。人間に故郷を焼かれたエルフが。……さらに、近年は貴族の不幸も重なりました」

「……よく、勉強なされている。しかし、リューリク家の、衛兵の力が弱まったのは事実でしょう。少し前は、リューリク家の名を聞けばどんな犯罪者も震え上がった。それが今では酒の席の笑いの種だ。……これは僕の責任だ」

「ウィル様!」



 吐き捨てるように話した少年を、執事は窘めた。

 何となく、彼の置かれている状況がナタリアにも見えてきていた。リューリク家の前当主、ウィルの父親は一年程前に暗殺されている。後継者候補は成人前だが実子であるウィルと、父親の弟、ウィルの叔父にあたる人物がいた筈だ。ウィルが跡継ぎに選ばれるのは順当な結果であるが、普通であれば自身の領土に戻っている。

 だが現実として、ウィルがここで仕事に忙殺されている。面倒ごとを叔父に押し付けられたと想像できた。

 ナタリアは午前中に会った他の侯爵の事を考えていた。年寄りは狸揃いで、若者も政治を理解している。なりより彼らは大人の持つ汚い物の塊のような存在だった。ウィルのような少年が飛び込むには、醜く荒みすぎている。



 ナタリアには彼が、責任感が強く、年の割に賢いせいで自分の置かれている状況を正しく認識している実直な少年に見えた。年若い権力者が、自分の能力を超えた事態に追い詰められている。

 それは、とても可哀想なことで、――同時にとてもラッキーな事だった。弱っている少年など餌でしかない。ナタリアは、にやけそうになる頬を引き締め言葉を選ぶ。彼が欲しているだろう言葉を。

 ナタリアは可能な限り優しい笑顔を浮かべた。流石というべきか、長く生きているだけあり包容力に溢れた笑顔(凶器)は、今の容姿と合わさり無敵だ。それは彼女自身の想像を超えた破壊力を持っていた。

 ウィルが正面から戦うのは、棒切れでドラゴンに挑むほど無謀なことだった。笑顔、それだけで彼は彼女に呑まれた。自然と最初にあった勢いも失せ、見惚れた。彼女は畳みかける。



「いえ、やはり衛兵だけが原因ではないでしょう。私には、むしろ北領が荒れているのは裏のルールが緩んだからのように思えます」

「……裏の?」

「えぇ。世代交代か、新しいビジネスか、移民もあるでしょう。とにかく、様々なタイミングが重なり、均衡を保っていた裏の社会のパワーバランスが大きく崩れ、無秩序となった」

「……なるほど、おもしろい着眼です。心あたりも、ある」

「時代が、タイミングが悪かった。ウィル様は、そのとばっちりを受けているのですよ。時代の、とばっちりを。古今東西どんな英雄だってこれには逆らえません」

「……そんなことは、初めて言われました」



 ウィルは深くソファに体を預けて何か考え込んだ。

 ナタリアは紅茶に口をつけながら、彼の反応を待った。できれば手でも握ってやりたい気分だった。今なら胸のひとつやふたつ押し付けてやってもいい。身体的接触が相手に与える影響は馬鹿にできない。詐欺師の手口だ。これをやられると騙されるとわかっていても、ころっといってしまう時がある。実体験だ。

 手応えはあった。彼の男のプライドを尊重し時代を敵としてそれっぽく、どうしようもない様に話した。真実なんてもちろん彼女にもわからない。

 やがて、ウィルは「僕はどうすればいいのでしょう……」と独り言のように呟いた。ナタリアは危うく紅茶を噴き出すところだった。心の中は大爆笑だ。彼女は吊り上がりそうになる頬を何とか抑えて、真摯な表情を作った。

 ウィルの迷子のような瞳が、ナタリアの後ろに控えるグレゴリーに縋った。



「グレゴリー卿をお呼びしたのは、オーラブ騎士団の方に現在の北領の事を聞いてみたかったからです」

「……それは、なにか勘違いなされてる。オーラブ騎士団は対魔物が本領です。対犯罪に衛兵より詳しいものは……」

「……そうですか」



 それきりウィルは黙った。まるでそれが、最後の望みだったと言わんばかりに。

 沈痛な表情で黙るグレゴリーに、同じような表情を作りながらナタリアは心の中で彼に万雷の拍手を送った。よくぞとどめを刺した、と。

 陰鬱な雰囲気を吹き飛ばすように、彼女は話す。



「諸悪を根元から断つというのはどうでしょう? 裏の社会に力による秩序を与える」

「……面白いアプローチだと思います。しかし……」



 できるなら、やっている。そう続くだろうと予想できた。もちろん、彼女も分かっていて聞いた。お前には、それを実行できる能力のある人材がいないという事を強調するために話した。



 ナタリアは、懐から小刀を取り出した。

 事態は急速に動く。カルロがどこから出したのか剣を抜き、まっすぐと彼女の首元に突き刺した。老体とは思えない速度。その切っ先は彼女に刺さる寸前、グレゴリーの右手に掴まれた。彼の左手に持つ剣がカルロの心臓を狙い、寸止めされた。

 いささか過剰な反応に見えたが、先代が暗殺されたことを考えれば理解できる。いっそ刺されれば、その後の交渉で有利になるとすらナタリアは考えていた。しかし、グレゴリーが動いたなら期待通りだ。自分の後ろには、オーラブ騎士団がいることを印象付けることができる。

 ナタリアは小刀を机に置くと、茫然としている小さな当主に差し出した。ようやく正気を取り戻したウィルがカルロに声をかけて、しばらく殺気に満ちた部屋の空気が緩和した。ウィルのため息がひときわ大きく部屋に響く。



「いったい、どういうつもりです?」

「無礼は承知です。しかし、こうすることが一番わかりやすいと思いました。――その役割を、ぜひ私に任せてほしい」

「……わかりませんね。まったく、意味がわからない」

「協力したいのです」

「笑わせますね。馬鹿にしているとしか思えない、何ができると言うのです?」

「ウィル様が必要な物を、私は持っています」



 それを聞いてカルロが鼻で笑った。未だ興奮収まらぬ目でナタリアを睨みつけ「お前のような小娘が?」と嘲笑する。

 彼女は挑発的な笑みを浮かべ、真っ向からカルロを見た。右手が茶色のウィッグにかかり、それを乱暴にとる。部屋の中の光源を吸い取ったように輝く黒髪が、姿を現した。

 驚愕に目を見開くカルロに向って「ノルニグル族の小娘だ!」と彼女は言い返した。

 空白の時間。北領で黒髪が与える影響は大きい、そのことをナタリアはぼんやりと理解していた。彼らが落ち着く前に、彼女は最後の追い打ちをかけた。

 硬かった表情をわざと崩し、哀願するようにウィルに向き合う。



「叔父様は私の大恩人です。恩返しをしたいのに、私には剣を振るしか能がない。誰彼構わず斬って、叔父様が喜ぶはずもない……だから、私はウィル様の持つ情報を利用します」

「利用ですか」

「そうです。そして、ウィル様も私"達"の力を利用する」



 利と理を説き、感情論を最後に持ってくる。しかし、そこにあるのはお互いの利己心の繋がりのみ。それはきっと魅力的な響きを持ってウィルに伝わったはずだった。

 大きく息を吐いて、ウィルは背中を椅子に預け疲れた様に笑う。最初に比べいくらか親しみ安い表情だった。



「噂に違わず、型破りな人だ。そこが魅力的でもある」

「ありがとうございます。と言うべきでしょうか」 

「……一つだけ条件が」

「なんでしょう」

「今度、一緒にランチでもしましょう」

「まぁ」

「いえ、あなたほどの美人、口説かない方が失礼かと思いまして。これでも一応、男なので」

「そう卑下しないでください。まだ成人していなくとも私には、立派な男に見えますよ」



ウィルは年齢に見合った、少年らしい仕草で照れ臭そうに視線を外した。










 リューリク家の屋敷を背に、ナタリアは大きく背伸びをした。肺いっぱいに空気を吸い込んで、それでようやく歩く元気が出てきた。

 日の傾き始めた時間帯。どこか懐かしい匂いがした気がした。胸をかくむしりたくなるような静寂に、なんとなく歩みも速くなる。

 しばらく道を進み屋敷が見えなくなると前を行くグレゴリーが、振り向いた。



「ナターシャ、俺すっっっごい感動したっす!!!」

「……何?」

「閣下を思う強い気持ち! そんな事を考えていたなんて! くぅー、燃えてきたぁぁあ! 俺も全力で手伝います!!」

「……あぁ、まぁ、うん。ありがと(真に受けちゃうかぁ)」



 でも、あんな危険な真似はもうしないでくださいね、と続けるグレゴリーに取り出した資料に目を通しながらナタリアは後をついて歩いた。

 悪い結果ではなかった。ウィルから渡された資料は、思いのほか量があり内容も悪くない。ただ用意が良すぎるし、理解が早すぎる。どうにも臭う。それでも、どうすることもできないことも分かっている。

 ナタリアは資料を胸元にしまいながら「この資料の事は……」と先を歩く上機嫌なグレゴリーに話しかけた。

「わかってるっすよ。言いふらしたりはしないっす」とグレゴリーは話した後、思い立ったように振り返り真面目な表情を作った。



「アンナとエルゼにも、ですか?」

「……」

「……そっすか」



 残念そうに目を伏せるグレゴリー。純粋すぎる彼は罪悪感に苛まれているようだった。つくづく向かない、今まで無菌室で生きてきた箱入りな乙女のような男だった。



「グレッグ、あなたには私の味方でいてほしい」

「おれも、そうありたいっす」

「それはもちろん、二人にも。……でもね、今私の周りはたくさんの人の思惑で溢れて、敵も味方もない。私はそう考えているよ」



 いつだったか彼女に握らされた紙を思い出して、グレゴリーは顔を歪めた。

 考え込みながら再び歩き出した彼を見て、ナタリアには経験からある予感が過った。このタイプの人間とは、きっと思想でぶつかり合うというものだ。そこで血が流れるか、黙って自分から離れるか、もしかしたら邪魔になるときもあるかもしれない。

 ただ、――ただ、それでも構わなかった。この子供がどう歯向かってくるか楽しみですらある。

 その時まで、仲良くありたい。仲がいいほど、ぶつかりあった時の爆発力は素晴らしくなる。

 だから、ナタリアは先を歩く彼の裾を引いて覗き込むように見上げ「さっきは、ありがとうね。助けてくれて嬉しかった」と自分が考えうる一番かわいい表情と声色で話しかけた。

 効果はてきめんだった。ちくしょう、わかってるのにちくしょうと蚊の鳴くような声で呟いたグレゴリーは、鼻を抑えて中腰でよろめいた。同時にナタリアにもダメージが来た。男のプライドががりがりと削れる。仮に自分の喘ぎ声でも聞いたら自害するだろう、と思えるほどの男のプライドが彼女にも残っている。

 グレゴリーは壁に背を預けて座り込んだ。抑えた右手からは鼻血が一筋垂れて、道路にシミを作る。本当に、興奮して鼻血が出るってあるんだなぁ、と反対側の壁に背を預けながら他人事のように考えた。なぜ立ち止まったのか尋ねないのは彼女の慈悲だ。

 沈黙を嫌うようにグレゴリーは喋った。



「ユーリって覚えてます?」

「私たちが最初会った時に一緒にいた彼の事?」

「ええ。生まれがここで、ずっとここに住んでるんすよ。北領の事情には詳しいと思いますよ。それに、ちょっと」

「何?」

「俺が言うのもなんですけど、オーラブ騎士団に入るのって大変なんすよ。特に俺とかユーリみたいに5、6年繰り上げで入団となると、相当なんすけど。……ユーリがどうして騎士になれたのか、これにはちょっと謎があるっす」

「へぇ、どんな?」

「正式にわかっているわけじゃないっす。でも、その時期にここで起きたことを調べれば、ユーリの功績も見えてくる。……北領連続貴族殺人事件って知ってます?」

「数年前から始まった北領有力貴族、およびその関係者を殺して回った事件でしょ? 北領二十一侯爵も被害にあった。……そういう事?」

「ええ、その犯人が捕まった時期と被るんすよね。ユーリの入団が」

「ユーリが捕まえた。いや、協力者がいた?」

「捕まえたのは、衛兵のとあるグループっす。……そこに関係していたんでしょうね。ってオーラブ騎士団の中じゃ、もっぱらの噂っす。従騎士時代って結構に時間ありますから、説得力はあると思うっすよ」



 そこまで話して、ようやくグレゴリーはまっすぐと立つことができるようになった。何事もなかったかのように歩き出し、彼女もそれに続く。こんなに時間がかかるなんて、よっぽど溜まってるのひっそりと彼女は思った。



「でもそれって、簡単に話してもよかったの?」

「おれは、ナターシャの味方ですから」

「……お前って、本当にかわいいやつだよな」

「なっ!?」



 慌てるグレゴリーを笑いながら感じたのは不気味な気配だった。

 ウィルへの訪問、グレゴリーもユーリもテオドールから与えられた。どこまで、奴は考えているんだろう。何かにつけて奴の影が見え、いちいち腹が立つ。

 ナタリアはエルゼとアンナの待つ喫茶店に向かいながら、ツァーリ・ボンバでも落ちてこないかなぁとぼんやりと考えていた。









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