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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
41/110

 ミルクホールのカウンター席に、幸太郎が背を丸めて座っている。


 彼の周囲には、いつか会った素人の女形おやま。女言葉を話す、ごつい三人組の紳士が珈琲のカップを片手に談笑している。


 今日はテーブル席の方にも何人か客が着いていて、マスターは珍しく忙しそうに労働にいそしんでいた。


「ボウヤ、大丈夫? なんだか顔色悪いわよ」


 右隣に座った角刈りの男が、幸太郎に言った。


 今日、幸太郎は葛びるに来て初めて、寝坊をすることなく朝を迎えた。

 それは昨晩森元の話を聞いてから、緊張して一睡もできなかったからだ。


 自分が帝都指折りの名家の血筋で、莫大な財産の相続権を持っており、そのために両親が殺され、自身も命を狙われている。


 未だ推測のいきを出ないと棚主達は言っていたが、しかしそんな話を聞いて、ぐっすりと眠れるわけがなかった。

 休憩室の高い窓から河合雅男が覗いてくるような予感がして、寝台の下で一晩中身を硬くしていたのだ。


 幸太郎は自分の周囲に座る男達に、ぼんやりとした視線を向ける。どこからどう見ても男なのに、なよなよした仕草で笑い合う彼らは、正直異常で、異質な存在だ。


 しかし所詮他人に過ぎない幸太郎を気にかけてくれる表情は、誠実で、善良なものに見える。


 幸太郎は、皮肉だ、と思った。


 親子三人で各地をさ迷っていた頃、他人は信用のならない敵だった。


 三吉のような良い人もいたが、困っている時に近づいて来る人間の大半は、ろくでもない下心を隠した悪党だった。


 金を貸す代わりに幸太郎を一生奉公に出せと迫る者や、一方的に食べ物や酒をおごって、父を違法な仕事に引き込もうとする者と何人も会った。

 器量よしと言われていた母を、いかがわしい店に誘う者もいた。


 そういう時、彼らは幸太郎を指さし、やれ痩せているだの薄幸そうだの、親がしっかりしないと長生きできないだのと、父や母の心を傷つけるのに利用した。


 親切や道徳、親心を語る彼らの顔は、何よりもいやしい鬼に見えた。

 気丈な母はそれでも誘惑には負けなかったが、父は金に目がくらんで何度か警察の厄介になり、母と二人で帰りを待たねばならない時期もあった。


 そんな幸太郎が両親を失くしてから出会った赤の他人達は、まるで別世界の人間のようだった。

 できれば両親が生きている間に、棚主やマスターや、木蘭亭の女達、そして目の前の男達に出会いたかった。


 葛びるの前でドーナツを食べたり、屋上で油揚げを焼いている光景に、一度でいいから両親を呼んでやりたかった。


 ――幸太郎は、かつて両親にたずねたことがある。何故自分達には家がなく、一年中知らない土地を歩き回らねばならないのかと。


 父は、自分がろくでなしだからだ、と頭をかいて苦笑した。


 犯罪に手を染め、ろくに家業を手伝おうともせず、探偵小説ばかり読んでいたから勘当かんどうされたのだと。だからろくな仕事にもけないし、家も持てないのだと。


 だが母は、にこりともせずに答えた。反撃の機会を待っているのだ、と。


 幸太郎には何のことかさっぱり分からなかったが、母の目には、父の目にはない希望のような光があった。

 自分達には、貧しい生活から抜け出す手段があるのだ、今の放浪の日々は、そのための準備期間に過ぎないのだと、そのまなざしは語っていた。



 ――全て、奪い返してやる。



 母は苦境に立たされるたびに、その言葉をつぶやいた。


 前科者と、その妻と子という立場では、社会からろくな援助も受けられない。


 自分達の素性を知る者のいない土地に流れて、日銭を稼いで暮らし、しかしふとした拍子に目ざとい連中が過去をつつき始め、またよその土地に流れる。その繰り返し。


 そんな人生の中で、決して弱音を吐かず、前を睨んで生きた母の希望とは何だったのか。


 森元と棚主の推理は、正にその真実に近づこうとしている。


 かつて山田栄八という男に抱かれ、放逐ほうちくされた女性というのが、おそらく幸太郎の祖母だ。

 彼女が山田栄八との間にもうけた子が母であり、その息子の幸太郎は、すなわち山田栄八の孫ということになる。


 山田栄八がよほど幼い頃に『若気の至り』に及んだのでない限り、この考えが時間の流れとしても最も妥当だとうなように思えた。


 そして大正の今日、例外はあるものの、やはり名のある家の相続者となるには女性より男性の方が分がある。


 山田の血を引きながら、理不尽に追放された祖母の血統が山田栄八に復讐を行うとすれば、山田栄八が死んだ際、その直系として遺産相続の権利を主張することだろう。


 そのためには男児が必要であり、幸太郎はその念願の男児だった、のかもしれない。


 そして森元の話では、山田栄八とその息子はつい最近共に死亡し、山田家は分家の男に当主の座が回ってくるほどの異常事態。各地を放浪していた母がこのことを聞きつけ、今こそ好機とばかりに帝都に家族を連れてきた。


 そして相続関係で相談のできる山田家の関係者を捜し出し、接触。カッフェで会おうとした。


 こう考えれば一連の出来事に全て説明がつく。だとすれば、幸太郎は両親を問答無用で殺害し、排除した山田秀人が許せなかった。


 河合雅男のような異常者を部下に持つ男だ。怖くないはずがない。

 しかし彼に発見される恐怖と、彼に会って、力いっぱい罵声を浴びせたい衝動は同じぐらいに強かった。


「そう言えば、聞いた? こないだの馬車の炎上事件だけどさ」


 髭を生やした男の言葉に、幸太郎はぴくりと肩を震わせる。カウンターの向こうのマスターは、酒瓶を忙しそうに物色しながら背を向けていた。


「焼き殺された三吉を、前日に襲っていたヤクザがいたでしょ? 寄桜会の……それが昨日、獄中自殺したんだって」


「うそっ、本当!? だって何人かいたじゃない、全員自殺したの?」


「そう、全員よ。死因は公表されてないけど、深夜の間に決行したらしいって。これって、やっぱり雇い主の鉄道会社をかばってのことよねえ?」


「死んでも関係は認めないってこと? でもヤクザってそんなことするタマなのかしら。監獄で堂々と生き延びて、秘密を守ったまま出てきて、『兄貴、ハクがつきましたね!』って子分に出迎えられるって印象だけど……」


「莫迦ねえ、本当は捕まる予定じゃなかったってことでしょ。馬車業者を脅して終わるはずだったのに、捕まって鉄道会社に迷惑かけちゃったから、『腹ぁかっさばいてお詫びします!』ってなって当然じゃないのよ」


「ああ、なるほどねえ」


 幸太郎は手元に置かれていた茶の入ったカップを握り締め、じっと水面を睨んだ。


 昨日までは両親を失った悲しみや、三吉や鉄道会社を巻き込んだ申し訳なさで心が埋まっていたが、今は違う。


 山田秀人という、人命を紙くず同然に扱う卑劣漢への怒りが、胸の中にどろどろと湧き出してきていた。



 そんな幸太郎の、後方。何人もの客を隔てた窓の外を、又の字と一人の警官が歩き過ぎた。


 彼らは葛びるを他の建物と同程度の興味をもって眺め、首を巡らせる。

 すれ違う人々の視線を集めながら、又の字が丸く突き出した胸を支えるように腕を組み、舌打ちした。


「城戸の阿呆なんぞに任しておけへん。ウチらで何とかせんと、旦那さんの機嫌が悪ぅなってまうわ」


「あいつは……城戸は今頃、横山刑事を捕まえようとしてるところでしょう。我々より、一歩も二歩も遅れている」


 彫刻のような硬い表情で言う警官の顔を、又の字は歩きながら覗き込んだ。

 目を合わせようとしない彼に、そばかすをのせた顔が問う。


「お前、河合のおっちゃんがしくじった日に一緒におったやろ」


「途中までです。刈田夫妻がカッフェに来ることを確認して、河合にそれを報せ、署に戻りました。殺害は河合の仕事でしたから」


「運が良かったなぁ。もし河合のおっちゃんを、殺しの仕事まで手伝っとったら、お前も責任取らされとったところや」


「正しくありません」


 あぁ? と眉根を寄せる又の字を、警官は見下ろした。


 のっぺりとした、特徴のない顔。薄い眉毛の下の細い目が、何の感情も浮かべずに女の顔を見る。


「自分は、殺せと言われたら即座に殺します。誰一人逃がしません。もし自分が河合と共闘していたら、自分がかの少年を殺していました」


「……生意気やな。お前、旦那さんに飼われて何年目や?」


「五年です。もしもの時に山田栄八の寝首をかくために、買収されました」


 はっしと警官の顔を両手ではさみ、又の字が立ち止まらせた。


 無言の相手に、又の字は「先輩やんけ」とつぶやく。

 往来の真ん中で警官の顔をはさむ女に、通行人の何人かが立ち止まってそちらを見た。


「先輩、お前さんは警官のくせに、なんで殺しに慣れとるんや? 河合のおっちゃんを黙らせたのも、ヤクザを始末したのも鮮やかやった。ただの警官やったらああはいかんやろ」


「正しくありません。警官の中には、暴力と殺人に慣れた者もいます。犯罪者を相手にする仕事ですから、当然です。……ただ、自分は個人的に、従軍経験がありますので」


「日露か? そか。それで城戸を『あいつ』なんて呼ぶわけやな。日露の英雄から見りゃ、あいつは尊敬にあたいせんボケナスやっちゅぅことか」


「自分は誰をも尊敬していません」


 誰かが、見つめ合う二人をからかう声を上げた。又の字は無視して、警官にさらに顔を近づける。


 警官は生気のない顔で、又の字ではない、何か別のものを見るような目つきで言葉を続けた。


「あの戦争から帰った者の少なからずが、そうなりました。誰も信じず、尊敬せず、目に映るほとんどの人間を軽蔑するようになりました。城戸は無能ですが、たとえ有能でも自分は彼を『あいつ』と呼んだでしょう」


「帰った時、国民がお前さんらをめへんかったからか? 戦争の結果に文句を言ったからか? その程度はな、ウチも知っとるで」


「国民の多くは帰還兵に、一応の賛辞を送りました。しかし我々が死をして勝ち取った戦果の価値はけっして認めず、それに唾を吐いたのです。

 講和条約、納得行かず。賠償金を得るまで、戦争を断固継続すべし。そう叫ぶ民衆が警官隊と衝突し各地を襲撃しました。

 ……自分は、その醜態を見て、警官になってやろうと思いました。警官になって、国民を不当にしいたげてやろうと思ったのです」


 二人をからかった男が、なおも離れようとしない又の字達に連れと共に向かって来た。

 着流しを着て下駄を履いた、見るからに素行の悪そうな四人組。


 しかし、未だそちらには視線もくれずに、又の字が口を開く。


「どうかしとるな。病気やで、先輩。でも正直、河合なんぞと組むよりは分かりやすぅてええわ。ウチはあのジジイ嫌いやったんや」


「自分もです。ただし自分は河合だけでなく、あなたも嫌いです」


 一瞬にやりと笑った又の字が、警官の眉間に口を寄せてつばを吐いた。


 それを着流しの四人組は接吻せっぷんしたと勘違いしたらしく、声高にはやしたて、各々の着物の股間に手を入れて莫迦な声を上げた。


 又の字は両手で警官の腕をつかみ、そのまま路地裏に入って行く。

 警官はしたたる唾をぬぐいもせず、後をつけて来る四人組を視線だけで振り返った。


 警官をつけて来て、どうする気なのか。ややあって、警官は袋小路の壁に頭を打ちつけた。


 うめきもせずに額をこする警官の横で、又の字が何のつもりか、ワイシャツを脱ぎ出した。


 後方で上がる下卑げびた声に、振り向こうとする警官へ又の字が訊く。


「標的の子供がこのへんに隠れとるっちゅうのは、確かなんやな?」


「銀座のあたり、との報告が。現場の者達にもっと強硬な手段で調べろと命じましたので、いずれどの建物かも分かるかと」


「旦那さんも大したもんや。城戸なんかよりよっぽど頭が切れはる……」



「巡査殿! 和姦わかんでありますか!?」



 投げられた言葉のとんでもなさに、警官が後方に体を向け、四人組を見た。


 元々表情にとぼしい顔面を、彼らは唖然としていると勘違いしたらしい。意気揚々(いきようよう)と路地をふさぐように向かって来る男達に、警官は鋭く声を放った。


「失せろ。痛い目にわせるぞ」


「おお、とんでもねえな。何もしてない一般人を痛い目に遭わせるだとよ」


「公然と女と絡み合うのは犯罪ではないんですか! 巡査殿! 我々怒りますでありますよ!」


 下らない連中だとは思ったが、警官は内心困惑していた。


 現職警官に気まぐれにちょっかいを出そうなどという無謀な輩が、帝都にいるとは。若気の至りと言っても限度がある。


 そんな警官を、四人組の一人が真正面から指さした。


「ふざけるんじゃねえ! 朝っぱらから売春婦を連れまわす警官がいるかッ! 偽警官なら厳罰、本物でも職務怠慢(たいまん)の素行不良! 警察署に密告されりゃタダじゃすまねえぜ!」


 その台詞を聞いて、警官はようやく得心がいってうなった。

 横を見れば、ワイシャツを脱いでさらし・・・姿になった又の字がいる。


 元々奇抜な服装の彼女は、売春婦か芸人と見られても無理はなかった。

 へそを出してワイシャツを肩にかける又の字。四人組は距離を間近まで詰めながら凄んでくる。


「警官だってなあ、悪いことをすりゃあ罰せられるんだぜ? だからさ、払えよ」


「何?」


「『怠慢税』であります巡査殿! 警官は我々国民が税金で飼っているようなものだと、かの夏目漱石先生も言っているであります! 『吾輩わがはいは猫である』、ご存知ありませんか!」


 左手で妙な形の敬礼をする男の両脇から、他の男達が「警官の怠慢は国民への裏切りだ!」「払った分の税金を返せ!」と口々にわめき始めた。つまり、たかり屋なのだ、彼らは。


 身の程知らずの男達の剣幕に、警官の石のような硬い顔面に一本の青筋が走った。

 こめかみを這うその線を指の腹でこすると、制帽を取り、隣の又の字にかぶせる。


 丸刈りの頭をさらした警官は、だらんと伸ばした腕の先で、両の拳を音がするほど硬く握り締める。


 警官の長い腕が振るわれる直前、素肌の多くをさらした又の字が、向かって右側の男に突然抱きついた。


 眼前を乳房で覆われた男と、その仲間達が気を取られている隙に、左端の男の顔面に警官の拳がめり込む。


 まっすぐに鼻を潰された顔がはね上げられると、折れた前歯が警官の親指に刺さって残った。


 凄まじい一撃だった。


 しかも打撃を繰り出して伸びきった腕は間を置かずに戻ってきて、殴り飛ばされた男の隣にいた、別の男のこめかみに肘鉄を叩き込む。


 ぐぇっ、と声を上げて腰を折った相手の髪をつかむと、足払いをかけながら壁に頭を叩きつけた。


 まがりなりにも警官の、突然の暴挙に唖然とする三人目の男の横で、今度は又の字に抱きつかれていた男がくぐもった悲鳴を上げる。


 見れば又の字は男の顔面に自分のワイシャツをからみつかせ、背中に回って締め上げていた。

 呼吸のできない男が必死にかきむしろうとする又の字の二の腕には、女のものとは思えぬほど膨張ぼうちょうした筋肉がっている。


 膝をつく仲間を助けようとようやく動き出した三人目の男は、しかし、背後から放たれた警官の拳に後頭部を打ちのめされ、一撃で地面に転がった。


 最後に又の字に襲われている男の顔面をワイシャツ越しに二、三度殴り飛ばすと、四人組は全員倒れ伏し、立っている者はいなくなった。


「……ば……」


 莫迦な。


 そうつぶやいた男の一人に、又の字が蹴りを食らわせる。


 顔を滑るように踏みにじった靴についた拍車が、ばりばりと顔面の肉を引き裂いていった。

 悲鳴を上げた男が、しかし再び靴を持ち上げた又の字に自分の口を両手で押さえる。


 又の字は長い舌で口の周りを舐めると、一度足を下ろすそぶりを見せてから、渾身こんしんの力で男のこめかみを蹴り上げた。


 やはり拍車が回転して肉をそぎ、男の頭部から血がほとばしる。


 男はそのまま壁際まで転がって行き、息も絶え絶えに頭を押さえて丸くなった。

 小さく何か懇願こんがんしているが、もはや声になっていない。


 警官は又の字から制帽を取り返そうとしたが、又の字はするりとその腕をすりぬけて、壁際で震えている男に近づいて行く。


「……『建物』が分かったら、連絡します」


 警官は又の字の背中にそう言い、きびすを返した。


 路地裏を出て行く警官の背後で、拍車が空を切り、肉をけずる音と、血しぶきが壁に飛び散る音が何度も何度も上がった。






 ――棚主が視界に入った瞬間、片目の男の全てが止まった。


 カッフェの喧騒の中、身動きはおろか、まばたきすら忘れて数秒間硬直した男は、やがて破れた軍帽を目深にかぶりなおし、テーブルを囲む軍人達に言った。


「余計なことをした。俺は先に消えさせてもらう……あとはみなで話をしてくれ」


「いや、君のおかげで彼も頭が冷えただろうよ」


 床に尻餅をついた新聞社の社員を見下ろして、軍人達は小さく笑った。


 片目の男は軍人達に軽く会釈えしゃくすると、棚主を見て、軽くあごをしゃくった。ついて来いという意味だ。


 店内の客や女給が視線をそらす中、片目の男と棚主は扉をくぐり、外に出て行く。


 往来を前後に並んで歩き、北へ向かった。何人もの人とすれ違い、無言で数分を歩く。


 やがて小さな川にかかった橋まで来ると、橋の中ほどで片目の男は欄干らんかんに背を預けた。


 棚主はすぐ隣で同じように欄干にもたれ、ハットを取る。

 ハットを持った右手を欄干の上に乗せ、息をついて空を見上げた。


 片目の男は、軍帽を脱がない。目深にかぶったまま、ふっ、と笑った。


「不便だ」


「何がだ?」


「義眼だ。お前に砕かれた。あれがないと、人にめられて仕方ない。松ヤニの瞳さえあれば、新聞屋なぞを調子に乗らせることもなかった」


 ゆっくりと視線を向けてくる相手に、棚主が「それは悪かった」と笑い返した。

 二人の前を自転車に乗った青年が、物珍しそうに顔を向けつつ通り過ぎる。


 棚主は髪をなで上げ、少し間を空けてから言った。


「不便と言えば、お前さんのことだ。こういう風にどこかでばったり再開した時、やはり不便だ」


「……何が?」


「呼び名だ。呼び名がないと声のかけようがない。俺も元々無名だったが、仮名かめいを用意したのはこういう弊害へいがいがあるからだ」


「何だったかな、お前の仮名は」


 棚主は笑いながら、その名を教えた。たぬし。み締めるようにつぶやく片目の男が、首を傾けて地面に視線を注ぐ。


 二十秒程度を黙って待った棚主に、片目の男はふぅ、と息を吐きながら言った。


「ゴンベエでいい」


「名無しの? そりゃ、あんまりだろうよ」


「俺なんぞは、一生どこかのだれかでいいんだ。……ああ、『ダレカ』。『ダレカ』で十分だ」


 心底つまらなそうに言い捨てる片目の男に、棚主は肩をすくめた。


 ダレカ。呼びやすいが、口に出してみると何となく異人の名前のような響きがある。


「因果なやつだな。じゃあ、ダレカでいいから、俺がその名前で呼んだらちゃんと返事をしてくれよ」


「あの夜、俺にとどめを刺さなかったな」


 返事をするどころか一方的に話を転がすダレカに、棚主はつい欄干から背を離して体を相手に向けた。


 視線をそらすダレカが、「何故だ?」と重ねた。棚主が眉を寄せ、頭をかきながら答える。


「そっちこそ、戦う前に森元と雨音を逃がしてくれたじゃないか。何故だ?」


「……死なせることもないと思った。俺には、その理由がなかった」


「じゃあ、俺も同じだ。お前さんを殺す理由がなかった」


「他の山田栄八の手下は容赦なく殺したろう」


「彼らは雨音達を助けてくれなかったしな。生かす義理がない」


 あっけらかんと答える棚主に、ダレカは中身のない左まぶたをこすった。


 その肩がわずかに震え、笑っているのだと分かると、棚主は再び欄干に背を預け、自分も鼻をかいて笑う。


「不思議だ。二度も死ぬかというほど殴り合った相手なのに、お前さんには憎しみを感じない。いや、会えて嬉しいよ」


「戦場でも、同じようなことが起こる。命を奪い合った敵国の兵士に戦後再会すると、親しみを感じるそうだ」


「日露戦争の敵兵か? どこで再会したんだ」


「俺の話じゃない。元上官の受け売りだ。だが、理解はできる。帰還した俺に罵声ばせいを浴びせた日本人より、同じ兵士の立場で戦争を生きた敵兵の方がマシだからな」


 カッフェでの話を思い出しながら、棚主はあいまいにうなずいた。

 ダレカは「とはいえ」と空に視線を投げる。


「一部の同胞にしいたげられたからといって、祖国が嫌いになったわけでもない。全ての国民が兵士を見下し、石を投げたわけじゃないことも理解している……」


「前に言っていたな。『俺は戦争の中に取り残されている』と」


「……」


「抜け出せたのか……? 今の、お前さんは」


 ダレカは「さて」とつぶやき、首を振った。


「正直、抜け出したいとも思わなくなった。所詮俺は、戦うことしかできない人間だ……そんなことより」


「ん?」


「ん? じゃない。何の用だ? 偶然じゃないんだろう」


 その言葉に、棚主は口を引き結んで相手の顔を見た。ダレカもまた、棚主を見返して、笑みを消す。


「俺は命のかかった局面での偶然は信じない。お前は、また山田家に関わっているのか」


「ちょっと待て、どういう意味だ? 何が偶然だ」


「少し前に、俺の所に山田家からの使いが来た」


 さっと顔色を変える棚主に、ダレカは目を細め、軍帽の奥から鋭い視線を向けてくる。


「身を隠していたのにな。俺は、山田栄八の護衛でありながら彼を守りきれなかった。だから山田家から報復の手が伸びると警戒していたんだが……先日俺の居場所を突き止めてきたやつは、俺にまた山田家に戻れと言ってきたんだ」


「お前さんをまた召し抱えるってことか? だが山田栄八も、栄治も、死んでいる。山田家本家にお前さんを雇うような人間がまだいるのか」


「本家ではなく、分家の男だ。……ひょっとして、もう知ってるんじゃないか。山田秀人という男だ」


 棚主は欄干から背を離し、ハットをかぶった。その態度に、ダレカも続いて欄干から離れる。


「分家連中は、山田栄八の死を悲劇とは思っていないらしい。だから俺に報復する気はないのだと言ってきた。本家の男達がいなくなった今、今後は分家が山田家を取り仕切るから、分家の意志は即ち山田家全体の意志と考えてくれていい、と。

 別にその言葉を信じたわけじゃないが、居場所を突き止めながら刺客を差し向けてこなかったことは事実だ。ゆえに俺は、何年かぶりに傷病兵の寄り合いを訪ねたり、のこのこ新聞社の企画に応じてカッフェに出向いたりした……来るなら来い、という気になっていたんだな」


「なるほど。偶然と言えば偶然だが、山田秀人が動いたからこそお前さんが身を隠すのをやめ、そのおかげで俺と出会えたわけだ。ある意味では必然性もあったわけか」


「……俺にしてみれば、山田秀人の使いが現れてすぐ、山田栄八の死と関係のあるお前と再会したわけなんだがな。何が起きてる? 説明してくれ」


 棚主はダレカを横目で見、一度うなずくと、今度は自分があごをしゃくって歩き出した。


「もっと安全な場所で話そう。長話になる」


「時間はあるさ」

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