三
「――河合雅男、六十二歳。奈良の出身で、前科あり。やはり放火殺人だが……逮捕されたのは一度きりだ。学校の校舎へ放火したところを目撃され捕まったが、逮捕後に自分から余罪を申告したらしい。誰の家を燃やしただの、畑に油をまいただの……自慢げにべらべらしゃべりやがったと、当時事件を担当した刑事が吐き捨ててたよ」
築地警察署の一室。木板に囲まれた殺風景な小部屋で、牛のような大きな体をした刑事が言った。
壁や床とまったく同じ材質でできた机を囲み、刑事と大西巡査、棚主と時計屋が席に着いている。棚主は出された茶を飲みながら、刑事に訊いた。
「やつは人生の半分を塀の中で過ごしたと言ってたが……正直、それだけのことをして死刑にならなかったのが不思議ですな」
「うむ。確かに奇妙だ。河合が逮捕された時期にやはり放火殺人で捕まった犯罪者が何人かいるが、そちらは全員処刑されている。そもそも、河合が娑婆に出られたこと自体が解せん」
「オホン……えー、その……横山さん?」
大西巡査が、刑事の名を呼んだ。「ん?」と太い首を傾ける横山刑事に、大西巡査がさらに咳払いをする。
「その、何と言いますか、あまり一般人に詳しい情報を教えるのはよろしくないかと……」
「ああ、そうか、そうだな。いかんいかん。君達、今までの話はけっして他言しないように」
びしりと指さしてくる横山刑事に、棚主も時計屋も特に反抗することなく、素直にうなずく。
どこかとぼけた感じの刑事は、大西巡査がわざわざ棚主達の取り調べを引き受けてくれと頼み込んで連れて来た男だ。
無論たかが一巡査にそんなことを言う権限はないのだが、この横山という刑事と大西巡査には、いわゆる縁故があるらしかった。
大西巡査いわく『彼の弟さんが俺と同じ派出所で働いてるのさ。普段から可愛がっとるから、兄貴もむげにはできんわけよ』だそうだ。
「……それで、その河合の言ってた『旦那さん』という人物には、目星がついてるんですか? 河合を雇って放火をさせたやつらしいが、なんでも、数ヶ月もあれば河合を塀の外に解放させることのできる実力者だそうで」
「はったりだ! そんな人間が帝都にいるものか! 過去の事件のことは知らんが、今回河合がしでかした放火殺人は間違いなく死刑に相当する凶悪犯罪だ! 河合が娑婆の地面を歩くことは二度とないだろうよ!」
横山刑事が「安心したまえ!」と豪快に笑った。
その答えに考え込むように視線を落とす棚主。彼の隣に座っていた時計屋が、同じように机の木目を見つめながら、声だけで訊く。
「あの子供は? 麦わら帽子の、河合に燃やされかけた……身元は分かったのか」
「あ? ああ、あの子な……正直、分からん」
あっさりと言う横山刑事に、誰よりも早く大西巡査が「ええっ!?」と声を上げた。
頬をぼりぼりとかきながら、横山刑事は顔をしかめる。
「自分のことをしゃべろうとせんのだ。まあ、相当怖い思いをしただろうし、口が重いのも無理はないが……ただ、炎上した馬車に乗っていた夫婦の話をしたとたん、しくしく泣き出してな。これは推測だが、死んだ夫婦はあの子の両親だったんじゃないかな」
「ああ、一人だけ馬車から逃げ出して……それで河合に追われていたのか」
推測に推測を重ねて嘆息する大西巡査。しかし、おそらくそれが事実なのだろうと棚主は思う。
子供が一人、放火魔に追われて街中を逃げ回っていたのだ。だが何故警察ではなく、棚主に助けを求めたのか? 横山刑事が両手の指を組み、身を乗り出すようにして話を続ける。
「死んだ夫婦はカッフェの席を予約していて、そこから氏名を確認することができた。刈田陽三、美穂夫妻……だが、彼らの戸籍情報は存在しなかった」
「戸籍がない? ……偽名か」
「ありうる。とにかく、彼らについてももう少し調べを進めてみる。まあ河合の方を一週間も締め上げれば全部明らかになるだろうよ。……さて」
横山刑事が立ち上がり、棚主と時計屋の背後に回った。そのまま二人の肩に手を置き、押さえつけるようにして、でかい顔を耳元に近づけてくる。
「被害者の子供と、君らの友人の津波が事情を証言しているし。馬車が炎上した時刻に君らと会っていたという、旅籠の女給も出頭して来ている。君らが善意の救出者であることはよーく分かった」
「善意というか、呼び出されたというか」
「だが! ちょっとばかし勇敢すぎるな一般人! 河合に剃刀を投げつけ暴行を加えたのは一歩間違えば過剰な防衛、殺人に発展する危険があったとも考えられる!」
顔を背ける二人を捕まえたまま、横山刑事は四角いあごを上下させて笑った。無闇に白い歯を剥き、瞳は天井を見上げている。見る者を不安にさせるような、威圧感のある笑顔だ。
「今度からは是非我々警察官を頼ってくれたまえ! 一般人が無理をせんようにな! 一般人が! ぐぁっはっはっは! はっ! 行ってよしッ!」
血管の浮き出たたくましい腕を振り、バンバンと二人の肩を叩く。
ぐっはっは! という豪快な笑い声が響く中、棚主と時計屋は背を丸めて席を立ち、大西巡査に会釈して部屋を後にする。
去り際に見た横山刑事は、相変わらず歯を剥いて瞳だけ天井を向いた恐ろしい顔で笑っていて、そのこめかみにはぷっくりと青筋が浮かんでいた。
そんな男と二人きり残され、子犬のように震える大西巡査に黙礼し、棚主はぱたりと扉を閉めた。
警察署の廊下に出ると、玄関の長椅子に座っていた佳代が「おーい」とぶんぶか手を振った。
わきには女給仲間のお近と、彼女達の雇い主である旅籠の女将、木蘭もいる。
「いやー、ご苦労さん。俺達の『ありばい』を証言してくれたんだってな。ありがとうね」
「ありがとうねじゃないよ。一体何しでかしたのさ」
へらへら笑っている佳代の代わりに、木蘭が形の良い口をゆがめて言う。口端を大きく下げて歯を覗かせるのが、この女将の不機嫌な時や、考え事をしている時の癖だった。
棚主はなでつけた髪をぼりぼりとかき「別に何も」と目を閉じる。
「狂った放火魔の逮捕に立ち会って、ちょっと意見を求められただけだよ。もう解放された」
「聞いたよ、人を生きたまま燃やしたひどいやつだってね。まったく物騒な世の中だよ……」
「そうじゃない」
会話に割り込んできたのは時計屋だ。彼は四人分の視線を受け、片方の口端に釣り針でも引っかけられたかのような笑みを浮かべる。
「獣が野放しにされていた、今日までの世の中が物騒だったのだ。やつは捕らえられ、じきに処刑される……明日の帝都にやつはいない。明日の帝都は、今日よりは平和だ」
「いや……まあ、そりゃそうなんだけどさ」
「帝都の平和は守られた……我々の手で」
低く、ぐつぐつと笑う時計屋が、そのまま一人で警察署を出て行く。
そんな彼の背を見送りながら、今まで黙っていたお近が棚主に耳打つように言った。
「あの人ってさ、変わってるよね。あんた達が住んでる葛びるの面子の中で一番底が知れないっていうか……実際どうなの?」
「何がさ」
「いい人? 別に悪そうってわけじゃないけど、どこか近づきにくいのよね」
天井に向かって伸びをしながら、棚主は軽く笑った。ふと玄関の窓を見ると、外で時計屋が待ち構えていた記者に捕まっているのが見えた。
時計屋はしつこく取材をしようとする記者を押しのけ、それでもなお追いすがって来るとみるや、記者のかぶっていたハンチング帽をひったくり、樹上に放り投げた。
唖然としている記者を放置して去って行く時計屋の姿に、お近が『まがれいと』の三つ編みをいじりながら首を傾ける。
「案外子供っぽい人なのかな」
「さあ、少なくとも嫌なやつじゃないよ。少々生真面目だがね……とにかく、後のことは警察に任せて帰ろう。女将さん、子鯨の肉はどうなった?」
「おや、耳ざといね。今晩にでも店に出すつもりだけど……高いよ?」
「明日の朝飯を抜いてでも食わせてもらうさ。刺身と焼肉、あと熱燗ね。いい酒見繕って」
目を輝かせる棚主は木蘭達を引きつれて、警察署の裏口へと向かった。
玄関先では未だ記者が枝に引っかかった帽子を取ろうと、泣きそうな顔で樹をゆすっていた。




