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北領のナターシャ  作者: Peace
本物の悪
12/22

始動(後編)




 不機嫌。オーラブは顔にそう書いたまま、食器を鳴らし、ずっとナタリアを見ていた。

 食事が始まってからは、アレクセイがずっと喋り続けていた。頭に浮かんだものを、そのまま口に出しているようで話はよくとび、昨日の事を話したかと思えば、続きのように十年も前の事を話した。話の節々でイエヴァかテオドールが補足を挟んで、それで何とか理解できる、と言った具合だった。それにもナタリアは気にした様子もなく、アレクセイのつまらない話に几帳面に相槌を打って、山場になると体を大げさなほど精一杯に動かして笑う。真面目な顔つきが、次の瞬間に、ふにゃっと人懐っこい笑顔に変わる。どきっとするような変化だった。

 何より見ていて気持ちがいいのは、こちらの食欲を刺激するほどの食べっぷりだ。顔を綻ばせておいしそうに咀嚼する姿は、小動物を想起する。周りも、ついつい食が進んでしまっていた。

 食事が終わり、イエヴァの入れた紅茶を飲み、つられて甘味なんてものを久しぶりに食べる頃になって、アレクセイのよく動く舌が鈍くなった。少しの沈黙の後、それを恐れるように無理矢理、話を続けた。



「しかし、もう六日か。どうだナターシャ、ここの生活には慣れたか?」

「ええ、みなさん親切ですから」

「部屋は用意した、服も見繕った。うーむ、まだ不便はあるか?」

「いえ、何も」



 おや?、とテオドールが柔らかい笑顔を彼女に向けた。



「ナターシャ、前に話していたじゃないか」 

「テオドール様!」

「なんだ、何か欲しい物でもあるのか?」



 聞きながら、アレクセイは上機嫌だ。彼の娘はナタリアくらい歳の時には、化粧品や洋服なんかを欲しがり、よく小遣いが足りないと不貞腐れていた。それは自然なことで、子どもらしい甘え方だし、一種の信頼の形だと思っていた。それに比べ、この数日間ナタリアは何が欲しいとも言わない。着ている服はアレクセイが強引に与えたものだが、そうでもしなければ彼女はいつまでもサイズの合わない服を引きずって歩いていただろう。

 彼女からの初めてのおねだりが、自分に気を許してくれた証のようで嬉しかった。



「できるなら武器を」



 ふむ、と頷き考える素振りをして、アレクセイは自身の頭を撫でつけた。

 武器がほしい。そんな簡単な話にしては、彼女の表情は真剣である。彼はその言葉に込められた意味を考えて、すぐ一つの可能性が脳裏を過ぎた。途端にじわじわと心が焦燥感でいっぱいになり、その考えを振り払うように、無理やり笑った。



「ははっ。武器を欲しがるなんて君達(ノルニグル族)らしいな。どんな物が欲しいんだ?」



 アレクセイは質問をしながら、その答えを聞きたくなかった。自分をまっすぐと見つめる彼女の決意を秘めた瞳が、子どものわがままじゃないと雄弁に語っているからだ。妻のカチューシャの若い頃を思い起させる嫌な瞳だった。彼女も大切で無茶な決断を下すとき、こんな顔をしてお願いをしたものだ。頑固な彼女を一度だって止めることができなかった。

 目の前の少女に彼女と同じ血が流れていることが、嫌なほどわかってしまう。



「ここに来てから、ずっと私に何ができるか考えていました。……叔父様、恩を返したいのです」



 核心を突く一言。武器を持って恩を返す。つまり、彼女が求めているのは戦場に立つ許可だ。やはりそうか、とアレクセイの喉が我慢した嗚咽でヒクと動いた。

 彼女だって、ほんの数日前に命の危険を体験し住む村を焼かれ家族を、帰る場所を失ったばかりなのに。恩返しをしたいと、未だ少女と呼べる身でありながら危険な戦場に立ちたいと。なんと健気な乙女か!

 小さな体に大きすぎる決意だ。「恩、なんて……」とアレクセイの震える唇から蚊の鳴くような声が漏れた。言葉の続かない彼に変わるように、イエヴァが彼女を咎めるように問いかけた。



「貴方のような未熟者が戦場に出て、どうするつもりです?」

「ダーシュコワ家には……旗がない。義理とはいえ姪の私ならその役目が果たせます」



 彼女から放たれた決定的な言葉が、アレクセイを貫いた。ここまで言われて逃避はできない。一日中、必死に勉強をしているのは知っていた。だがたった数日でダーシュコワ家の現状を、自分の立場を正しく理解し覚悟を決めるなんて想像もしていなかった。聡明な彼女の才能が誇らしく、同じくらい悲しかった。



 北領は40年前の人魔大戦を契機にできた生まれたての領地だ。ダーシュコワ家の名の下に結束を見せているが、元は他の領地にいた貴族や亜人の集団である。思想も生活習慣も人種も、何もかも違う彼らが一つにまとまったのは、強力なリーダーと、共通の敵の存在だ。

 戦後、徐々に魔の脅威が減る中で、集まった者をまとめ続けるため、アレクセイの上の世代はドミトリー叙事詩を作り、北領内に定着させた。ドミトリー叙事詩はただの英雄譚ではない。この物語は北領の聖書であり、イデオロギーだ。

 戦後のベイビーブームで爆発的に増えた北領民の大半が、幼少の時からドミトリー叙事詩を読み聞かされ、領内の多種多様な民族は共通の英雄に憧れを抱き育った。北領内での行事は全てドミトリー叙事詩に登場する英雄たちと関連付けられ、至る所で英雄たちの偶像が造られた。

 人魔大戦の英雄達への絶大な美麗賛辞に、やがて人々の持つ尊敬は信仰へ形を変えた。大英雄ドミトリー、ひいてはダーシュコワ家のもつ神性とも呼べるカリスマが北領を一つにしている。



 そのダーシュコワ家の持つ力が、近年弱まっている。

 統治こそアレクセイの欠けた一年間、テオドールがギリギリのところで支えた。しかし、二年前を最後に戦場や魔物退治は、すべてオーラブ騎士団と領土内の貴族にまかせきりになっている。若い英雄がダーシュコワ家の血筋にいないことが、大きな問題として存在していた。

 ダーシュコワ家という鎖が緩めば、待っているのは分裂と内乱だ。その境界がどこにあるかわからないが、きな臭い動きを見せている北領貴族も存在していた。

 北領のためにダーシュコワ家の家紋を背負い、戦場に立つと彼女は言っている。新しい旗印になると、姪である自分にはその資格がある、と。



 そうすべきだ、とアレクセイは貴族として、彼女の考えを肯定していた。北領の平和のため、彼女を命の保証のない地獄のような戦場に、男社会で男尊女卑の貴族の世界に送り出さなくてはいけない。それが貴族としての義務で責任だとアレクセイは教わり、実行してきたからだ。

二年前の帝国との激戦で長男は戦死した。末っ子は暗殺され、末っ子は王国に人質として取られている。アレクセイの考えは受け入れられないと次男と長女は消えた。だが、北領はかつてない発展を遂げ、民衆は自分を讃えた。

 だから彼女も戦場に送る。迷うことはない。迷うことはない、はずだ。

 一年前の妻が死んだ日のことが、心に引っかかっていた。本来であれば国葬を挙げ、演説の一つでもするべきだったが、妻の死は利用できなかった。子どもの頃から教えられた貴族の義務と責任を、明確に放棄して。葬儀はたった数人でひっそりと済ませ、その時初めて自分の人生を振り返った。振り返ってしまった。貴族としてではなく、最愛の人の夫として、最愛の家族の父として。自然と涙が頬を濡らした。

 街を歩けば民が自分を讃える。立派な屋敷には何百人もの自分の指示を待つ貴族がいて、宝物庫には溢れんばかりの財宝がある。それなのに、胸にあるのは絶望だった。



 ナタリアの願いが、壊れたレコードのように頭の中で何度も繰り返し響く。彼女には英雄になるための要素が揃っていた。うまく利用すればダーシュコワ家はしばらく安泰だろう。それは、北領に住む民の安泰につながる。

 だけど、だけど、だけど……。

 北領でダーシュコワの名がどれだけ重いか、アレクセイは知っている。与えられた義務を全うして得られるものも。自分と同じ道を彼女に歩かせるのか。妻の墓の前で感じた世界を塗りつぶすような絶望を彼女に? きっと、心のどこかでこうなることを恐れていた。彼女に姓を与えず、答えを先送りにしていた。だが、彼女が最適解を見つけてしまった。

 どうすればいいのか、わからない。ぐるぐると答えの出ない問答が頭の中を巡り、焦燥感ばかりが募った。

 アレクセイの心拍数が跳ね上がり、熱くもないのに滝のように汗が流れ、空間に押しつぶされるような圧迫感で呼吸が乱れた。「叔父様?」と心配するような声が遠くに聞こえた。わからない、わからない、わかラなイ、わカラなイ、ワカラナイ……。



 しばらくして、目をつむり震えていたアレクセイの体が、ぴたりと止まった。ゆっくりと開かれたブルーの瞳は暗い、暗い光を灯していた。



「そう……か、いや、だが、わしだけでは決められんな。カチューシャにも相談しないと」



 部屋の中が凍りついた。

 見つめ合う叔父と姪。笑顔を崩さない様、顔に力を入れて変な表情になっているイエヴァとテオドール。舞台の上で一人だけセリフにないことをしゃべり出しているような違和感があった。

 「あぁ!! そうだ!!」とアレクセイは緊張で力の入りすぎた俳優の様に大げさに机を叩いて立ち上がり、狂気を顔に貼り付けテオドールに詰め寄った。



「ナターシャが行かなくとも愚息のニコライがいるじゃないか! まだ未熟だがミハイルもいる。あぁ、そうだ。なんでわしは今まで忘れていたんだ?

まぁいい、テオドール。二人は今どこにいる? あれほど朝食は家族で一緒に、と言っていたのに。また訓練に夢中ですっぽかしたか?」

「……」

「カチューシャはベルナルドのところか? それともアラムに乳をやっているのか? あぁ、マリーナと一緒なんだな?」



 紙一重で保っていた均衡はあっさりと崩れさり、薄皮一枚の下にあった狂気があらわれた。沈痛な表情でうつむくテオドールに、弾むような調子で喋る。喋る。喋る。

 もう、オーラブには訳が分からない。彼は事前に役を与えられなかった。観客として何が起きているのか見ている事しかできない。

 半狂乱のアレクセイに声をかけたのは、やはりナタリアであった。



「叔父様」

「なんだナターシャ? あぁ、そうか。お前はまだ会ってなかったか? わしの自慢の子ども達でな。ニコライはオーラブ騎士団に入っておって。それで」

「死にました」



 魔法でも使ったかのような沈黙が、一瞬。

 平然と言い放った彼女に、ぎこちない動作でアレクセイは向き直った。先ほどまでと違い、隣に座る彼女を見下ろすアレクセイの瞳は危険な色を帯びていた。



「……なんだと?」

「死んだ、と言っています」



 張り詰めた緊張感がはじけた様な甲高い音が鳴った。ナタリアが椅子と一緒に崩れ落ち、テーブルの上のいくつかの食器が散らばる。絨毯に倒れ伏す彼女の口を押える手から、赤い筋がいくつか伸びて、絨毯に染みを作った。数舜遅れて、アレクセイがナタリアの頬を打ったと理解した。

 激昂したアレクセイが目を血走らせ、倒れているナタリアの首をつかみ上げた。イエヴァから小さい悲鳴が漏れて、我に返ったオーラブが慌てて立ち上がる。



「なにしてやがる!! じじぃ!!」

「だまれ!!! 嘘つきめ!!! 俺を惑わすな!!!!」

「手を離せ! 首の骨が折れちまうぞ!!」 



 二人の間に割って入ろうとしたオーラブの服の袖を、震えるイエヴァの手が引っ張って制した。怪訝な表情のオーラブをけん制するように、テオドールが小さく首を振った。

 ナタリアが、両手でアレクセイの頬に触れた。苦痛に喘ぎながら憎しみに囚われた彼の瞳を覗き込んで微笑む。命の危機に瀕した人間が見せるものとは思えない、聖書に表れる聖母のような全てを包み込む笑顔だった。

 それだけで、アレクセイの視線が揺れて、力が緩む。浮かべる微笑みにふさわしく優しい、芯の通った声で彼女は話しかけた。



「落ち、着いて、アレクセイ」

「……何故、こんな、こんなことが……カチューシャ、儂は、俺はどうしたら……」

「私は……私は、ナタリア。カチューシャは、もういない……」

「…………あぁ、そうか」



 アレクセイは急に脱力すると座り込み「そうか、そうか」と繰り返し呟いた。解放され、せき込むナタリアに素早くイエヴァが近づき、鼻をハンカチで抑え、手についた血を、顔に流れる血を、必死に拭いとっていく。野良犬を拭くみたいに雑で荒く、どこかヒステリックに、忌々しいものを隠すように素早く。

 急にアレクセイから悲鳴が漏れた。叱られた子供の様に慌ただしく彼が、ナタリアに近づいていくと、見計らったようにイエヴァは離れ、血で赤く染まったハンカチを後ろ手で隠した。その拳は白くなるほど強く握られ、決してアレクセイに見えないようにしている。

 アレクセイの巨体が、床に座るナタリアに縋りついた。彼女は母が子にするように柔らかく抱きとめ、背中に手を回し「大丈夫、大丈夫」と繰り返した。



「あぁ、そんな、すまない。すまないナターシャ、儂は、こんな」

「大丈夫、体は、、丈夫だから」

「そんな、青くなって、すまない、苦しかっただろう。すまない、こんなつもりじゃ……」

「わかっ、てる。私も軽率だった」

「愛している、キミの事を大切に思っているのに、ナターシャ、……受け入れている。わかっているのに」

「大丈夫。少しずつ、少しずつでいいから、あせらないで」



 二人の異様な光景に、呆然と突っ立ったままのオーラブの中を行き場のない感情が渦巻いた。正義感に満ちて、理想的な君主だったアレクセイが、乱れ痴態を晒す姿に自分でも驚くほどショックを受けていた。

 部屋に使用人がいないのは当然だった。こんな公爵の姿を、いったい誰に見せることができるというのか。仮に領民に彼の姿が晒されたのであれば、北領の権威、ダーシュコワ家の権威が地に落ちる。

 しばらくして、落ち着いたアレクセイが、腰紐からパンパンに膨んだ巾着を取り出し、ナタリアに押し付けた。



「武器、武器だったな。武器と言わず、鎧も馬具も最高のものを一式揃えなさい」

「こんなに、必要ないよ」

「いいんだ。……本当にすまなかった、ナタリア。頭を冷やしてくる」



 アレクセイは、ばつが悪そうに目を逸らし、それだけ言うと足早に退室した。一瞬、ナタリアに視線を寄越してイエヴァも一礼し、彼の後を追っていった。結局、彼女の示唆した願いには答えをださず、文字通り"武器が欲しい"というわがままを叶えた。オーラブにとってアレクセイが、どんな状態なのかわからないまま朝食は終わった。三人だけになった部屋は、静寂勘に包まれている。










 カーテンコールのように響く二人の足音が遠くなり、ついに聞こえなくなる。舞台は幕を閉じた。役者たちは投げ捨てる。



「あ゛ぁー。くっそいてぇな、ちくしょう」



 ナタリアが鼻筋を指で確かめるようになぞりながら、くぐもった重い声でつぶやいた。

 オーラブが驚いてそちらを向けば、さっきまで浮かべていた聖母のような微笑みは消えて。代わりにメインストリートから三回ほど脇道にそれれば、掃いて捨てるほどいる輩と同じ目つきで、責めるようにテオドールを見ていた。



「だから言ったんだ。デリケートな話題は、まだ早いって。殴られるのは私なんだぜ」

「ここ数日の落ち着き具合から、いけると思ったんだ」

「治療にかかる期間は、長い目で見てくれ、とも言ったはずだ」

「……鼻血、垂れてるよ」



 投げやりな指摘に「くそっ」と唸り。ドレスの袖を引っ張り鼻の下を拭こうとした彼女の顔面に、テオドールが投げたナプキンが直撃した。「服は汚すな。いくらしたと思っているんだ」とテオドールが囀れば、「貴族様の優しさに涙が出そうだ」とナプキンで鼻を抑えながら小気味好く彼女は返す。

 しばらく、オーラブは呆けた様に二人の掛け合いを聞いていた。初対面の事を考えれば、こちらの態度の方がしっくりきたが、それにしたって急な変化だった。

 マナーもへったくれもなく朝食の残りを大口を開けてかきこみ、リスのように頬袋を膨らませて咀嚼しているナタリアと、また押し黙ったテオドール。少し考えて、ナタリアに疑問をぶつけた。



「聞きてぇことだらけだけどよ、まずじじいだ。俺がいない間に何があった?」



 もっそもっそと口を動かしながら彼女は怪訝な表情でオーラブを見た。次いで答える様子がないテオドールを見て何かしら察したのか「何から話せばいいか」と切り出した。そして、フォークをデザートの果実に突き刺し、空中でプラプラと遊ばせながら「最初は、全てうまくいっているように見えた」と続けた。



「初日に面会を終えた後、閣下は私の手を引いて屋敷中を歩き回って、人に会うたびに乾杯を強要して周りを困らせた。はっきりとした受け答えに、よく飲んで食べる姿は自然体で。私の第一印象からかけ離れたものだったよ。

問題は寝る前に談話室で話しているときに起きた。急に迷子の子どもみたいになって言うんだ。『カチューシャはどこだ?』って」

「さっきみたいに、か……」

「そう。そこからは、ひどいもんだった。固まる空気、だんだんと荒くなっていく閣下の口調、涙目の使用人。周りが何も言わないから、私が代わりに言ってやったのさ。『おたくの奥さんはとっくに土の下ですよ』って。……そしたら、右ストレートを鼻っ面に一発。そこからは、もう……」

「……ひどかったのか?」

「実は、私も顎に良いのを貰ってから記憶が曖昧でね」



 ナタリアは冗談のような軽い調子で言って、話の続きを促すようにフォークをテオドールに向けた。

 それを受けて彼はため息をつき、不機嫌そうに胸元からシガレットケースを取り出した。そうすると、彼女はテーブルの上のマッチを擦り「どうだったんだ?」と聞きながら自然な動作で彼の咥えたタバコに火をつけ、近くに灰皿を寄せる。こなれた一連の動作は、まるでテオドールの情婦のようだった。



「ひどいものだった。泣きながらキミを抱いて、『誰がこんな事を!』と叫び散らしていた。公爵を何とか宥めて、ようやく引っ張り出したキミを見た時は、ダメだと思った」

「あっはっはっは!! 私が、新しいトラウマを作っていれば世話がないな!」



 被害者である彼女が他人事のように笑いながら話すものだから、悲壮感は薄れていた。こちらに罪悪感がないようにわざとやっているのか、それとも彼女の性格なのかオーラブにはわからない。だが問題は、アレクセイが彼女の本性を知らず、自分の姪と思いながら殴った事で。それは薄れることのない衝撃的な事実だった。

 椅子にへばりついていた頃とどちらが良かったか考えて、オーラブの口から「悪くなってるじゃねぇか……」とこぼれた。隣でテオドールも同調するように表情が硬くなる。

 ナタリアは二人の中に流れた暗い空気を払うように、大げさに手を振って笑いながら否定した。



「いやいや。隠れていた問題が表面化しただけで、良くなってる」

「信じらんねぇよ!!」



 即答だった。おぼろげながら全体像を掴んで、オーラブの心の中に根付いていた不安が一気に膨らんでいた。気休めにもほどがある言葉に苛立ちすら覚えて、殺気だった瞳がナタリアを睨みつけていた。それなのに、彼女はどこまでも穏やかだ。



「まぁ、聞いてよ。私は今まで閣下に三つの状態を確認できた。安定している状態、家族が全員生きている妄想に囚われている状態、そして暴れまわる状態だ。

今の閣下は基本的に安定している状態にある。だけど、さっき見たように外部から過度のストレスを感じると、後者二つの内のどちらかに変わる。コインをひっくり返すみたいに、一気に」

「……それのどこが良くなってるってんだ?」



 オーラブの純粋な疑問は、どこか拗ねた子供のようで。自然と漏れた言葉が、40の男が出すものじゃないと言ってから気付いた。途端にさっきのつまらない八つ当たりが、彼女に甘えていたのだと思い恥ずかしくなった。



「私が来るまで椅子に座ってボーっとしてたんだろ? それに比べて、今は簡単な書類仕事ならできるようになった。彼の中に悪いものが、溜まってるんだ。ああやって、暴れて全部吐き出せば、元通りになる。

実際、初日は私でストロベリージャムを作りそうになった事は覚えていなかったけど、さっきは暴力を認めたし謝った。……良くなってるよ。『トンネルの先には必ず明かりが見える』って言葉もある。私も閣下に尽くす。なぁに、簡単じゃないけど、どうにかなるって」



 オーラブの肩を軽くたたいて、ナタリアはそう締めくくった。

 明るい動作と落ち着いた態度。それらが矛盾せず存在している彼女は、肝っ玉がでかいと言うべきか。何事にも問題なく対応できそうな包容力が見えて、彼女がそう言うなら本当に問題は無いような安心感がある。やられた、とオーラブは感じた。彼女の言葉に、縋りたくなってしまっている。美酒のような女だと思った。

 身体中の空気を吐き出すつもりでため息をついて、オーラブは椅子に背をあずけた。アレクセイの状況は理解が、納得ができた。焦燥感も薄れている。時間はあるのだから、彼女の言ったことが本当か確かめればいい、そう考えながら、心のどこかで安心している自分がいた。

 オーラブにはアレクセイがすぐに治ると思えない、彼女とは長い付き合いになる。それなら、知らなきゃいけない、彼女の事を。それがオーラブのスタンスでもあった。



「お前、名前は? 家族はいないのか?」

「ナタリア・ロストワ。六人家族だったけど、数日前に全員殺された」

「違う、お前自身の事だ。流浪の民」

「……ふふっ。この世界に来て、初めて聞かれたよ」

「そーかい」



 当たり前だ、流浪の民なんて誰がまともに相手にするもんか、オーラブの中の常識がそう言っていた。今のオーラブは少しおかしくなっている。

 それに、二人では、スタンスが違う。テオドールはきっと彼女の事はアレクセイを正常にするための歯車の一つと考えているに違いなかった。現に、会話に出たというのに、彼はこちらに背を向け、興味はないとばかりにティーセットを弄っている。だが、どちらが良い、悪いの話でもなった。

 前髪をかき上げて、言葉を探す彼女の雰囲気から、印象がまた少し変わった。そんな表情もできるのか、と感心するオーラブに吐き捨てるように彼女は話し始める。



「私は孤児だった。血のつながった家族はいないし、親の名前も知らない。あるのは通り名だけ」

「何やってたんだ、お前」

「ふふっ、過去を詮索するには無骨な言葉ね」

「茶化すなよ」

「別にそんなつもりじゃないよ。ただ、こんな気持ちのいい朝にするには、長くてつまらない話ってだけ」



 ぐっとオーラブは言葉に詰まった。"長くてつまらない話"をしたくなる雰囲気を作ってみろ、と遠回しに誘われている事を、心を炙るような視線と仕草が証明していた。男を試されているような気分になる。

 所詮、流浪の民なんて、同情してみせ、ほんの少し話を聞くふりをしてやれば、自分の不幸をぺらぺらと喋りだすと思っていた。それだけに、すっかりとやられた気分になって、もう軽い質問は躊躇われた。これ以上、年若い娘にやられたとあっては男の沽券にかかわる。

 タイミング良くテオドールが、紅茶をオーラブの前に置いた。当たり前のようにナタリアの分はなく、彼女も肩を竦めるだけで、そのことに不満をもらさない。

 オーラブは紅茶を一口含んで、彼女の過去を追及することを諦めた。代わりに今の協力的な態度について、どんな心変りがあったか気になった。どう切り出すか、紅茶を二口分だけ考えて、オーラブは口を開いた。



「それじゃ、一つだけ。元の世界に帰りたいと思わねぇの」

「……」



 初めて彼女が動揺を見せた。そんな質問は予想外だったと言わんばかりに目線がブレて、筋肉が緊張している。だがそれも一瞬、すぐに隠れてしまう。



「……あぁ。…………どう……かな。確かに、ここは勝手が違う。お腹に変なのは入れられるし、殴られるのも嫌、だけど。でも、自棄になるには現状は恵まれてる。それに命を助けてくれて、新しい生活をくれた閣下には、感謝してるんだ。私にできる事なら力になりたいと思うのは、自然なことじゃないかな」



 そう言って彼女は最後には笑った。

 天涯孤独であるから、元の世界に対する帰属意識が薄く、仮初といえ公爵の姪としての生活に満足しているから協力する。どうだろう、と真偽を考えるオーラブの沈黙をどう受け取ったのか、彼女は「いいよ。信用は、これからの行動で勝ち取るから」と片目を閉じて軽い調子で言い、話は終わりとばかりにアレクセイから渡された金貨の詰まった袋をテオドールの前に差し出し、立ち上がった。

 それまで不気味な沈黙を貫いたテオドールが、彼女を呼び止めたのは、ちょうどドアノブに手が触れる寸前だった。



「キミは街に出て、正装時に帯刀する剣でも見繕ってこい」

「外に出ても?」

「外出を禁止したのは、万が一にも流浪の民だとばれないためだ。

……追悼の月は社交パーティーの類は一切が禁止されている。だから、キミの正式な披露会は、来月に北領貴族を集めた舞踏会で行うことになる。その時までには、用意したまえ」

「わかった」

「これを使え」



 金貨を一掴み、手に握って差し出すテオドールに、ナタリアは近づく。彼女から伸びる手のひら、それが見えていないように、彼の拳は見当違いの場所で開かれた。金貨が絨毯の上を跳ねて転がり、その動きを呆然と目で追っていたナタリアの足に、一枚が当たって止まる。それを合図にしたように彼女の顔が、テオドールに向く。わざとらしく足を組んだ彼は鼻を鳴らして、ただ一言「拾え」と言った。

 無表情のまま佇むナタリアの視線が、テオドールと床に散らばる金貨をゆっくりと往復する。何かを吞み込むようにして、彼女は少し笑い「いい趣味してる」と呟いた。

 再び彼が「這って、拾え」と命令すると、のっそりと彼女は怠慢な動きでしゃがみ込み、四つん這いになると、一枚、一枚、丁寧に集めた。長い髪が帳のように落ちて、表情を伺うことはできない、だが指先が微かに 震えていた。

 最後の一枚、ちょうどテオドールの足元に落ちている金貨を拾うため、そこまで這い。彼女が手を伸ばした瞬間を狙ったように、彼の組み替えた足が金貨を踏みつけた。じっと彼の足を見つめながら、彼女の動きが完全に止まった。そこに厭味ったらしい声がかかる。



「どうした? さっさと拾って出ていけ」

「……足を、どけてくれ」

「うーん。キミ、閣下に優しくされて、勘違いしてないか? 金を貰って感謝の言葉がないのは、おかしいだろう?」

「……いえ」

「感謝の気持ちがあるなら、それは言葉に表れると思うんだけど?」



 悠々と足を組むテオドールと、その前で跪いたように固まるナタリア。彼は行動で伝えていた。これが私たちの力関係だと。

 言葉に詰まるナタリアの背中に、ずっしりとした重みが加わった。彼女の視線の先にあった足が消え、味のあるイス脚の間に、隠れていた金貨が鈍く輝いている。何をされているのか、理解した彼女の両指が、きつく絨毯を握りしめた。



「……こんな大金を、私のために、ありがとう、ございます」

「うん。それから?」

「……足を、どけて、ください。お願い、します」

「嫌だ」



 テオドールは、今日一番の笑顔を浮かべて答えた。ナタリアが集めた金貨を、片足で散らして「集めながら聞け。街に出るついでに、してもらいたい事がある」と話した。

 無言を貫いている彼女に、紅茶を一口舐めてから続けた。



「公爵に義理の姪が見つかったと、北領内の有力者には通達がいっている。中には早いうちに顔を見せないと面倒な連中もいる。会ってこい」

「……はい」

「それから、パーチェムを調べてこい」



 彼女は、パーチェムと何度か確かめるように呟いて頷いた。質問もなく従順に、十年来の家来のような姿だ。それにテオドールは満足げに頷き「さっさと、下がれ」と言うと、彼女は金貨をナプキンに包み胸元にしまうと、早々に退室した。

 二人のやり取りを頬杖をついて、ぼんやりと見ていたオーラブは、彼女が部屋から出て行ったのと同時に「趣味なのか?」と聞いた。オーラブとしても、見ていて気持ちの良いものではなかったが、相手が流浪の民である以上感想もその程度だった。



「どう見えた?」

「救いがたいサディスト」

「彼女の事だ」

「……見た目の割には歳をくってるのかもな。一筋縄ではいかない相手だ。それに、子どもを産んで育てた経験もありそうだ。なんというか、母親の持つ強かさ、みたいなもんを感じたよ。他にはそうだな、孤児ってのは説得力がある。大人になるのが早く、独りで生きてきたって自信が、余裕な態度に表れている。後は初日に見せた雰囲気だな。(アウトロー)の連中がするやつだ。パーチェムを任せたのはあながち間違いじゃないぜ」

「彼女の証言を信用するなら、家族はいない。それに、子どもがいるなら帰還を望まないのもおかしい」

「あくまで印象だよ、印象」



 テオドールは答えず、視線を手元に落とし、指でテーブルを一定の間隔で叩いた。彼の考え込む時の癖だ。それから、思い立った様に数枚の紙束をオーラブに渡した。条書きで乱雑な文字がびっしりと敷き詰められているその紙は、一行目に『ナタリア・ロストワ報告書』となければ、オーラブは読まずに丸めていただろう。吸い込まれるように文字列を追っていく。

 『高い知的能力、コミュニケーション能力、適応力。三日目にして文字を覚える。確認できているだけで、八つの言語をネイティブ並みに話し、亜人の古語にも一定の理解を示す。人前に出せる最低限の礼儀作法を身に着けている。性差を超えた戦闘能力。芸術に対し理解を示す。高い水準の魔力耐性を持っているが、活用できない様子。……』全文に目を通して、紙束をテーブルに放った。



「あの歳で……。天才ってやつか、末恐ろしいな」

「安易な表現だ。それを見てそんな言葉しか出ないなんて、思考を放棄しているとしか思えない」

「喧嘩売ってんのか」

「……彼女の持つ技能は二つに分類できる。高い学習能力や魔力耐性など、彼女が生まれ持った先天的な能力と、多言語や礼節、戦闘能力など、彼女が後天的に学んだものだ。短い人生の時間をほとんどを使ったはずだ。だがなぜ、そんな技能を身に着けた?」



 なぜか、と問われオーラブは考え込んだ。彼がなにを言いたいのか、今一つわからない。なら、自分の場合はどうだったかと考えた。子どもの頃から腕っぷしだけは強かったが、それはなぜか。今度はすぐに分かった。育った環境が力を必要としたからだ。つまり、彼女の持つ技能も必要とされたから身に着けたもの。

 オーラブは、彼女の持つ技能を頭の中で、先天的なものと後天的なものに分け、そこに先ほどまでの会話で得た彼女の印象を加味し、ナタリアという人物と人格、育った環境を想像してみた。……果たして出来上がったのは、歪な怪物だ。



「……たった数日で、あんな従順になるまで調教したのか。薬は使ってないんだろ?」

「なにも。彼女は自分で自分の首にリードをつないで、手綱を押し付けてきた。その上、足に顔を擦りつけ愛嬌を振りまいている。それは果たして、我々に対する恩義からだろうか? ……彼女が何かを狙っている、と勘繰るのは僕の心が不純だからか?」

「奴らが考えそうなことか。元の世界への帰還か、他の流浪の民へのコンタクトか、……俺たちへの復讐、か」

「あっはっはっはっは!! それなら面白いな!」



 爆発したように、テオドールは笑った。普段嘲笑しか浮かべない彼の下手糞な笑いは、骸骨が小刻みに揺れているようで不気味だった。彼の笑いは死を連想させて、笑われた事を怒る気にもならない。

 オーラブは笑いが収まるまで待ちながら、ナタリアと初めて会った時の事を考えていた。手負いの獣、狂犬、そんな言葉がぴったりとくる骨のある人物に見えたが、そんな印象は会話をして一瞬で覆った。思慮深い、愁いを帯びながら、どこか人間的な温かみを持った少女。どっちが本当の彼女なのか。

 考えるオーラブにテオドールは、胸をさすりまだ少し笑いながら皮肉るように言った。



「心配はいらない。なんたって彼女は優秀だから」

「あん?」

「彼女には実権がない。閣下が彼女を大切にしているから、周りも丁重に扱う。仮に閣下が彼女を見限れば、存在価値がなくなる。それを優秀な彼女は、よく理解しているから、殴られようと必死に尽くしているのさ。かと言って、力で立ち向かうことも、甘言を呈することも服従の呪術があるから叶わない。

我々に媚を売ることが唯一の生存の道。彼女もそれをよく理解している。……いいシステムだろう? 彼女が我々を恨んでいるとしたら、とても面白いと思わないか?」

「サディストめ」

「くっく。実際問題、彼女が何を考えていようと関係はないんだ。我々は優秀な駒を一つ手に入れた。それだけなんだが、どうも彼女の人物像が見えてこない。ちょうどオーラブが帰って来る、なら自慢の直感ってやつを聞いてみよう。……それだけの話なんだ」



 オーラブは、ナタリアを足置きにしていた彼の事を考えていた。彼の行動には憎しみや優越感なんかの私情が透けて見えた。流浪の民を蛇蝎の如く嫌っているテオドールなら必要以上に関わらない、好きの反対は無関心だ。彼の中でも、彼女は無視できない存在になっているはずだった。

 テオドールは、ナタリアに嫉妬している、とオーラブは思った。醜い感情でかじ取りを誤らないか、そんな新しい心配が胸の中でくすぶり始めていた。










 朝食の後、まっすぐ自室に帰ってきたナタリアは、ベットの上で一人座っている。

 部屋にいた使用人たちに、オナニーするから一人にしてくれ、とはっきり言って手に入れた孤独だった。いつも自室の前にいる衛兵たちも、離れていることが気配でわかる。恥ずかしいとは思わない。絶句し、気まずそうに出ていく使用人たちを見て、ざまぁみろ、と意味もなく誇らしくなり、そして虚しさだけが残った。

 一人の時間が必要だった。周りに人がいれば、当たり散らすことになる。そんな醜態を晒すくらいなら、オナニー中毒者と陰口を叩かれる方が何倍もマシだ。ちっぽけなプライドだった。

 呪文のように『ここに残ったのは間違いなく正解だった。与えられた選択肢の中で最も合理的だ』と何度も何度も心の中で呟いて、ぼんやりと着替える気力が沸いた。タイトなドレスは、夏の汗を吸ったシャツのように体にまとわりついて、何度も破ってやろうと癇癪を起し、その度に冷静な自分が止めた。今の自分は、服を一枚破ることもできない。かつてインターポール職員の前で手配書を破り捨ててやった男が、この様だ。

 ナタリアはキャミソール姿で鏡台の前に立った。脇腹を捲りあげると、蛇の様にタトゥーが蠢いている。どんどん上げて、下乳あたりまで捲り、ようやく全体が見えた。呪術、ダーシュコワ家に忠誠を誓う呪いだと言ったが、実に大したものだった。原理はわからないが、元はこぶしサイズの刻印は、殺してやろうと思えば思うほど大きくなり、鋭い痛みが襲ってくる。アレクセイには対して、完全に何もできない。襲われたとき、殴り返してやろうと心で思っても、体が硬直して動かなくなる。

 血色の悪い顔が鏡に映っている。細い首、丸みを帯びた躰、白く華奢な肩口から伸びる枯れ木のような腕、改めてはっきりと見た気がした。乾いた笑いが漏れて、こらえきれなくなり、そのままベットに倒れこんだ。



 ナタリアとして生活することが、辛かった、ひたすらに。惨めだった。

 年齢に見合う少女らしい仕草を学ぶため、昨日生まれた様なメイドの少女(ガキ)と会話を重ねて、彼女たちの仕草や話し方を少しずつ吸収し、そのいくつかを、自分も使う。頭がおかしくなりそうな話だ。

 毎日、勉強に明け暮れ、考察に考察を重ねた。考え事に集中すれば、現状から目を逸らすことができる。難しいことを考えずに、気が楽だったが現実逃避も長くは続かない。

 テオドールに足置きにされた時は冷静でいられた。男の征服欲を満たすような言葉をかけてやれば、それで問題はない、安っぽい男だと心の中で哀れみもした。

 オーラブに帰りたいかと聞かれた時に、自分は壊された。必死に目を背け続けていた現実を突きつけられ、その瞬間夢から覚め、体感時間が伸びた様な錯覚があった。奴の襟首を捕まえて「ふざけるな!!」と怒鳴り散らしてやりたかった。悔しさがぶり返してきて、ぎゅっとシーツを握りしめた。



 帰れない。こんな環境に、放り込んだ奴をファックするまで自分には、何もない。誇りも、権力も、地位も、名誉も、性別も、命すら、そいつに持っていかれたと思った。だから、自分を取り返さなきゃいけない。犯人を見つけ、ケツに腕を肘まで、いや肩まで突っ込んで心臓を掴み、ガタガタ言わせなきゃ気が収まらない。

 


 どうやるか、それは決まっている。上に昇るしかない。テオドールは自分をいいように使って、捨てるつもりだ。アレクセイの調子が戻り次第、どこかに嫁がせるかもしれない。それまでに、功績を挙げる。奴の手に収まらないほどの大きな功績を。手放せないほどに依存させて、能力を示し、自分の権力を手に入れる。

 パーチェムを調べてこい、とテオドールは言った。奴は自分の考えを見通している節がある。それでいながら、奴はチャンスを寄越した。自分の能力を知って、介護だけをやらせるのは惜しいと思ったのかもしれない。それなら、奴の思惑通り、手のひらの上で踊ってやろう。ただし踊るのは、ソ連仕込みの過激なダンスだ。華奢な貴族様の手に、穴を開けてやる、という気持ちが強くあった。



 廊下から、金属の擦り合う音が響いた。少しして使用人たちが、イエヴァが部屋に入らないように、必死に引きとどめる声が漏れ聞けてくる。彼女たちも怖いだろうに、と苦笑いが漏れた。起き上がり周りに目をやれば、脱ぎ捨てられたドレスが、脱皮した後のような情けない姿で床に落ちてる。自分もキャミソールにドロワーズだけのだらしない姿だ。イエヴァは烈火のように怒るだろう。片付けるか迷ったが、一人になるために使った理由を思えば、このままでいい気がしてまたベットに倒れこんだ。

 無性に、グレゴリーと戦った夜が恋しかった。あの瞬間、命を懸けて戦った刹那、自分は自由だった。ナタリアという殻から抜け出して、魂がぶつかっていた。

 余計なことは何もない純粋な時間。あんな風に死にたい、と思った。









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