表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北領のナターシャ  作者: Peace
本物の悪
11/22

始動(中編)



 きっと忘れてる登場人物

ナタリア……黒髪黒目の10代後半の女の子。中は50近くの激悪オヤジ。ニコチン中毒でアルコール中毒で薬物中毒。


オーラブ……オーラブ騎士団長。若く見えるおっさん。強い。


テオドール……公爵家の執事長。30代のおっさん、若い。サディストでレイシスト。


イエヴァ……公爵家のメイド長。50代のおばさん。腰の鍵束から聞こえる金属音に、メイドたちは震え上がる。


グレゴリー……オーラブ騎士団員。21歳、若い。語尾に「っす」をつける。



 一年ぶりなので、軽く今までのあらすじ

おっさん、気が付いたら見知らぬ森の中で目覚める。体は女の子なってて、ゴブリンに追いかけ回される。危険なところを騎士に助けられるもレイプされると思い込む。

でも騎士たち超紳士。危害を加えられることなく森の奥、ノルニグル族の村へ一緒に行く。なんかみんな死んでて、すごく臭い。村の中、偶然カガミで自分の姿を見ておっさんショックを受ける。自棄になって酔っ払い歌とか歌っちゃう。

この森は超ヤバいらしいから、騎士たちと一緒に森から脱出することに。途中、ゲロ吐くし小便漏らすしおっさん超ブルー。

安全な街に着いたけど裸になって体を拭くとき、女の体にまたショックを受ける。PTSD再発。もぅマジ無理...

グレゴリーと拳で語り合ったりして、なんとか立ち直って公爵のいるアナトセティへ。

前に歌った歌から流浪の民と執事長にバレる。流浪の民は、人間じゃないからと真顔で言われておっさんへこむ。でも容姿が公爵の死んだ奥さんに似てるから、姪を名乗って公爵を元気つけてくれたら保護してあげると言われ了承する。そしたら、イカス入れ墨を脇腹に入れられおっさん泣きそうになる。いろいろ限界突破しておっさん本気で怒る。もうみんなしね状態。




 







 アレクセイ公爵の屋敷はアナトセティの中心にある。アナト川で二分されアナト川以北に城が、以南に宮殿があり、人工的に作られた中州とそれに架かる橋が北と南をつないでいる。そして、公爵家の屋敷をぐるっと一周、高い壁が囲みアナトセティと切り離されている。

 アナト川以北には、城のほかにもオーラブ騎士団員の利用する宿舎や演習場、小さいながら工場や研究施設まであり、さながら軍事基地のようだ。

 一方のアナト川以南の宮殿は、景観にこだわった煌びやかな建物だらけだが、そのどれもが北領の政治的決定を下す重要施設である。北領における政治・軍事の最高権力が集う場所、ここアレクセイ公爵の屋敷内こそ北領の脳であり心臓なのである。



 北領現当主のアレクセイを尋ねることとなった人間は、北側と南側おおよそ二通りある入り口のうち、たとえ遠回りをすることになっても、南側から巨人ですら楽々と潜れてしまいそうな門を訪ねることとなる。理由は簡単で、北側からだとオーラブ騎士団員の"生息"するエリアを通らなくてはいけないからだ。

 人間をかるく上回る筋力をもち、体が何倍も大きい魔物やふざけた魔力で笑うしかないような奇跡を起こす精霊。そんな奴らを、特に民間のギルドや自警団では、手に負えないものを専門に狩るプロフェッショナル集団であるオーラブ騎士団は、尊敬の対象でありながら、その人智を超えた力は畏怖の対象でもある。

 一般市民に、魔物がゴキブリほどの嫌悪感をもたらすとしたら、さながら彼らはそれを狩るアシダカグモだ。自分にとって有益と知っていながらも、できる事なら視界に入らないでもらいたいと考えるのが人間の心理だろう。さらにそこに、オーラブ騎士団員の素行の悪さも相まって、近年では貴族だけでなく一般市民も彼らを避ける。



 南門に着くと、表情筋が死んでいるのかと疑いたくなるほど不愛想な衛兵に、懇切丁寧に来訪の旨を伝えなければならない。鋭い視線を送られながら門を通ると、外からは壁で隠されていた楽園が悠然と姿を現す。

 入って正面に伸びている散歩道は二十人ほどの人間が横一列に手を繋いで歩けるほどに広く、左右には森林と見まごうほどの立木が並ぶ。その道を歩きながら視線を左右に逃がすと、その木々に隠れるかどうか、下品に主張しない程度に人魔戦争の際の北領を代表する英雄を模した八対十六体の石像が立っている。

 道を進み角度が変わるたびに見せる姿も変える石像に目を奪われながら石畳を叩くと、門からも小さく見えていた水庭にぶつかり、そこで立木は途切れ一気に視界が開ける。

 巨大な噴水の中央にあるのは、先まであった石像と比べさらに精巧な大英雄にして先代北領領主ドミトリー・ダーシュコワを模した像だ。ルネサンス期の石像を思い起こさせる筋骨隆々の半裸の男と、彼に足の下に敷かれている無数のおぞましい魔物の群れは、噴水の広大な水に反射した光を受けて堂々と佇んでいる。

 左右に広がっていた立木の代わりには丁寧に整えられた芝生が広がり、ところどころに腰ほどの高さの緑と季節にそった花がひっそりと存在を主張し、日差しのよく当たる場所では、貴婦人たちによるお茶会が開かれ午後にはあちらこちらにテーブルが並び、淑女の話し声が響いている。

 一際目を引くのは、ようやく全体を見ることができるダーシュコワ家の宮殿である。細部にまで贅を凝らした細工が施され、古めかしい門に比べると幾分新しく見える建物は、セナトル王国の王家が所有している宮殿に比べても劣らない傑作だ。



 アレクセイの私的な友人、或いは一部の選ばれた人間であれば、そこから道を一本はずれ隠れるように存在する裏道を進むことが許される。

正面玄関とは違った趣の扉を開くと外交官など外部からの客を迎えるために贅の限りを尽く作られたここまでと違い、無骨で飾り気のない廊下にでる。

西館と呼ばれるそこは宮殿の中にある私的な生活を行う宮廷部分、公爵のプライベートな空間となっている。飾られているのは、アレクセイの父にして大英雄ドミトリーが実際に使用した。叙事詩で描写され数多の美術家が絵画に残した刀剣、鎧の類である。

一部の選ばれた人間は、そこに並べられた伝説を眺める最上の幸福を味わい。そして、アレクセイと対面することができる。










 見慣れた西館の見慣れない部屋の中、オーラブはテーブルの上に二日酔いの頭を置いた。上質なテーブルクロスの感触は肌に心地よかったが、横にある空のグラスが窓から降り注ぐ朝日を反射して眩しく。彼がむずがるように頭を動かすと、収まりの悪い赤茶の髪が揺れた。

 その際に抜けた髪が数本テーブルに落ち、体に染みついた安い酒と香水の匂いをまき散らした。隣に座っていたテオドールは顔をしかめ、イエヴァはハンカチで口元を抑えていたが、そんなことは気にもとめずに。爽やかな朝。オーラブは状況をつかめずにいた。



 初日にナタリアと会った後、数百キロ離れているセナトル王国の王都に急遽出向いていたオーラブは昨日の夜遅くに北領に帰ってきたばかり、宮殿に戻って来たのは今朝である。出かけていたのはほんの数日だったが、敷地内では大きな変化があった。それが、騎士団の宿舎が消し飛んでいた。そんな物理的な変化であれば自分の懐が少し痛むだけ、いっそのことそちらの方がよかったと彼は強く思った。

 変化は屋敷中に違和感として表れた。例えばこのダーシュコワ家は数年前から続く不幸に元気をなくし、一年前にアレクセイの妻カチューシャの病死を決定打として勤めの長い使用人は皆、糞を我慢しているような顔で働き。詳しい事情を知らない新しい使用人もそんな雰囲気にあてられ委縮する。そんな負の連鎖が続いた。敷地内に限れば、去年は収穫祭すら葬式のようだった。その空気を嫌い、オーラブはアレクセイのいる宮殿に向かう時はいつも北側からだ。今日に限って南側から帰ってきたのは、ちょっとした気まぐれだったが、彼は驚いた。

 早朝であるにも関わらず、そこかしこからメイドたちの明るい話し声が響き、屋敷は笑顔と笑い声、はち切れんばかりの若いエネルギーに溢れていた。彼女たちはオーラブに気付くと、恭しく頭を下げたがその動作一つとっても軽快だ。あふれだす楽しさが抑えられない、と言わんばかりにスキップするように下がっていく。共に王都に赴いていた従者は、間抜けな顔をしていたが、きっと自分も同じような顔をしていたに違いない。

 庭園を進んでいくと、聞き耳を立てなくてもメイドたちの話している内容は聞こえてきた。曰く、服をもらった。彼女はニワトリより早く起きる。そんなくだらない話から、イエヴァにセクハラをした、2mを超える魚が歩いていると思ったら彼女が背負っていた、そんな変わった話まで。

 ――笑って話し込んでいる使用人たちの話題は、信じられないことに全て例の女の事だった。



 何かが起きている。疑惑と焦燥にオーラブが帰って来て早々に詳細を確認するために、とテオドールに会いに行く途中。ちょうどテオドールの命令で自分を探していた、と話すメイドに連れられて、ただでさえ静かな西館の中でも、さらに人気のない方へどんどんと進みまるでウサギ小屋のように狭いこの部屋に連れてこられていた。

 許可なく西館に入ることの許されている数少ない人間の一人であるオーラブも始めて入った部屋は、ホコリのかわりに静寂感が漂い。掃除こそ行き届いていたが、長い間物置にでも使われていたらしく生活感が、人の気配がなかった。

 そんな部屋の中に、すでに三人はいた。朝日が逆光となってうまく見ることができなかったが、小さなテーブルの向こうに入り口に向かい合うように大男のシルエットがどっしりと椅子に座っていて、その隣にひょろっとしたシルエットが同じく座り、彼らの後ろにすっと背筋の伸びた小さなシルエットが侍っていた。オーラブにはそれぞれがアレクセイ、テオドール、イエヴァであると一目でわかった。

 状況がつかめないまま、それでもオーラブがアレクセイにいつもの様に「おう」と声をかけたのは、彼がおかしくなってからも朝食だけは一緒にとっていた習慣からで、その挨拶に込められた意味は人形に話しかける少女のようなものだった。ここで「あー」でも「うー」でも反応があればいい方で、大抵はうっすらと暗いブルーの瞳を彷徨わせて、椅子と一体化することを目標としているかのように腰を深く沈め。彼を知るものであれば哲学者、彼を知らないものであれば痴呆者と呼ぶであろう姿を晒しているのが常だった。

 しかし、そんなオーラブの習慣を裏切るように、時間をかけずに「あぁ」と返事があった。眩しさに慣れたオーラブの前には、しっかり重なる視線に整えられた髭と髪、新調された服、生気の戻った瞳。少し老け、頬はこけていたが、まるで数年前のアレクセイがそのまま戻ってきたような姿を見てノスタルジックな思いに胸がいっぱいになった。

 久しぶりの友人との再会に目じりが熱くなったのをイエヴァに指摘され、「朝日が眩しすぎるからだ」と強がった声は、少し震えていた。それがほんの数十分前のことだ。









「聞いているのですか、オーラブ。 私も、いい加減無駄と学びました。ですから、もうあなたに北領貴族としての心得などは今さら説きません」

「おう」 


 現在、ついに始まった懐かしのイエヴァの小言を右から左に流しつつ、オーラブの視線は目の前で右に左に行ったり来たりしているアレクセイに釘付けだった。

 オーラブの宿舎に保存している呪われた鎧とアレクセイ。どちらが先に歩くか賭けをしていたことをぼんやりと思い出していた。

 立ち上がることすら久しぶりのアレクセイの足取りは少しおぼつかなかったが、動くアレクセイを見るのは、そのまま動く人形を見ているような感覚だった。

 不思議な感動を持ちながら、オーラブが考えるのはこの状況だ。

 アレクセイは正気に見えるし、屋敷は明るくなった。全てがいい方向に向かっているように思えるが、すっきりしないのは部屋の平均年齢が40歳以上と高すぎるからだけが原因ではない。

 ぼんやりと考え込むオーラブを見て、話を真剣に聞いていないと感じ取ったイエヴァの口調がだんだんと強くなっていく。



「しかしですよ。テーブルの上に頭を乗せるなんて!

オーラブ、これは貴族以前に人間としてどうですか? いくら若く見えたってあなたはもう世間ではおじさんと言われる歳なんですよ」

「ゲフッ。耳が痛いな」

「……」



 オーラブは尚も続く小言をゲップで黙らせて、肩をすくめるジェスチャーをして見せた。イエヴァの瞳には、侮蔑でなく憐憫がありありと表れていて、心がちくっとして痛気持ちよかった。表情はどうあれ、顔色はここ数年で一番いい。食事と睡眠をしっかりとれていることが伺えた。

 治療は受ける本人はもちろん辛いが、それを支える人間だって大変だ。それが精神的なもので完治の見込みがないものだとしたら、特に。

 オーラブには、イエヴァの晴れやかな表情こそがアレクセイの健康状態を保証しているように思えた。



(それなのに、なぜ?)



 オーラブの疑念は尽きない。アレクセイは元気であるのに庭園であったメイドたちが、誰一人として彼のことを話題に上げていない。元々閑散としているが、今日はいつにも増して西館に人がいない。本館からも一番離れた位置にあるこの部屋をわざわざ選び、案内をさせたメイドも部屋に寄せ付けない。なぜ?

 この宮殿の変化をテオドールが自分に教えるような気配はない。

 テオドールは必要と判断すれば聞いてもいない事も話すくせに、例え大切なことでも必要がないと判断すれば決して話さない頑固で独りよがりな男であると知っているオーラブは、この部屋でテオドールが沈黙を貫いた時点で話を聞くことをあきらめていた。

 つらつらと考えているオーラブの前で、部屋を往復していたアレクセイの足が椅子に引っ掛かり大きな音を出した。オーラブには一瞬、イエヴァの目が光ったように見えた。



「アレクセイ。いつまでそうやってうろうろとしているつもりですか。見苦しいからお座りなさい」

「だが、ナターシャが遅いではないか。落ち着かんのだ。……迷子にでもなったんじゃないか?」

「まだ約束の時間前じゃないですか。それに彼女も六日目です。付き人もいますから、心配はいりません」



 最初こそ大人しく座っていたアレクセイだったが、次第に落ち着きがなくなって時計を確認する間隔が短くなり、ついには立ち上がって部屋を往復し始めた。アレクセイのあの女に対する依存が透けて見えて、オーラブは薄ら寒いものを感じていた。

 彼女こそがオーラブの一番の疑問だった。

 オーラブがナタリアにあったのは、テオドールが彼女と取引と言う名の奴隷契約を結んだ際、護衛として立ち会ったきりである。

 ビビりながらもしっかり受け答えしていた胆力。あの刻印を入れられてなお吠える根性。武器はフォークとお粗末だったが、容赦なく突き刺そうとしてきたところは高評価だ。会話の最中も逃走を意識しながら、常にテオドールを一息で殺せるようにしていた点も素晴らしい。仮に彼女が実行に移していたらきっと無傷では済まなかった。

 なにより歳に見合わない深い諦観と憤怒が入れ混じった瞳が、彼女の人生を映し出してた。なかなかお目にかかれるものじゃない。どう見たって十代なのに、あそこまでハイレベルにまとまっていて、あんな目ができるなんて、きっとろくでもない生き方をしてきた糞ガキに違いない。それだけに口をそろえて、ナターシャ、ナターシャとアホの様に話している使用人たちとイメージが離れすぎていてオーラブは首をひねってしまう。それに、アレクセイの回復と因果関係も見えてこない。

 常人が近い距離に居ていい人間ではない、と言うのがオーラブの彼女に対する素直な見解だった。










 廊下に響く規則的な足音につられ、アレクセイが扉の前で待機するためにテーブルから離れた時だった。今まで沈黙を貫いていたテオドールが隣でぽつりと呟いた。



「……喜劇だよ」

「は? それってどういう……」



 続くはずだった「意味だ」の一言は、控えめなノックとそれに続く、落ち着いたトーンの「失礼します」にさえぎられた。問題の彼女がやってくる。オーラブは台本もリハーサルもなしに急に舞台に放り出されたような心もちで扉を見つめた。



 部屋に入ってきたナタリアの姿を見て、オーラブが今まで考えていたことはすべて吹っ飛んだ。出会った時の小汚い、ホームレスのような姿とはまるで違う。

 黒を基調にしたタイトなドレスは、彼女の少女より女と呼ぶにふさわしいプロポーションを惜しみなく晒している。しなやかに伸びる四肢は健康的でありながら、その中にエロスが見え隠れしている。

 髪は後頭部で一本にまとめられたため白く細い首筋が見え、白い羽の髪留めで前髪をまとめている。ちらちらと見える形のいい額と膝下から覗く白いドロワーズが彼女を幼く見せた。コーディネイトした人間が、彼女のかわいらしさを強調したかったことがうかがえる。そしてそれが彼女にうまくマッチしていた。

 彼女を表す言葉として、かわいい、は違うとオーラブは思った。美術館で厳重に保存されている女神像を前にしてそんなことは言わないように。

 では美しい、か。これは半分正しいと思えた。その言葉はあまりにも貧相で、そして力不足だ。

 オーラブは彼女を前にしてなにか人間の思惑の外にある、それこそ新種の超越者にでも遭遇したような気分になっていた。そして、急に彼女が恐ろしく見えた。彼女の持つ美は、人間が持っていい類のものじゃない。



 ナタリアは部屋に人数がそろっているのを見ると挨拶もそこそこに「遅れましたか?」と、眉を寄せ申し訳なさそうに部屋に入ってきた。アレクセイが巨体に見合わない俊敏さで、彼女に近づいていくのを見て止めた方が良いのかと一瞬、オーラブは本気で考えた。

 だが、二人が近づくと今度は強烈な既視感が襲ってきた。

 


 二人はよく、似合っていた。よく、似合いすぎていた。何かが彼の記憶をかすめる。

オーラブは、彼女をもう一度、眺めた。不思議なことにその時には、彼女の持っていた人外染みた魅力は霞んで、彼女は一人の少女に、女になっていた。だから、気付いた。



――彼女のドレスも、髪型も、髪留めも、彼女の全て、アレクセイの死んだ妻カチューシャが好んでしていた恰好ということに。



 それに気が付いた時、同時に今まであった違和感の正体に思い至った。すべてがそっくりだ。アレクセイの様子も宮殿の喧騒も、使用人たちの様子もすべて、カチューシャが元気だった数年前に。違和感ではなく、既視感だったのだ。

 まるで彼女がカチューシャとなり、無理矢理あの頃を再現しているようじゃないか。そんな考えを彼の頭に思い浮かばせるほどに、彼女はカチューシャそっくりだった。

 オーラブの胃は締め付けられ、心臓は早鐘を打った。足元が崩れ落ちたような危機感に、ふわふわした心待ちのまま二人を見ていた。

 少し上擦ったアレクセイの声が、いつか聞いたものと被ったような気がした。



「来たか、ナターシャ!! あぁ、そんなところに立ってないでこっちにおいで」

「遅くなりました、叔父様」

「かまわない、かまわないとも。ナターシャの周りはいつも賑やかだから、近づいてくるのがわかって待っているのも楽しいよ。それより、いつものようにハグをしておくれ」



 身をかがめ両手を広げたアレクセイの胸元に、慣れた様子でナタリアは体を滑り込ませた。

 お互いに右頬をくっつけながら、肩にゆるく腕を回す彼女とがっちりと腰元に腕を回して強く締めるアレクセイ。二人の体格差からその様子は、熊に捕食されている人間の子供の様に見える。

 二人は抱き合っていたが、ナタリアがタップをするようにアレクセイの背を叩き、消えそうな声で「苦しいです」と一言つぶやくと、ゆっくりと解放された。向き合って、口を開かず確かめる様に視線を送るアレクセイに彼女は笑顔で答えている。

 しばらくして、すっかり満足したらしいアレクセイは、乱れてもいないナタリアの前髪を手櫛で整えた。その手つきは親が子に向ける愛情と呼ぶには淫靡で、情婦に向ける劣情にしては清潔すぎた。

 それから、もう片方の手でしっかりと彼女の手を握り、大げさに扉からテーブルまでの数歩の距離をエスコートし、椅子を引いて肩に手を置き着席を促した。ナタリアが簡単に挨拶を交わし席に着くのをオーラブは夢見心地で見送り。アレクセイは料理の配膳をイエヴァに任せ、ナタリアの姿を上から下まで舐めるように見渡して、溢れんばかりの笑顔で彼女に話しかけた。



「ようやくオーダーメイドのドレスが届いたか、お前はどのメイドの服も合わなかったからな」

「えぇ、人種の違いでしょうか? ここでは珍しい体格みたいで。この間の仕立て屋なんか採寸のとき怖かったです」

「あっはっは、確かにとても興奮していたな。頻りに神の設計した体だなんだと褒めたたえて、かわいい姪を褒められて儂も鼻が高かったよ」

「大げさすぎです。田舎娘をからかっていたのですよ」

「まさか。儂から見たら細すぎると思ってたのだがな。体は健康そのもの。

こうして仕上がった服を着たお前を見ると、なるほど確かに超常的なものを感じるよ。お前は神様の最高傑作かもしれん」

「もう! 叔父様までからかって!」

「あっはっはっは」



 軽快な笑い声をあげる叔父と姪、イエヴァとテオドールも見守るように笑っている。一見すると家族の幸せな一幕、だがオーラブにしたらとんでもない茶番だ。

 オーラブの中にあったナタリアに抱いた人物像は完全に壊れた。

 あの瞳はどこにいったのか、刺すような雰囲気は。彼女は今カチューシャなのかナタリアなのか。怒ればいいのか、悲しめばいいのかすらわからなくて、オーラブはどうにかなりそうだった。ひたすらに気持ち悪いという言葉が頭の中をぐるぐると回っていて、底なし沼の中に沈んでいくようだった。

まるで、そんなオーラブの心境を見透かしたようにナタリアが、言葉を発した。



「お久しぶりです、オーラブ団長」



 凛とした声が耳から浸透し、脳に広がる。こちらを宥めるニュアンスの含まれたその声にオーラブは思考の海から浮かんできた。

 鈴が鳴るような透明な音だった。自然と警戒心が解けていくような不思議な声だ。肩の力が自然と抜けていくのをオーラブは感じた。

 オーラブは微笑みを浮かべるナタリアを見た。最後に見た時の彼女は激情に歯を食いしばって、今にも飛び掛からんばかりにこちらを睨んでいた。次に会うときは血を見るものと思っていた。ジッと見つめるオーラブに彼女は返事がないことに困惑したように小首を傾げた。

 まるで"あなたが剣呑な雰囲気を出している理由がわかりません"とでも言わんばかりに。ひどい役者だと思った。同時にテオドールの最初の呟きを思い出した。彼は「喜劇」と言っていた。



 しばらく考え込んだのち彼もまた笑顔を浮かべた。だが冷たい瞳のまま、犬歯をむき出しに笑うその顔は、役者としては三流もいい所だ。

 そのことに気付いていないのかアレクセイが驚いたように二人の顔を見交わす。



「なんだ? 二人とも、もう顔を合わせていたのか?」

「えぇ、初日に。部屋まで送ってもらいました。……その節はお世話になりました」



 笑顔のまま小さく頭を下げつつ、彼女の持つフォークの切っ先はほんの一瞬オーラブの首筋に向いた。初日、呪術を入れられ体力を失ったナタリアをオーラブは引きずり、メイドの待っている部屋に放り投げた。

 根に持つタイプなのかもしれない、とオーラブは肩をすくめてみせた。



「なぁに、構わんさ。……しかし、化けるもんだな。随分とお上品になったじゃないか。別人に見えるぜ」

「テオドール様のお話を聞き自分の立場と言うものを考えて、変わってみようと思ったんですよ。いかに自分が無知で野蛮だったか思い知りましたから」

(テオドール"様"だと!)



 そう言って、テオドールに尊敬の眼差しを向けるナタリアに、オーラブはもう笑いそうになった。

 会話をしてみて、彼女は薬や魔術の類で支配されているわけでないことはわかる。もし、そうであれば皮肉など言えない。彼女の呪術は定められた人物を傷つけようとすれば、痛みでその行動を止める。非常にシンプルなものである。

 だから彼女は、素面の状態でいるわけだ。

 オーラブは一目見ただけで相手の全てが分かる、そんな達者な目を持っているとは思っていない。だが上品に、それでいて親しみやすい笑顔を浮かべる今の彼女と前に会った時のあの女はあまりにも繋がらない。女って恐ろしい、と一人考え込むオーラブを他所に、事情を知らないアレクセイは妬ましげにテオドールを見つめた。



「まったく、余計なことをする。今じゃ食事中でも儂に敬語を使いよる」

「叔父様と一緒に食事をとるような人間が、敬語もまともに話せないようだとまずいでしょう?

敬語は普段から使っていないと咄嗟の時に出てきません」

「これだ。イエヴァみたいなことを言う。もう勉強はやめたほうが良いんじゃないか?」

「叔ー父ー様ぁー?」



 拗ねたように半目でアレクセイを睨みつける彼女の姿は、年相応に愛らしい。そこには初対面時に見た血生臭さも退廃的な雰囲気もない。彼女は役者として一流だった。

 その証拠に、アレクセイは蕩けんばかりの表情で、彼女の頭を優しく撫でて笑った。



「あはは、わかってる、ナターシャが勉強したいと言うのなら止めはしないよ。

……随分、話し込んでしまったな。続きは食事をしながら話そうか」



 食器が窓から入る朝日を映している。外からは鳥の鳴き声が聞こえる。穏やかな朝。

 何かが決定的に間違っていて、それは絶妙な均衡を保ってこの空間を支えている。オーラブにはそう思えた。













「うーん」



 紙を片手にうんうんと唸り、途中途中に呪文のような言葉を呟き、新調したマントをお日様の下に靡かせ。宮殿のある南側からオーラブ騎士団の兵舎のある北側へ向けてアナト川にかかる橋を歩く若い騎士が一人。

 橋を渡りきっても結局、手に持った暗号とも呼べる文字列を解読することは叶わず。難しい表情のまま橋のふもとにいる衛兵と一方的な挨拶を交わした彼に、後ろから軽い調子で声がかけられた。



「あっれー? あそこにいるのって、年下の女の子に負けてベソかいてたグレゴリーちゃんじゃない? おっすおっす」

「あん? ……おおー、護衛対象のハイティーンの女の子に締め落とされて、小便ちびったグレゴリーちゃん。ちっすちっす」



 ここ数日、聞きなれた侮辱の言葉に、ただでさえ低かったテンションがさらに急降下し膝から力が抜けていくのを感じながらグレゴリーは振り返った。

 そこには予想通り。共に魔の森に突貫し、ナタリアの村にまでたどり着き、スコピテラからアナトセティまで彼女の移送を担当して、親衛隊までになった三人がいた。

 そのうちの二人は特に面倒くさい人達だが、ナタリアとの一戦以降絡まれ続けたグレゴリーはその対処法もすでに知っていた。だるい二人の先輩の名前は、アルバートとアルフレッド。二人には禁句がある。

 グレゴリーを間に挟むようにして左右から肩を組み、半笑いで「負けちゃったねー。女の子にねー」としつこく煽ってくる二人に、グレゴリーは青筋を立てながら爆弾を投下した。



「アル先輩。こんちゃっす。」



 ピシッと二人が固まった。それから、二人とも油の切れた機械のような動きでゆっくりグレゴリーの方を向いた。まるで鏡合わせのように同じ動きで、ひきつった同じ笑顔を浮かべた。



「こ、こらこら、グレゴリーちゃん。ちゃんと"フレッド"にも挨拶してやれよ。こいつはあほだけど、無視はかわいそーだろ、無視は」

「いやいや、今のは俺への挨拶だって。……"ビー"が誤解するからそんな言い方やめなよ? グレゴリ-ちゃん」

「……あ゛ぁ?」

「……はぁ?」



 二人がにらみ合っているのを確認したグレゴリーは、燻りだした種火に油を注ぐために、そっと二人から距離を取ると「あれ~? 今はどっちをアルって呼べばいいんでしたっけ~?」と、とぼけた声を出した。もともと沸点の低い二人はそれで一気に着火する。



「だぁぁああから、前に俺が勝ったからアルは俺だって!!! こいつはフレッド!!」

「全部合わせりゃ、俺の勝ち越しだろーが!!」

「んだゴラァ、カスコラ。やんのか? お゛ん?」

「だりぃー絡みすんなよ、バカ。つーか、息くせぇーんだよ、近寄んな、しね」

「おまえがしね」



 チンピラの様な風貌で、チンピラの様にぐっちゃぐっちゃと汚く発音し、発言には知性の欠片もなく、チンピラの様にだらしなく服を着崩す。モロチンピラな二人は少しいじっただけで容易く煽りの標的を変えた。

 「お゛ん? お゛ん? お゛ん?」とガンをつけるビーに、我慢できず頭突きをかましたフレッドは、そのまま取っ組み合い地面を転がった。



 二人の共通の愛称である"アル"が二人にとって禁句であることを教えてくれたヴィクトールと彼らの単純さに感謝しながら、グレゴリーは先ほどから礼儀正しく立っている最後の一人に向き合い、頭を下げた。最後の一人――ダニエルは朗らかに笑って片手を挙げた。



「すまない、グレゴリー卿。不器用な彼らなりの愛なのだ」

「慣れましたから御気になさらず、サー・ダニエル」

「それもまた、愛だな」



 そう言って豪快に笑う彼に、それは絶対に違う、と声を大にして叫びたかったが、言ったが最後どこまでも愛について語られることを知っていたグレゴリーは、ぐっと言葉を飲み込んだ。

 オーラブ騎士団でも珍しいことにグレゴリーより背の高いダニエルは、グレゴリーの肩に軽く手を置いた。



「聞いたぞ。我々親衛隊の隊長に指名されたそうじゃないか。おめでとう」



 混じりっ気のない純粋な称賛に、グレゴリーは彼の人となりを見た。10個も下のグレゴリーが自分たちの隊長に就いたことを、彼は本気で祝っていた。

 しわ一つない服を身に纏い、大きく聞き取りやすい声ではきはきと喋るダニエルは、身につけている服の白すら彼の前ではくすんで見える。

 短い付き合いの中で見えた欠点と言えば、愛に対して独特な哲学を持っている事と体が大きく強面のせいで女子供に避けられやすい所くらいで、話していて気持ちのいいこの相手を、グレゴリーはすっかり懐いていた。

 それだけに気恥ずかしくなったグレゴリーは、目を伏せた。



「サー・ダニエルこそ、別の部隊の小隊長に推薦されたそうじゃないですか?」

「あぁ、第七大隊の第一小隊に、と誘われたんだ。私の様な未熟者に声をかけてくださったのは嬉しく思うのだが、断った」

第七大隊第一小隊ウルフドックの隊長!! うちの花形部隊じゃないっすか!」

「いや、いいんだ。私は私の本当の愛を見つけたのだから」



 会話を重ねるうちにグレゴリーから気恥ずかしさはすっかり消えて、「愛っすか」と呟くとすぐ上から「愛だよ」と返ってきた。

 花形部隊の隊長という地位を蹴ってまで、彼女に仕えることを選んだダニエルを笑うことはできない。グレゴリーだって、ありえないが仮に推薦を受けていたって辞退するだろう。そして、おそらく彼女と共に北領に戻ってきた他の騎士たちも、同じように辞退しただろうと思えた。

 グレゴリーには彼の言う愛の意味はよく分からなかったが、それを捧げる相手がナタリアだと分かった。彼の愛がたとえ庇護欲のようなものだとしても、なんとなく、ちょっぴり、ナタリアには会ってほしくない。そう思った。



 隣でゴロゴロと地面の上を転がりまわる二人から飛んでくる小刀を片手間で弾き、そこから聞こえる「あ、あひぃん」という情けない声に侮蔑の視線を送っているグレゴリーに、こんどはあちらから疑問が飛んできた。



「それで、隊長殿。親衛隊の設立の方は順調か? 誘われたから受けたが、何をする部隊なんだ?」

「あー、それは……」



 あちゃー、と言わんばかりに片手で顔を覆いグレゴリーはうつむいた。悩みの種の一つだった。

 一般的に親衛隊とは重要人物の周辺警備をする部隊であるし、まさにそれが目的で部隊の設立は決まった。一見、この決定は普通のことのように思えるが、オーラブ騎士団が選ばれることは、あまりにもありえない事だった。

 なぜなら、敷地内には防衛を担当している衛兵隊がいる。彼らの中から特に精強で、容姿端麗、身辺調査された信用に足る若い男性を選抜した宮廷衛兵と呼ばれる部隊が、宮殿内に存在している。

 その上、親衛隊にして過剰戦力が過ぎる。オーラブ騎士団員が12人もいれば、小さな都市なら攻め落とせるし、魔物退治を命じれば森から魔物が消える。財宝一つにファフニールが12体もいるのは計算が合わない。

 だから、ダニエルが親衛隊とは名ばかりの、特別な任務を受けた秘密部隊と勘違いすることも普通のことであった。集められた騎士は先鋭ばかりで、彼女がノルニグル族の中でも希少な存在であり、魔の森で見た火柱など不可解なことが多いことも拍車をかけた。彼だけじゃなく、他の団員もジークフリートが襲ってくるのと思っている。



 だがそんな常識を覆して、アレクセイによって部隊の設立は決まった事を親衛隊隊長のグレゴリーと副隊長ユーリだけは知っている。親衛隊設立の理由は、かわいい姪を少しで危険にさらしたくないから、任務は彼女の周りで待機である、と非常に分かりずらくオブラートに包んでテオドールから聞かされたからである。

 グレゴリーはアレクセイの溺愛ぶりに呆れたものの、了承した。連れてきて、はいさようなら、では無責任すぎるように思えたし、妻と娘、それから息子を四人も失った彼が、義理とはいえ姪の彼女に対して過保護になることは理解できたからである。



 正直に話すかグレゴリーは迷った。オーラブ騎士団は自尊心の高い者が多い。現に一緒に話しを聞いたユーリだって、表立って反発はしなかったが、明らかに命令に不服なようで、引き継ぎや家庭の事情を理由に敷地内に顔を出さなくなった。

 ダニエルには悪いが、部隊の空中分解の可能性を配慮して、誤魔化そうとグレゴリーは考えた。疑うことを知らないダニエルだけならば何を言っても信じるだろう、と顔を上げると彼の隣には、勝負がついたらしく泥まみれになったビーがにやにやとこちらを見ていた。

 グレゴリーは、すぐに視線を下げた。まずった、と思った。ダニエルと違い仲間を疑うことを悪徳と思わない上に変なところで鋭いビーをごまかすセリフが思いつかない。グレゴリーは仲間に嘘をつくのが下手だった。



「おーい、グレゴリーちゃーん。煽るだけ煽っといて、その態度はないんじゃねぇーの?」

「いや、あの」

「いーの、いーの。誰に聞いたか知んないけど。そ、れ、よ、か、不自然な親衛隊の任務、なんか知ってんでしょ? いじわるしないで俺にも教えてよ」 

「あー、任務は……」



 戦いを終えたばかりのビーの目は完全にイっていた。

 どう話そうか、答えを見つけようと彷徨ったグレゴリーの手が偶然ポケットに触れ、かさり、と小さくなった。そこで、グレゴリーはナタリアに頼まれた初任務を思い出した。しかし、ナタリアの書いたこの文字を見せれば、人を馬鹿にするのが大好きなダブルアルがどんな反応をするか想像に容易く、それは彼女を売るようで気がひけた。

 グレゴリーの中で天秤はつりあった。迷っているとフレッドも起き上がって、腿に刺さっていた小刀を抜き「何か知ってるんなら、話した方がいんじゃない?」と詰め寄ってきた。限界だった。

 『話題を逸らすため』、『彼らなら読めるかもしれない』、『汚いのが悪い』と天秤の片方に次々と積み重なっていく。グレゴリーは心の中で彼女に謝って、「任務はこれです!!」と三人にメモを渡した。



「あん?……は? 暗号の解読か? ……いや、もしかしてこれ文字、か?」

「どれ? ンフッ! ……これが文字って、お前、ンフフフ」

(まぁ、そういう反応になりますよね)

「だぁーはっはっはっはっ!! これぜぇーたい文字だって、超きったねぇー。なにこれ? ラブレター? お前、こんな酔っぱらいの爺の小便みたいな字で告られたわけ? 憎いね色男。ははっ、超うけんだけど」

「ンフフフフ! やめとけってお前、さっきの河原に落ちてた犬の糞にそっくりな字だからって、笑っちゃしつれいでしょ。フフッ」



 橋を渡ってきたところで声をかけて来たということは、宮殿から戻ってきたところだと二人は知っているはずで。それに任務と言ったのだから、誰から渡された物かある程度の予想はつきそうなものなのに。

 話題を逸らせた安心感より憐れみの感情が湧いてきた。ケラケラ笑いながら肩を叩く二人に空返事を返し、「ナタリアの書いたメモ」と教えたらどんな反応をするかとほんの少し楽しみに口を開きかけたグレゴリーに先だってダニエルが話した。



「『ドミトリー叙事詩の最新刊』、『砥石、特に中砥と仕上げ砥。研磨剤』、『ウォッカが飲みたい』。ふむ、つまり買い物に行きたいということか。

ナタリア嬢は外出できないほど多忙なのか?」



 当たり前の様に読み上げたダニエルの前に口をポカンと開け、頭の上にいくつものハテナマークを浮かべる騎士が三人。うち二人は、メモとダニエルの顔を交互に見比べながら、今の発言を消化しようと必死に頭を悩ませていた。

 事情を知っていて一番再起動が早かったグレゴリーが、代表して聞いた。



「え? いや、一日勉強漬けらしいです。というか、え? 読めるんですか?」

「うむ、まるで雪原に咲く一輪の花。派手な装飾はないのに目が離せず、尊厳を芯にして純朴な花を咲かせる。そんな、彼女のイメージ通り愛らしくも凛々しい文字だ」



 自信にあふれた声から一転、恋する乙女の様に目を蕩けさせ、猫なで声を出す二メートル近い大男に、メモの文字は、一輪の花より犬のウンコに見えるグレゴリーは引いた。

 同時に好奇心が湧いた。推理にしては断言であったし、その自信はどこから来たのか、聞いてはいけないことの様にも思えたが、ピュクシスを前にしたパンドラの様に、グレゴリーの口は自然と開いていた。



「なぜナターシャが書いたってわかったんすか?」

「ん? あぁ、それは簡単だ。愛だ」

「……愛っすか?」

「あぁ。それに、この紙からは彼女の匂いがする」

(あっ。この人おかしいんだ)



ダニエルも変態揃いのオーラブ団長直属の部隊出身の騎士だな、と思うと簡単に割り切ることができたグレゴリーは、これ幸いと何が書いてあるか聞きだし、紙に書きとめた。

それが終わると、メモが欲しいと言ったダニエルに二つ返事で了承し、ハンカチで丁寧に包装して胸元にしまう彼を複雑な表情で見届けると、未だに情報をうまく処理できていない二人を放って「しばらく待機で!」と言い捨て、その場を後にした。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ