四
「党員募集! 帝国救民党! 同志募る! 帝国救民党!」
路地で声を上げ、号外のように自分達の団体名と活動指針が書かれた紙を配る二人の男達。
インバネスコートと角帽、黒い呼吸器で顔を隠した彼らを、遠くにいる者はうさん臭そうに眺め、近くに寄って来る者は親しげな目で見る。
どんな団体にも支持層はいるもので、夜中に提灯片手に宣伝活動をする彼らを、この路地の住人は特に迷惑とも思っていないらしかった。
「いよっ! 大正の義賊!」
「こないだの小松屋のどら息子を裸にひんむいたのは良かったぜ! また何か胸のすく報せを聞かせてくれよ!」
人々の声援に手を上げて応えながら、男達は人通りがなくなるまで宣伝を続けた。
帝国救民党は富裕層を敵視するため、主に富裕層に使われる労働者や、所得の低い人々からの支持を得ている。
ただし富裕層と見れば問答無用で非難し、世直しと称して私刑を加えようとするため、危険な過激派組織とみなす人々も多い。
一部の熱烈な支持者の集まる閉ざされた路地でこそ宣伝活動ができるが、大通りで声を上げれば警官が飛んで来て、逮捕される恐れがある。そんな団体だった。
「今日の手ごたえはまずまずだな」
「党首が電車から一円券をまいたのが効いてるんだ。金持ちから悪銭を取り上げて民間に還元する、象徴のような行為だったからな。良い宣伝になった」
「だが銀座の辺りにはとうぶん行けないぞ。あの騒ぎでしばらく電車が止まったらしい……新聞社の同志も、記事を操作できなかったようだ」
「下っ端記者の権限じゃどうにもならんだろう。だがまあ、気にすることはない。紙面は先日の馬車業者襲撃事件と、放火魔の事件で持ちきりだ。こっちは人が死んだわけでもないからな、ほとぼりが冷めるのも早いさ」
男達はそう言葉を交わしながら、人気のなくなった路地を後にしようとした。
上空では風が吹き荒れ、厚い雲が異常な速さで動いている。
ふと、月を黒雲が飲み込み、帝都に真の闇が降りてきた。
ただでさえ建物の屋根に空を切り取られている路地の風景は、溶けるように暗闇に埋没する。提灯の明かりが届く範囲しか見えなくなった男達は、舌打ちをしながら路地の出口へと、慎重に踏み出した。
提灯を揺らし、数歩進んだ時だった。闇の中から突然、亡霊のような青白い顔が浮き上がってきた。
ぎょっとして立ち止まる男達に、闇の中の顔はにこりともせず、骨ばった手を差し出してくる。
くいくいと催促するような手の動きに、帝国救民党の男達はほっと息をつく。
「脅かすな……入党希望者か? 良い心がけだ」
「共に世の不条理を正そう!」
募集要項を差し出すと、亡霊は無言で手を伸ばし……相手の手首を、がっちりとつかんだ。
「ん?」と怪訝そうな声を最後に、募集要項を差し出した男は闇の中に引きずり込まれる。
取り落とされた提灯が地面で燃え上がり、闇の中で鈍い音と、蛙の潰れるような声が上がった。
明かりの中に残された二人目の党員は驚がくし、「どうした!?」と自分の提灯で仲間の消えた方を照らし出す。
地面に倒れた仲間の、鼻が異様な形に捻じ曲がり、折れた骨が皮膚を突き破っている顔が見えた瞬間。後頭部に凄まじい衝撃が走り、飛び散った血液が眼前にまではねて来た。
「……なっ……」
何者だ。そう言おうとした党員は、しかし言葉をつむぐ前に白目を剥き、意識を手放してしまった。
二つ目の提灯が地面に落ち、燃え上がる火が、その場にたった一人で立つ亡霊……時計屋の姿を、再び照らし出した。
大きなモンキーレンチを握った時計屋は、普段と変わらぬ暗い表情で、わずかに息を乱して獲物達を見下ろしている。
素早くレンチを懐に収めると、彼は獲物の一人からインバネスコートを脱がして羽織り、角帽と呼吸器も拝借して身につけた。
次いで太い針金と麻布を取り出すと、手際よく針金で二人の手足を拘束し、口を麻布を巻きつけてふさいでしまう。
顔を隠した時計屋は一度周囲を確認して、大急ぎで獲物を一人ずつ路地から運び出した。
路地の外には、近くの酒屋から拝借した荷車が麻布をかけた状態で停まっている。
二人の獲物は荷車に寝かされるとまたもや体を針金で車体に固定され、麻布で全身を包まれた。
時計屋は作業を終えると荷車を引き、夜の闇を力の限り走って行く。
こうして連れ去られた男達は、そのまま二度と生還することはなかった。
夜の東京に存在する人気のない場所や廃墟、密室に精通する時計屋に、一時間とかからず必要な全ての情報を吐かされ、殺害されたのだ。
彼らの死体がとある閉鎖された煉瓦工場の、窯の中から発見されるのには、この夜から実に、二ヶ月の時間が必要だった。
――時計屋の襲撃から、数時間後。
先ほどとは別の場所の、ガス灯の明かりもない、通りから外れた古長屋。
虫の音一つ聞こえない静寂の中で、不意にシュッシュッ、と何かがこすれる音が上がった。
何度も何度も繰り返されるその音が、やがてポキリと細い棒が折れるような音に変わると、暗闇の中で誰かが怒声を上げて長屋の板戸を蹴りつける。
数秒の沈黙。
墨で塗りつぶされたような夜の長屋に、今度はガリッ、という音が響き、淡い光の線が走る。
板戸の隙間から漏れる光は、安物のランプの明かりだ。
ランプの点いた部屋の中では、インバネスコートを着た男が魔法マッチを手に、点火したばかりの照明器具を見上げている。
彼はやがて魔法マッチの火を消すと、室内に座り込む別の男に目をやった。
折れたマッチ棒を足元に転がした男は、昼間と同じ藍色の着物を着ている。室内には彼ら二人の他には誰もおらず、天井から吊るされたランプの灯は、ろくな家具もない寒々しい部屋を無情に照らし出していた。
「……明日から、どうすりゃいいんだ……」
着物の男がつぶやき、折れた指を光にかざして低く笑う。
「せっかくあんたらからスリの技を教えてもらったのに、一週間でこのザマだ。なあ、あんたらの頭目はとんでもねえことをしてくれたぜ。今日電車からばらまいた一円券があれば、俺もお袋も少なくとも金の心配からは解放されてたんだ」
「……悪いのか。病状は」
黒い呼吸器の奥から放たれたのは、電車内で幸太郎の足を払い、転ばせた男の声だ。
着物の男は頭をかき、壁を見つめる。
「隣の部屋に寝かせてる。というより……部屋から出ることもできない。前にかかっていた医者は、もう治らないと言ってた。折れた肋骨をほうっておいたから、内臓がやられたんだって……」
「馬車相手にゆすりなんぞするからだ! わざとはねられて治療費をふんだくるなど正気の沙汰じゃない!」
「なんだと! お袋はそのやり方の達人なんだ! いつも上手く怪我せずに稼いでたのに、間抜けな御者が驚いて、本当にお袋を轢いちまって……」
インバネスコートの男は「ハッ!」とあざけるように息を吐き、壁に背を預けて腕を組んだ。
ランプの明かりに、どこからか蛾が引き寄せられて来て、パタパタと頭上を舞い始める。
「その御者の足を叩き折り、二度と立てない体にして仇討ちを手伝ってやったのはどこの誰だった? 帝国救民党の持ち物であるこの長屋に、親子で住むことができるのは誰の恩だ? 我らが党首に対する意見は許さんぞ!」
「……だってよ……」
ふてくされる着物の男に、インバネスコートの男は深く息をついて「まあ、そう悲観するな」と、懐に手を入れる。
取り出したのは一枚の写真で、着物の男に差し出されるそれには、髪をきっちりと切りそろえた眼鏡の男が写っている。
怪訝そうに見上げてくる着物の男に、インバネスコートの男はかぶった角帽をつまみ、声をひそめて説明する。
「党首の親父殿がこの東京で警視をなさっていることは知っているな? 本来官憲とは民衆を虐げる権力の象徴のような連中だが、親父殿は最近になって、我々の思想活動に理解を示し始めておられる」
「城戸警視が? まさか」
「無論表立って支持はしてくれないが、党首に対して以前のように活動をひかえろとは言わなくなったそうだ。それどころか個人的に我々に『仕事』を斡旋したいとおっしゃっておられる」
「仕事……」
写真を受け取ると、生真面目そうな眼鏡の男の顔をまじまじと見て、裏返す。
裏面には男の名前と、現在の住所が書き込まれていた。森元励……『元』警部補。
「ひょっとして、この男を痛めつけろっていう……?」
「いや、殺すんだ」
ぎょっとして写真を取り落とす着物の男に、インバネスコートの男はくつくつと喉を鳴らして笑う。
「なんでもこの男は、警察内部の腐敗の中心にいた男だそうでな。現役時代にさんざん汚職に手を染めておきながら、城戸警視殿に断罪されて追放されるや、逆恨みで脅迫の限りを尽くしてくるらしい。事実無根の言いがかりを新聞社に吹き込み、城戸警視殿を追い落とそうとしているとか……」
「そ、それで俺達に始末しろって言うのか? 冗談じゃない! 警察官に手を出したらいくらなんでもタダで済むはずが……!」
「『元』警察官だ。今はただの一般人に過ぎん。しかも、作戦の実行に当たっては城戸警視殿の全面的な支援が受けられる。警察官の配置を操作して、人払いをした所に標的を誘い出して殺害、死体を処分する……簡単な仕事だ」
必ず成功する、と言いそえて、インバネスコートの男は懐から煙草を取り出し、着物の男に差し出した。
唾を飲み込む相手に、インバネスコートの男はいやに優しく、諭すような声を出す。
「相手は悪党だ、気にすることはない。お前は我々正規の党員が森元を処理している間、他の仲間と共に周囲の見張りをしてくれればいいんだ。誰かが近づいてきたら、それとなく追い払う。直接殺しに関わるわけじゃない」
「し、しかし……」
「帝国救民党は弱者の味方だ。お前達親子が生きるために法を犯さざるを得なかったのも、全ては貧しさが悪い、社会が悪い、そう理解している唯一の組織だ。我々はお前を見捨てない……だからこそお前も、我々に協力する義務がある。分かるだろう? 木田君」
人としての道理の問題だ。そう言って笑う相手の指から、木田と呼ばれた男は煙草を受け取り、しばらく間を空けてからうなずいた。
腰を上げ、ランプの隙間から煙草を差し込む。火をつけ、数回勢い良くふかす。
そのまま板戸を開けて、物音一つしない夜闇を眺めながら、木田は低く、決意を秘めた声で訊いた。
「当然、報酬は出るんだろうな」
「ああ、城戸警視殿は誠意ある額を提示してくれた……お前は母親の薬を買えるし、前より良い医者に診せることができるだろう。それに党首はお前がこの作戦に参加するなら、制服を貸与して正規党員にしてもいいとおっしゃっている」
制服って、そのインバネスコートや角帽か?
木田は小声で嘲笑しながらも、まんざらでもない表情をする。
工場を解雇され、スリの仕事も失敗した今、彼にできる仕事はそれこそ母親のような当たり屋か、物乞いぐらいしかない。
帝国救民党の一員になれば、凶悪な犯罪に手を染めることにはなるだろうが、それにより破格の報酬を得られるようだ。
そして少なくとも徒党を組むことで、彼が一人で犯罪を犯す場合よりも、彼自身が逮捕されるリスクは軽減される。
帝国救民党のある種独特の制服は、裏を返せば個人個人の特徴を埋没させる隠れ蓑とも言える。インバネスコートと角帽自体はけっして不自然な衣装ではないし、数人で固まってさえいなければ見咎める者も少ないだろう。最悪警官に追われたなら、全て脱ぎ捨てて通行人にまぎれてしまえばいいのだ。
電車内で顔をさらしてスリをするより、安全な稼ぎ方かもしれない。
木田は闇の中に火のついた煙草を投げ捨てながら、これから同志となる男を振り返った。
「……悪党を殺す……いや、断罪する仕事……だな?」
「全ては、帝国の未来のため」
「俺達は正義の使徒だ」
にやりと笑う木田に、インバネスコートの男は笑みを返さなかった。
その視線は、木田の背後の闇を見ている。
たった今投げ捨てられた煙草の火が、消滅していた。赤い点がぽつりと地面に落ちていたのに、瞬時にかき消えたのだ。
まるで、闇から伸びてきた黒い『何か』に、飲まれたかのように。
闇を見つめる相手の視線に気づいて、木田は再び背後を振り返る。
音もなく木田の前に躍り出た黒衣から、太いレンチが振り下ろされた。
とがった金属の先端が木田の頭を叩き割り、さらに黒衣から、皮手袋をした手に握られたドライバー(ねじ回し)が突き出される。
異様に研ぎすまされた先端が木田の喉を何度も突き破り、血を噴く木田の体を、最後に靴底が蹴り倒す。
突然の猛襲に驚がくして立ちすくむインバネスコートの男の前で、痙攣する木田の体を踏み越え、時計屋が室内に侵入した。
たっぷりと靴墨の塗られた革靴から、踏みつけた煙草がぽろりとこぼれる。
時計屋が身にまとう黒衣は洋風の外套で、内側から覗くズボンもベルトも、全て同じ闇色に統一されていた。
首から上はやはり黒色の布で覆われており、頭には広いつばつきの帽子を載せている。
そして顔面には、白い、異様な……嘴のついた、鳥の仮面をかぶっていた。
「ペスト医師……!?」
インバネスコートの男が引きつった声で口走り、後ずさった。
かつて中世ヨーロッパで、黒死病とも呼ばれたペストを専門に扱った医師達がいた。
彼らはペストの蔓延する町に雇われ、貧富のわけ隔てなく患者を治療して回る。ペスト菌の感染を防ぐために極力肌の露出を抑え、鳥の仮面をかぶり、嘴に薬草を詰めて病魔を退けたと言われていた。
そんなペスト医師の格好をした時計屋は、息絶える木田に目もくれず、インバネスコートの男に血まみれのドライバーを突きつける。
逆の手でレンチを振りかざしながら、暗く、静かな、殺意に満ちた声を放った。
「貴様らの思想は、帝都の害だ……病原菌のように……世を蝕む」
「しゃらくさいッ!」
懐から棒切れを取り出し、インバネスコートの男が時計屋に突進した。
インバネスコートは、別名とんびコートとも呼ばれる。袖の部分につけられたケープが、腕を上げるととんびの羽のように広がるからだ。
しかしひるがえるケープの羽の前で、時計屋の黒衣はそれ以上に大きく、ばさりと音を立てて相手の眼前を埋め尽くした。
レンチを握る手が、全身のばねを使って凄まじい勢いで振るわれる。
とんびを、より大型の怪鳥が捕食するように。時計屋の開かれた嘴のような形のレンチは、相手の武器を握る手首を叩き折った。
重力に従って降りてくる黒衣のすそが二人を包むと、時計屋はそのまま相手の体を壁に押しつけ、レンチで第二撃を食らわせた。
左の鎖骨を砕かれ、声も出せずに身を折る獲物を、さらに何度も何度も打ちすえ、床に倒す。
時計屋が床を這い暴行を受けた昼間の光景とは、完全に立場が逆転していた。
帝国救民党は、時計屋という男の本性を見誤った。
彼は決して寛大でもなければ、慈悲深くもない。
苛烈で、執念深く、恨みを忘れるということができない人間だった。
「『正義の使徒』? 貴様らが? 貴様らのようなクズが? 帝都の守護者を名乗るのか?」
肩を、腕を、背中を、足を、憑かれたように殴打する。
何度も骨の砕ける鈍い音が上がり、インバネスコートの男は床を転がりながら、とうとう痛みに負けて絶叫した。
だがその叫びに応える者はいない。降って来るのはただただ容赦のない暴力の雨だ。
助けを期待できない男はくるぶしを砕かれながら「殺せ!」と叫ぶ。
時計屋の動きが一瞬止まった。しかし次の瞬間には、男の顔面に容赦なくレンチが振り下ろされる。
血を噴いて、ようやく男は意識を手放した。動かなくなった獲物の上から立ち上がり、時計屋は荒く呼吸を繰り返す。
白い仮面には血の飛沫が付着し、嘴の溝に向かって垂れている。
時計屋はその奥で、誰にも知られることのない、歯を剥いた満面の笑みを浮かべていた。
「不遜なドブネズミども……病原菌をばらまく、害獣ども…………この、私が……『時計屋』が、殺し尽くしてやる……」
ぐつぐつと、時計屋は声を上げて笑った。




