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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  一章  葛びるの人々
22/110

 親もなく、故郷もなく、帝都東京に一人生きる棚主という男にとって、自分のすみかであるびるぢんぐの住人達は最も近しい隣人と言えた。


 天井と床でへだてられた集合店舗群、その名も『くずびる』の店主達は、みな独り身の男ばかり。しかも全員が過去に後ろ暗いものを持つ人間らしく、互いに自分の素性を必要以上に明かそうとも、探ろうともしない。


 うすうす相手が犯罪者か、それに類する人種であることに感づいてはいても、それを理由に心理的な距離を置くことはない。どうせ自分もまともな人間ではないのだからと、あくまで今現在の相手との関係を大事にする。そんな振る舞いのできる連中だった。


 過去に多くの罪を犯した棚主にとって、彼らのいる葛びるは真に安心できる、愛すべき掃き溜めだった。



「たっぬっしっさーん!」


 天下の往来を縦に並んで歩いていた三人に、突然曲がり角から現れた娘が、手にした柄杓ひしゃくの水をぶっかけた。ひらりひらりと造作もなく水を避ける棚主と時計屋。あんぐりと口を開けたまま水を浴びたのは、津波ただ一人だ。


 びしょびしょに濡れた津波の目の前で、桜色の着物を着たおかっぱ頭の娘がケタケタと笑い、柄杓で三人を次々と指す。その表情も仕草も、尋常な一般人のものではなかった。


 まるで柄杓で悪い獣でも追い払っているかのような鬼気迫る様子で、娘は棚主に柄杓と言葉を投げつける。


「またうちの旅籠はたごにゴハン食べに来たのね! あのね! あのね! でもね! それは叶わぬ夢なのアーメン」


「そりゃまた何でだね?」


 全力で投げつけられた柄杓を片手で受け止め、返す手でぽこりと娘の頭を叩く。

 あふんと声を上げてへたり込む娘に、ようやく水びたしにされた津波が怒声を上げた。


佳代かよ! この莫迦女! 水をくのは自分の店の前だ!」


「まあまあ黙れよ津波。早く脱がないと風邪かぜ引くぞ」


 大急ぎで津波の上着を脱がせる棚主に、佳代がへたり込んだまま焦点しょうてんの合わぬ目で笑う。彼女は棚主達が向かっていた旅籠、木蘭亭で働いている女給だ。一身上の都合でいささか情緒が不安定なところがある。


 カン高い明るい声が、佳代の開け放した口から再び放たれた。


「お食事もできる旅籠『木蘭亭』は、現在女将(おかみ)が出払っているのでご利用になれませんです」


「女将さん出かけたのか。そりゃまた間が悪い」


「あンねー、魚屋さんがくじらの子供捕ってきたんだって。早く行かないと売り切れるの」


 子鯨の肉! 佳代の話を聞いた棚主が、雑巾のようにしぼっていた津波のシャツについ力を入れ過ぎて、ぶちりと破いてしまう。

 はじけ飛んでゆくボタンに、津波が絶望の声を上げた。


 探偵棚主は、こと、食べ物に関しては人一倍の執着がある。

 よほど機嫌が悪い時でなければ、美味しい料理さえ出してやればすぐ上機嫌になる。


 そんな彼にとって、やわらかい子鯨の肉は取り乱すに充分な話題だった。


「子鯨……刺身……焼肉……熱燗あつかんで、こう……くいっと! ふはは、たまらんな!」


「おいコラてめえらッ! 鯨なんざどうでもいい、どうしてくれんだこれッ!」


 ぐしょ濡れの破けたシャツをひったくり、棚主と佳代を交互にべちべちと叩く津波。


 津波の怒号と、棚主と佳代の不気味な笑い声をよそに、その場の最後の登場人物である時計屋はただ一人、建物の屋根に切り取られた空を見上げていた。


 小さな青空の向こうには昼間の太陽光にまぎれるように、一筋の黒煙と、舌のような火の手が上がっていた……




「――で、結局何が起こったんだね?」


「客を乗せた馬車が突然炎上したそうです。原因は不明ですが……ひょっとすると、放火かもしれません」


 時計屋が見つめていた空の下では、外壁をすっかりがされたカッフェと消し炭になった馬車のかたわらに、警官と野次馬が集まっていた。


 若い部下の説明を聞いた老警官は、ふむ、とあごをなで、完全に燃え尽きた馬車の破片を靴先で蹴り飛ばす。破片はぼそっと音を立てて崩れ、空中に灰となって四散した。


「ただ火を放っただけでこうはならんだろう。馬車一つが徹底的に消し炭にされている……油か、特別な燃焼剤を使ったんだ。被害者は何人だね?」


「一瞬で燃え上がったそうで、客の夫婦と、御者が死亡しました。もちろん馬車を引いていた馬もです」


「泣けてくるな」


 老警官が目をやる先では、馬車同様消し炭になった人間の死体が三つ、警官達の手で担架たんかに乗せられている。馬車から逃げ出すこともできず、座ったまま絶命した死体は、皮膚が燃えて歯をむき出しにした壮絶な形相で老警官を睨んでいた。


 ……本当に、凄まじい燃え方をしたのだ。不幸中の幸いは馬車と共に火にあぶられたカッフェが完全な石造りで、近隣に延焼しなかったことか。


 西洋化万歳。老警官は胸の内でそっとつぶやき、火災後にも関わらず煙草を取り出して、マッチで火をつけた。非難がましい目をする部下に、構わず質問を続ける。


「被害者の身元は分かったのか? カッフェの常連なら店側がある程度押さえているだろう」


「それが、夫婦は店のテーブル席を電話予約していたのですが、どうも初めての客だったようです。氏名は刈田陽三かりたようぞうと、刈田美穂かりたみほ……素性はこれから調べます。それより、問題は御者の方です」


 煙草を唇に挟んだまま、老警官は『そらきた』と片眉を上げた。


 つい最近、馬車の御者に関する事件がこの近くで起きているのだ。それは老警官に限らず、この場に集まった警官と、野次馬の多くが心得ているはずだった。


 黙って自分を見つめる老警官に、部下は嘆息たんそくして自分も煙草を取り出して言った。


「鉄道会社の差し金って記事、本当でしょうか」


「警官が新聞で情報を知ってどうする。調査するのは我々警官の役目だ。とりあえず、昨夜御者を襲ったヤクザどもを締め上げろ。鉄道会社はウラを取ってから当たれ」


 ぴん、と老警官が指ではじいた煙草が、こともあろうに担架で運ばれる三吉の口中に入り、ぶすぶすと肉を焦がす音を立てた。




 ぶすぶすと。肉が音を立てる。

 のこのこ自分達のびるぢんぐに戻って来た棚主達は、一階のミルクホールのテーブルに座り、熱い鉄の皿にった肉にかじりついていた。


 探偵棚主はハットを被ったまま血もしたたる牛肉を頬張り、きゃめらまん(カメラマン)津波は帽子もシャツも脱ぎはらい、サスペンダーのみを肩にかけた上半身裸の格好で黒焦げの羊の肉をかじっている。


 三人の中で唯一職業と呼び名が合致している時計屋は、手羽先ばかりを山のように積んで食べていた。


 顔をつき合わせてハフハフ言っている彼らのテーブルに、そでまくりをした腕がどん! と山盛りの大根おろしのはちを置く。


 このミルクホールの主にして、びるぢんぐの最後の住人。時計屋と同じように本名を伏せた男、その呼び名もずばり『マスター』である。


 棚主、津波、時計屋、マスター。

 四階建てのびるぢんぐを共有する四人は、最低限の友人関係にあった。


 辛い大根おろしを直接スプーンで口に放り込みながら、がっちりした棚主がふくよかなマスターにぐっ、と親指を立てる。


 マスターは笑いながら胸元の蝶ネクタイを整え、三人と同じテーブルに着く。柔和な顔のマスターは、しかし着席するなり目を剥いて三人にささやいた。


「ちょっと! 白状しなさいよ、誰の仕業しわざです? 誰が手を出したんです!」


 突然鼻息荒く詰め寄るマスターに、他の三人は肉をむさぼりながら顔を見合わせる。

 マスターは怒っているわけではない。むしろ楽しいことに出くわした、という顔だ。


 にやにやしながら三人の顔を見回していたマスターが「ほにゃにゃほにゃー」とわけの分からない擬態語を口にしつつ、ズボンのポケットから折り畳んだ紙切れを取り出して見せた。

 次に「ずぼーん」とそれを広げて見せるが、三人の怪訝けげんそうな顔は変わらない。


 肉を咀嚼そしゃくしながら、津波が耐え切れなくなったように言った。


「分からねえって。何だよ」


「分かりなさいよ、ちゃんと書いてあるでしょ! 『時計塔ノ裏』って! みんなが出てる間にね、それはそれは可愛らしい女の子が置いてったんですよ。こう、麦わら帽子をかぶってね、ちっちゃい外套がいとうなんか着ちゃってね。口元をラッコの襟巻きでおおって……」


「顔ほとんど隠れてるじゃねぇか。何で可愛らしい女の子だって分かるんだよ」


「声ですよ声! ころころしてたんです! あと目も形が良くて、きらきらしてました! あれはきっと美人です! 間違いない!」


「年は? いくつぐらいに見えた?」


「多分、十三か十四ぐらい……」


 棚主の質問にうっとりと答えたマスターに、津波と時計屋が露骨に嫌そうな顔をする。


 明治末期に定められた民法規定により、女子の結婚可能年齢の下限は十五歳と決まった。

 十五歳ちょうど、あるいは法の監視の行き届いていない地方によっては、法の施行前と同じくそれ未満の年齢でちぎりを結ぶ娘もいると聞く。


 だが法と現状がどうあれ、少なくとも棚主達にとっては十三、四歳の娘はまだ子供の範疇はんちゅうだった。手を出す出さないといった話題の対象にする趣味はない。


 一同のげんなりとした視線をものともせず、好色なマスターは散切り頭をなでなで、こそこそとささやき声を続ける。


「まぁ法律を基準とすれば手を出すのは良くないことですが、しかし私は応援しますよ! 愛さえあれば他人の価値観なんてどーでもいいんです! だからほら、誰が手を出したかこっそり教えて?」


「俺は心当たりがないよ」


 マスターの手から紙切れを奪う棚主に、津波と時計屋も両手を広げてうなずいてみせる。


 薄い紙切れにはただ『時計塔ノ裏』と汚い字で書いてあるだけで、他に何が記されているわけでもない。時計塔の裏に来い、ということだろうか。しかし、誰が?


 棚主は文字に鼻を寄せて、ひくひくといでみる。わずかに、炭の臭いがした。


「……マスター、その子、どんな風だった?」


「だからー麦わら帽子をかぶって、ラッコの襟巻きを」


「そうじゃない。どんな様子であんたに話しかけてきた? 慌てちゃいなかったか?」


 棚主の声色が変わったことに気づき、マスターの顔からも笑みが消えた。

 あごに指を当て、目を細めて思い出すように天井を見上げる。


「……そう言えば、そうだったかも……いえね、いきなりこのホールに入ってきて、私を見るなり『おじさんはいますか』って。おじさんじゃ分かりませんからね、訊き返そうとしたらこのメモを渡して、そのまま帰っちゃったんですよ。私はてっきり、秘密の交際相手に会いに来たからこそこそしてたんだと……」


「この字は炭で書かれたもんだ。炭を紙にこすり付けて、『時計塔ノ裏』とだけ書いてあんたに渡した。悪戯いたずらでなきゃ、ひょっとすると差し迫った状況だったのかもしれん」


 そう言うと棚主は紙をズボンのポケットに入れ、残りの牛肉を口に放り込みホールの出口へ向かった。

 すかさず津波がその後に続き、一度顔を見合わせてから、時計屋とマスターも席を立つ。


 誰もいなくなったミルクホールで、誰かの食べ残した肉が、ぼろりと崩れた。


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