十
窓から月光が差し込む探偵社に、棚主と時計屋、津波とマスター、幸太郎と、横山刑事、森元が集まっている。
木蘭亭の女達は階下のミルクホールで、好きなだけ飲んでいいと言われた珈琲を片手に談笑の最中だ。
彼女達に話を聞かせたくないという、森元の要望にマスターが気を利かせた形だった。
部屋の奥の机に着いた棚主が、机の向こう側に木椅子を置いて座った森元に、煙草を差し出しながら微笑んだ。
「ずいぶんくたびれちまったな」
「まあね。でも、心は軽い。山田栄八の下にいた頃と違って、自分を偽る必要がありませんから」
森元と話をするにあたり、葛びるの住人達には真実を明かすほかなかった。
棚主と森元が、かつて山田栄八とその一派に戦いを挑んだこと。その結果山田栄八と、その息子の栄治が死亡したこと。同じく事件の渦中にいた雨音の名は伏せたが、それ以外のかなり詳細な経緯を室内の人々に説明していた。
それは森元が横山刑事の、棚主が葛びるの住人達の人間性を保証したからであり、幸太郎を含めた全員が、今回の騒動の関係者であるからだった。
森元は昼間、横山刑事から河合雅男の事件の詳細を聞かされ、被害者である幸太郎から直に話を聞こうと葛びるにやって来たという。
その幸太郎を保護していたのが、まさか以前共闘した棚主だったとは……驚くと同時に、森元は共に死線をかいくぐった男の登場に、喜色を隠さなかった。
棚主は森元の煙草に魔法マッチで火をつけると、自身も煙草をくわえながらに言う。
「山田栄八の死後、あんたは確か、城戸警視とかいう裏切り者とやり合っていたはずだな。山田栄八を内偵していたあんたを支援すると言いながら、その実山田栄八と裏で繋がり、土壇場であんたを売り渡した卑劣漢……法廷に引きずり出し、裁きを受けさせると言っていたが」
城戸警視の名が出た瞬間、壁に背を預けていた時計屋の眉がぴくりと動いた。
自分の顔をじっと見つめる時計屋の視線を気にする風もなく、森元は煙草をふかしながら苦笑する。
「刺し違えを覚悟で挑んだんですがね。結局司法は取り合ってくれませんでした。城戸警視に関しては、糾弾の材料が不十分だったこともあります……結局、嫌がらせ程度のことしかできませんでした」
「援護してくれる人はいなかったのか。山田栄八の後釜の署長は?」
「築地署の現署長ですか。新藤だか、遠藤だかいう人が就任したと聞いています。署内の知人によると、善人だが、覇気がないと……警視を糾弾するには役者不足のようです。
それどころか最近は自分の配下の幹部達さえ統率できず、事実上のお飾りになっているとか」
「どうしようもないな。じゃあ、署内の汚職の現状も改善はされず、か」
「そのことも含めて、今日は棚主さんに聞いて頂きたい話があります。他のみなさんも、ちょっとお耳をお貸しください」
森元は河合雅男が別の人間とすりかわって移送されたことと、それを見咎めた横山刑事が暴行を受けたこと、そして、山田秀人に関して横山刑事に語ったことを、そのまま一同に伝えた。
幸太郎の顔がみるみる青ざめるのを横目に、森元は短くなった煙草を灰皿に押しつける。
「河合雅男は山田秀人の私兵。そして我が仇敵城戸警視も、遅かれ早かれ山田秀人と接触するでしょう。いや、もう既に、手を組んでいるのかもしれない」
「要するに、山田栄八が掌握していた築地警察署の支配と、警察組織それ自体とのパイプを、そっくり引き継ごうとしているわけだな、その、山田秀人とやらは。
警察幹部が山田栄八の横暴をゆるしていたのは、彼が帝都指折りの名家山田家の次期当主であるからに他ならなかった。政財界の重鎮を多く輩出している山田家のトップとつながれば、一生甘い汁が吸える……城戸警視もそれを狙っていた」
「だが、山田栄八は死んだ。ならば次の当主候補である、山田秀人を迎え入れようとするのは当然です」
「当然だって?」
森元と棚主の会話に、窓際に立っていた津波が声を挟んだ。
自分に集まる視線を怒りの形相で受け止めながら、新聞社出身の小男はわずかに声を荒げた。
「山田家だか田中家だか知らねえが、結局金と権力にあかせて人を殺し、世をかき乱そうとする大悪党じゃねえか。そんな奴らに喜んで自分から尻尾を振りに行き、法と正義を差し出すのが当然だってのか!」
「ええ、当然です。山田栄八を可愛がっていた警察幹部にとっては、それが当然。警官としての誇りや遵法精神のある人間なら、そもそも山田栄八を野放しにはしていません」
「森元さんよ! 警察ってのは外道の集まりか!?」
「以前は違うと信じていましたが」
今は。
そう言って冷え切った微笑みを浮かべる森元に、津波は窓を開けて、背を向けてしまった。
森元の隣に立つ横山刑事が一つ咳払いをし、机に手をついて棚主へ口を開く。
「実にゆゆしき事態だが……しかし河合の逃がし方を見るに、警察の上層部全体が山田家に買収されているわけではないと、思うのだが」
「確かに。わざわざ身代わりを用意してまで人の目をあざむくところを見ると、あまりあからさまに犯罪者を逃がすことはできないようだな。警察幹部の中に、まっとうな仕事をしている者がかなりいるということだ。これこそある意味『当然』のことだが……」
「俺も森元から教えてもらったのだが、そもそも山田家には警察組織との直接的なパイプはなかったらしいんだ。それが次期当主の山田栄八が、先代に俗世に『修行』に出されて、初めて警察に山田家の人間が入り込んだ。
だからこそ利にさとい一部の警察幹部が彼に接触し、便宜を図ってきたわけだが……つまり、一生を築地警察署に勤めて終わった山田栄八のパイプは、あくまで築地警察署を中心として形成されたものに過ぎない。警視庁の中枢にまでは、パイプは伸び切っていないと考えられる」
やや希望的観測の混じった横山刑事の考えに、しかし棚主は同意するようにうなずいた。
「もう一つ分かることがあるぞ。山田栄八の死後、山田秀人が築地警察署のいわば『山田派』とも言うべき汚職警官達の抱き込みにかかったのは、ごく最近だということだ。そうでなければ山田栄八に買収されていなかった横山刑事を、河合雅男の事件の担当者にすえさせるわけがない。
山田家の息のかかった刑事に担当させておけば、よりたやすく河合雅男を奪還できたわけだからな」
「時期的には山田秀人が、河合雅男に幸太郎君一家を襲撃させた後……河合雅男の逮捕後に、警官の抱き込みに動いているわけですね。棚主さん、そもそも今回の事件、何故山田秀人が幸太郎君を殺害しようとしたとお考えですか?」
森元の問いに、棚主が幸太郎を見る。
マスターに頭を抱かれながらうつむいている彼に眉を寄せると、深く息をついて髪をなで上げる。
「想像はつく。が、いかんせん証拠がない」
「探偵が推理を口にするのに、証拠がいるんですか? 外れていても、言葉にすれば真実が見えてくるかもしれませんよ」
「……じゃあ、今までの流れを一度まとめよう。あんた達の情報と、こっちの情報を統合する」
棚主は机の下に手を伸ばすと、ガタガタと音を立てて備え付けの引き出しから、鉛筆と黄色い西洋紙を取り出した。
西洋紙の上で鉛筆を動かし始める棚主に、自然と室内の面々が机の周囲に集まって来る。
「まず、築地警察署を掌握していた山田栄八が、先代の死亡を受けて山田家の当主となることが決まった。彼は警察官の職を辞し、山田家本家へ帰ろうとしたが、その前に諸々(もろもろ)の因縁に決着をつけようと、俺や森元の殺害を試みた」
「私は山田栄八を長年内偵していましたし、棚主さんは彼の息子の山田栄治と一悶着起こしていた。だから狙われたわけですが……」
「生き残ったのは我々だった。山田栄八と栄治は、逆にこの時命を落とした」
棚主が西洋紙に『山田栄八・栄治死亡』と記し、丸で囲む。
「すると、当然山田家の当主の継承権は宙に浮く。この二人が死に、山田家本家には家を継げる男児がいなくなり……山田秀人をはじめとする、分家の実力者達に継承権が回ってくる」
丸から線を引き、『山田秀人他、分家連中ヘ継承権』と記し、また丸で囲む。
ここで棚主は一度周囲の面々を見やり、二つの丸から少し離れた場所に『山田秀人(河合雅男)、幸太郎一家ヲ襲撃』と書いた。
棚主は鉛筆で西洋紙をトントンと叩くと、森元の顔を見上げる。
「幸太郎の両親は、ともに天涯孤独。息子の幸太郎を連れて、各地を転々としていた流れ者だったそうだ」
「ええ、この横山から聞いています。しかし、ただの流れ者を山田秀人は殺さない」
「幸太郎の母親が言っていたそうだ。『帝都に幸太郎を連れて行けば、今の暮らしから抜け出せる』と」
西洋紙に『幸太郎ノ母、帝都ニ臨ム』と書く。
「理由を彼女は誰にも語らなかった。だが、彼女は帝都に来てから頻繁に誰かと会い、密談をしている。その誰かは、幸太郎達が襲われたカッフェに来るはずだった」
先ほどの記述の横に『謎ノ人物、幸太郎ノ母ニ接触。後、行方不明』と記す。
ここで、今まで黙っていたマスターがぼそっと「相続争い……」とつぶやいた。
室内の誰もが、おそらくすでに考えていたことだった。棚主が月光の中、幸太郎に声を向ける。
「幸太郎、君達一家の名字は『刈田』だったな。山田という名字のことを、一度でも親御さんから聞いたことはないか?」
「いえ……でも、刈田の名字はお父さんの実家のものだと聞いてます。お母さんの方は……確か、『草野』だと……」
「刈田に草野、どっちも山田家とは関係ないぞ」
津波の言葉に、横山刑事が太い指を噛みながらうなる。
「だが、この符合は見過ごせんぞ。山田家の当主の座が空席になった直後に、幸太郎君達は帝都に来ているんだ。子供一人をどこかに連れて行くことで、親の暮らしが一変するような状況など限られている。
山田栄八の死は、新聞で広く報じられたはずだ……もし、もし幸太郎君が山田家の財産の継承権を持つような立場の人間ならば。幸太郎君のお母さんは、幸太郎君を山田家の当主にしようとしていたのでは?」
「仮にそうだとすると、幸太郎君は本家筋の人間でなければならない。山田秀人は分家筋で最大の実力者の一人なんだ。子供が継承権を争うなら、血筋の正統性以外に太刀打ちできるものがない」
「森元、本家筋には本当に男児の生き残りがいないのか? 現に山田秀人は幸太郎君を狙っているんだ。現時点で他の動機は考えにくい」
横山刑事の言葉と他の全員の視線を一身に受け、森元は腕を組む。
かつて山田栄八の腹心として働いていた男は、唇を軽く噛み、少し考えてから口を開いた。
「家系図上には存在しない。が……一つだけ、心当たりが」
「何だ?」
「山田栄八には、実は栄治以前に実子がいた。ただし、息子ではなく、娘だったが」
森元の眼鏡が、月光を妙な角度で反射し、光を宿した。
「棚主さん、鴨山組のことは当然覚えておいででしょう。かつてこのあたりをシマにしていたヤクザですが、山田栄八と深く繋がっていた」
「ああ、連中も今は生きちゃあいないがな」
「鴨山組が山田栄八に取り入ることができたのは、山田栄八の若い頃の過ちを処理してやったからなのです。山田家に奉公に来ていた娘に手を出し、妊娠させてしまった醜聞を、鴨山組が内々にもみ消す手伝いをした……具体的には組員総出で娘とその一家を恫喝し、口を閉ざさせ、金を握らせて帝都から追放した」
眉を寄せる棚主の顔を覗き込むように、森元が机の上で手を組み、身を乗り出す。
「その娘と山田栄八との間にできた子は、生きて関西の田舎に行ったのだと、そう聞いています。山田栄八の血がこの世に残っているとすれば、彼女の血筋以外にありえません」
「山田栄八との関係を口外できなかったから、当然名乗った名字も違ったはずだな。山田栄八が若い頃の話となると、もう何十年も前か……追放された娘が栄八の子を育て……場合によっては、その子がさらに産んだ子供が、幸太郎だという可能性もあるな」
「残念ながら、山田栄八が手をつけた娘の名前は分かりません。内々に処理されたことですから……しかし、その名字が『草野』だった可能性は、大いにあると思いますよ」
流石にショックを受けている幸太郎を部屋の隅の長椅子に座らせて、マスターが「でも」と森元を振り返った。
「それらの推測が当たりだとしても……何十年も前の話でしょう? ずっと帝都の外で続いていた山田栄八の血筋を、どうやって証明するんですか? 幸太郎君が山田栄八の子孫だなんて、分家の連中に納得させる手段なんかないでしょうに」
「そこのところは、幸太郎の母親が会っていた『謎の人物』に訊けばいいんじゃないか。多分こいつが鍵を握ってると思うぜ」
津波が西洋紙の『謎ノ人物』の文字を、指でとんとんと叩いて答える。
次いで時計屋が、ぐりっと首をフクロウのように傾け、言った。
「山田秀人も、幸太郎が本当に山田家の当主になれる可能性を見出したから、わざわざ河合を差し向けてまで殺そうとしたんだろう。……もっとも……今までの話には、何一つ確証がない。我々が想像に想像を重ねて、見当違いの真実を導き出した危険性も、自覚すべきだろう」
「だから最初に『証拠がない』って言ったろ。これだから推理は好きじゃないんだ」
棚主が鉛筆を放り出し、頭の後ろで手を組んだ。
一同はしばらく西洋紙のメモを眺めて考え込んでいたが、やがて森元が眼鏡を外し、目をこすりながら言った。
「とにかく私と横山刑事は、この線で今回の事件の真相を追ってみます。城戸警視を探る過程で、山田秀人に行き着く可能性は高いでしょう。……それと、急ぎ大西巡査の周囲を固めます」
「大西巡査? あの『文鳥さん』ですか?」
首を傾げるマスターに、棚主が席を立ち、窓際に行きながらうなずく。
「そもそも幸太郎を俺達に預けたのが大西巡査だからな。本来は、彼の家で幸太郎を預かっていることになってるはずなんだ……横山刑事は、何故ここに幸太郎がいると?」
「おいおい、河合雅男の事件は俺が担当だったんだ。大西巡査が独断で幸太郎君の居場所を代えて黙っていたら、いくら俺でも怒るさ。大西巡査が事前に俺に相談してから、幸太郎君をここに移したんだよ」
「……そのことを、他の人間には?」
「森元にしか教えてない。上はそもそも事件の被害者の保護を現場に丸投げするような態度だったからな。ただ、山田秀人がからんで来たとなると、今後訊かれる可能性は高い」
「あんた、森元なんかと一緒にいるってことは、警察官としてここにいるわけじゃないんだろう」
棚主の台詞に、横山刑事はむっとした顔で腕を組んだ。
窓枠に片手をかけながら、棚主は彼を、いくぶん好ましい人を見る目で振り返る。
「腐った同僚に嫌気が差して、個人の正義感で動こうとしてる。そう考えていいんだろう?」
「……幸太郎君を売るようなまねはしない。上司に訊かれても、彼は大西巡査の家にいると答えるとも」
「それでいい。で、大西巡査は森元が守ると……どうやって?」
視線を回されて、森元は眼鏡を外したまま、にやりと笑う。
「山田栄八と戦うために見つけた、志のある警官達はまだ築地署にいるんですよ。自分の身分を投げうってでも、悪と戦おうとした男達です。彼らと協力して大西巡査を護衛する。また、彼の周りで妙な動きがあれば、そこから敵を逆追跡します」
「頼もしいな。で……俺達はどうすればいい?」
「このまま幸太郎君を保護していただきたい。警察は、もう誰が山田秀人側に寝返ったか判断がつきません。この時点で隠れ場所を変更するのはかえって危険です。棚主さん達は私のどの仲間達よりも『部外者寄り』ですし……彼らも、信頼できるのでしょう?」
葛びるの住人達を見る森元に、棚主がゆるりと目を細める。
「俺は信頼してる。みんな幸太郎を大事に思ってる」
「私は棚主さんを信頼しています。ならば問題はない。……先ほどの推理が正しいならば、今回の事件は山田秀人の逮捕まで行かずとも、時間と共にある程度の解決が見込めると思います。山田家の当主を幸太郎君以外の人間が継承してしまえば、山田秀人が幸太郎君を狙う動機が薄まる」
幸太郎はその後、機を見て逃がせばいい。
棚主は、森元がその性分から山田秀人を逮捕するまで退かないことを知っていながら、幸太郎を気づかう彼の台詞に黙ってうなずいた。
「奪還された河合雅男の口から、山田秀人に棚主さん達のことが伝わるおそれもないでしょう。河合雅男はすでに口も利けなければ、目も潰されていましたから。幸太郎君も、事件当時に面相が割れていない以上大丈夫でしょうが……外出は控えた方が良いかもしれません」
「森元、今回のあんたの目的は何だ?」
眼鏡をかけ、立ち上がる森元に、棚主は「いや」と肩をすくめてみせる。
「訊くだけ野暮、だな」
「……今更ですが、申し訳ないと思っています。幸太郎君を保護し続けることは、こちらのみなさんを少なからず危険にさらすことに……」
「本当に今更だなあ、あんた。いいんだよ、巻き込まれるのは慣れてるんだから」
津波が棚主を指さし「こいつにな」と、歯を剥いて笑った。
森元と横山刑事はその後、棚主達にびるぢんぐの前まで見送られてフォードに乗り込んだ。
最後に葛びるの面々と、木蘭亭の女達に深々と頭を下げると、森元は自分を見つめている幸太郎に顔を向けて「大丈夫ですよ」と、笑みを浮かべずに言った。
やがて走り出したフォードが見えなくなると、大人達は幸太郎の周りを固めるようにびるぢんぐの中に戻って行く。
ただ棚主と時計屋だけがしばらくフォードの去って行った方を見つめて、たたずんでいた。
棚主が懐を探り、煙草を取り出して時計屋に差し出す。
だが時計屋は軽く手を振り、「吸わないんだ」と辞退した。
片眉を上げて煙草をくわえる棚主。その眼前に、時計屋がマッチをこすって、火を差し出した。
「……吸わないのにマッチを持ってるのか?」
「ああ、爆裂弾に火をつけるのに使う」
内緒話をするように言った時計屋の言葉を、棚主は冗談と受け止めて軽く笑った。
夜風が吹き始めた中、手をかざして煙草に火をつけながら、時計屋は無表情に言う。
「あの男は、非力な正義漢の象徴だな。森元と言ったか……正しく振る舞えば振る舞うほど、傷つき、薄汚れていく」
「だが高潔だ。ああいう男が、ある意味で帝都を支えている」
「殺したいな、山田秀人を」
物騒な台詞を吐く時計屋に、棚主は口中に吸い込んだ煙を吐くのも忘れて、その顔を見た。
夜風に海草のような髪を揺らしながら、時計屋は火のついたマッチを目の前にかざす。
踊る炎を睨みつけながら、もう一度同じ台詞を吐いた。
棚主は鼻から紫煙を立ち上らせながら、少し間を開けて、同じように煙草の火を目の前にかざす。
「――幸太郎の両親が死んだカッフェを、少し調べてみる。彼らが会うはずだった人物の手がかりが見つかるかもしれない」
「そうか、では行こう」
ついて来る気らしい時計屋に苦笑すると、棚主は煙草をくわえ、葛びるの玄関扉を開けた。
「夜が明けてからだ」と答えて屋内に消えるその背中を、時計屋は風に吹き消されたマッチをつまんだまま、カラスのような目で見つめていた。




