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無名探偵  作者: 真島 文吉
一章  無名探偵
9/110

 一週間が過ぎた。何事もなく、鴨山組の影すら見えず、棚主は木蘭亭から自分のびるぢんぐへと帰って行った。


 びるぢんぐの住人達に留守中変わったことがなかったかと聞くと、こちらでも脅迫状の一件以来、特に異変はなかったという。


 木蘭亭の女達と違い、ここに住む住人は全員が男で、かなり腕っ節の強いのもいる。だから棚主は木蘭亭の警戒を優先したわけだが、彼らを危険に巻き込んだことには変わりない。


 一階のミルクホールに全員を集め、手土産の輸入物の舐瓜めろんを一人一個ずつ手渡しながら、棚主は今回の事情を全て説明し、頭を下げた。


 だが住人達はそんな棚主に怒ることもなく、「お前の無茶には慣れてるよ」とばかりに舐瓜に舌鼓したつづみを打つ。


 そもそもが、このびるぢんぐは棚主のような戸籍すらない身元不明人が入居できる施設である。当然管理はいい加減なもので、管理人もここ数年びるぢんぐに寄りつきすらしていない。


 家賃さえ払えば誰が住もうが、何をしようが構わない。責任も持たないというのが、管理人の言い分である。


 法的にそれが通るかは知らないが、とにかくこのびるぢんぐに住む者は、一切の社会的身分と前科を問われないのだ。


 従って、びるぢんぐの住人は(と言っても棚主を入れて四人しかいないが)過去に後ろ暗いものを持つ者が多く、犯罪や暴力を目にしても比較的冷静に対処できる。


 妻子も持たず、自分一人だけで生き抜くぶんには、たくましい連中ばかりだった。


「しかし下らねぇ奴らだな、鴨山組ってのは。任侠の魂ってやつを全く分かってねぇ」


 以前びるぢんぐに侵入したヤクザとはち合わせ、その似顔絵をこさえたきゃめらまんが吐き捨てるように言う。棚主は椅子の上にあぐらをかきながら、つまらなそうに返した。


「侠客集団じゃなく、ただのゆすり屋だからな。警察とさえ繋がってなけりゃ、今頃跡形もなく潰されていただろうよ」


「ヤクザは警察と繋がってるってよく聞きますけどね、本当にあるんですねそんなこと」


 横から口を挟んだのは、このミルクホールのマスターだ。小太りで、髪形は明治初期に流行った散切り頭。真っ二つに割った舐瓜に直接かぶりついて、口周りを甘い汁でべたべたに濡らしている。


「今回は警察署長との個人的な癒着だったが……ヤクザという集団は治安維持に役立つからな。警察も、組織として連中を利用することもあるだろうよ」


「治安維持? ご冗談を」


 恵比寿えびす様のように笑うマスターに、棚主は「いやいや」と手を振りながら、真剣な顔で続ける。


「そもそも世の犯罪を全て摘発するには、帝国の警察はあまりにも少人数すぎるんだ。だいたい国民を戸籍で管理しようって流れが出来たのも明治に入ってからだぞ? 国民一人一人の管理すら満足にできていない状況で、その内の誰かが犯す犯罪を逐一ちくいち摘発てきはつすることができるわけがない」


「そりゃまぁ、そうですが」


「警官の見回りや国民の告発だけじゃ到底おっつかんのだよ。となると、必要なのは地域に根ざした情報網、人脈だ。何かが起こったらすぐに情報をよこす協力者、しかも犯罪者に近しい連中となると……地元のヤクザは、ぴったりの存在だと思わないか?」


 棚主の説明に、マスターときゃめらまんが阿呆のように口を開けて「あーあー」と得心する。


 次いで、机を囲む最後の一人が舐瓜を食べ終わってスプーンを置いた。二階で時計屋を経営する青年だ。作業用のエプロンの端で口を拭いながら、低く通る声を出す。


「ヤクザは警察の捜査に協力し、時に身内以外の犯罪者を捕らえて引き渡す。摘発件数が増えれば治安はよくなるし、警察の面子も保てる……」


「そうだ。しかし警察はその見返りに、協力者であるヤクザの犯罪はある程度見逃さねばならない。ヤクザに搾取される被害者は、頼れる者がいなくなる。やられっぱなしだ」


「犯罪集団であるヤクザが消えない理由か……難儀だな」


 なんとなく場が静まり返ったところで、玄関扉が音を立てて開いた。誰かと思えば木蘭亭の女給のお近で、何故か雑巾の入ったバケツとはたきを持っている。


「木蘭姐さんが『一週間も留守にしてたら埃も溜まってるだろうから、掃除してきてやれ』って……」


「おお、それはご苦労さん。一番上の部屋だよ」


 立ち上がってお近を案内する棚主。

 お近は眉間にしわを寄せた不満顔で「あたしあんたの奥さんじゃないのよね」などとぶつぶつ言いながらついてくる。


 これが棚主の世界だった。自宅兼探偵事務所のびるぢんぐには隣人がおり、行きつけの店には顔なじみがいる。家族がそばにおらずとも、それに代わる知人友人達に囲まれていた。


 一人では、生きていけないと知っていたからだ。だから帝都に居を構えた時、真っ先に『友達』を作ることに奔走ほんそうした。


 ……雨音には友達はいなかったのだろう。彼女は棚主に、「友達がほしい」と言ったのだ。

 事務所の扉を開けながら、棚主は雨音の名刺を、机の引き出しにしまったままだったことを思い出した。




「てめぇ、最近色気づいてきたじゃねぇか」


 抑揚のない声で言った男は、寝台のへりに腰掛けた雨音の尻を手荒く撫でた。


 窓のない、木板の壁に囲まれた雨音の部屋。以前は酒と蝋燭ぐらいしかなかったその部屋に、今は鏡や洋服、化粧道具が散乱している。


 雨音は自分の体を撫でる男の腕を取り、大口を開けている虎の刺青を舌で舐めた。

 媚びた上目遣いを、男は見飽きたようにさめた目で見返す。すぐに「やめろ」と雨音の額を押しのけ、横たえていた身を起こした。


 鍛え上げられた浅黒い色の肉体。その胸から下腹にかけて、長い刀傷の跡が走っている。

 身を寄せようとする雨音の髪を掴み、臭いをかぐ。石鹸の香りに、男は眉を寄せた。


「高い石鹸の匂いだ。そんなもんを買う金がどこにあった?」


「だって、貯金してたから……」


「何でそれを、今更使い始めた」


 雨音の顎を掴み、顔を覗き込む。髪を短く切った男の目は切れ長で、眉毛も薄い。迫力のある顔で容赦なく威圧してくる男に、雨音は嬉しそうに笑って見せた。


「ユウちゃん、こないだ探偵を紹介してくれたでしょ? ほら、面倒事を引き受けてくれるアイツよ……ちょっとお金を奮発したらすぐに仕事をしてくれたって、言ったわよね」


「ああ、そう聞いたな」


「そう。おかげで何年かぶんの胸のつかえがすっかりとれちゃって……全部、ユウちゃんのおかげ」


 うっとりした表情で自分の顎を掴む手に指をそえると、男がふんと鼻を鳴らして雨音を離す。


「例の探偵、それほど使えるヤツだったか。千住の連中が目をかけてるって聞いて、ちょいと試してみたが……」


「ええ、でも所詮鉄砲玉ね。頭悪そうだったし、お酒好きみたいで手が震えてたわ。長くないわよ、アレ」


 すかさず嘘を交えて棚主をけなしながら、雨音は改めて男の首に腕を絡ませる。半分千切れた耳に口を寄せて、息を吹きかけるようにささやいた。


「でも、とてもいい気分。満願成就まんがんじょうじゅってやつね。愛してるわユウちゃん……私、ユウちゃんのためにもっともっときれいになる」


「で、石鹸と服か?」


 男は初めてまんざらでもない表情を浮かべると、雨音の唇を塞いだ。


 目を瞑る雨音を、しかし数秒もすると寝台へ押しのける。男は口を拭いながら服を着て、扉の外にいる子分に「帰るぞ!」と怒鳴った。


 すぐに返ってくる返事とともに扉が開き、まぶしい昼の光が半裸の雨音を照らし出す。


「次はいつ来れるの?」


「さあな。その内だ……逃げんじゃねえぞ」


 男は背中越しに「殺すぞ」と付け加えて、乱暴に扉を閉めた。


 遠ざかって行く足音がやがて聞こえなくなってから、雨音はようやく笑顔を崩して、長い息を吐く。首筋に触れると、脂汗でびっしょりだった。


「……強姦ごうかん野郎が……偉そうに……」


 雨音がヤクザに売られた後、最初にその体に手をつけたのがさっきの『ユウちゃん』だった。雨音にとって、彼は地獄のような情婦生活の象徴でしかない。好きな時にやって来て、一切手加減せずに雨音に暴力と獣欲をぶつけて帰って行くだけの男だ。


 従軍経験すらあるという彼は去年、組の若頭に抜擢ばってきされ、それからは雨音を露骨に独占するようになった。


 自分以外の人間が雨音を抱こうとすると、怒り狂って引き剥がすが、その割には、雨音を大事に扱わない。雨風をしのぐ家は貸してくれているが、愛着など感じようはずもなかった。


 ふと、閉まった扉の向こうからにごった声がした。

 雨音は俯いていた顔を上げて、寝台についた引き出しを開ける。中から蓋の開いた、二枚のビスケットが入った缶を取り出すと扉に走り、慎重に押し開けた。


「ああ、またこんなに痩せて……駄目じゃない、ちゃんと食べなきゃ」


 雨音が話しかけたのは、扉の前に座っていた年老いた猫だ。全身真っ黒なカラス猫で、雨音をみると「ぶみぃ」と濁った鳴き声を上げる。


 雨音は猫の前にビスケットを一枚置くと、残る一枚を口に放り込み、半裸のまま家の横の井戸に向かった。釣瓶つるべで水を引き上げ、空になった缶に水を注ぐ。


 のろのろとビスケットをかじる猫の前に缶を置くと、そのまましゃがみ込んで微笑んだ。


「お前は賢いね、ちゃんとヤクザが帰るまで隠れてるんだから」


 黙々と食事を続ける猫が、上目遣いで雨音を見る。


 雨音がまだ借金を返しきっておらず、ヤクザの事務所で『一晩』何十銭かで身を売っていた頃。雨音の監禁されていた部屋の窓に、毎朝やってくるカラスがいた。


 別に雨音が手なずけたわけではなく、ヤクザが窓から投げ捨てた菓子の包装紙や缶詰が、隣家の屋根に引っかかっていたのをあさりに来ていたのだ。


 亭主に裏切られ、毎日自分をなぶりにくる人間とばかり顔を合わせていた雨音は、その真っ黒な鳥にすら助けを求めた。

 窓を開け、腕がやっと通るぐらいの幅の格子から、残した食事をまいた。


 カラスが警戒を解いて近づいてくれるのに、五日ほどかかった。手から直接餌を食べてくれるのには、さらに十日が必要だった。雨音はカラスに名前をつけ、一方的に話しかけ、相手が飛び立つ時には必ず「また明日」と言った。


 自分を傷つけない相手との『会話』が、再会の『約束』が、雨音の心を癒し、地獄のような日々の希望になった。



 希望が砕かれたのは、いつ頃だったのか。あまりに突然の出来事だったから、よく覚えていない。


 いつものようにカラスに話しかけていた雨音の背後で突然扉が開き、ユウちゃんが玩具の空気銃を手に部屋に飛び込んできた。カラスは一度飛び立ったものの、格子ごしに発射された空気銃の弾丸を翼に受けて地面に落下した。


 雨音はその後、立ち上がれないほど蹴りを入れられ、日が暮れるまで倒れていた。


 後日、雨音はカラスの頭に紐を通したネックレスをしたユウちゃんに、畳の上に組み敷かれながら言われた。


「『てめぇは俺のもんだ』……」


 その台詞を、低く口にした雨音に、ビスケットを食べ終わった猫がぴくりと反応する。

 黄緑色の目に見つめられて、雨音は小さく微笑んだ。


 この猫が雨音の前に現れたのは、借金を返し終わってヤクザの事務所を出た後のことだ。現在の住まいであるボロ家に引っ越した時、既に屋根裏に潜んでいた。


 以前のカラスの件もあり、一度は家から追い出したのだが、何度も痩せて帰って来るのでついつい餌を与えるようになってしまった。


 嫉妬心の塊のようなユウちゃんに出くわしたら、また飼い猫に間違えられて殺されてしまうかもしれない。


 あの男は、動物であろうと雨音に近づく者は排除しようとする。雨音を自分だけのものにしたいのだ。


 お生憎あいにく様。雨音はそう呟いて、猫をそっと抱き上げた。


 あんなヤクザの女でい続けるつもりはない。今の自分は、借金も返し終わり、亭主への復讐も終えた。肉体的にも精神的にもまったく自由な身なのだ。準備さえ整えば、いつだってここを飛び出せる。飛び出す、気になれたのだ。


 寝台の引き出しに隠してある電話が鳴ったら、またあの人に会える。その時に相談しよう。これからの身の振り方を、生き方の知恵を借りよう。

きっと親身に話を聞いてくれるはず。『友達』として……


「…………友達か……やっぱり、結婚経験者は嫌なのかなあ」


 猫の喉を撫でながら呟いた雨音は、直後に背後から麻袋を被せられ、引き倒された。


 あまりに突然の出来事に体が反応できない。麻袋に視界を奪われたまま、上げたはずの悲鳴はくぐもって、声にならなかった。


 頭上から怒声が降ってきたかと思うと、続いて頭部に凄まじい衝撃が走る。

 拳で殴られたとか、蹴られたといった強さではない。襲撃者が石を掴んで、雨音の頭を打ったのだ。


 薄れゆく意識の中、雨音は猫の鳴き声と、聞き慣れた誰かの声を聞いた気がした……



「全然出ないな……」


 受話器を耳に当てながら、棚主は首をかしげた。

 時は夕暮れ。昼から何度か雨音に電話をかけているのだが、一向に繋がらない。


 大正の現在、電話をかけるにはまず電話局の交換手を呼び出し、口頭で相手の電話番号を告げて回線を接続してもらうという手順が必要だった。


 何度も同じ番号を告げる棚主に、その交換手が心配そうな声を返すようになったのが、つい先程のことである。


 これ以上電話をかけると交換手が気の毒だ。今日はどこかに出ているのだろうと、棚主は雨音への連絡を諦めて受話器を置いた。


「棚主さん、ちょっと」


 窓を拭いていたお近が、不意に緊張した声を出す。「何だい」と近づくと、窓越しに眼下の道路を指さした。


 見ると、びるぢんぐの前にこげ茶色の背広を肩に羽織った男が立っている。

 男は両手をズボンのポケットに入れ、まっすぐに四階の棚主を見上げて笑った。


 棚主は即座に男を指しているお近の指を取り、その豊かな胸に押し付ける。「ちょっと!」と顔を赤くするお近を、棚主は厳しい目で見た。


「極道者だ。指さすんじゃない……ちょっと会ってくる。掃除が終わったら鍵を閉めてってくれ」


 扉の鍵をその手に握らせて、棚主はハットを手に背を返す。「閉めていけって、この鍵どうすんのよ!」とお近が叫ぶが、棚主の足は止まらず、足早に階段を下りて行く。


 ミルクホールを突っ切り、玄関扉を開けると、変わらぬ姿勢で緋田が立っていた。

 口元は笑っているが、刃のような細い目は一切笑っていない。仮にも一個の組の若頭が、子分を一人も伴わずにやって来たことに、棚主の表情も強張こわばる。


「どうしたんだ緋田さんよ。ここはあんたのシマじゃないはずだが」


「ええ。せやからこうして他の組に見咎められんよう、一人で歩いとるんですわ……兄さん、ちょっと顔貸してもらえますか」


「いいとも」


 二人は肩を並べて、夕暮れの町を歩き出す。

 とりあえず人通りの多い商店街を目指しながら、棚主は煙草を取り出して緋田に問いかけた。


「何かあったのか。この間の、鴨山組の件か」


「兄さん、鴨山組が警察署長と繋がっとるって話、覚えてますか」


 忘れるはずがない。

 煙草をくわえて頷く棚主に、緋田がマッチを取り出し、擦りながら言った。


「その警察署長が、先日辞職したんですわ」


「何……?」


 煙草にマッチの火が移る。

 緋田はマッチ棒を振って火を消し、煙が上がるそれを棚主の目の前に指で立てた。まるで、線香のようだ。緋田の口角が下がり、真顔になる。


「なにぶん、兄さんが鴨山組とやりあった直後や。何かある思うて、こっちで色々調べてみたんですが……兄さん、正直に答えてくださいや」


 マッチ棒を捨てながら、緋田が棚主の顔を覗き込む。


「天道雨音……って女。知ってます?」


 その名が出た途端、棚主の眉間に深いしわが走った。

 煙草を噛み潰した歯が、ぎりりと音を立てる。


 緋田はその反応に「そうでっか」と小さく呟き、西の空を眺める。沈みゆく太陽が、今正に夜に呑まれようとしていた。棚主が火の点いたばかりの煙草を口から離し、緋田を睨む。


「何故あんたが天道雨音を知っている? 彼女は別の組の女だぞ」


「それだけやないです。兄さんが天道雨音から、荒っぽい仕事を頼まれたことも知ってます。不義な亭主を、あんた、追っかけて痛めつけたそうですな」


「誰から聞いた! 雨音が漏らすはずはないぞ!」


 声を荒げながらも、棚主には誰が話を漏らしたか分かっていた。雨音の依頼の内容を知っている者は限られている。依頼主の雨音と、棚主、そして……雨音に棚主を紹介したという、ヤクザだ。


 緋田が夕陽を背に振り返る。


「天道雨音を囲っとったのは、『寄桜会きおうかい』いうとこの末端の『穴鳥組あなどりぐみ』です。そこの若頭が天道雨音の復讐のために、兄さんを紹介したそうで……」


「そんなやつは知らない。紹介されるいわれがない」


「どうも、兄さんがうちの組に出入りしとるって話が人づてに伝わったようです。極道にひいきにされとる、カタギの探偵がおると……」


 一旦言葉を区切って、緋田はこめかみを指でかいた。


「実際、兄さんは便利な探偵や。腕っ節が強いし、ヤクザやないから、組員が表立って調べられんような人間を調査させたり、尾行させることができる。戸籍が存在せんから、社会的には幽霊みたいなもんや。警察の追跡も受けにくい……せやからワシらの組も、探偵としての兄さんと仲良うしとる」


「仲良く? 臨時の鉄砲玉みたいなもんだろう。それに俺は気に入らん依頼は受けん」


「とにかく、兄さんはワシら極道に近しい探偵やった。せやから同業の穴鳥組が目ぇつけたんですわ。どの程度使えるんか、試したんやろうな」


 結果棚主は、雨音の依頼を見事に完遂した。穴鳥組の若頭は、棚主が金次第で他人を切り刻める人間だと知ったわけだ。そして、その後何があった?


 緋田は「回りくどい話はやめましょ」と両手を広げ、ため息まじりに答えを言った。


「その穴鳥組の若頭が、兄さんと天道雨音のしたことを酒の席でバラしたんですわ。非合法な仕事を人様に持っていかせよったヤクザが、その内容を他言する……うちの組やったら、破門モノですわな。しかも兄さん、その酒の席っちゅぅのに同席しとったんが、件の鴨山組の組長、鴨山正一やったんですわ」


「……最悪だ。だが、何故鴨山組がよその組の若頭と酒を飲んでいたんだ? 奴らは確か、同業者に蔑まれるような孤立した組じゃなかったか」


「兄さん。兄さんが天道雨音の依頼をこなしたのが、一週間以上前。鴨山組とやりあったのが、その後でっしゃろ。鴨山組はその頃、兄さんがうち(緋扇組)とどの程度繋がっとるのか情報を集めとったんです……兄さんが、ワシの名刺を見せはったから」


 覚えのある思考だった。棚主が緋田の名刺を見せたなら、鴨山組は当然棚主と緋田の関係の裏づけを取ろうとする。棚主が緋田の組に実際に出入りすると分かれば、格下の鴨山組は意趣返しを諦める……そう、棚主も考えた。


「鴨山組は、兄さんの情報を欲しがっとった。せやから他の組の人間にも頭下げて、話を聞いて回った……その動きを穴鳥組が察知したわけです。なにしろ、ついこないだ自分とこの女が兄さんの世話になったところや。鴨山組が欲しい情報は、全部持っとる」


「それで穴鳥組の方から鴨山組に接触したわけか。酒に誘って、俺と雨音の情報を差し出した。……対価は次の公共工事の請け負い権か? 鴨山組が持ってる旨みと言えば、それぐらいしかない。つまり、件の警察署長への口利きだ」


「ま、そんなところです。鴨山組は人望がありませんからなあ。情報一つ集めるにも人脈があらへん。兄さんの素性と、しかも犯罪行為の事実、依頼人の名まで教えてやる言われたら、鴨山組も考えますわ」


 そこまで話してから、緋田は腕を組む。棚主の顔をまじまじと見つめて、低く「奇縁きえんや」と呟く。


「奇縁です、兄さん。ホンマやったらここで話は終わりなんです。兄さんの素性が割れようと、天道雨音の存在が知れようと、鴨山組は結局兄さんには手出しできんかったはずや。兄さんとうちの組との繋がりは事実やからな……鴨山組は、ワシと喧嘩してまで兄さんを狙う気はなかったはずや」


「……」


「鴨山組が穴鳥組から聞いた情報は、公共工事の口利きもあって件の警察署長にも流れたんです。兄さんのこと、天道雨音のこと、全部伝わりました。兄さん……その警察署長の名前、ご存知ですか」


 記憶をたどる。たしか、派出所の巡査に一度聞いたはずだ。


山田栄八やまだえいはち……だったか……」


「山田栄八には、栄治いう息子がおります」


 棚主の表情が凍った。栄治。その名は……


「山田栄治。またの名を、天道栄治」


 緋田の声が、どこか遠くで聞こえるように響く。



「天道雨音の、亭主ですわ」

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