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無名探偵  作者: 真島 文吉
一章  無名探偵
6/110

 千住から帰った後、棚主は自分の住み家であるびるぢんぐには戻らず、木蘭亭で寝泊りした。

 飲み客として食堂のカウンターで眠るつもりだったが、女将である木蘭が「目障りだから」と空いている部屋に布団を敷いてくれた。

 棚主が鴨山組の動きを警戒するために来たことを、察したのだ。


 木蘭亭には女将と二人の女給しかいない。店に暴力が入り込んだ時、彼女達の肝っ玉だけで撃退するには、限度がある。

 木蘭は自分の問題に棚主を巻き込んでしまったことを、翌朝食堂で詫びてきた。


「知り合いが例の工事で家を取られたって聞いてね。黙ってられなかったんだ……でもまさか、ヤクザと警察署長がグルだったなんてね」


 忌々(いまいま)しげに言いながら、味噌汁を差し出す。


 木蘭は一日の料理に使った野菜のクズを捨てずに、全部まとめて煮込んで味噌汁のダシに使う。大根の先っぽ、馬鈴薯ばれいしょの皮、ワサビの葉、オランダ菜(キャベツ)の芯、とにかくありったけの野菜を入れれば美味い味噌汁ができるというのが、彼女の持論だった。


 事実、木蘭亭の味噌汁は格別に美味い。

 寒い夜にすすると凍えた指先にまで栄養が染み渡るようで、仕事帰りに味噌汁だけ飲んで帰って行く客も多かった。

 その絶品の味噌汁を味わいながら、棚主はこともなげに言った。


「大正は民権の時代だそうだ。ならば世の理不尽を正すのに、女将さんのような人間も必要だろう……人の窮地きゅうちに、外から声を上げる人間がな」


「その尻拭いをあんたにさせちまった。お近も危ない目に遭わせちまって」


「やめてくださいよ、莫迦莫迦ばかばかしい」


 窓を拭いていた女給のお近が、話に割り込んできた。


 先日ターバンを頭に巻いていた彼女は、今日は『まがれいと』と呼ばれる、三つ編みを基本にリボンで整えた髪形をしている。ところどころ髪の筋がこぼれて、前髪を垂らしている……彼女なりのアレンジなのだろうが、世間一般にはだらしないと思われるような、そんないでたちだ。


「あんな下劣なヤクザに泣き寝入りするなんて御免です。連中に好き勝手させて、へーこらして、無法をゆるすのが賢い生き方ですか? 出る杭は打たれるからって、下向いてビクビク生きてるなんてそれこそみっともない。あたしも棚主さんも、自分の意志であいつらに抵抗してるんです。気に入らないから」


「ま、そういうことだな。……気にすることはない。一週間もして何もないようなら、多分鴨山組の奴らは、もう来ないよ」


 味噌汁を飲み干す棚主の言葉に、二人の女は怪訝けげんそうな顔をする。


 彼女達は棚主が極道と繋がっていることを知らないのだ。腕っ節の強い、ケチな探偵。その程度の認識しかない。当然、棚主が緋扇組の名を使い、鴨山組を牽制けんせいしたことなど想像もしていない。

 人望と規模で鴨山組を上回る緋扇組が、棚主のバックにいる。その事実を知った上でなおもちょっかいを出してくる根性が、連中にあるとは思えなかった。


 緋田のような極道は面子にこだわり、受けた傷は命がけでも相手に返そうとする。

 だが鴨山のようなヤクザは、敵が強いと感じると途端に和解しようとする。先日の棚主に対する態度が、そのことを如実に表していた。


 半端な暴力に頼るヤクザは、より強力な暴力に弱い。多分今頃、棚主と緋扇組がどの程度の強さで繋がっているか、必死に調べているはずだ。

 若頭の緋田と一対一で酒を酌み交わす仲と知れば、最早報復は考えないだろう。

 棚主が「二度と俺に近づくな」と言ったことに、感謝すらするかもしれない。つまり、棚主側からの接近はないということだからだ。


「棚主さん、味噌汁だけじゃ足りないだろ? 焼き餅買ったげるから、ちょっと買い出しに付き合っておくれ」


 エプロンを外しながら言う木蘭に、棚主は食堂を見回してから、「ああ、いいよ」と頷いた。

 食堂には朝飯を食らう夜勤明けの客が数人いる。その中に先日派出所で会った巡査もいた。

 落花生をつまみに、ゆっくりと昼まで酒を楽しんでいくはずだから、万一鴨山組が来ても騒ぎは起こせないだろう。

 腐っても現職警察官、目の前で乱暴を働くヤクザを無視するほど、落ちぶれてはいないはずだ。


 棚主は木蘭が身支度するまで待ってから、妙に薄暗い、曇天の銀座へと出て行った。



 一時間後、棚主は色とりどりの野菜を入れたかごを背負い、味噌桶みそおけと塩の袋を抱え、乗客のひしめく市電に乗っていた。背広のポケットには缶詰が詰め込まれ、襟の内側からはスルメがはみ出ている。勿論座ることはできない。


 車体が揺れるたびに背負ったかごから赤茄子(あかなす)(トマト)が飛び出し、そのつど木蘭が受け止め、かごに入れなおすという狂態を演じていた。


 何故市電に乗った。周囲の乗客に笑われながら、棚主は頬をひきつらせて木蘭に問うた。


「ニッキ水を安く売ってくれる店を見つけたんだよ。ちょっと遠いけど、アンタも飲むだろ?」


 ニッキとは、シナモンのことだ。水にニッキの味をつけたものを、ニッキ水という。


 ニッキや果物の風味を加えた清涼飲料水は帝国では明治時代から親しまれており、ニッキ水、みかん水、ラムネ、サイダーなど、様々な商品が店頭に並んでいた。こういった飲み物は物珍しさから子供から大人まで幅広く好まれ、ラムネは庶民用、サイダーは高級品と、様々な住み分けもなされていたのである。


 ニッキ水はサイダーほどの人気はないが、金のない人々がグラスに入れて、ちょっとお洒落な雰囲気を楽しむには手ごろな品物と言えた。ニッキ水はかつてオランダ人の指導で作られたため、『異国っぽい』のだ。


「ちょっと待て、店の買い出しでニッキ水ということは……」


「勿論箱入り」


「この状態でどうやって液体の詰まった箱を持って帰るんだ!」


「野菜のかごは帰りはあたしが持つから! ほら、焼き餅焼き餅!」


 握り拳で応援する木蘭。

 これだけの重労働の対価が焼き餅では割に合わん。そう言おうとしたところで市電が止まり、木蘭が何も言わずにさっさと降りてしまう。

 気の強い女を嫁に貰うとこういう日常が待っているのだろうか。

 棚主はげんなりと彼女の後に続き、市電を降りた。


 直後、脇から伸びてきた手にいきなり袖を引かれる。

 警戒して視線をとがらせる棚主の目の前に、見覚えのない女が上目遣いで立っていた。


「……?」


 怪訝な顔をする棚主に、女は眉を下げ、困ったように笑っている。


 洋風に短く切った黒髪、色白の肌に、猫のような丸い目。白いスカートの裾は膝までしかなく、そこから伸びた足も、同色の洋服に包まれた肩も、折れそうなほど細い。靴はハイヒールだ。


 最先端のファッション、それに見合う美しさを持った女だった。背広姿で野菜を背負い味噌と塩を抱き、スルメを襟から生やしている棚主と並ぶと、どうしようもない格差を感じる。


 年のころ、二十代前半か。十代と言われれば信じてしまうな。そんなことを考えていた棚主に、女の薄い唇からようやく鈴を振るような声が放たれた。


「もう……『私』……」


「あっ」


 聞き覚えのある声に、ようやく得心した。

 数日前、暗闇の中で電気ブランを飲みながら話をした女だ。

 亭主の手でヤクザに売り払われ、その情婦として生き、棚主に復讐を依頼した女。

 棚主に「友達がほしい」と、乞った女だ。


 だがしかし、今の女は以前会った時よりはるかに若々しく、生気に満ちて見える。

 白髪まじりだった長髪はきれいに染め上げられた短髪になり、目の下のくまは跡形もなく消えていた。血色がよく、清潔感に溢れている。風が吹けば、石鹸せっけんの匂いさえした。


 棚主はそんな女をまじまじと見て、感心して言った。


「随分変わったね。たった数日で、別人のようだ」


「可愛くなった?」


「かわ……」


 屈託くったくのない笑顔を作る女に、棚主は言葉にきゅうした。


 思えば、この女と棚主はいつもくだんの薄暗い部屋でしか会ったことがなかった。

 既婚者で、ヤクザの情婦。いつも『奥さん』と呼んでいたせいで、棚主はよく見えない女の顔を、実際より何歳も年上に思い込んでいたのかもしれない。

 屋外で見る女の顔は、若さを通り越して、幼さすら感じられた。


 笑顔の女の視線が、つい、と棚主の後方に流れる。

 つられて振り返ると、腕を組んだ木蘭が『ほうほう』といった感じでこちらを見ていた。

 妙な誤解をされているのは明白で、思わず眉間にしわを寄せて口を歪める棚主に、女が駄目押しに小声で「奥さん?」と問うた。


 自分は何も悪くないのに、女どもが勝手に誤解に誤解を重ねていく。

 棚主は味噌と塩を抱えたまま、ややぶっきらぼうに声を上げた。


「ただの『友達』だよ。二人とも」


「そうなの。あのね探偵さん、私、これから『仕事』なんだけど……」


 仕事。女の言葉に棚主が口を閉じ、目をやった。

 辛そうな気配は微塵みじんも出さず、女が猫のような目を細めて続ける。


「夜までには終わるから。その後でちょっと飲まない? 折角会ったんだし……そこのミルクホールで」


「いや、あいにく今日は」


「行っといでよ」


 いつの間にか背後に来ていた木蘭が、棚主の襟からスルメを抜き取って言った。


「あたしらのことはいいからさ。今日は土曜だから、夕方から明け方まで飲み通す客が沢山来るんだよ。喧嘩っ早い野郎どもが、よりどりみどりさ」


「女将さん」


「若い子を袖にすると後が怖いよ。付き合ってやんな、棚主さん」


 おせっかいな女将は、勝手に初対面の女に「そういうことだから」などと約束を取り付けてしまった。


 こういう時の女同士の結託というのは見事なもので、まだ自己紹介も済んでいない彼女達は互いの手を取り合い、盟友のように頷き合っている。棚主の意思決定権という名の人権は、蹂躙じゅうりんされたのだ。


 ぽかんと口を開けている棚主にもう一度微笑ほほえみを向けると、白いスカートの女は市電に乗り込み、窓から顔を出した。ころころと正に鈴のような声で、最後に伝える。


「『あまね』」


「?」


「私の名前。『雨』の『音』で、『あまね』」


 あぁ、と棚主は、そこで初めて互いに名乗ってもいなかったことを思い出す。

 相手の名前に興味もない、一時限りの探偵と依頼主の関係を払拭ふっしょくするように、動き出す市電に向かって棚主が返した。


「『たぬし』。『棚』の『主』だ」


 目を丸くした女が、遠ざかりながら聞き取り難い声で「変な名前」と笑ったらしかった。


 余計なお世話だ、と笑い返そうとした棚主が、すぐ隣で口元に手を当ててニヤつく木蘭に気付き、口を引き結んだ。

 一度咳払いをしてから、頭一つぶん背の低い木蘭をじろりと睨む。


「友達だと言っただろう」


「若くて可愛らしい友達ですこと」


「若いと言うならお近君も若い。可愛らしいかどうかは知らんが」


「隅に置けないねぇ」


 くつくつと笑いながら、手にしたスルメの頭で棚主を指す。


 依然、今にも泣き出しそうな鉛色の空を見上げ、棚主はため息をついた。


「本当に、若い。……前に会った時は、もっと老けて見えた」


「どう見ても十代か、はたちだよ」


「残酷だな。男ってのは」


 低く言ってハットを被り直す棚主に、木蘭の顔から途端に笑みが消えた。

 もう見えなくなった市電が去って行った方を見て、少し間を空けてから、ひとり言のように呟く。


「死なない限り、やり直せるのが若さの特権さ」


「そうかい。だったら俺は、邪魔をしたくない」


 ちら、と横目を向ける木蘭に、棚主は有無を言わさぬ強い口調で続けた。


「下らん男が、近づくべきじゃないんだ」

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