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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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十三

 枝野巡査は森元の言葉にしばらく口をつぐんでいたが、やがて目を細めると、壁にもたれるようにして立ち上がった。


 同じように背を伸ばし、口を引き結んでいる森元に、枝野巡査は鋭い視線を投げかける。


「俺を、責めるんですか」


「……」


「ああ、俺達はクズですよ。警察官として、人間として、してはならないことをした……でも……」


 折れた指をかばいながら、枝野巡査はぎっ、と歯をきしませる。


「あんただって……自分の行為に、一片のあやまちもなかったと言い切れますか? 清廉潔白な、正義の人だったと万人に胸を張れますか」


「枝野」


「あんたはいつも正義のためにと言う! だがな! 警察官の正義は一般人の正義とは違うんだ!!」


 扉の向こうで、退出した警官達が気色けしきばむ気配がした。


 枝野巡査は黙っている森元を指さしてなおも続ける。


「一般人なら単純だ。悪人に立ち向かう者が正義。そうして勝った者が正義。感情的で、難しいことは何も考えない無責任な善悪論で済む。でも警察官は違う。

 森元さん、あんた自分がまともな警察官だったと思うか? もはや警察に籍を置いていないあんたに、警察官の正義をうんぬんする資格があるのか?」


「……今の私は、確かに警察官じゃない……ただの一般人だ……」


「警察官だった頃のあんたも、けっして正義の人じゃなかった。あんたの姿勢は確かに立派で、上の腐敗に辟易へきえきしていた俺達に何かを期待させるものがあった。……でもな……」


 枝野巡査は息を吸い、自分を見る森元に低い声で言い放つ。


「どんな理由があろうと、規則を逸脱した警察官は汚職警官なんだ。心の善し悪し、行為の善し悪しに関わらずだ。

 山田栄八を正式な手続きを踏まずに内偵し、引きずり降ろそうとしたことは、法廷に出れば必ず否定される行為なんだ」


 森元が警察官としての正式な手続きを踏まなかったのではなく、踏めなかったのだということは、枝野巡査にも分かっているはずだった。


 警察幹部達の覚えの良い山田栄八の悪行を、法にのっとった正当な手段で糾弾することはほぼ不可能な状態だった。


 警視庁の幹部クラスが動かない限り、山田栄八を糾弾する書類は出るところにも出ない。


 そして仮に糾弾の場を設けたとしても、山田家からの圧力で裁断者達の多くが買収されただろう。


 山田栄八を告発した森元は下手をすれば逆に処分を受け、警察を追われていた。だからこそ彼は水面下での内偵を進める道を選んだのだ。


「あんたは自分が正しいと信じた道を行ったつもりだろうさ。だが警察官は法の番人であり、だからこそ存在を許される。

 あんたは法廷で、自分の正義を立証できるか? 正式な書類を通しもせず、個人の正義感で勝手な戦いを強行した過去を釈明しゃくめいできるか?

 周りが腐敗していたからなんてのは言い訳にもならない。常に法的な正しさをまとっていなければならないのが警察官なんだ」


「なら、誰が正しかったんだ」


 森元の問いに、枝野巡査は口を引き結ぶ。


 はなをすする森元が、眼鏡を外して目元をこすった。赤くなった目が、闇を睨む。


「誰も山田栄八にかなわなかった。彼を非難して、左遷させんされた同僚を何人も見てきた。悪を見て見ぬふりをすれば、法廷では裁かれないかもしれない。だがそれが正しいのか?

 私はどうすればよかったんだ、枝野。どうすれば正しさを保てたんだ」


「……正しくあれた者などいない。警察官が正義の使徒だなんて幻想は、今時子供だって抱いちゃいないさ……」


 枝野巡査は壁に拳を叩きつけ、低くうなった。「何が正義だ」とつぶやくと、恨めしそうに森元を見る。


「あんたに声をかけられた時、胸がおどった。誰も倒せない、倒そうとさえしてこなかった山田栄八に牙を剥く人間が、警部補級の地位にいた。あんたの言葉は立派で、真摯しんしで、聞いていると闘志がわいてきた。

 だから……今の身分を投げうってでも、協力しようと思った。正義のために戦うのが本当の警察官だと思ったんだ」


 なのに、と枝野巡査は歯を剥いた。


「あんたの計画は、失敗した。全てを犠牲にして集まった俺達は、戦うことすらできなかった」


「……だが……山田栄八は……」


「ヤツが死ねば万々歳だとでも!? あの場合の勝利とは山田栄八の死ではない! その罪を世間に認めさせることだ! ヤツが悪で、山田家がその根源だったという評価! それを得ることができなかったからヤツの後釜に山田秀人が座ろうとしてきたんじゃないか!」


 枝野巡査の目が血走り、そこから涙がこぼれ始めた。森元は立ち尽くし、彼の顔を見ている。


「俺達が山田秀人にくだった経緯は、調べがついてるんだろう。あんたが警察から消えた後、城戸の糞野郎が俺達を、山田秀人に売ったんだ。ヤツらは俺達の家にまでやって来て、手下になることを要求してきた」


「脅されたのか」


「……俺達があんたに秘密裏に協力していたことは、警察組織に対する裏切りだと言われたよ。そりゃそうだ、上からの命令もなしに派閥を作り、署長を内偵していたんだからな。告発されれば言い訳の余地はない。

 それでなくとも山田秀人の要求を拒否して、ヤツが山田家と築地警察署を掌握したなら、どんな目に遭わされるか……」


 枝野が一度唇を噛み、目元を袖でぬぐった。


「ヤツは、あんたの動きも読んでいたよ。あんたが昔の仲間を招集した時、すぐに指令がきた。特定の場所や人を守らせようとしたなら、その役を進んで買って出ろってな。あとは逐一ちくいち命令がきて、そのとおりに行動したんだ」


「十一だぞ」


 森元の短い言葉に、枝野巡査は眉を寄せた。


 だがすぐにその意味を理解し、目をそらす。森元の顔が、苦しげに歪んだ。


「あの子は……まだ、十一歳だったんだぞ……家族を失って……辛い思いをしてきた彼を…………君は……」


「あんただって俺達を見捨てたんだ! 今更何だ!」


 声を張り上げた枝野巡査が、扉の向こうに聞こえるように、わざとそちらへ顔を向けて怒鳴った。


「正義だの警察官の意地だの、美々(びび)しいお題目で俺達をきつけておいて戦場すら用意しなかった! 山田栄八が断罪されれば、俺達には最低限の賛美が送られたはずだ! 悪党を身をていして倒した勇士だってな! だが、この状況で倒れたら……ただの汚職警官だ! 敗残兵には誇りなんて認めてもらえないんだ! 欲しかったのは誇りだ! 誇りある結果だったんだ!」


「今は何が欲しい!? 幸太郎君を差し出して山田家の犬にでもなりたいか!」


 森元の台詞に目を剥いた枝野が、喉をひくつかせながらあえいだ。

 身を震わせるほどの怒りが、やがて声を絞り出す。



「――――安息だ――」



 その一言が、森元の顔面から表情を消し去った。


 荒く息をする枝野巡査が、壁を向いて頭を抱える。折れた指さえ使って、髪をかきむしった。


「城戸や、山田秀人のような男の下でまともな暮らしができるわけがない……連中に目をつけられた時、真っ先に憎んだのはあんただ、森元さん。あんたが俺達を誘いさえしなけりゃ……」


「……」


「山田秀人は、きっと帝都の支配者になる。山田栄八なんかより、ずっと悪い支配者に……もう、逃げられない。ヤツを倒す公算もない。山田秀人は、軍部とつながっている……森元さん、あんたの正義とやらは……俺達を、後戻りできない地獄に誘ったんだ……」



 それから数分、枝野巡査と森元はうす暗い部屋の中で沈黙していた。


 やがて、森元がきびすを返すと、静かに床を進んで扉の前に立った。


 取っ手をつかみ、背後の枝野巡査をわずかに振り返る。


 浅く息をしている彼に、森元は小さく「悪かった」と言って、扉を開いた。




 顔を上げた枝野巡査の後方で、複数の足音が遠のいていく。

 振り向くと、扉は開け放されていた。廊下には、誰の影もなかった。






「ヤツの言ったことは気にするな。何を言おうと、幸太郎君と大西巡査を裏切ったことは、許されることじゃない」


 隣を歩く刑事の言葉に、森元は応えない。廊下を歩き、仲間達が待つ大倉庫へと向かう。


 大きな鉄製の扉の前に来ると、その取っ手に手をかけながらまた刑事が言った。


「残った警官の仲間は二十名足らずだ。しかも……その中にまだ、山田秀人の息のかかったスパイがいる可能性がある」


「この面子で、本当に敵の本拠地に乗り込むのか?」


 厳しい目を向けてくる仲間達に、森元は深く息をついて、言った。


「我々に何ができるか、正直分からない。築地署に手を回されて、署長にでも出て来られたらそれでおしまいだ……個人の判断で動いた君らは責任を問われ、私は逮捕されるだろう」


「……」


「開けてくれ」


 質問に直接答えることなく命じる森元に、刑事達は無言で鉄扉を開けた。


 重い音がして、廊下に光が這い出てくる。


 天井の高い空間に、警官達が集っていた。壁にランプや携帯電灯がかけられ、場所全体が淡く浮かび上がっている。


 森元は全員の視線を受けながら倉庫の中央へと歩み、そこに置かれていた大きな行灯あんどんの隣に立った。


 倉庫の外を吹く風の音が、頭上から降りてくる。警官達は、みな決死の形相でリーダーを見つめていた。


 横山刑事が、森元の前に進み出て来る。


 白い鉢巻はちまきをつけた彼の格好に、森元はつい笑ってしまった。

 白装束に身を固めた実直な横山刑事は、心外そうな顔をしながら口を開く。


「裏切り者どもは、指示どおり解放しておいた。不本意ではあるがな……残った仲間は十五名だ。みな、遺書は用意してある」


「別に相打ち覚悟で切り込むわけじゃないぞ。警察官として堂々と踏み込む。後で普通の格好に着替えてくれ、横山」


「……行く前に話をしてくれ。みんな、お前と戦える日を待ってたんだ。何を確認する必要もない……全員がお前の『正義』に、賛同しているはず・・だ」


 横山刑事がわきに退き、仲間達を振り返った。


 森元は自分を見つめる男達の顔を順に眺め、息をついた。


 誰もが男らしい顔をしていて、森元を力強く見つめていた。この中に、未だ裏切り者がいるとは信じたくなかった。


 改めて深呼吸をして、ゆっくりと口を開く。


「山田栄八を追い詰めた、あの夜……私の頭の中は、あることでいっぱいだった」


 話し始めた森元に、警官達があごを引いて耳を傾ける。



「それは……出世のことだ。戦いが終わった時、自分はいったい、どれほど昇格してしまうのだろうか……と……」



 しん、と倉庫が静まり返った。


 目を剥いて唖然とする仲間達の中、同じように目を丸く見開いた横山刑事が、森元を振り返る。


 ぽかんと口を開ける横山刑事の前で頭をかきながら、森元は笑った。


「山田栄八と戦う覚悟を決めた当初、そんなことは全く考えていなかった。当然だ……出世したいなら、山田栄八に逆らうべきじゃない。彼にすりよって、びを売り、危険を避けて上を目指すべきだ。山田栄八と戦う男が、出世を気にする道理がない……」


 だが、と森元は目を伏せる。


「一身を捨てる覚悟で、山田栄八を追っていると……理解者が出てくる。諸君のように、警察とはどうあるべきかを真剣に考える、仲間達……そして……警察幹部にも、城戸警視という、理解者がいた……」


 唖然としていた警官達が、次第に表情を収めていく。


 森元は顔を上げ、ふと開け放された鉄扉の方を見た。枝野巡査と、裏切り者の刑事達が、陰に立っている。森元は目を閉じて、息を吸った。


「城戸警視は、私の行為をめちぎった。立派だと。警察官のかがみだとね。それは諸君も知ってのとおり、演技だったわけだが……私は自分の信条を肯定されたことで、欲が出た。

 決死の覚悟だったはずが、警察幹部の味方ができたことで、山田栄八を糾弾した自分が警察に残り、功績を認められる未来が見えた。実際城戸警視は私をかばい、上層部に正義を知らしめると約束してくれた。

 ……だから、あの夜の私の頭の中は、出世と輝ける未来でいっぱいだったんだ」


 目を開けると、何故か空気が目にしみた。


 自らを正義の体現者だと誇り、立派で上等な人間だと思い上がり、天狗てんぐになりかけていた過去の自分。


 信頼すべき支援者であった城戸警視は、きっとそんな自分をあざ笑い、蹴落としたのだろう。


 そして今、森元は二度目の裏切りにった。


 支援者の次は、肩を並べていたはずの同志達に裏をかかれた。



 数度瞬きをして涙をこらえると、森元はさらに声を上げる。


「正義を貫くのは、難しい。本当の正義には往々(おうおう)にして見返りがない。苦労をしたなら、褒めてもらいたいのが人間だ。……しかも正義というものは、必ず矛盾をはらむ。正しいことをしていると思っていても、誰かに悪党とののしられる時がくる。必ずだ」


 喉がひくつく。うわずりそうになる声を叱咤しったするように、腿を叩いた。


「青臭いと笑われることもある。甘いと、現実を見ていないと、あざけられることもある。正義を口にするのは、割に合わない。強靭きょうじんな意志と忍耐を強いられる。だが――」


 独りよがりな演説になってしまっている不安を感じた。しかし言わずに黙ることは許されない。

『だが――』



「――それを最低条件として行わなければならないのが、警察官という人種だ」



 その場にいる、全員の顔に何かが走った。


 肌の緊張、筋肉のこわばり。それが電流のように、素早く駆け抜けた。


 森元自身にもそのうねりは生じ、内からわき上がるものに、もはや口は自然と動いていく。


「法と正義。警察官が守るべきそれらは、時に相反する。ならば法を優先して取るのが真っ当な警察官の神経だ。個人の正義感で動く警察官は、本来、正しくない。

 ……だが……法をじ曲げ、黙らせ、法治国家で人治をもくろむ輩には何をもって立ち向かえばいい!? 山田栄八や山田秀人のような、法と人命を踏みつけにする者から、どうやって帝都の民を守ればいい!?

 我々は法においては規則を逸脱した不良警察官だ! だが悪を見逃し迎合げいごうする者どもは、人道における不良警察官だ! 我々は前者となることを選んだ!!」


 危険思想。独善的。頭の中を飛び交う言葉を、森元は振り払った。

 山田家の権力の前に、警察の力と正義を差し出し続けた連中の顔を思い出し、歯を食いしばる。


 そして自分がかつて、棚主や天道雨音の行為を、法を根拠に否定したことを思い出した。


 それが間違っていたとは思わない。だが今、森元は法と正義を別のものとして捉えていた。


 法治国家では多くの場合、正義は法にのっとる必要がある。だが法は正義にのっとる必要がない。


 正しいか正しくないかは問題ではない。施行されていれば絶対。それが法というものだ。


 そして法には抜け道があり、一度自身を抜け出た者を追う機能は、その法にはない。


 森元はわき立つ血の熱を感じ、右手を目の前に差し出した。


「山田秀人は我々の内の何人かに接触し、脅迫と甘言かんげんをもって味方に引き入れようとした。ここにいる者の中にも、彼の誘いを受けた人間がいる可能性は高い。だが! それが誰であるかなどもはや些細ささいな問題だ!」


 森元の視界の中に、明らかに動揺どうようした警官がいた。

 森元は彼に顔を向けず、ただ一度うなずいて続ける。


「私は諸君の一人一人の人格を知っている。悪をはねつけ、正義を望む気性を知っている。この都で、この誇らしき帝都で、もっとも警察官と呼ぶにふさわしい男達だ。そう信頼した。ならばたとえ山田秀人に接触されていたとしても、その信頼は手放さない! 疑うことは私の負けだ! 我々は悪を拒む! 一人残らずだ!」


 居並ぶ警官達から、静かな熱気が森元に届いてきた。理路整然と話ができている自信はない。だが森元は、自分の心の全てを正直に彼らにぶつけた。


 正義。形のない青臭いそれこそが、今この場に集った男達の、行動動機の全てだったはずだ。


「我々の行為は、警察の正式な捜査ではない! 我々は個人の責任で集い、山田邸へ行く! 山田家の陰謀を砕き、その悪事を世に知らしめ、刈田幸太郎を救出する! そしてその違法な行為を『正義』と豪語するのだ! ……この言葉に違和感を感じない者のみ、私に続け!」


 森元が一歩前へ進むと、警官達は音を立てて整列した。鉄扉に向かうリーダーに、その背に、一歩の遅れもなく順次続いて行く。




 鉄扉の向こうに立っていた枝野巡査達は、こちらに歩いて来る森元の視線に顔をゆがめていた。


 軽蔑、怒り、後悔、罪悪感、様々な感情が入り混じった表情で、後ずさり、顔を背ける。


 彼らの心には、山田秀人に屈したことを恥じる気持ちが確かにあったのだ。

 それは山田秀人についた他の多くの警官達と違い、森元の信頼を真正面から受け、その強さを自覚していた者ゆえの恥だった。



 鉄扉をくぐった森元が、枝野巡査の前にやって来る。


 思わず目をつぶった枝野巡査の肩を、森元は無言で軽く叩いて通り過ぎた。


 友人に挨拶代わりにするようなその仕草が、うめくほどに痛かった。

 よろける枝野巡査に、森元の仲間達は、一瞥いちべつもくれずに通り過ぎて行く。


 ……これでいいのか。


 なまりのように重い胸中に自問した瞬間、枝野巡査のわきから、一人の刑事が駆け出した。


 顔面に青あざをつけた彼は、枝野巡査とともに葛びるから飛び出した群集を追いかけた者の一人だ。


 彼は意味をなさないわめき声を上げ、森元の前に駆け込むと、両手と額を床にこすりつけて叫んだ。


「連れて行ってください! 俺も連れて行ってください警部補ッ! お願いです!」


 彼に、無数の視線が突き刺さった。枝野巡査は目を剥き、森元はじっと相手の差し出された頭部を見ている。


「幸太郎君が捕まった後、山田秀人からは何の連絡もありませんでした! ヤツは俺達を使い捨てにしたんです…………お……俺が莫迦でした……! あなたに声をかけてもらったのに、俺は……『警察官』になり損ねたんです!」


 その言葉は、枝野巡査の胸を刃物のようにえぐった。


 土下座した刑事はその姿勢のまま両手を合わせて差し出し、「後生です」と涙声を上げた。


「山田秀人は、本家の屋敷になんかいません……! ヤツは深川にある、自分の別荘にいるはずです!」


 枝野巡査が、床に膝をついた。


 がくりとうなだれる彼に、森元は静かに顔を向ける。そして再び、ゆっくりと歩き出した。


 自分を拝み続ける刑事の肩に、軽く手で触れると、深く息を吸い、通り過ぎる。


「二人とも、さっさと立て。現場に行く前に、やるべきことは山ほどある」


 後方の息を呑む気配に、森元はさらに「続け、続け」とつぶやくように命じた。




 倉庫を出る頃になって、裏切り者達が行列の最後尾についたことを確認した横山刑事が、森元の真後ろで呆れたように息をついた。


「心底甘いやつだよ。お前は」


「味方に疑いを抱いたまま戦うことはできない。それに、一度は信じた同志だ……今度も、信じてみる」


「これが最後かもしれんぞ」


 言ってから、横山刑事は森元の耳元に顔を寄せ、吹きすさぶ風の音にまぎれるようにささやいた。


「実は、俺も裏切り者の『候補』だったと言ったら、どうする?」


「何?」


「山田秀人ではなく、城戸警視から誘いがあった。お前を裏切り、幸太郎君の居場所を教えれば良い思いをさせてやると、暗にほのめかされた。警視としての命令じゃなかったのは、お前に自分の動きを察知されたくなかったからかな……」


「それで、何と答えたんだ」


 横山刑事は白目の上で瞳を滑らせて空を見上げ、歯を剥き、大声で笑った。


「でたらめを教えてやったよ。命和会ってヤクザの、事務所の住所さ」


 森元は親友の笑い声を聞きながら、小さく吐息をもらし、微笑ほほえんだ。





 明け方。葛びるの棚主の部屋の電話が鳴り、森元が情報を伝えてきた。

 電話を取った棚主はそれを黙って聞き、受話器を下ろす。


 寝ぼけまなこの雨音に見送られ、カッフェを出てから数十分後のことだった。


 階下のミルクホールに降りると、集っていた仲間達に電話の内容をそのまま告げる。


 三人の隣人達と、木蘭亭の女達、そしてダレカが、黙ってうなずいた。


 棚主は彼らの間を通り、玄関へと歩いて行く。


 玄関扉を開け放ち、曇天の薄暗い道路に降りた。

 確実に一雨来る。空を見上げて、そう思った。


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