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無名探偵  作者: 真島 文吉
一章  無名探偵
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 棚主という男には、人が本来備えているべきものがいくつも欠けている。

 まず本名がない。棚主というのは彼が、他人に自分を紹介する時のために自分で考えたでたらめの名字で、その下に続く名前もない。


 それは彼が捨て子であり、名付け親となってくれる人と出会えなかったからだ。遠方に共に捨てられた兄弟がいるが、彼もまた、自身を棚主と称している。


 また、捨て子である棚主は特に施設に入ったり、まっとうな大人に拾われた経験もないので、戸籍が存在しない。


 孤児に対する確固とした救済策が整っていない大日本帝国において、民間の慈善家や施設の目に留まらなかった孤児達はどうなるか。

 運よく誰かに拾われた者以外は行き倒れるか、孤児同士で身を寄せ合い、飢えをしのぐ。そのまま浮浪児となり、犯罪に走る者も多かった。


 棚主もその例に漏れず、食うためにいくつも罪を犯し、子供の時分に既に殺人を経験していた。


 そんな棚主が成長して大人になり、金を稼げるようになったのは奇跡と言うほかない。その稼業は昔と変わらず、他人の素性を嗅ぎまわり、つけまわし、時に痛めつける、犯罪者同然の不良探偵である。


「ブリ大根定食。お待ち」


 カウンターに肘をつく棚主の前に、彼の大好物が運ばれてきた。


 東京・銀座の一角に建つ異形の旅籠はたご木蘭亭もくらんてい』。伝統ある日本の宿泊施設は近代化の波を避けきれず、中途半端に西洋化し、和洋折衷のていに妥協だきょうしていた。


 まるで西洋の『バー』のようなカウンターの向こうでは、着物を着た女将が手馴れた様子でフライパンを返し、オムレツを焼いている。木板の床の上には行灯あんどんが、壁にはランプがかけられ、ぎやまん(硝子)の窓からは、石造りのびるぢんぐ(ビルディング)と、呉服店が見えた。


 極めつけは今、棚主に定食を運んできた女給じょきゅう。黄色いイチョウ柄の着物を着て、西洋の婦人のように、白いターバンでゆるやかに髪をまとめている。


 ターバンからこぼれ放題の髪の筋を思わず手に取り、棚主は首をかしげた。


「なんのマネだい、これ?」


「学がないわね。『グイド・レーニ』の『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』。知らない?」


 無表情に言う女給に、棚主は彼女の髪をもてあそびながら「ああ、レーニね」と呆れたふうに返す。


 グイド・レーニ。有名な伊太利亜イタリアの画家だ。彼の描いた美人画のモデルであるベアトリーチェ・チェンチは実在の人物で、彼女の人生はレーニのみならず、他の多くの芸術家の作品にも影響を与えた。


 あまりに悲劇的で、救いがない人生だったからだ。


「つまり君は、どっかの美術雑誌か何かでベアトリーチェ・チェンチにかぶれて、彼女にあやかってみたわけだ。美しい彼女と同じ格好をしてみたわけだ」


「悪い? 似合ってるでしょ、日本人なりに」


「あのね、おこん、ベアトリーチェ・チェンチのターバンは、死に装束なんだよ」


 割り箸をぱちん、と割る棚主の言葉に、お近と呼ばれた女給は目を剥いた。

 熱い大根に箸を入れながら、棚主がいかにも気の毒そうに続ける。


「彼女はローマ貴族の娘でありながら、城に監禁され、父親に性的な暴行を受けて育ったんだ。耐え切れなくなった彼女は父を告発するも、逆に父の怒りに触れて追放される。後にベアトリーチェは復讐を果たし、父を殺害するが、裁判で断頭の刑を言い渡されるんだ」


 硬直しているお近を箸に突き刺した大根で指しながら、棚主が目を閉じ、オペラを歌うように天井を仰ぐ。


 ちなみにベアトリーチェ・チェンチの物語には諸説あり、棚主が話しているのは帝都に伝わっている最もポピュラーなものだ。


 父親による暴行のくだりが創作であるとする説や、また父親殺し自体が実はベアトリーチェの関与していなかったことで、彼女らの財産を巻き上げるために第三者が仕組んだ陰謀であるとする説もある。


 真実がおぼろげになるのは、広く芸術の題材にされた人物の宿命のようなものだった。


「哀れベアトリーチェは同情するローマ市民に囲まれながら、若い命を散らしたのだ。彼女が頭に巻いたターバンは断頭の際、髪が邪魔にならないように、まとめるためのものだったんだなぁ。そいつをグイド・レーニが描いたのさ」


「やめるわ」


 耐え切れなくなったお近がターバンを外し、カウンターにそのまま捨てて行った。

 くっくっと笑いながら大根を頬張る棚主に、話を聞いていた女将がカウンターの奥からとがめるように声を投げる。


「あまり若い子をいじめるもんじゃないよ。大の男が」


「あのまま死に装束を着せておく方が可哀想かわいそうだろう? 女将さんは気付かなかったのかい」


「あたしは学がないんでね」


 西洋の絵なんか知るもんか。そう肩をすくめた女将は、確かに西洋美術とは程遠い、いかにもな大和撫子やまとなでしこだ。既に三十路に入っているにも関わらず、耳の下で切り揃えた髪は黒々と艶やかで、肌もきめ細かい。


 きっぷのいい女将と二人の女給だけで切り盛りされている木蘭亭は、棚主が三度の食事に愛用している一番の行きつけだ。


 本来は宿泊客相手の商売だが、近場に『ほてる』ができてからは客を取られており、料理店のように食事だけを提供することで近隣の住民を客層に取り込んでいる。

 棚主の自宅兼探偵社が入っているびるぢんぐから、歩いて数分の距離にある、便利な店だ。


 温かい味噌汁を口に運ぼうとすると、突然食堂の扉が勢いよく開いた。


 棚主と二人の女しかいなかった食堂に、ずかずかと四人の男達が肩をいからせて入ってくる。さらにその最後尾から、この旅籠の最後の従業員であるおかっぱ頭の娘が、宿泊客名簿を振り回しながら追いすがってきた。


「ご記帳を願います! ご記帳を願います! 団体様はご記帳を願います!」


「だから客じゃねぇっつってんだ! ガキィッ!」


 男達の一人が娘を突き飛ばしたことで、女将の顔色が変わる。

 背を向けたまま横目で男達を見た棚主は、ブリの肉をほぐしながら眉をひそめた。


 服装も髪型もまちまちの連中だが、どいつもこいつも着物をはだけさせ、肩や胸に入った刺青いれずみを見せびらかしている。刺青は般若の絵か、『鴨山組』という文字が入っていた。


 恐らく自分達がヤクザであると誇示しているのだろうが……仕事柄その手の連中をよく目にする棚主には、彼らはおよそ大したヤクザには見えなかった。


 強いヤクザは、刺青をやたらには見せびらかさないものだ。

 刺青は皮の下に直接墨を入れるので、彫る時は酷い痛みに耐えねばならない。別名『がまん』と呼ばれるゆえんだ。大きく手間のかかる刺青ほど苦しむ時間も長くなるので、立派な刺青があることはそれだけで我慢強い男の証明にはなる。


 しかしながら、名のあるヤクザは刺青の有無に関わらず、振る舞いに伴う風格だけで相手を威圧するものだ。わざわざ刺青を勲章のように見せねばならないヤクザは、所詮大したヤクザではないのだ。


「何しやがる! この野郎!」


 ターバンを捨てたお近が、うなじにかかる黒髪を払いのけながらテーブル席の木椅子を持ち上げ、振り上げた。


 見てくれだけはいい女給が、着物のすそから白い足を出し、がにまたで威嚇いかくする。このご時世、娘達は道を走っただけで『はしたない』と言われるものだ。


 男達は一瞬驚いたようだが、すぐに「おうおうおう」とわざとらしく凄んだ。身近なテーブルや行灯を蹴り飛ばし、棚主の食べている定食に革靴のかかとを叩き込んだ。


 味噌汁が棚主の顔と背広に飛び散り、茶碗の破片が頬を切る。

 箸を持ったまま硬直する棚主のすぐ横で、カウンターに片足を預けた男が、女将に怒鳴った。


「女将、てめぇ天下の公共事業にケチつけて回ってるそうじゃねぇか! 銀座舗装工事計画! 何が気に入らねぇ?」


「……あぁ、あんたら、地上げ屋の回し者かい」


 よく手入れされた短い髪を揺らして笑う女将に、男達が詰め寄ってくる。

 椅子を振り上げたまま女将の脇に走るお近が、男のような声で怒鳴り返す。


「なぁにが『天下の公共事業』だ! 銀座の地面をあすふはると(アスファルト)で固めて道を広げようなんざ、民にとっちゃ迷惑なだけなんだよ!」


「うるせぇ小娘ッ!」


「何で道を広げるために家や店が退かなきゃいけないんだ! しかもお前ら、組の名前出しゃ黙ると思って二束三文で買い叩こうとしやがる! 女将さんはな! 強盗に土地をくれてやることはねぇって皆に言ってるだけだよ!」


 興奮して大きく上下しているお近の胸に、カウンターに足を乗せた男が舌打ち交じりに拳を飛ばした。狙いは、心臓。


 だが男がお近を殴るよりも、お近が木椅子を振り下ろすよりも早く。


 座ったままの棚主がカウンターに乗った男の足首をつかみ、膝を抱え込むようにして思い切りねじっていた。


 本来曲がるはずのない方向に力を受けた膝が、めきりと嫌な音を立てる。

 激痛に声も出せない男が、そのまま回転するように倒れ、床に頭を打ちつけた。


「おっ……!」


 いきなり仲間の膝を砕いた客に、拳を振り上げ、懐から匕首あいくちを取り出そうとした男達の動きが止まった。


 床でもだえる仲間の顔面に、間髪をいれずに棚主が革靴を叩き込んだからだ。顔を踏みつけたまま立ち上がり、さらにもう一発、こめかみを蹴り上げる。


 攻撃を受けた男は、すぐに白目を剥いて動かなくなった。絶句するヤクザ達の前に直立した棚主は、彼らの誰よりも、背が高い。


「俺は、こういうヤツさ」


 低くドスの効いた声で呟く。

 棚主の大きな拳が、まずは目の前の顔面に、飛んだ。


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