表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無名探偵  作者: 真島 文吉
二章  血戦
19/110

 海面に到達した雨音達がテーブルクロスを離そうとした瞬間、頭上から銃声が響いた。


 はっと二人が顔を上げた直後、さらに銃声が響き、森元のすぐ横の水面が大きく爆ぜる。

 月光を浴びて、先ほどのホールより一つ上の階の部屋の窓から、山田栄八が身を乗り出してこちらを見ていた。おそらく部下の死体から手に入れたのだろう拳銃を両手に構え、さらに発砲する。


 森元は応戦しようと拳銃を持ち上げたが、直後弾丸が彼の指をかすめ、拳銃を取り落としてしまう。音を立てて水没した拳銃を慌てて拾い上げようとしたが、鉄の塊は夜の海に溶けるように沈み、すぐに見えなくなってしまった。


「潜りましょう!」


「待って、今……うぁっ!」


 森元の言葉に雨音が反応した直後、山田栄八の弾丸が狂ったように乱射され、二人の周囲にばらまかれる。森元は雨音の頭に覆いかぶさり、その身を押し付けるように水の中に沈めた。


「逃がすか! 逃がすか貴様ら! よくも私の……私の……おのれえええッ!」


 弾を撃ち尽くすと、山田栄八は窓際に置いた別の拳銃を手に取り、乱射し続ける。月光に照らされた海面には、森元の眼鏡がテーブルクロスに引っかかってただよっていた。そのレンズを撃ちぬき、雨のように弾丸を降らせていると、光の加減で一瞬、雨音の顔が水の中に浮かび上がった。


「死ね! 売女ばいたがあぁーッ!」


 山田栄八の拳銃が火を噴いた瞬間、その背中が爆ぜ、凄まじい量の血液が夜空に舞った。


 何が起こったのかも分からず絶句する彼の背に、さらに衝撃が走る。肉どころか骨まで砕け、山田栄八はそのまま、海面に向かって転落した。

 肉体が入水する派手な音。山田栄八は自分が上げた飛沫と、遅れて降り注ぐ自身の血液の雨に打たれながら、最後に自分を襲った者の姿を見た。



 山田栄八が身を乗り出していた窓から、赤い狐が彼を見下ろしている。歯を剥いたそいつの手にはブローニングのオート5……ショットガンが握られていて、銃口からは薄い煙が立ち上っていた。


 動かなくなった山田栄八が次第に船から離れ始めた時、海面から森元と雨音が、そっと顔を出した。


 二人と目が合った狐は仮面の奥で息をつき、背後から部屋に入って来る舎弟達の足音に、オート5の銃身を肩に当てた。




 棚主の口から血が溢れ、切れた頬の内側が鉄の味を舌に伝えてきた。

 敵の顔面に拳を入れた男は、さらに棚主の腹に蹴りを繰り出す。だが蹴り上げようとしたつま先は棚主の肘に受けとめられ、逆に棚主の足が、男の軸足を払った。


 背中から床に落ちた男はそれでも受身を取り、以前したように、下半身をコマのように回転させて逆立ちの蹴りを放ってきた。


「器用だが」


 棚主の声とともに、男の膝の裏に衝撃が走る。蹴りを放って伸びきった足に、かわした棚主が手刀を叩き込んでいた。


「一度、見た手だ……!」


 気合とともに男の足を掴み、棚主が片腕で、しかし凄まじい力で男の体を引きずる。

 なぎ払われるように床を転がされた男はテーブルの脚にぶつかり、したたかに眉間を打った。だがそのままうめきもせずに立ち上がり、再び迫って来る棚主に拳を繰り出す。


 鋭い突きは棚主の肩を捉えたが、膝の裏を痛めたために足の運びが鈍り、わずかに狙いが外れた。骨の上を滑った拳、その手首を棚主が掴み取る。直後、男の軍靴に革靴の踵が突き刺さった。


「ぬうっ……!」


 うめく男は拳を捕らえられたまま、逆の肩を押し付けるようにして棚主に頭突きを放った。

 前回と同じような光景、だが今度は、棚主も男に合わせて頭突きを放つ。


 世界が砕けたような凄まじい衝撃が二人を襲い、同時に上体をのけぞらせ、離れた。だが棚主の手と足は、男が倒れることを許さない。がっちりと捕らえたまま、二人同時に上体を振り戻す。


 棚主の踵が男の足を踏みにじり、直後膝蹴りが男の腹部に飛んだ。体をくの字にしてそれを受ける男が、苦しみながらもそのまま、棚主の腹に体当たりを食らわせる。テーブルを巻き込み、二人が転倒する。ようやく解放された拳を振りかぶり、男は棚主の顎を打ち上げた。


 食いしばった歯が悲鳴をあげ、衝撃が鼻まで上がって来る。さらに男は棚主の眉間を打ち、肘鉄を鼻面に叩き込む。

 一気に噴き出す鼻血が男の肘を染め、床に落ちた。

 だが、さらに拳を振りかぶった男のこめかみを、今度は棚主が殴り飛ばす。


 転げ回るように離れた男が、頭を押さえながら、吹き出すように笑った。


「戦争だ……これこそが、戦争だ……! 俺の生きる場所……俺の価値が、認められる世界……!」


 血を吐き捨てながら立ち上がる棚主を、男は膝立ちのまま見上げる。男の松ヤニの瞳が、今、月光を帯びて炎のように輝いている。


「国が露西亜に勝っても、俺には栄光は訪れなかった。何故か、今なら分かる……栄光とは、戦争を抜けた先にあるものだからだ。大日本帝国はあの戦争を過去のものにしたが、俺は違う。俺は未だ、戦争の中にいる。取り残されている」


それ(・・)が……辛いのか……?」


 静かに問う棚主に、男は笑う。笑って首を横に振る。


 棚主はそんな男の仕草に一瞬安堵あんどしたような笑みを浮かべ、すぐに血に染まった歯を食いしばり、彼を倒すための構えをとった。

 人の世にあってはならぬ類の、凄まじい殺気を鬼の形相で放つ棚主に、男は笑みを崩さず、さらに白い歯を剥く。


「俺は戦争の子供だ……戦火が俺を育てた……母よ……あなたが奪った我が名は、最早必要ない……取り戻す必要すら、ない……!」


 男の下半身が持ち上がり、加速する寸前の肉食獣のように、筋肉が膨張する。

 拳を振りかぶる棚主に、男はそのまま、爆発するように飛び込んだ。手刀が、喉めがけて、正に刃のように繰り出される。



「俺は無名の獣だあぁーッ!!」




 ――決着がついたのは、ホールの入り口から緋田が舎弟を伴って飛び込んで来たのと同時だった。

 喉に突き刺さった手刀は、棚主に血を吐かせ……しかし、喉骨を砕くまでには至らなかった。


 狂喜に歪む男の左目に、棚主の拳がめり込んでいた。


 その拳が、男の顔を殴りぬけ、叩き伏せる。

 ぎやまんの眼球が砕け、月光を反射する細かなかけらと、残り火のような松ヤニが宙を舞った。


 眼窩の中に砕けたぎやまんを散らしたまま、男は仰向けに倒れ、動かなくなった。

 床に膝を着き、ひきつったような呼吸を繰り返す棚主。ホールに極道達がなだれ込み、周囲を調べ始める。

 赤い狐の面をかぶり、オート5を肩に当てた緋田が棚主に歩み寄る。うつむいたままの棚主に、肩をすくめながら声をかけた。


「生きてまっか、兄さん。なんやボロボロやけど」


「…………緋田さんかい……やっぱり、来てくれてたんだな」


「こいつ、どないします? このままでも死ぬかもしれんけど」


 銃口で倒れた男を示そうとする緋田の手を、棚主が掴んだ。

 血で染まった顔を上げ、首を苦労して横に振る。


「あんたが俺だったら……こいつは、殺さないと思う……」


「……さいでっか。ただ、後々面倒なことになりゃしまへんか?」


「あんたにゃ悪いと思うがよ……面倒は……いつものことなんだよな……」


 困ったように笑う棚主に、緋田は乗船して初めて仮面を脱ぎ、薄く笑い返した。


「こいつは、山田栄八の私兵じゃない……雇い主は、既に死んでいる……雨音と、もう一人……森元という男がいるんだが……彼らを見逃してくれた、恩もある……」


「義理かあ。義理にゃあ弱いんやなぁ、ワシら」


「今後……おそらく、今度の件が原因で、雨音や、あんたらに牙を剥くことはないと思う……いや……むしろ、下手をすれば山田家に狙われる側になるかもしれない」


 次期当主となるはずの山田栄八を、彼は守りきれなかった。むしろ今回の彼の振る舞いは、棚主との決着を優先して山田栄八の警護を放棄したようなものだ。事実が知れれば、山田家がどんな制裁を彼に加えるか分からない。


「まあ、兄さんがそう言うんなら捨て置いときましょか。どっちにせよ、いつまでもここにおるのはまずいんや。船内の連中ほとんど皆殺しにしてもうたから」


「ああ、そうとう派手に騒いでいたな……山田栄八が手を回したそうだから、警官は来ないらしいが……」


「呆れたもんでっせ。こんだけ戦争して桟橋に船まで突っ込んどんのに、警官のけの字もあらへん。他の船の関係者が通報しとるはずやのに、やつら耳にせんしとるんや。ま、桟橋はどうにもならんけど、死体はウチで処分しときますわ。兄さんはとっとと、アレつれて消えておくんなさい」


 緋田が親指で示す先には、ホールの入り口で極道達に支えられるようにして、ずぶ濡れの雨音と森元が立っていた。


 ふらりと立ち上がる棚主に、雨音が痛むだろう足でのろのろと寄って来る。駆け出そうとして指から血を滴らせる雨音を、棚主は喉を押さえながら、早足で迎えに行く。


「……大丈夫?」


「ああ、そっちは?」


「平気……棚主さん」


 雨音は棚主の頬に手を当て、言葉に詰まったように喉を鳴らす。

 出かかったのはおそらく謝罪の台詞だったのだろう。小さく「ごめ……」と言いかけて、それから、思い直したように、口端を無理やり引き上げて、笑ってみせた。



「……ありがとう」


「どういたしまして」


 額を当て、微笑みを交わす二人に、緋田と森元はそれぞれの表情で、息をついた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ