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北領のナターシャ  作者: Peace
本物の悪
10/22

始動(前編)








 まだ日も登り切っていない早朝。ダーシュコワ公爵家の近郊のアナト川の上に小さな船が浮かんでいる。霧の立ちこめる中、船上に見えるのは三人の影だ。

 そのうちの一人、ナタリアは今日まだ一度も動いていない釣り竿の先をぼんやりと眺めていた。真ん中からやや左にずれた位置で結ばれた髪の毛とサイズの大きい服をなびかせる姿はだらしない。



 公爵家では朝、昼、夕方と一日に何回も着替えさせられる。着替えは自分でできると主張するナタリアと、レディースメイドの仕事だと主張するターニャの口論はテオドールの一言でナタリアの敗北に終わったが、屋敷全体が眠っているこの時間だけナタリアは自由を満喫できる。今の姿は、普段からぴっちりとした服を着せられている彼女の小さな反発だ。

 今頃、ゾンビのような足を引きずりながら自分の部屋に向かったターニャはもぬけの殻となったそこで舌打ちをしている事だろう、笑みを浮かべたナタリアに隣から間延びした声がかかった。



「朝からご機嫌ですね~。なにか良いことありましたか~?」

「予感がするのよ、アンナ。今日も釣れるわ」

「昨日もそうおっしゃって、大漁でしたね~。なにかコツとかあるんですか~?」

「うまく釣るオマジナイがあるの。内緒だけどね」

「きになりますね~」



 ニコニコと笑顔を浮かべたまま、アンナは櫂を持ったまま仏頂面のもう一人のメイドに声をかけた。



「エルゼちゃんも一緒に釣りしませんか~? 楽しいですよ~」

「……別に、興味ない」


 

 そう言って顔を逸らしたエルゼは体いっぱいを使って不満を表している。その姿を見て苦笑いでこちらを向いたアンナにナタリアは肩をすくめた。

 16歳と若いエルゼはその年齢通りに素直な少女であったが、左目の上に存在する刀傷と強い瞳が彼女の非凡さを表していた。いつもニコニコと笑っているアンナもそれ以外の表情をナタリアはまだ見たことがない。

 天候は穏やか、やや肌寒いが絶好の釣り日和。癖の強い二人の付き人がいなければもっと楽しかっただろうに。ため息を隠したナタリアは揺れる水面を眺めながらこの数日の事を考えていた。



 公爵家に保護されてから今日で五日目になる。アレクセイ卿と正式に叔父と姪の関係を結んだが彼女に爵位は与えられておらず、北領の政治や経営に関われないようにされていた。ナタリア・ロストワと名乗らされダーシュコワ姓を使ってもいない。

 しかし、アレクセイ卿から大事に扱われている彼女の屋敷の中での立場は非常に曖昧なものだった。

 使用人たちは貴族ではないが、ないがしろにしていい存在ではないナタリアにどう接すればいいか迷ったものだったが、この五日間、ナタリアから歩み寄ることで打ち解けることに成功し、貴族らしくなくフランクそれでいてどこか上品な彼女は、使用人たちから徐々に人気を集めつつある。



 ナタリアに与えられたのは彼女の身の回りの世話をする五人レディースメイド、親衛隊として12人騎士達、雑用担当の数十人の従騎士とペイジ、そして莫大なこの世界の知識と貴族としてのマナーだった。

 規制に次ぐ規制に縛られた彼女には僅かな自由しか与えられず、ナタリアはこの五日間一歩も敷地の外に出ていない。

 今もナタリアの背中にはエルゼの観察するような視線を受けている。それでも……



(ここに残ったのは間違いなく正解だった)



 手ごたえのあった釣り糸を手繰り寄せながらナタリアはそう考えていた。

 心配していた叔父との関係も良好だと思っている。

 もっとも家族を知らないナタリアは正しい家族のあり方を知識でしか知らないために断言することはできない。だが時々変な要求をされることはあっても性的、非常識な要求をされていないためそう判断していた。しかし、周りの反応を見るにどうにも叔父は自分に甘いらしい。



 そしてなによりもナタリアを喜ばせたのは、彼女の予想通りここが知識層の集まりで情報が集まってくる事だ。ナタリア・ロストワを演じるために用意されたノルニグル族の資料、この世界の常識、魔法や亜人、魔物の存在、貴族としてのふるまい方、最後の一つを除いてどれも今の彼女に必要な力だ。

 特に自分の世界には存在しない魔法や魔力について資料を読み解いていくうちに、発動するには事前準備を含め様々な条件があることがわかった。テオドールが自分のわき腹に刻印を入れた時に使った羊毛紙は、スクロールと呼ばれるもので魔法の才能がない者が魔法を使う手段の一つ。製造の問題から金銭的にバカ高いことを除けば比較的オーソドックスな手段らしい。



 魔法は何でもできる不思議なパワーではなく、自分の世界には存在しない一つの法則、或いは技術であるとナタリアは判断した。秘匿されるべきらしい魔法についてここまでわかっただけでも大きな成果だ。

 さらに考察を続けるならば、自分の世界が科学という法則に従って太古から進化を続けてきたように、この世界は科学と魔法の法則に従って進化してきたのだろう。

 この世界にいる動植物は自分の世界と変わらない。それなら、魔物や亜人など自分の世界にいない存在は、この魔法が深くかかわっているとナタリアは考えていたのだが、それを証明するには魔法はこの世界で学問としてあまりにも未発達であった。

 そもそも、魔法を扱える人間は限られていて個人で非常に強い力を持つ彼らの立場は難しい。そして、魔法はフィーリングの要素が強すぎて知らない者に説明することが困難な事が拍車をかけ、魔法は未だに学問としてすら認められていない。



 そして残念なことにナタリアが先の自説をイエヴァに話した時、心底頭の心配された。

 この世界では魔物や亜人、魔法と言うものは子供の頃から絵本などを通して身近に感じることのできる事で、それらを異常と思うことはできず、結びつけることもまたできない事だった。

 極端な話、畑を荒らすのであればイノシシとゴブリンは同じ害獣だ。違いを挙げるとしたら後者は食べることができないぐらいか。

 ナタリアは、以前テオドールが「流浪の民とは危険思考の持ち主」と言ったことを思い出した。革新的といえる考えは彼らの常識を否定するもので、確かに危険思考といえるだろう。流浪の民と呼ばれる存在が忌み嫌われている理由をなんとなく察することができた。



 結果としてナタリアがこの五日間で分かったことは、もっと時間をかけてこの世界について常識を学ぶ必要があるということだった。なにしろこの世界に生まれて一週間と少ししかたっていないのだから。


 いろいろと学ぶことは多いが、ナタリアは結果も残した。ノルニグル族の悲劇の少女、ナタリア・ロストワを演じることだ。

 昔取った杵柄。他人を演じることに慣れていたナタリアは教師役であるイエヴァが驚く速度でナタリア・ロストワとしての設定を暗記し暗唱して演じて見せた。その精度は「彼女を偽物と暴ける人間は、本物のノルニグル族ぐらいだ」とイエヴァに言わせたほどである。彼女を流浪の民と知るものはあの部屋にいた三人以上に増える心配はなさそうだ。




 考え事をしていて集中力が散漫になっていたからだろう。釣った魚を締めていたナタリアの指先に不愉快な痛みが走った。切れて血がにじんでいるのを見て舐めとろうとしたナタリアの手をアンナはやんわりと止めた。



「傷、塞いじゃいますね~」

「……ええ。お願い」



 アンナが指をとり瞳を閉じて祈り始めると、傷の近くにあった肉が盛り上がり少しずつ傷をふさいでいった。

 何度か目にした非常識な光景。ここには回復魔法、祈りなどと呼ばれる超常的な現象がある。

 この世界には人間、亜人、魔物、などとは別に超越者と呼ばれる者たちが存在する。何でもはるか昔から存在する希少な種族らしい。

 その一つが北領のラブリュスの森の先にある前人未到の山脈を本拠地にしている小山ほど大きさの深紅のドラゴン。全ての生き物と意思の疎通を可能とし全人類の総魔力を鼻で笑う莫大な魔力を持ち、未来を見通すと言われている存在で。この大地と同時に誕生したと言い伝えられているヒエラルキーのトップ、大陸の支配者。



 そして、もう一つが地母神。彼女は人類の誕生と同時に存在すると言われている。

 歴史の節々に人間の女性の姿をして現れては歴史的有名人と恋におちる。そして寿命差から必ず先に来る男性の死に際に流す一滴の涙が相手を延命させ、正体のばれた彼女は姿を消す。その時々で名前は変わっているが、世界各地で似たような伝承が残されている。

 彼女もまた人間の常識の通用しない魔力を持つ。その正体はエルフとも長い時を生き進化した精霊とも、或いは全く未知の生物とも言われているが種族、人種は一切不明。



 回復魔法を使うにはその地母神を信仰するだけでいい。信仰といっても難しいことはなく、ただ彼女の存在を信じ敬えばいい。

 一般人には精々が擦り傷を治す便利な力程度であるが、朝から晩まで地母神に祈りを捧げ、彼女について学問として理解を深めた修道士たちの特に上位の者であれば切断された腕や足をくっつける事も可能なのだそうだ。

 実際にグレゴリーと戦いぼろぼろになったナタリアはセシルの祈りによって一晩でほぼ全快している。信じるしかない。



 ナタリアの常識からしたら信仰を集め、強大な力を持つ二つの存在はまさに神といってもいいものだ。

 魔法に関してはからっきしのナタリアだが、回復魔法なら使うことが可能だった。そう、可能【だった】のだ。

 異なる世界に飛ばされて性別を変えられるなんてまさに神様のイタズラだ。超越者の事を調べていくうちに彼らを唯の容疑者としか考えられなくなったナタリアに地母神を信仰することなど不可能だった。

 彼女の目的は具体的な形で定まりつつある。



(俺と神様の相性ってやつは……。本当に因果なものだ)

――ーシャ様? ナターシャ様~? 大丈夫ですか~?」

「……え? ああ、大丈夫。……いい時間ね、もう戻りましょうか」



 アンナの間の抜けた声でナタリアの意識は現実に戻ってきた。適当に釣り上げては放り投げていたため、船上は足の踏み場もないほどの魚に溢れている。エルゼの迷惑そうな表情をわき目にナタリアはごまかすように頭を掻いた。考え事に集中しすぎたかもしれない。

 これもこの五日間で気付いたことだが、ナタリアの集中力や反応速度などは向上していた。景色はよりはっきり見え世界を身近に感じ、わずかな睡眠時間でも体に疲れが残らず、持病に悩まされる心配もない、若返りの恩恵をナタリアは享受していた。

 しかし、嬉しいかと問われればナタリアははっきりとNOと答える。たとえ男のまま若返ったとしても決して喜べなかっただろう。

 小船が岸に戻るまでの間、ナタリアの回りすぎる頭の中は余計な問題ばかりがぐるぐると渦巻いていた。







「裾を整えて、っと……よし、完成!!」



 真剣な顔で腕を組んでナタリアを一通り眺めたターニャが、太陽のような笑顔で宣言した。その瞬間、周りにいる四人のメイドが安堵の息をついた音を確かにナタリアは聞いた。



 釣りから戻りコックと熱い議論を交わした後、奇妙な充実感とともに部屋に戻ったナタリアを待っていたのは、鬼の形相をしたターニャだった。その鬼もナタリアのだらしない恰好を見ると修羅に変わりナタリアもドン引きする勢いで手を掴むと部屋に引きずり込んだ。そこから始まると思われた説教は、ナタリアの手が未だに魚で生臭くぬるぬるしていたことでちょっとしたトラブルに変わりなくなったのだが、その代わりの様に今日の変身はやけに気合いと時間がかかっていた。



 「あれを持ってこい」、「ここを抑えておけ」と散々こき使われたエルゼは、疲れた表情をしながらも自分の主人を見た。

 高く細い鼻筋、頬骨の位置もやや高いが、そこにはこの大陸の人間にはない特徴が僅かに見える。桜色の唇はみずみずしく白い肌によく映えていて、女である自分から見ても魅力的だ。綺麗にまとめられた黒髪は朝と同じ髪型のはずなのに全く違う印象を受ける。

 服は黒を基調とした膝丈のタイトなドレス。裾と帯、それから襟元だけに簡易的な装飾が施され膝下からは白いドロワーズのかわいらしいフリルが覗いている。朝のだぼだぼとした格好と違い彼女の凶悪なボディラインをこれでもかと強調している。

 全体的にシンプルにまとめられている姿は北領式と呼ばれ中央式の豪華な衣装を嫌う北領の貴族の好みに合わせられている。



 エルゼの視線が横にいるターニャにずれた。身長はナタリアと同じくらいだが北領の人間らしく骨が太い。栗色の髪を分けておでこをだし、笑うたびにえくぼが出て八重歯がきらりと光る。明るくそして全体的にふくよか印象を与える彼女はまさに北領の基準での美人だ。

 黙っていると尖った印象のナタリアと天真爛漫なターニャ。月と太陽の様な二人が隣に並ぶと互いに魅力を引き出し合っていた。



 だがそんなことより……。ぐっと奥歯を噛み締めたエルゼはばれない様に二人の胸元に視線を落とした。

 ドカン! と存在を主張しているナタリアの二つの山は、東にあるアナト山脈を思い起こさせる雄々しさがある。

 ドガガーン!! と存在を主張しているターニャの二つの山は、北のラブリュスの森を抜けた先ドラゴンが住む山を思い起こさせ、常識を逸したそれはもはや凶器と呼べる。

 最後に自分の体を見下ろした。ぺたん、と音が聞こえそうな起伏のない北に広がる草原の様な体が視線に入る。ナタリアとは同い年だしターニャはたった二つ上。……人生はいつだって不条理だ。



(いや、この体は強くなるためだけにあるんだ。今更、女に未練などあるもんか)


 強引に結論をだして納得して頷いていたエルゼと今まで閉じていた瞳を開けたナタリアの目があったのはその時だった。



「……どうかした?」

「なんでもない!!……です」

「何度も言ってるけど、無理に敬語を使わなくていいのよ? 同い年なんだし」

「いえ、無理してません」

「あら~、エルゼちゃんそんなに冷たい言い方しちゃダメよ~」

「そうね。なんだか距離を感じて寂しいわ」



 瞬きするごとに風を仰ぐ音が聞こえそうなほど長い睫を物憂げに伏せ、瞳に影を落としたナタリアの様子はエルゼを黙らせるのに十分な破壊力を持っていた。

 四対八つの非難するような視線に居心地の悪さを感じたエルゼにまさに救いを与えるようなタイミングで伏せた顔をあげたナタリアは、いいことを思いついたと言わんばかりに笑顔で提案した。



「だったら昼食は一緒に食べない? いつも一人で食べてるでしょ?」



 いつもであれば断る提案であったが、伺うように見つめるいくつもの視線を前に彼女の心は折れ項垂れながら呟くように口を開いた。



「……ご一緒させてください」



 ナタリアのレディースメイドとして集められた五人のうち、アンナ以外と接点を持ちたがらずやや浮いていたエルゼの事を気にしていたターニャは太陽の笑顔で目を輝かせている。

 そんなターニャとは対照的ないやらしい笑顔浮かべたナタリアはアンナと頷き合った後、話し始めた。



「決まりね。ターニャ、全員分の昼食を用意しておいて」

「はい!!」

「それじゃあ、私は叔父様と朝食をとってくるわ」

「いってらっしゃいませ」



 ナタリアが立ち上がった時にはすでにアンナが扉を開け待っていた。不快感を顔には出さずに「ありがとう」とほほ笑んだナタリアの後ろを当たり前の様にアンナは着いて歩く。目的地は隣の建物だ、公爵家の広い敷地内の移動には少し時間がかかるがこの五日間、毎日通っている道でもうとっくに場所は覚えている。

 少しの距離を移動するときでさえナタリアに誰かしら人がついて歩くのはここでは当たり前の事となっていた。

 そのうちトイレの中までついてくるんじゃないか? 不審な未来を想像しているナタリアに明るい声がかかった。



「ナターシャ様ってエルゼちゃんに甘いですよね~」

「そうかしら? 普通だと思うけど」

「それにエルゼちゃんを見るときのナターシャ様って時々とっても不思議な顔をなさってますよ~」

「不思議って?」

「嬉しそうな、悲しそうな、複雑な表情です~」

「さぁね、自覚はないわ。……ねぇ、それより私いい加減一人の時間が欲しいんだけど。」

「お一人の時間ですか~? それなら寝るときがあるじゃないですか~」



 当たり前だ、と言わんばかりのアンナの指摘にナタリアは苦々しい顔つきになった。この屋敷で働いているメイドは大抵の者が貴族の次女以降の者たちで、幼いころから大勢に囲まれて生きてきた彼女たちとは一人になれないストレスを共有することができない。

 階段を下り、もう見慣れた豪華な装飾のされた廊下と新鮮さがなくなるとただ歩きづらいだけのふかふかの絨毯の上。目指しているのは裏口だ。正面玄関には何が楽しいのかナタリアを出待ちしている使用人が多くいてまともに歩くことができない。

 無駄に遠い扉を目指し進みながらナタリアはうんざりとした声を出した。



「すぐ外に衛兵が一晩中いるのに一人も何もないわ。私も若いしいろいろと持て余すのよ、わかるでしょ?」

「そ、それは……。私には権限がありませんからね~。……お気持ちはお察しします~」



 男だったときであれば完全なセクハラ発言を堂々と言い切った後ナタリアがちらり、と横目でアンナ確認した。眉をハの字に曲げ困ったような表情で僅かに頬を紅潮させている。


(おや? かわいらしい反応だ。慣れてるもんだと思ったが意外と初心なんだな。)


 今いる屋敷の裏口にたどり着いてもアンナは下を向くばかりで開ける気配はない。ナタリアはずいぶん久しぶりにドアノブを握りながら後ろを振り返り口を開いた。



「まぁ、そうよね。こんなことテオドール様にも言えないし、本当に困ったわ」

「なにかお困りですか? ナタリア様」



 返事は開いた扉の向こう側、前方頭上から降ってきた。

 ボサボサに伸びていた髪は両サイドを短く刈り整えられ、目にかかるほどのブロンドの前髪は風に揺れて流れ。泥のついて無精髭だらけだった精強な印象を受けた顔は、綺麗にすると少年らしいさが強くでている。胸甲にガントレット、腰には馬鹿でかい剣を差し新調した綺麗なマントが背中に収まっている。

 そこには彼女もよく知る騎士が真剣な表情で立っていた。

 ナタリア様と呼ばれむっとした彼女は真剣な表情をつくり言い返す。



「これはサー・グレゴリー。いえ、親衛隊長に昇格されたならグレゴリー卿とお呼びした方がいいかしら?」

「……どちらでも構いませんよ、ナタリア様」



 しばらく真剣な表情で見つめ合っていた二人は、しかし同時に噴き出してしまった。同じように笑いながら先ほどよりも親しみやすい声色でナタリアが話しかけた。



「やめましょう、グレッグ。あなたに様付けで呼ばれるなんてぞっとしないわ」

「おれもグレゴリー卿なんて鳥肌立っちゃいそうっす。……久しぶりっすね」

「五日ぶりね。あなたが私の親衛隊の隊長になった事は聞いたけど、それ以降音沙汰なしだったし今までどうしてたの?」

「ずっーーーーーと先輩とマンツーマンで指導っすよ。対魔物が俺の専攻でしたから、親衛隊の仕事と隊長としての心得と覚えることがいっぱいで。

もういい加減、顔を見せて来いってさっきやっと解放されたんすよ」

「大変ね。でも、その歳で隊長に選ばれるなんて早々ないことだって聞いたわよ。私の親衛隊ってところが喜べないかもしれないけど、おめでとう」



 そう言って柔らかく微笑んだナタリアをグレゴリーは眉を顰めじろじろと眺めた。

 流れる黒髪に真っ黒な瞳、レディースメイドのプロの技によってより目立つようにメイクされているそれらはグレゴリーの記憶の中の彼女より美しく見える。

 体にフィットした黒いドレスはオーダーメイドだろう。彼女の白い肌によく映えていてほっそりとした首筋には引きこまれそうになる。確かに彼女はナタリアだ。

 だが笑顔で石を使って自分の頭をしばいた彼女はこんなに女性らしく笑う人だっただろうか?ちくり、とグレゴリーの胸が痛んだ。

 グレゴリーが彼女に会いたくなかった本当の理由。彼はナタリアに会うのが、怖かった。

 ナタリアの目を見る勇気もなく、視線を逸らしたままぽつりとグレゴリーは呟いた。



「なんか変わったっすね、ナターシャ」

「……それはお互いさまよ。私だって一瞬あなたがだれかわからなかった。

前会ったときは私たち汚れてドロドロだったでしょ? 今はドレスを着てるし印象も変わるわ」



 どこか暗いグレゴリー見てナタリアはおどけた様に続けた。



「――それとも、おっぱいはもっと小さいと思ってた?」

「安心したっす。ナターシャは変わらずナターシャっすね」

「ナターシャ様~。そんな下品なお話をしたらアレクセイ閣下が悲しみますよ~」



 うんざりと二、三度頭を振ったナタリアは速足で細部まで整備された中庭を歩きだし、隣にグレゴリーが追いつくと後ろのアンナに聞こえない様に小さく囁いた。



「この五日間、ほんのちょこっと軽口叩いただけでこれよ。猿だってお行儀よくなるわ」

「なるほど、それで」

「この前のランチの時なんて、げっぷをしただけでメイドがショックで二人気絶したわ。ここの連中はどうなってるわけ?」

「中央出身のメイドっすね。奴らは目の前で屁をされたら死ぬんで注意が必要っすよ」

「なにそれ?」

「ここじゃ有名なジョークっすよ。アレクセイ卿の亡くなった奥様エカテリーナ様も豪快な人で若い頃その、致した時に近くにいたメイドがショックで死にかけてるんすよ」

「確実に私には叔母様と同じ血が流れてるわね」



 クスクスと笑う無邪気な彼女、久しぶりの軽口のやりとり、そのどれもが心地よかったがそれ故にグレゴリーは息苦しさを感じた。

 未だ晴れない顔をしているグレゴリーの様子に今度ははっきりと呆れ顔になったナタリアが大げさな身振りを交えながら話した。



「何を思い悩んでるのか知らないけど、もし私の事を心配してるなら見当違いもいいとこよ」

「……そんなにおれってわかりやすいっすか?」

「あきれた。本当に私の心配してたの? 

どんな噂を聞いてどんな想像をしてるか知らないけど、叔父さまやテオドール様にはとても良くしてもらってるし今の状況にも満足してるわ。

若いんだからシャキッとしなさいよ!」



 小さい体から想像できない力で背中を小突かれ、前のめりになりながらグレゴリーは拗ねたように反論した。



「ナターシャの方が若いじゃないっすか」

「……ふふ、そういえばそうね。まぁ、細かいことはいいじゃない。

それよりこれ、親衛隊隊長殿に初仕事をお願いするわ」



 一瞬見せた物憂げな表情はすぐに隠れ、ナタリアは懐から紙切れを取り出すとグレゴリーの前でひらひらと振った。

 得意げな彼女から受け取った紙に目を通したグレゴリーは、その紙に書かれていた干からびたミミズのような文字に素直に疑問を発した。



「暗号っすか?」

「……読めないの?」



少し悲しそうな顔のナタリアに慌てて紙を見直すと、彼は奇跡的に所々にこの国の文字の特徴が見て取った。



「えっ? あ!! え、えーと。うぉ? うぉか? ああ!! 『ウォッカ飲みたい』っすね。

あれ? 禁酒してるんじゃないんすか?」

「一週間もしたわ」

「ナターシャ様、食前酒は飲んでるじゃないですか~」

「あれは水よ。それよりほら、グレッグにはちゃんと読めるじゃない。やっぱり私の字はそこまで汚くないわよ」

「奇跡ですね~」

「あなた時々、失礼ね。……まぁいいわ。それよりグレッグ、それよろしくね」

「え゛っ!」



 グレゴリーは再び視線を手のひらサイズの紙に視線を落とした。そこには箇条書きで所狭しとミミズの死体がのたくっている。先ほど読んだのは一番短い文で、アンナの言う通り読めたのは奇跡だ。

 ナタリアの親衛隊になることに否はなく、彼女のために体を張る覚悟もあるがこれはどうしようもない。

 一回、読んでもらって覚えようと決め傷つけずにそのことを彼女に伝える方法に頭を悩ますグレゴリーの片手が柔らかいものに包まれた。ナタリアの小さな両手だ。

 驚いて紙から視線を上げると想像よりも近くにいた上目遣いのナタリアと目があった。彼女の艶やかな唇が生々しく形を変え、甘えたような音を出した。



「お願いよ、グレッグ」

「任せてください!!!! あっ……」

「じゃよろしく、行くわよアンナ」



 まるで語尾にハートマークがつきそうな甘い言葉から名残も見せずさっさと宮殿の方に歩いていくナタリアの変化に呆然と彼女の背中を見送り、広い中庭の中央にぽつんと残されたグレゴリーはもう一度紙を見た。やはり読めない。

 それとは別に彼女が両手を握ってきた時に渡されたもう一枚の紙。それを周りにわからない様に胸元にしまいながら、グレゴリーは憮然とした表情のままこれから自分に起こる苦労をこの時点で薄々察し始めていた。









再来週の日曜日投稿します(投稿しない)

月曜日以降になると思います(一か月後)

ナタリアの一日(朝食前まで)

これいつ終わるんですかね?

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