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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  一章  葛びるの人々
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序章

 馬車の扉を叩く音に、三吉さんきちは腹ばいの姿勢のまま顔を上げた。

 時刻は午前二時過ぎ。昼間酷使した車から馬を厩舎きゅうしゃに帰し、路上で車内を雑巾がけしていた最中のことだった。


「すいません、父が事故にったんです。銀座までやって下さいませんか」


 扉のぎやまん(硝子)の向こうで、乳白色のシミ一つない顔をした若い娘が、今にも泣き出しそうな顔で眉を震わせている。彼女は一日の労働で疲れ果てた三吉が、思わず顔をゆるませる程の、言ってみれば、美人だった。


「あいわかった! 今日はもう仕事じまいのつもりだったが、いいぜ! 馬ぁ出してくるから離れて待ってな!」


 雑巾を握ったまま扉を開けた三吉に、娘は安心したように、にこりと笑って頭を下げた。


 大正に入って間もない今日、三吉のような馬車業者は世間からどんどん姿を消している。鉄道汽車だの自動車だのの便利な移動機械が台頭してきて、獣臭い、馬糞を落としながら走る馬車は前時代的だと、煙たがられるようになってしまった。


 だがどうだ、と三吉は思う。この娘のように突然の一大事に見舞われ、深夜に足を探して彷徨さまよう一人の人間に、一度動き出すのに山ほどの石炭がる汽車や、金持ちしか買えない自動車が一体何をしてくれると言うのか。


 ――そうさ、臭かろうと汚かろうと、最後に民の力になれるのは血の通った馬車なんだい!


 鼻息荒く厩舎に向かおうとした三吉を、馬車の陰に潜んでいた男が棒切れで殴りつけた。


 あれ? とつぶやいた三吉の頭から血がしたたり、それをぬぐおうとした彼の首を、再度棒切れが強打する。視界がくるりと一回りし、仰向けに倒れる三吉の前に、ぞろぞろと五、六人の強面こわもての男達が現れる。


 え? え? と情けない声を漏らす三吉の膝を、最初に襲ってきた男が革靴で踏みつけた。


「文明の灯りが大正を照らす……とは言え、まだまだ帝都東京の夜は暗い」


 ぱりっとした白い背広を着た男の右手の甲には、三吉が馬車を清掃するために用意したランタンに照らされて、どす黒い般若が大口を開けて笑っていた。


 ヤクザだ……そう思い至り絶句する三吉の視界の隅で、父が事故に遭ったという娘がひらひらと手を振り、くすくす笑いながら去って行く。状況が分からず踏まれた膝をただかばう三吉にヤクザの一人が蹴りを入れ、その鼻面をぼきりと砕いた。


 声にならぬ悲鳴を上げる三吉。白い背広のヤクザが、うすっぺらい紙切れを取り出してその眼前に、ぱさりと落とした。


「夜のどぶ川に捨てられたくなかったら、その誓約書に署名してもらおう。今後一切、馬車を使った業務を行わない。営業資格を放棄するって内容だ」


 何故、何故そんな署名をしなきゃならないんだ? 誰が何のためにこんなことを……


 三吉のそんな心を見透かしたように、ヤクザ達は彼の手足を押さえつけ、肘と膝の裏側に冷たい鉄の刃を押し当てた。


「ま、待ってくれ! 俺は、俺はあんたらに睨まれるようなことはしてないぞ! 話せば分かるよ! 穏便に話を……」


「俺達は話し合いに来たんじゃねえ。お前には拒否する権利なんざないんだよ、御者ぁ」


 ずりずりと膝の裏をこすり始める刃に、三吉が狂ったように泣きわめく、寸前だった。


 白い背広のヤクザの背中に、先程歩き去ったはずの娘がどすりと身を寄せてきた。全身の力を抜いて、体重を預けるような寄りかかり方だ。ヤクザ達は怪訝けげんな顔をして娘を睨む。寄りかかられた白い背広のヤクザが、何のつもりだと、その髪をつかんで引き剥がす。


 三吉と同じように仰向けに倒れた娘の顔が、青黒く無残にれ上がっていた。うす赤い唇からこぼれる前歯に、ヤクザ達の表情が、さっ、とこわばる。


 彼らが三吉を放して立ち上がると、夜闇の中から飛んで来た石が、唯一の光源であるランタンをガシャン! と音を立てて砕いた。


 四散するランタンの火がかき消え、その場の全員の視界が暗転する。月のない夜ゆえに、三吉はランタンをともして作業をしていたのだ。


 ヤクザ達の怒声が響く中、三吉はこの機を逃すまいと四つんばいで逃げ出した。視界はほとんど闇に包まれているが、自分の家の前ならばこそ、どちらへ逃げれば民家に駆け込めるかは手探りで充分に知ることができる。


 塀を頼り息を殺してその場を離れる三吉の背後から、今度はヤクザ達のうめき声と、何かやわらかいものを潰す、グシュッ、グシュッ、という音が響いてきた。

 次いで木製の塀に何かが叩きつけられる音と、夜を切り裂く、凄まじい悲鳴。


 誰かが、自分を助けに来てくれたのだろうか。しかしその誰かは、どう考えてもまともな人間ではない。刃物を持ったヤクザ達ばかりが悲鳴を上げる中、三吉はやがて視界に蕎麦(そば)屋の灯りを見つけ、痛む膝を引きずり、弾けるように飛び込んだ。



  

「……こええなあ、ヤクザの抗争かね。道端みちばたに七人も血まみれで転がってたってさ」


 さんさんと陽の降り注ぐびるぢんぐの屋上で、ハンチング帽を被った童顔の小男が新聞を読みながら首をひねった。新聞には商魂たくましい記者が翌朝の一報に間に合うよう、三吉や蕎麦屋の主人に根掘り葉掘り聞きまわった成果が、所狭ところせましと書き込まれている。


 善良な馬車業者たる三吉を襲ったヤクザ達は、あばらを砕かれたり目を潰されたりと、まるで凶暴な猿にでも襲われたかのような悲惨な状態で警察の御用となったらしい。

 それでも全員一命は取り留めているのだが、面子めんつを重視するヤクザにとって、こんないかにも惨敗しましたという風な倒れ方を世間に報じられるのは、死ぬに等しい屈辱だろう。


 小男が屋上の石の囲いにもたれ、ふんふんと新聞をめくる前では、つばの広いハットを被った男がじゃぶじゃぶとたらいの中で石鹸せっけんをかき混ぜている。ねずみ色のシャツにこげ茶色のズボンと革靴という格好の彼は、小男と違って背が高く、がっちりした体格をしていた。


「やられた男達は結構有名な組のヤクザらしいぜ。寄桜会きおうかい系、鳥毛とりげ組と。馬車屋の男はこいつらに襲われたって話してるらしい……おい、聞いてるか? 棚主たぬし!」


 小男に棚主と呼ばれて、ハットの男はたらいの中の衣類を物憂ものうげにこすりながら、うーん、と返事とも何ともいえない声を上げた。石鹸の泡にまみれた背広やシャツには、うっすらと血痕が残っている。


 小男は細い足を組みながら、棚主の方へ自分が読んでいた新聞の面を広げて見せる。


「この馬車屋はな、周りの同業者がどんどん他の商売へ鞍替くらがえしてる中、たった一人細々と客を乗せて走ってた頑固者らしい。鉄道の駅の近くで客引きなんかもしてたそうだ。それで鉄道会社が目障りに思ってヤクザを差し向けたって言うんだが……正直無理のある推測だよな? この記事の論調」


「いや、十分あり得る話だと思うね」


 そうかあ? と眉を寄せる小男に、初めて棚主が顔を向け、泡だらけの手を石床にこすりつけながら続ける。


「確かに馬車屋一人を潰して客を奪ったところで、鉄道会社には言うほどのうまみはなかろうよ。だが犯行の動機が金銭的な利益ではなく、信条、思想的なものなら十分あり得る話だ」


「思想的?」


「つまりだなあ、津波つなみ。この大正の世は文明開化により、西洋化万歳の風潮が何よりも強く浸透しんとうしている。西洋のものなら何でもよい! どんどん異国の新しい文化を取り入れて古いものと交換しよう! と、そういう意見が半ば正義として叫ばれている」


 津波と呼ばれた小男が丁寧ていねいに新聞を折りたたみ、ズボンのポケットに突っ込む。


「じゃあ何か、鉄道会社の誰かが汽車を愛するあまり、馬車を世の中から排除しなければと犯行に及んだと……馬車も西洋の文化じゃなかったっけ」


「そうだが、古い文化だ。今の帝国では古いものを新しいものに取り替えるのがよいことなのだよ。馬車などという中途半端なものに執着する莫迦は目障りなんだ」


「……やっぱり現実離れしてるな。そんな動機で人を襲わせるなんて」


「もちろんこの話は俺の推測に過ぎんがね。だが、犯罪者なんてものはまっとうな理由で悪行を働くやつのほうがまれなんだよ。だいたいが理不尽な、欺瞞ぎまんに満ちた犯行動機の持ち主さ」


 棚主はさも当然のことのように言うが、津波にはそれが正しいのかどうかも分からない。

 棚主は犯罪者だが、津波は違う。二人は友人ではあっても、お互いを理解しているわけではなかった。


 びるぢんぐの下を珍しいタクリー自動車が、ガタクリ(・・・)タクリ(・・・)と走り過ぎるのと同時に、階下へ続く階段室の扉が開かれた。


 扉からのそりと現れたのは一見して不健康そうな、まぶたの落ちくぼんだ、エプロンをつけた青年だ。ハットとハンチング帽を被った二人に対して、海草のような黒髪を後頭部でたばね、直接陽の光にさらしている。


 青年の名は誰も知らない。このびるぢんぐに時計屋を構えるがゆえに、単純に『時計屋』と呼ばれていた。


 びるぢんぐは四階建てで、それぞれの階に一つずつ店舗が入っている。一階にはミルクホール……いわば簡易食堂(酒場)が入っており、その上の二階に時計屋、三階に写真館、最上階の四階に探偵社が入っている。


 津波は写真館の主であり、棚主は探偵社の社長だった。社長と言っても、他に従業員のいない一人きりの会社であったが。


「正午」


「ああ、もうそんな時間か。ちょっと早いがメシにしようか」


 ぼそっと時刻だけを告げた時計屋の真意を読み取り、棚主が諦めたようにたらいを靴先で小突く。ズボンから財布を取り出して、ひぃ、ふぅ、みぃ、と手持ちを数える棚主を、津波が欠伸あくびをしながら足先で指す。


「どうせ木蘭亭もくらんていのブリ大根定食だろ。あそこは飯だけは安いからな」


「手持ちが多ければみんなで金を出し合って、煉瓦亭れんがていのビフテキでもと思ったんだがな。やはりタダ働きはいかんな、ろくなことにならん」


 チン、となけなしの五十銭銀貨を弾く棚主に、津波は特に考えもせず笑ってみせた。



 棚主が昨晩、ヤクザを含む七人を『タダ』で半殺しにしてきた事実を津波が知るのは、これよりずっと後のことだった。

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