三
事態を把握するのに、そう時間はかからなかった。
座席に座った幸太郎達に棒切れを突きつける男は三人。
いずれもインバネスコートを着て、大学生のかぶる角帽と、黒い呼吸器(風邪用マスクの原型)で顔を隠している。
そんな男達の後方には、藍色の着物を着て右手のくすり指に包帯を巻いた人物が立っている。行きの電車内で時計屋の財布を盗もうとして、撃退されたスリだ。
青ざめる幸太郎の横で、時計屋が棒切れを持つ男達をじっと睨め上げる。
不穏な空気に車内の乗客達の声もいつしかなくなり、みながこちらを見ている。棒切れを持つ男達の、中央に立つリーダー格らしい男が、時計屋を睥睨しながら言った。
「そこの彼に暴力を振るったそうだな、悪漢。見つかってよかった……さっきの駅で、ずっと犯人を捜していたんだ」
「……」
「我々は彼の友人だ。何故指を折った?」
ぐいっとあごを持ち上げる棒切れを、時計屋は無言で払う。男達は顔を見合わせ、三つの棒切れ全てが時計屋に突きつけられた。
「答えろ。痛い目にあいたいのか?」
「おい君達! 公共の場で何を……」
わきから声を上げた洋装の乗客を、すぐさま男達のリーダー格が「やかましいッ!」と恫喝した。
しんと静まる車内。一呼吸置いてから、時計屋はゴミを見るような目で男達に答えた。
「財布をすられたので、指を取って捕まえた。そしたら勝手に転んで、折れたんだ」
幸太郎はつい顔を向けて時計屋を見た。実際は時計屋が足を払ったせいで指が折れたのだが、衆目の前でわざわざ相手に都合の良いことを言ってやる気もないらしい。
ざわめく乗客達の中、指を折られた男が「違う!」と仲間に抗議した。「この野郎、よくも大嘘を!」と詰め寄って行こうとする男を、リーダー格が手のひらを向けて制した。
「『折った』か『折れた』かはどうでもいい。とにかく彼は負傷した。謝罪してもらおうか」
「スリに頭を下げろと?」
「君は勘違いしているな」
リーダー格は手にした棒切れで自分の肩を叩きながら、フフンと鼻を鳴らした。
「彼はスリではない。『抑圧されし者』だ。彼には病気の母親がいてね、金が必要だったんだ」
「知ったことか」
「まるでケダモノだな。慈悲はないのか? 彼は先週、勤めていた工場をクビになった。工場主が貧しさに理解のない拝金主義者で、一方的に解雇したんだ。これは今の世の中の縮図だよ」
「……お前達は何の『主義者』だ?」
時計屋がその言葉を口にした瞬間、リーダー格の右側にいた背の高い男が、時計屋の胸倉をつかんで座席から立たせた。
この時期、自身を『主義者』という言葉で呼ばれることを嫌う者は少なくなかった。
いわゆる無政府主義者や社会主義者を当局が弾圧しようとしていた時期であり、個人として何らかの政治的な主義を掲げる者であるとみなされるのは、決して良いことではなかったからだ。
時計屋の顔を覗き込み「人民の敵め!」と怒鳴る男に、幸太郎が「やめてください!」とすがりつく。
だがわきから伸びてきた別の男の靴に足を払われ、幸太郎は飛び込むように床に顔を打ちつけた。
周囲の乗客から悲鳴が上がり、そばにいた女学生が幸太郎を抱き起こしてくれる。
幸太郎の足を払った男は乗客からの非難がましい視線に悪びれもせず、「揺れる電車だなあ」と棒切れで床をガンガンと叩いた。
次いで座席から立ち上がろうとした人々を「座ってろ!」と棒切れを振り回しておさえ込むと、男は床から分厚い封筒を拾い上げ、リーダー格に差し出した。
はっと幸太郎が懐を探ると、熊笹からもらった封筒がない。転ばされた時に、飛び出したのだ。
リーダー格は封筒の中を見て一瞬目を見開いた後、未だ胸倉をつかまれている時計屋に軽蔑の目を向けた。
「やはりな。貧しい者に慈悲を示さない人間は、搾取する側の人間というわけだ」
「金持ちは全員悪党か?」
暗い視線を向ける時計屋。リーダー格は鬼の首でも取ったかのように封筒の中身をつかみ出すと、乗客全員に掲げて見せた。
一円券の束に、多くの乗客が息を呑む。リーダー格は完全に勝ち誇って、演説をするように声を張り上げた。
「民権の時代大正を迎え、大日本帝国は急速な発展を遂げた! 街にはびるぢんぐが立ち並び、近代移動機械が走り、物があふれている! だがその富はけして平等には配られていない! 一方では母親の薬代も払えず苦悩する青年がおり、一方ではこんな大金を子供に持たせて遊び歩く者がいる! 両者の服装を見るがいい! 貧相な着物と贅沢な洋服! これが同じ国に生きる人間の姿か!?」
幸太郎の頭に、かっと血がのぼった。
時計屋のスリに対する対応は確かに乱暴だったが、向こうも指を取られた時点で観念せず、拳を振るってきたのだ。時計屋だけが非難される筋合いはない。
何より熊笹がくれた金や時計屋の洋服を、まるで不当なもののように言う男達が許せなかった。
封筒に詰まった一円券は、熊笹から時計屋への、額以上の気持ちがこもった贈り物だ。
時計屋の普段とは違う洋服姿も、きっと東京を去る熊笹に対する礼儀に違いないのに。
そんなことを何一つ知らず、顔を隠して偉そうなことを言う権利が、この男達にあるというのか!
反論しようと身を乗り出す幸太郎を、しかし先ほど助け起こしてくれた女学生が抱え込んだ。「駄目よ!」と首を振る彼女の向こうで、一円券を掲げるリーダー格がますます勢いづいて演説を続ける。
「旧幕府が打倒され、民衆は長きに渡る身分支配から解放された! 帝国はようやく自由の国になりつつある! だがその希望の前途を、今度は物質的な貧富の差で閉ざそうとする者達がいる! 利にさとい成金どもは富を得るための手段を独占し、他の者が後に続くことを許さない! 金持ちだけで結託し! 民の生き血をすすっているのだ! 自分達が大正時代の新たな支配者になるつもりなのだ! こんなことは許されてはならない! しかるに――」
時計屋を指さし、リーダー格はあごを天井に向けてしめくくった。
「持たざる者に慈悲を与えず、自分の権利だけを死守するこの男は民衆の敵だ! これからの時代、そのような守銭奴は淘汰されていくだろう! 我々は帝国の全ての民に平等に富が行き渡るよう、薄汚い富裕層の追放とその財産の再分配を提案する者である! 即ち国民国家! 万民が飢えず苦しまず、支配されない社会の実現を目指す集団であるッ!!」
「……金を返してくれ」
長々とした演説を、まるで聞いていなかったかのような時計屋の言葉に、リーダー格が顔色を変えて目を剥いた。
胸倉を吊り上げられたまま、時計屋の手が催促するように伸ばされる。
「知ってるか……? 人の金を盗ると……おまわりさんに捕まる」
緊迫した状況で時計屋が放った言葉に、一瞬車内が静まり返る。
次いで、乗客の中からぽつぽつと押し殺した笑い声が上がり、それが少しずつ、車内に伝播していった。
会心の演説を失笑の中に葬られたリーダー格の顔は、みるみる真っ赤になり、怒りに手足が震え出した。自分を睨み続ける時計屋に「フンッ!」と鼻を鳴らすと、つかつかと窓際に歩いて行く。
「そんなに金が大事か? こんな紙切れにしか価値を見出せないとは情けない男だ……勘違いするな! 我々は盗人でもなければゆすり屋でもない! 貴様のような社会のゴミを修正してやろうと言うのだ! 明治以前の古い価値観しか持たぬ貴様ら拝金主義者と違い、我々の脳髄には既に二十世紀が宿っている!」
どすっと座席を片足で踏むと、リーダー格は封筒と一円券の束を開いた窓の外に差し出す。
あっ、と乗客全員が息を呑んだ瞬間、リーダー格の手から、ばらばらと紙幣が吹き飛び始めた。窓の外を木の葉のように舞う紙幣が、景色の果てに飛んでゆく。
「金は卑しく、志は尊いのだ。思い知れ……!?」
突然、時計屋の胸倉をつかんでいた男が、リーダー格めがけてふっ飛んできた。
時計屋に手首の関節をひねられ、投げ飛ばされた男はリーダー格の腹に突っ込み、そのまま二人一緒に座席に倒れ込む。
吹き飛ばされず車内に残ったたった一枚の一円券が、ひらひらと空中を舞い、伸ばされた時計屋の手につかまれた。
だが次の瞬間、時計屋の頭に背後から棒切れが振り下ろされ、鈍い音を立てた。
インバネスコートを着た三人目の男と、着物姿のスリが、時計屋を叩き、蹴りつけ、床に倒す。
体を丸め、暴行されながらも一円券を死守する時計屋に、乗客達が悲鳴を上げて座席から立ち上がった。
幸太郎は叫んだが、自分を抱きかかえる女学生に口をふさがれ、逃げ出す乗客達と共に隣の車両へ連れて行かれる。
パニックに陥った電車は、しかしちょうど次の駅に近づき、速度を落とし始めていた。
やがてプラット・ホームに入り、車内の異常な様子に構内で電車を待つ人々がざわめくのを見ると、時計屋を殴っていた男達は電車が完全に止まるのを待たずに手動ドアをこじ開けた。
「帝国救民党! 天誅!」
去り際にリーダー格が言い残したのは、自分達のグループ名と、正当性の主張らしかった。
男達と乗客がプラット・ホームに吐き出されるように殺到し、そこかしこで悲鳴が上がる。
そうしてしばらく喧騒が続き、やがて扉をくぐって脱出する者がいなくなった頃。
まるで嵐の後のようになった車両に乗り込んで来る者はなく、電車を待っていた人々も事故の可能性を考えてか、遠巻きに車内をうかがっていた。
頭から血をしたたらせた時計屋は、その時になってようやくむくりと身を起こし。
手の中でしわくちゃになった一円券を、無言で見つめていた。
「――金は、鉄道の駅員が探してくれたが……どうだ? 全額あると思うか?」
「ごめんなさい……これじゃ、全然……」
葛びるのミルクホールで、テーブルを挟んだ津波と幸太郎が声をかわした。
テーブルの上に置かれた一円券は六枚。いずれも汚れていて、端々(はしばし)が破れている。
「今日は風があったからなあ……遠くまで飛んじまったらしいし……駅の近くで捨てられたのも良くなかった。何せ一円券だからな。見つけた奴らは言っちゃ何だが、餌をまかれた鯉みたいになっちまってたそうだぜ」
「ぼくが悪いんです。もっとちゃんと持っていれば……大事なお金だったのに……」
「幸太郎君に預けっぱなしにしたのは時計屋さんですから、気に病むことはありませんよ。そういう大金はね、大人が管理しなくちゃいけないんです」
お茶を運んで来たマスターが、ちらりと天井を見た。時計屋は葛びるに帰って来てから、ずっと二階の自分の店にこもっている。
幸太郎は時計屋にかける言葉も見つからず、帰り道はひたすら無言で彼の背を見つめていた。
「熊笹さん、お金を稼ぐのに凄く苦労したんです。毎日釘拾いをして、ろくにごはんも食べなかったって……なのに、なんでみんな、あの人のお金を……まるで悪いお金みたいに……」
「金は金だ。良いも悪いも、きれいも汚いもねぇよ」
津波がお茶をすすりながら、眉根を寄せて言う。
「俺はな、昔新聞社に勤めていたから分かるんだけどな。その熊笹っておっさんを破産させた労働組合とか、お前らに難癖つけてきた『帝国救民党』みたいな連中は、道理で動いてるわけじゃねえんだ。ご大層な理屈をごちゃごちゃ並べはするが、結局は感情で動いてるんだよ」
「感情……?」
「労働者の権利を守るってのも、富の不当な独占を防ぐってのも、そりゃあ立派な志だし、大事なことだ。貧者救済も人権擁護も、思想としては素晴らしいし多くの国民の支持を得るような『正しい考え』だろうさ。……でもな、幸太郎、よく覚えとけよ。社会のみんなが良いと思うような『正しい考え』は、いずれ必ず、暴走するんだ」
津波が幸太郎に顔を寄せ、湯飲みを揺らしながら断言する。
「ただ金を出せと熊笹を脅迫すれば悪党だが、労働者の権利のためと一言そえれば『脅迫』は『抗議』になる。本当はただ金持ちをねたみ、転落させたいだけでも、労働者の権利擁護という大義名分をぶち上げればそれは正義の思想活動になるんだ。
熊笹が部下のことをどれだけ大事にしていようが、正当な報酬を払っていようが関係ない。労働者が給与の引き上げ……労働環境の改善という権利を要求しているのに、それに応えない熊笹は悪い金持ちだ。そういう図式になる」
「めちゃくちゃですよ! そんなの!」
「もちろん法や警察は取り合わねぇ。だが熊笹の取引先や、民間は違う。労働者の権利が議論され始めている昨今、そういう話題で騒がれること自体が問題なんだ。流行の思想や問題には新聞も飛びつく。あることないこと書きたてられりゃ、嘘も真実になりかねない。
だから、普通の会社は労働組合なんか作らせねえんだ。警察だってそういう結社は規制してる。熊笹は良い人なんだろうが、わきが甘すぎたんだよ」
お茶を飲み干す津波の横で、マスターが腕を組んで「あー」とうなずく。
「まっとうな社会運動が支持を得ると、それにのっかって悪いことをする連中が必ず出てきますもんねえ。いやね、私の父も昔、自由民権運動の士とやらにお金を脅し取られたことがあるんですよ。『この重大な時局に寄付を惜しむ輩は人民の敵!』とかなんとか言われてね。
でもふたを開けてみればそいつ、民権運動とはなんの関係もないゴロツキだったんですって」
「そいつはただの詐欺師だがよ。とにかく広く支持される『正論』ってのは、それを口にするだけで誰でも善玉を装えるし、善玉になった気になれる。手軽に、危険を冒すことなくな」
湯飲みをテーブルに叩きつけるように置き、津波がじっと幸太郎を見る。
未来ある少年に、重要な忠告をするために。年配の小男は両手の指を組み、背筋を伸ばす。
「正論、良識、正義。これらは強い酒みたいなもんだ。百薬の長だからって飲みすぎると毒になり、精神を蝕む。労働者の権利を守るためなら、金持ちを破産させてもいい。社会を変革するためなら、暴力を振るってもいい。自分は正しい考えを持ち、正論を口にしているから、反対意見をねじ伏せてもかまわない。……そう考えるようになっちまうのさ」
「……他人の会社や、お金を盗んだり、大勢で囲んで脅したりするのは……悪いことだと思います」
「それを悪いことだと思えなくしちまうのが、正論であり正義なのさ。正しい考えってのは、何も一つっきりじゃねえ。誰かの唱える正論の反対側に、また別の誰かの正論がある。唯一絶対の正しさなんてものは存在しねえ。
それが分からなくなっちまったヤツらが、正義の皮をかぶった悪党になっちまうんだよ」
お前はそうなるんじゃねえぞ、と締めくくり、津波は説教を終えた。
新聞社出身のきゃめらまんは、今日の出来事に思うところでもあったのか、テーブルを拳でコンコンと叩きながら不機嫌そうに窓の外を眺める。
幸太郎もマスターもなんとなく口を閉ざし、しばらく無言の時間が流れた。
しばらくして、ミルクホールの外から歌が聞こえてきた。
だんだんと近づいて来るそれは、あまりに調子はずれで、歌声というよりわめき声に近い。「いーやしんぼーいやしんぼー」と繰り返す女の声に、幸太郎は首を傾げ、津波とマスターは顔を見合わせた。
玄関扉がバコンッ! と音を立てて蹴り開けられ、三人の女が入って来る。
先頭で狂ったように歌い続けるのは、先日津波に柄杓の水をひっかけた女給の佳代だ。続く二人も同じ旅籠のお近と木蘭で、お近は木蘭に猫のように着物の襟をつかまれている。
「どうしたんだよ、木蘭亭の面子がそろいもそろって……」
目を丸くして訊いた津波に、襟をつかまれたお近が両手の人さし指をこねるように突き合わせながら、上目遣いに微笑を向けた。
気の強い彼女がこんな笑い方をする時は、何かやましいことがある時だ。
果たしてお近は佳代に「いやしんぼー」とはやし立てられながら、懐から一円券を数枚取り出してテーブルに並べた。「あっ」と声を上げる津波達に、お近を捕まえたままの木蘭がため息混じりに口を開く。
「買い出しに行かせたお近が大金拾って来たんで、何事かと思ってさ。警察署に訊いたら、電車から一円券を落とした人がいるって言うじゃないか。届けてやろうと思って落とし主のことを訊いたら、ここの住所を教えてくれたんだよ」
「お前……八枚も……」
テーブルの一円券を数えて呆れ返る津波に、お近は赤面しながら目をそらす。「いやしんぼ」の連呼をやめない佳代の頭を叩きながら、「だって」と口をとがらせた。
「一円って言ったら会社勤めの人の日給とほぼ同じよ? それが頭の上から降ってきたら誰だって拾うでしょ」
「幸太郎、これでどのくらい返ってきた?」
「凄い! 全部合わせたら多分半分ぐらいですよ! 駅員さんが総出で六枚しか見つけられなかったのに一人でこんなにたくさん……」
幸太郎は「ありがとうございます!」とお近に笑顔を向けたが、彼女は耳まで真っ赤にして、ものすごい形相で幸太郎を睨んでいた。
ぎょっとしたように身を引き「ごめんなさい」と口に手をやる幸太郎の横で、マスターが能天気に笑いながらお近の肩をばしばし叩く。
「いやあ、でも拾ってくれたのが彼女でよかったじゃないですか! 実際他の人はネコババしてるわけだし、不幸中の幸いですよ!」
「こっちはとんだ赤っ恥だっての。それより誰よこの子? あんな大金ばらまくなんてしつけがなってないわ」
幸太郎の額をつんと指で突くお近に、津波が「そういうわけじゃねえんだがよ」と頭の後ろで両手を組む。
「金をなくしたのは時計屋で、この子は色々あって俺達で預かってるんだ。ま、細かいことは気にすんな……おいマスター、せっかく届けてくれたんだから茶でも出せよ」
「構わないでおくれ、店空けてきちまったからすぐ帰らなきゃいけないし……それに、本当は十枚あったんだよ、そのお金」
木蘭の台詞に、店内の全員の視線がお近に集まる。
お近は必死に目をそらしながら、ふてくされたように頬をふくらませてぼやいた。
「何で言っちゃうかな……お土産にたい焼き買ってきてあげたのに……」
「使い込んじまったのか? ……二円も?」
「勘弁してよぉ、悪かったわよ。大金拾って気が大きくなっちゃって……パーラーで洋菓子食べて、雑誌買って、お土産のたい焼き買って、帰りに運悪くタクシー見つけちゃって、一マイル六十銭って言われて、前から一度乗ってみたかったから、つい旅籠まで……」
つらつらとそこまで話したところで、お近は突然「ひぃっ」と声を上げて木蘭にしがみついた。見れば二階へ続く階段の陰に、音もなく時計屋が立っている。
時計屋は仕事道具の入ったかばんと、もう一つ大きな黒いかばんを両手に提げている。
出血していた頭には津波が包帯を巻いてやったはずだが、取ってしまったらしい。
つかつかとホールを歩いて来ると、テーブルの上の一円券をちらりと見て、次いでお近を見下ろした。
おびえるお近の頭を木蘭が押さえつけ、「弁償させますので、どうか勘弁してやっておくんなさい」と、敬語で自身も頭を下げる。
時計屋は彼女達には特に何も言わず、首を巡らせて幸太郎を見た。
席を立とうとする幸太郎に先んじて、普段どおりの静かな声がかけられる。
「封筒には、三十円は入っていたな」
「あ……はい……あの……」
「私は受け取る気はなかった。熊笹さんも言っていただろう……私は、自分の働き以上の報酬は受け取らない主義だ。封筒を受け取ったのは、あくまでお前だ。奪われたのも、金を拾って届けられたのも」
がく然とする幸太郎の前で、時計屋はお近をもう一度見下ろし、首を傾けて言葉をつなげた。
「私は自分の分の金は確保した。残りの二十九円のことは知らん……自分の金のことは、自分で決めろ、幸太郎」
「待って下さい! だって、このお金は熊笹さんが時計屋さんのことを思って……」
「金は額縁に入れて飾っておくものではない。結局は使わねば意味のないものだ。お前が使えば、その金は世間を回って誰かの糧になる。そしてその誰かが私の店に来て、時計を物色する。……私にはそれで十分だ」
抑揚のない声でさらりと言ってのけた時計屋に、津波が「かっこつけやがって」といささか鼻について片眉を上げた。
時計屋はそれっきり何も言わず、ミルクホールの玄関扉を開けて出て行ってしまう。困ったような顔で大人達を振り返る幸太郎に、誰よりも先にお近が顔を近づけてすがるように訊く。
「ね、ね、本当悪かったと思ってるのよ、ネコババして。使っちゃったお金は働いて返すから、許してちょうだい。ね?」
「えっと、あの、でも……そもそもぼく、このお金をもらう筋合いがなかったって言うか……時計屋さんはああおっしゃったけど、ぼく荷物持ちしかしてないし……それでこんな大金……」
おろおろする幸太郎に、不意にマスターが横から「それじゃあ私が頂いときますね」と紙幣に手を伸ばした。
すかさず木蘭と津波が「何でお前が」と口をそろえてとがめたが、マスターはあっけらかんと、太い指で一円券を弾きながら言う。
「時計屋さんも幸太郎君も受け取らないのなら、私がこのお金で食材を買って、二人に毎日料理にしてお出ししようって言うんですよ。だいたい幸太郎君が働きたいなんて言い出したのだって、ただ私達のやっかいになってるのが気まずかったからでしょ? これだけのお金があれば、食費に部屋代にと、幸太郎君がいる間の必要費用を十分まかなっておつりがきますよ」
マスターの台詞に、津波が「おっ」と得心して腕を組む。
大西巡査から幸太郎を託されたのは、言ってみれば葛びるの住人全員なのだから、その幸太郎の生活費に金が使われるのならば、熊笹の金は結果的に時計屋のために使われていると言えないこともない。
幸太郎は未だ困ったように眉根を寄せていたが、マスターは構わずに紙幣をズボンのポケットに突っ込み、にっこりと一同に笑いかける。
「私は毎日料理の注文を受けられて、時計屋さんは幸太郎君の職の面倒を見なくてよくなる。幸太郎君は、堂々とごはんが食べられる。どうです、これが一番良い解決法だと思いませんかみなさん?」
「まったく豪気な話だ。だがその考え方なら、ネコババされた一円券の方も諦めがつくかもな。時計屋じゃないが、金は天下の回り物。いつか何かの形で返ってくるかもしれない、か」
うなずく津波が、ほっと息をついているお近をじろっと見た。
彼女はようやく木蘭から襟を放され、佳代の頭に肘を置いて涼しい顔で言う。
「そう、使ったお金は市場を回すのよ。長い目で見れば『無駄遣い』なんて存在しないんだから」
「お前は拾った金を平気で使うんじゃねえよ! お里が知れるってもんだ!」
お近が叱られながらも、一応の事態の収束を迎えた場の空気は確実に落ち着き、大人達の表情が明るくなる。
幸太郎はわやわやと声を交わす彼らに囲まれながら、時計屋の出て行った扉をそっと一人で見やった。
――時刻は既に、午後六時をまわっている。
暗くなった窓の外では、日銭を稼いで来た棚主が焼き鳥をかじりながら帰って来たところだった。




