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無名探偵  作者: 真島 文吉
一章  無名探偵
8/110

 雨上がりの水気を含んだ風が、並んで歩く二人にまといつく。

 帝都の舗装されていない道を、ガス灯の明かりが静かに照らし出していた。

 雨ゴートの詰まった笠を左手で持つ棚主。その逆側の腕に、雨音が手を絡ませて寄り添っている。

 あからさまにすれ違う人々の目を気にしながら、棚主が困惑した顔で抗議した。


「手を離してくれないか。知り合いに見られたら誤解される」


「情けないこと言わないの。それとも私、好みじゃない?」


「俺達は『友達』だろう」


「『友達』が手を組んじゃいけないって法律でもあるんですか?」


 あるんですか、と敬語でからかうように言った雨音が、一度笑ってから目を細めた。

 通行人の彼女を見る視線が、時折とげとげしくとがっている。

 あるいはみじめなものを見下すように、あるいは情欲を隠しもせず、体を舐めるように見て通り過ぎる。


「……ね、さっき言ったでしょ」


「何を」


「『自分の薄汚さを自覚してる』って」


 雨音が棚主の腕を取ったまま、わずかに身を離した。


「私もなんだなぁ。ふしだらで、下品で、男の人に媚びた仕草が身についちゃってるんだよね」


「他は否定しないが、君は下品じゃないよ」


「あ、ふしだらで媚びてるとは思ってたんだ」


「多少は」


 悪びれもせずに肯定する棚主。


 雨音はこういった時の、棚主の正直さが好ましいと思う。

 自分は普段ヤクザ相手にびて、上っ面のお世辞を言って必死にご機嫌を取っている。

 だからこそ好感を持つのかもしれない。

 相手の顔色をうかがわない棚主の強さが、雨音にはなかった。




 二人はやがて、通りを外れてゆるい坂道に入る。

 人通りの少ない塀に挟まれた道を棚主は嫌ったが、雨音がぐいぐいと手を引いて強引に誘って行く。

 むき出しの地面はやがて石段に変わり、両脇の塀は途絶え、草の中に居並ぶガス灯が道を示し始めた。


 通りから外れた割には、灯りが妙に豊富だ。ガス灯というものは地面にガス管を埋め込んで、そこから供給されるガスに火をつけて照明の役割を果たす。

 当然機械による自動制御などの仕組みはなく、毎日暗くなる前に点灯夫てんとうふと呼ばれる人々が、町中のガス灯を一つずつ火をつけて回っていた。


 ガス管を埋め込む手間と点灯夫達の労力を考えると、人が殆ど通らないような道にガス灯を沢山設けるはずがない。坂道の先に、人が集うような場所があるということだ。


「昼間はもっと人がいるんだよ。季節外れだし、雨が降ったから……」


 坂道を上り終えたところで、雨音が棚主を振り返った。


 彼女の背の向こうに、四方に広がる夜空を背景に、大きな桜の樹が屹立きつりつしていた。

 花は咲いていないが、棚主が思わず息を呑むような、堂々たる大樹だ。

 平坦な広場には桜の樹と、その両脇に一本ずつガス灯があるだけで、他には何もない。

 にも関わらず、雨上がりの広場には既に数人が集っていて、樹を見上げたり夜景を眺めたりしている。

 雨音の脇では地面に茣蓙ござを敷いた絵描きが、その様子を握り飯を頬張りながらスケッチしていた。


「『景色のいい場所』……か」


「こっちに来て。とっておきよ」


 雨音が棚主を、樹の裏側へ連れて行く。

 そこにはわざわざ木製のベンチが三つも設置されており、その全てが桜の樹に対して背を向けていた。


 ベンチが座る者に見せようとしているものを、棚主はすぐに理解した。

 頭上に広がる桜の枝がわずかに隠した夜空の下、広場の端から、帝都東京の町並みが一望できた。


 闇のこもった町にはガス灯や家々の明かりが蛍の光のようにき、時折厚い雲の切れ目から、月光の筋がびるぢんぐに、時計塔に、人々の暮らしに降り注ぐ。


 春に舞い散る桜の花を浴びながら、昼日中にここに座るのが、ベンチの設置者の本来の思惑おもわくなのだろう。だが、花の散った今ここで眺める夜景もまた、充分すぎるほどに棚主の心を揺さぶった。


 ぼうっと夜景を眺めている棚主を見て、雨音が心底嬉しそうに言う。


「よかった。この景色をきれいだって思う人で」


「思わないやつがいたのかい」


「何人か連れてきたんだけど、全滅。まあヤクザを誘った私も悪いんだけど。他に知り合いがいなかったし……」


 肩をすくめる雨音に、棚主は黙って鼻をかく。

 雨音の周囲のヤクザが風雅ふうがのたしなみのない連中だとしても、それはその者達の性質であって、ヤクザ全員が夜景を楽しめない人種というわけではあるまい。


 棚主が先日会った緋田などは、こういう涼やかな光景を手を叩いて喜ぶタチだ。もっとも彼はヤクザではなく『極道』だが。


 二人は雨で濡れたベンチに座ることはできず、並んで立ったまま夜景を眺め続けた。

 雲から零れる月光の筋は時と共に多くなり、雨の気配が遠のいていくのが分かる。


 ふと雨音を見ると、両腕で肩を抱いて目を閉じていた。

 一瞬寒いのかと思ったが、雨音は妙にすっきりとした表情で、穏やかな声を出す。


「上京した後、ずっと家にこもって、家事と傘張りばかりしてたの。ヤクザに売られてからは、毎日お風呂と布団の上で過ごして……借金を返し終わってから、初めて帝都を自由に歩いた。歩いてみようと思った」


「そしてこの場所を見つけた?」


「うん。ちょうど今頃の季節、今頃の時間。帝都にきて初めて、景色をきれいだと思った」


 ゆっくりと目を開く。猫のように大きな目が、月光に磨いた玉のようにきらめいた。


「あの人……栄治えいじにも見せて、感想を訊きたかった。きれいだと思う? って。あなたの目にも、きれいな景色に映るの? って」


 栄治は雨音の亭主の名だ。

 今までずっと『あの人』とか『彼』と言っていた雨音が、はっきりとその名を口にした。

 だが、その響きに最早愛着は感じられない。まるで見知らぬ他人の名を呼ぶように、さらりと台詞に混ぜただけだ。棚主は黙って、話を聞いている。


「きっと栄治は、他のヤクザと同じようにつまらなそうにそっぽを向いたと思う。……彼ね、私と同郷の人間じゃなかったの。どこかのお金持ちの一人息子で、一年の決まった季節にだけ別荘に遊びにきてたんだって」


 雨音が棚主に体を向け、何かを訴えるような目で見上げてくる。

 棚主も雨音に向き直る。真摯しんしな表情で、続きを待つ。


「私は雨音。天道雨音てんどうあまね。栄治が家族を捨てた二人だけのために、天道の名字を作ったの……でも、この名字は呪われているわ」


「響きだけは悪くない」


「私は天道雨音になってから地獄を見た。栄治もそう、天道栄治にさえならなければ、私と出会わなければ、お金持ちの御曹司おんぞうしのまま楽しく暮らせたはず」


「ありえないね」


「何故言い切るの」


 ミルクホールでこらえた涙が、雨音の目からこぼれていた。

 表情を歪ませることなく、嗚咽も上げず、ただ涙だけが頬を伝い、地に落ちる。

 棚主もまた感情を顔に表すことなく、指で雨音の涙をすくい、答える。


「君に家から金を持ち出せと言ったのが、栄治だからだ。そして恐らく、駆け落ちしようと言い出したのも、彼だ」


「……」


「金持ちの御曹司が、何故駆け落ちするのに女に家の金を盗ませる? 自分の家から盗むのが困難だったか、盗む勇気がなかったか。理由は知らんが、とにかく……本当に君を大事に思っていたなら、そんな危険は絶対に冒させない。君は大事にされていたんじゃない、気に入られていただけだ。……言ってる意味が、分かるかい」


 雨音は答えず、頷きも首を振りもしない。ただ、棚主の結論を待っている。


「愛情の定義は知らん。だが少なくとも栄治の君に対する愛情とやらは、たかが知れたものだったに違いない。現に君は金を盗んだことで親に告発され、栄治のした借金のカタに売り飛ばされた。……まがりなりにも自分が愛した女にそんな宿命を背負わせるようなやつは、どんな人生を歩んでいても必ず人を不幸にしていたし、不幸になっていたさ」


「栄治は私に同情してくれたの。父親に殴られた私に……」


「同情だけなら他人にもできる。半端はんぱな覚悟で駆け落ちなんぞを誘った……彼が莫迦だったのさ」


 棚主が言い切った途端、雨音が深く息を吸って、天を仰いだ。

 そのまま両目を手で覆い、小さく笑い声をたてる。

 指の間から棚主を見て、ゆっくりと噛み締めるように言った。


「まるで小説の名探偵ね。何でもお見通し……きっとあなたの奥さんになる人、苦労するわ」


「君は駆け落ちに不安はなかったのか」


「なかったわけじゃないけど、父に辟易へきえきしていたし……栄治が『俺が一生守ってやるから』って、言ってくれたから」


 雨音と棚主は、同時に眉を寄せた。

 それが何だか可笑おかしくて、二人はすぐに顔をほころばせて笑ってしまう。


 不意に強い風が吹き、頭上の枝が揺れて水滴が落ちてきた。

 一瞬の雨のようなそれに打たれながら、棚主は手にしていた笠から雨ゴートを抜き取ってわきに挟む。

 次いで笠を雨音の頭に被せ、華奢きゃしゃな肩に手を置いた。


「可能なら、もう栄治のことは考えるな。彼は君を裏切り、君は彼に復讐した。それでしまいにするんだ」


「もう彼を恨んでいないわ。愛してもいない。ただ……」


「一切負い目はない。感じる必要はない。君は、俺を介して彼を切り刻んでいるんだ」


 君はもう、彼の敵だ。

 そう低く告げた棚主に、雨音は黙って、少し間を置いてから、頷いた。

 


 石段と坂道を戻ってきた二人は、最初に待ち合わせたミルクホールの前にたどり着く。

 既に日付は替わっており、他に道行く人の姿もなかった。

 棚主は雨音に返してもらった笠を被りながら、ミルクホールの中を見る。客は皆帰っており、店員だけがこちらを見てニコニコ笑いかけていた。


「本当にここでいいのか? なんなら家まで送るが……」


「いいの。このお店、明日が期日だから」


「期日? 何の」


「みかじめ料を払う期日。……お金を取り立てに、組の人がくるのよ。だから朝まで置いてもらって、取り立てにきた人に送ってもらう」


 ヤクザと家に帰ると言う雨音に、棚主は一度「そうか」と呟いてから、少し考えて、再度口を開く。


「雨音君、その……」


「『雨音君』? やめてよ、雨音でいいよ」


 すっかり険の取れた顔で笑う雨音に、棚主は空咳からぜきをする。


「雨音。君は今、何歳だ?」


「……?」


「上京したのは十代だろう? それから五年で借金を返したと言っていたから……『はたち』過ぎか? まさかまだ十代のままってことは」


「どっちがいい?」


 逆に訊き返した雨音が、両手を腰の後ろで組んで上目遣いで見上げてくる。「十代と二十代、どっちが好き?」と、悪戯っぽく笑う彼女に、棚主は俯いて笠で表情を隠した。


「雨音……これは、俺の友達が言ってたことだが……」


「何?」


「『死なない限り、何度でもやり直せるのが若さの特権』だそうだ……」


 絞り出すような声に、雨音が「そう」と、笑顔のままで言った。

 短い返答に顔を上げた棚主の前で、雨音が片手を口に当てて欠伸あくびをし、伸びをする。


「疲れちゃった。朝まで一眠りするわ。棚主さん、夜道気をつけてね」


「ああ……おやすみ」


「また遊びましょ」


 ひらひらと手を振って、雨音が店の中に入って行く。


 棚主はドアが閉まるのを見届けてから、背を返して歩き始めた。

 無性に煙草が吸いたくなって、懐をあさる。

 借り物の衣装に吸い慣れた煙草があるはずもないとすぐに気付いたが、指先に硬い感触があった。取り出してみると、石鹸の匂いと共に小さな名刺が出てくる。天道雨音の名と、住所、それと二桁の電話番号が記されていた。


 手を組んで歩いた時にでも入れられたのだろうか。名刺を見つめながら、棚主は呆れたように笑った。

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