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北領のナターシャ  作者: Peace
本物の悪
13/22

スラヴァ通りの古強者

 きっと忘れてる登場人物2


グレゴリー……オーラブ騎士団員。強い。ナタリアのせいで新しい性欲の扉が開きかけてる。


アンナ……レディースメイド、侍女。びっくりするくらいどこにでもついてくる。ぽろっと飛び出す毒舌には、光るものがある。


エルゼ……レディースメイド、侍女。まだ空気。





 ダーシュコワ家の北門、すぐ前にはドミトリー広場がある。そこから街の外まで北に伸びる三本の大通りは、数ある北領の名所の一つだ。そのどれも道幅は広く、ずらりと並ぶ建物は全てが商業施設であり、眺めて歩くだけで楽しめる。

 すだれが涼し気なアジア風の食堂の隣に、色鮮やかな植木鉢を壁にかけ、お洒落な看板を置く北欧風のカフェがある。かと思えばド太い剣を飾る武器屋が隣接している。

 この大通りには、北領らしい多文化に影響を受け混沌とした雰囲気があり、それが人気を集めた。



 三本ある大通りの内公爵家から見て一番左、通称スラヴァ通り。

 そこで八百屋を営むヴァレリーは、店の奥で椅子に座りボサボサの書物を読んでいた。春先でまだ肌寒いにも関わらず、袖を二の腕まで捲っている。北領民らしく体格に恵まれ、でっぷりと肥えた壮年の男だ。岩石から掘り出したような厳格な顔立ちで、これまた北領民らしく滅多に笑わない。

 立てば威圧感が躰から溢れ、子どもは泣き出し、ちんけな無頼漢は委縮する。つまり、びっくりするほど接客業に向かない男だった。

 いつも彼の妻にがなられ、店の一番奥でカウンターに隠れるように静かにしている。店は妻が接客からやっていたが、彼女は複雑な計算ができないので、その時彼は役に立つ。暇な時間は多いが、本人は書物を読めると満足しているのだから世話がない話だった。



 教会が鳴らした鐘の音が正午を告げ。その音に集中が切れたヴァレリーは、書物を閉じた。店内はフルーツの混ざり合い、むせる様な甘い香りがする。彼は慣れた香りに一息ついて、次いで店内の様子を見た。

 見慣れた狭い店内を把握するのは一瞬だ。妻は馴染みの客と話し込んでいて、こうなると長い。

 他に客は四人のハイティーンの一団がいるだけだった。ヴァレリーは本の余韻に浸りながら、ぼんやりと彼らを観察してみた。四人は誰も身なりが綺麗で、貴族か大きな商家の子息、息女だろうと思えた。

 男が一人に女が三人。男は若く顔立ちにあどけなさが残っているが、体格と背負う大剣から相当できることが見て取れる。

 女三人の内二人は腰に剣を帯びていて、それがなかなか様になっていた。一人は狐顔で常に笑っていながら、どこか油断できない雰囲気があり。もう一人は左目の上に刀傷が刻まれ、いかにも神経質そうに周囲に視線を飛ばしていた。

 最後の一人は、つばの広い帽子を深くかぶり、時季を考えれば少し厚着で、女には珍しくズボンを穿いていた。その少女が一団を引っ張っている様子で、小動物のようにせわしなく並べられた商品を覗きこんでいる。

 個性的な組み合わせの一団だったが、尻尾を生やした少女姿のばばあや、トカゲの顔したダンディボイスの少年だっている。ここが北領だと考えれば、おかしくはなかった。

 ヴァレリーが妻の様子から昼飯が遠いことを確認して、また読書に戻ると「おっちゃん」と声がした。まさか、自分に声をかけてくると思わず、読書を続けていると、今度はもっと大きな声で「おっちゃん!」と聞こえた。驚いて本から顔をあげれば、カウンター越しの思ったよりもずっと近い位置に、帽子で目元が隠れた少女がいた。ずいっと手に持ったリンゴを差し出してくる。



「これ、味見して良い?」

「お、おう」



 味見なんてサービスはない。予想外の出来事に口からとっさに出た返事だった。彼女はそれを聞くか聞かないか、そういうタイミングで、もうリンゴを齧っていた。そのままカウンター越しの、いつもは妻が使っている椅子に当たり前のように座り、一口ごとに「美味い」だの「これこれ」だの感想を呟きながら、食べ進めていく。

 堂々とした彼女の姿に、ヴァレリーは戸惑った。助けを求めるように彼女の連れに目を向ければ、三人はもっと戸惑っているらしい。特に若い男の動揺は顕著で、彼女に齧られ小さくなっていくリンゴと、ヴァレリーの顔を交互に見ながら「やばいっすよ……」と繰り返しもにょもにょ呟いている。

 自分より混乱している人間を見たヴァレリーは、いくらか平常心を取り戻した。同時に怒りとも呆れとも知れない感情が沸いて、マジマジと少女を注視する。彼女は笑って齧った痕のあるリンゴを持ち上げた。



「瑞々しいな、甘くて美味いよ」

「そりゃ、おめぇ。このヴァレリー様が自ら仕入れた商品が、まずいわけねぇだろ」

「この時期に、こんな新鮮なリンゴを。……これに比べたら、さっきの食堂で出たのはババアの踝ね」

「もしかして、そこのボーチカ食堂か?」

「わかるの?」

「ここらで一番でかい食堂だからな。ただ、やっちまったな嬢ちゃん。あの店がどんな食材を使ってるか知ったら、ひどいぜ。あんな飯、地元の者なら腹が減ってても食わねぇよ」



 彼女の口元の笑みが消えた。獲物に向かう肉食獣のような鋭さで、連れの男の方を向いた。不思議なことに、同じタイミングで彼も視線から逃れるように明後日の方向を向く。隠しきれない焦燥感がある。きっと、浮気を隠せないタイプだな、とヴァレリーはあたりをつけた。



「おかしいな。ねぇ、グレッグ? あの食堂は貴方おススメって話よね? ずいぶん地元の評価とズレがあるようだけど、私はどっちを信じればいいのかな?」

「申し訳ないっす。おれも又聞きだったんで、信ぴょう性はちょっと、味も正直アレでしたし。……でも、ナターシャは『うまいうまい』って、おかわりしてたじゃないっすか」



 少しむっとしたナターシャを窘めるように、狐顔の少女が口を開く。



「ナターシャ様は味覚が可哀想で口に入るものは、なんでも美味しいって仰いますから~。信じちゃダメですよ~」

「なるほど、確かにそっすね」

「あれ、なんだろう。話の趣旨がすり替わった上に、煽られたぞ。……ねぇエルゼ、どう思う?」

「その、あれを、普通に食べるナターシャ、は、偉い、と思います」

「三対一かよ、ちくしょう」



 明後日の方向を向いて、ナタリアは悔しそうに顔を歪め、一口リンゴを齧った。拗ねた様子はいじらしく、ヴァレリーもからかう彼らの気持ちが理解できた。後ろでニヤニヤとしている彼女の連れからは、悪意は感じられず、彼女も悔しがりながらどこかわかっているようだ。

 珍妙な存在だった。自分の容姿を恐れず、まるで久しぶりに会った友人のように、ぐいぐいと距離を詰める。それでいながら、本当に近づいてほしくないスペースは残っていた。

 ヴァレリーが今まで体験したことのない感覚だった。もう、商品を食われた事も気にならない。人徳ってやつなのかもしれない、と思った。

 彼女に興味が沸いた。気付いた時には、ヴァレリーは自分から握手を求め、手を伸ばしていた。寸分の迷いもなく彼女はそれを握り、互いに「ヴァレリーだ」、「ナタリアよ」と名前を交わす。やはり、その時に彼女はすっかり笑顔を浮かべていた。



「市を回ってたのか?」

「見て回りたかったの。こっちに来たばかりだから、周りに挨拶してたんだけど思いのほか時間をとられちゃってね。気付けばお昼ってわけ。……あぁ、武器も買いに来たってのに、そっちも決まってない。まいったな」



 そう言って彼女は帽子を脱ぎ、それで顔を扇いだ。くすんだ茶色の髪が揺れて、黒っぽい瞳が覗く。声の調子や表情は明るいが、どこか愁いを帯びている。顔立ちも、この辺りじゃ見かけないほど整っていて、大人の色気を持つ少女だった。言動から、もっと幼い印象を受けただけに、見た目との落差にヴァレリーは驚いた。

 黒っぽい瞳。それを見て思い浮かんだのは、西の大陸とこの大陸の中間に位置している小さな島国の人間だった。一度そう思えば、顔立ちにも面影がある。それに、あの他国との貿易に消極的な島国の移民なら、"周りに挨拶"といった言葉にも納得できた。

 彼女の環境を勝手に想像して、ヴァレリーに親切心が沸いた。いや、美人に対する自然な反応だったかもしれない。



「若いのに大変だな。……そうだな、武器屋なら幾らか紹介できるぜ」

「そう? あっ、ドワーフはダメよ。ぶっとい剣とか、炎が出る盾とか、見えにくくなる鎧とか。ナンセンスだわ」

「ごついな。そんな武器は家が建つぜ。だがまぁ程度はどうあれ、そういった北領らしい武器が嫌なら粗品に手を出すか、いっそ南領あたりに注文した方が簡単だな」

「どっちもまずいよ。全く、これから寄らなきゃいけない所もあるってのに。……うまく、いかないもんだ」

「忙しそうだな」



 ナタリアは自分の首を絞める様なジェスチャーで答えて、微笑んだ。



 彼女は齧られ半分になったリンゴを、連れの三人に試食してみるように勧めてから店内を見渡した。なにか言葉を探しているようだった。ヴァレリーもつられるように彼女の視線の先を追う。

 並べられた商品の一つ一つに視線が移っていくのがわかった。店先には野菜類が、店の奥にはフルーツ類が陳列されている。どれもヴァレリーが直接交渉して仕入れた自慢の品だ。数も種類も豊富で、品質が高く。ついでに値段も高かった。

 店先から見えるスラヴァ通りには、無数の人が行き交っている。対して、店内に客がいない事を確かめて、彼女はぽつりと呟いた。



「おっちゃんは、あんまり忙しそうじゃないね」

「はっきり言うじゃねぇか。まぁ、その通りだけどよ。でもな、言わせてもらえば、これは世情ってやつが悪いんだぜ」

「あはは。八百屋の親父が説く世情か。……よし、拝聴しよう」

「馬鹿にしやがって。いいか、最近暗い事件だらけで北領民の心が荒れてるんだ。特に、半年ほど前にエルフ立ち入り禁止をうたうカフェで、爆発事件が起きたのが大きいな」

「物騒な話だ」

「まぁな。そのカフェは裏の人間が囲ってたらしくて。その連中、面目潰されたってカンカンよ。それだけならよくある話なんだが、どうも犯人はエルフの秘術を使った人間らしい。これが話をややこしくしてる。……まったく、人魔大戦以来の人間とエルフの協力がこの調子じゃあ、ドミトリー閣下も救われねぇや」




 話の途中で、彼女の連れが息を呑むのをヴァレリーは感じた。無理もない。魔物の襲来、魔術師の暴走などを理由に北領では、いつもどこかしらで爆発事件が起きている。その一つ一つの詳しい原因や裏の事情なんかは、下っ端の衛兵でも全て把握できていない。

 ナタリアは、呆れたとばかりにため息をついた。



「その事件の主犯を互いに押し付けあって、表も裏も人間とエルフは互いに疑心暗鬼ってわけ?」

「物分かりが良いな。補足するなら、押し付け合う最中に、血が流れちまった。エルフと人間の見分けがつかないだけに泥沼よ。人間とエルフの間の一線が、崩れかけてる」

「反人間派のエルフたちは、北領に自分の領地を持ってるわけでもない。人間社会に溶け込み、数も不明。なるほど、どこかで聞いた話ね」

「まぁ、明日急にどうなるって話じゃねぇ。元々、エルフとの間に争いの種は尽きねぇしよ。ただ、裏は荒れてるから人気のない道を行くときは、気をつけなって言いたいのさ。嬢ちゃんみたいな綺麗な子は、特に」



「お上手」と笑った彼女の雰囲気は、表情とは裏腹に冷ややかだ。ずいぶん大人びた対応だった。

 見た目の賛辞は聞き飽きているかもしれない、とヴァレリーは解釈した。あまり、変な事は言わない方が良いかと考える彼に「でも、」と声がかかる。



「それと客足がどう関係あるわけ?」

「それだがな。どうも俺は、その筋の人間と思われてるらしい。裏が騒がしくなるにつれて、客が減る」

「あっはっはっは! おっちゃん、その顔じゃ無理がないよ!」



 歯に衣着せぬ物言いは、ヴァレリーにとって新鮮だ。無礼な態度でありながら、全身を使って笑う姿を見ると憎めない。つかみどころのない、不思議な少女だった。

 反面、彼女の連れはわかりやすい。北領が亜人と人間の共存を掲げながら、互いに一線を引いているのは、住人しかわからない。それで下々の環境の深刻さに気付かないのは、上流階級と相場が決まっていた。

 そんな人たちに囲まれている彼女は態度といい、大人物なのかもしれない、と思い始めていた。










 「リンゴを、もらおうかな」とナタリアが言い出した。連れの三人にどれがいいか選ぶように言って店内に散らした。しっかりと三人が離れた事を確認した彼女が、ヴァレリーに身を寄せる。瞬間的に雰囲気が変わった。

 彼女の真剣な眼差し。ヴァレリーはそこに、色香とは違うぞっとするものを見た。まるで、チワワが次の瞬間オオカミに化けたような変身だ。



「おっちゃん、パーチェムって聞いたことない?」

「……」

「いけない薬ってことは、わかってる。いえ、それしかわからなかった」

「……八百屋だぜ。俺は」

「箱で買うよ」



 上流階級の人間がパーチェムを聞く、一気に胡散臭い方に話が進んだ。

 ヴァレリーは、そのことをいくらか知っている。仮に、彼女が自分の噂を知って尋ねてきたのなら、おもしろくない事に巻き込まれそうな気配がする。

 ここで知らないと言い切れば、彼女は深く追求しない、そんな気がした。潔く引き下がって、きっとより危険な方法で調べるだろう。真剣な瞳と剣呑な態度から、それが痛いほどよくわかった。どこか必死に見える彼女の姿が、昔の友人と被った気がした。そうなると、もう駄目だった。

 「四箱」とヴァレリーがぶっきらぼうに言うと、ちょっと笑った後「二箱」とナタリアは返した。



「三箱だ。譲れねぇや」

「まいったな。おっちゃん、商売上手だ」

「よく言うぜ。……はぁ。パーチェムってのは半年ほど前から流行りだした麻薬だ。誰が作っているのかも、何処から流れてくるのかもわからねぇ。ただ既存の物に比べ、高品質で流通量が少ない。宝石ほどの値段が付く、なんて噂も聞いたことがある」

「それだけ? 他には? 見た目とか、なんでもいいんだ」

「さぁね。詳しくは知らんよ。なんせ俺は、ただの八百屋の親父だ」

「……じゃあ、数か月前に吹っ飛ばされたカフェ。そこを囲ってた連中の名前は?」

「おまけだぜ。ビアンキとかビアンキファミリーって名乗ってる阿呆どもだ」



 沈黙。彼女は、ヴァレリーに鋭い視線を送っていた。その瞬間には、冗談でも言おうものなら張り倒さんばかりの気迫だけがある。情報を吟味しているのだとわかった。もしかしたら、自分の事も吟味しているのかもしれない。抜け目のないところが友人に似ているとヴァレリーは思った。あるいは、裏の事情に通じている人間は似るのかもしれない。

 しばらくして、彼女は愛想のいい朗らかな雰囲気に戻った。その変化には、危うさがある。気付けばヴァレリーは忠告していた。



「嬢ちゃん。余計な世話かもしれねぇが、パーチェムはマジでヤバいぜ。命が惜しけりゃ、関わらねぇこった」



 彼女は答えず、ただ曖昧に笑う。それは、命より大切なものを持っている、刹那を生きる人間が浮かべる笑顔だった。










 商品は後で取りに来ることに決めた。三箱分の金額で少し揉めたあと、一団は店から去っていった。すぐに彼女らの姿は、スラヴァ通りの人ごみに紛れて見えなくなってしまったが、ヴァレリーは通りを見つめていた。昔の友人の考えていた。一年程しか経っていないのに、もう顔もはっきりと思い出せない。

 黙り込んでいる彼の前に、妻が紅茶を置いた。彼が夢から覚めた様にそちらを見れば、妻は怒ったような拗ねたような表情でジトっと見ていた。意識がはっきりとして、そこで初めて背中がいやな汗で濡ていることに気が付いた。



「なんだよ?」

「若い娘に鼻の下伸ばして、楽しそうにしちゃってさ。あたしは恥ずかしいったらないよ」

「バカ言え。あんなもん、怪獣だぜ」

「どこが? 華奢で綺麗な子だったじゃない。あんなに楽しそうなあんた、久しぶりに見たよ」

「……どうせ。……いや、いいじゃねぇか。三箱も儲けがでたんだから、文句は言わせねぇぞ。それより、飯だ。飯。俺は飯食って寝る」



 まだごちゃごちゃ言っている妻を、店の奥にある住居スペースに押し込んだヴァレリーは、もう一度スラヴァ通りの方を向いた。すぐそこに、まだ彼女がいる様な気がした。

 「ありゃどうせ、長生きできないぜ」不貞腐れた様に呟いたヴァレリーの言葉は、妻にも聞かれなかった。











 昼下がりのスラヴァ通りは、相変わらず人が多い。ナタリアは少しでも人混みを避けるために、グレゴリーを盾にして後ろを歩いていた。彼も人混みには慣れていないようで、よく人にぶつかり「いてっ」や「すいません」など情けない声を出しながら歩いている。その度に、隣でアンナは忍び笑いをしていた。

 街中は喧騒に包まれている。辺りには食べ物や汗、動物の独特の匂いが入り混じっていた。すれ違った爬虫類人間を眺めながら、この匂いは夏になればたまらないだろうな、と彼女は思った。



 ナタリアはヴァレリーに適当にあしらわれたのかも知れない、と考えていた。女で、子どもだから、軽く見られたんじゃないか、と。前を歩くグレゴリーの逞しい体躯を見ていると、そんな考えが浮かんだ。すぐにそれが、軟弱な未練と嫉妬からくる醜い感情だと気づいて深呼吸した。

 心まで女々しくなってどうする、と自分を叱咤して一呼吸置くと、情報を頭の中で整理した。



 パーチェムの事を、ダーシュコワ家のメイドは誰も知らなかった。ヒントをくれたのは、舟守というダーシュコワ家の船を管理している男だ。貴族の息女だらけのメイドに比べ、俗なことに詳しい人物だったが、それでもいけない薬という事しかわからず。代わりに教えてもらえたのが、スラヴァ通りのヴァレリーだ。

 偏屈な男で八百屋を営み、北領の事情に詳しい。気に入った相手であれば、商品を買うことで情報をくれる人物、そんな話だった。



 テオドールは、パーチェムについて調べてこいと言った。まさか、さっきヴァレリーに聞いたことをそのまま伝えて終わり、とはいかない。彼は北領の中心に近い人物だ。もっと詳しい情報を持っているのは間違いなかった。

 本当にパーチェムについて知りたいのか、という疑問すらある。彼の言葉に隠された意味、それを見つけなければいけない。

 とにかく、時間がなかった。タイムリミットは、来月までの三週間と数日だろうと推測できる。貴族にお披露目するまでの期間だ。それを過ぎてしまえば、ナタリアとしてのレールは完成し、後はその上を走るだけになる。それまでに結果を出さなければいけない。



 ヴァレリーはパーチェムは麻薬だと言った。非常にデリケートな問題だとナタリアは思う。すぐできる対策なんて、警備力の強化くらいだ。本腰を入れるなら、裏社会の組織図や北領の社会的背景から調べなくてはいけない。正攻法でいけば、十年以上かかる。

 もし、倫理と法律に縛られた行動しかできないなら、難しいだろう。

 北領の裏社会に殴り込むしかないかもしれない、と彼女は考え始めていた。パーチェム含め裏社会の事は、裏社会の住人が一番詳しい。だから聞きに行く、単純だ。テオドールの想像を超え、知らない情報を得るにはそれしかない。それに、"話し合い"をすればどんなにタフな悪人もわかってくれる、という自信もある。問題は、どのタイミングでどこから切り込んでいくかだった。









 グレゴリーは、人波をかきわけ脇道に入った。人通りが少ない道に出て、四人が全員いる事を確認すると、誰ともなくため息をついた。スラヴァ通りから一本脇道に入っただけで、ずいぶん静かになる。三階建ての建物に挟まれた道は、人混みの中とは違う圧迫感があった。通りの奥の方に、ベランダで洗濯物を干している若い娘の姿が見えた。

 日の当たらない位置で止まり、グレゴリーが振り返りながら「次はどこ行くんすか?」とナタリアに聞いた。

 「ちょっと待って」と言いながら彼女は、胸元から折りたたまれた紙を取り出した。ぶつぶつ呟きながら、彼女の指は紙に書かれた貴族の名前の上を滑る。午前中に挨拶に行った貴族の名前の上には、印が付いていた。同じ家の貴族でも挨拶する順番は変わる。細かく指示の書いてある紙を読むのは、時間がかかりそうだった。

 そちらにちょっと視線をやった後、グレゴリーは彼女の茶色い髪を見つめていた。



 黒髪黒目は非常に珍しい。黒目だけならば、黒っぽく見える濃褐色の瞳が西の大陸、中間に位置する小さな島国にいる。だが黒髪となると、他の大陸でも珍しく、東の大陸と呼ばれるここではノルニグル族の少数の氏族だけだ。特に彼女の持つ見事な濡羽色ともなれば、世界でも数えるほどだろう。

 ナタリアは茶髪のウィッグを被っていた。公爵の姪の存在を、貴族より先に平民に知られるのは良くないらしい。今月が追悼の月の関係もあり、公爵から平民に正式に発表があるのは来月らしく、それまでは正体は隠す、と言っていた。グレゴリーは、彼女のミステリアスな雰囲気によく似合っている黒髪が好きだっただけに、それが気に入らない。

 そもそも、黒髪を見てノルニグル族に結び付けることができるほど教養のある平民がいるなんてグレゴリーには思えない。貴族としては最底辺とはいえ騎士階級の彼だって、初めて会った時は綺麗な髪としか思わなかった。しかし、その事を言っても、彼女は曖昧に笑うだけだ。ズルい笑顔だった。

 言い訳がましい思考を重ねるグレゴリーは、ふと視線を感じてナタリアの隣を向いた。訳知り顔のアンナが、いつものニコニコと違うにやにやとした笑顔で彼を見ていた。ナタリアの事を長い間見つめ続けていた事に気付いたグレゴリーは、急に気恥ずかしくなって「違うっすよ!」と思わず弁解が口から出た。急な大声に、近くにいたナタリアの体がびくっと震えてグレゴリーを見た。



「なにが?」

「いや、そういうのじゃないんすよ。ナターシャ」

「だから、なにが?」

「いや、あの。あっ! 次どこ行くか決まったすか? あいさつ回りなんて早いところ終わらせましょうよ!」

「……まぁ、次はリューリク家だけど」

「衛兵の総括やってるリューリク家っすか! いいっすね! 行きましょう行きましょう!」



 腑に落ちないナタリアを置いて、元気よくグレゴリーは歩き始めた。アンナが横を通り過ぎざま彼女の肩に手を置いて、いい笑顔でサムズアップして彼に着いていく。首を傾げ「締まらないなぁ」と呟いたナタリアは、几帳面に待っているエルゼを連れて彼らに続いた。




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