七
混乱から脱しようとでたらめに舵を取り、船を桟橋にぶつけ続けていた男を、緋田が操舵室に乗り込んで斬り伏せた。
揺れる船から、緋扇組の舎弟達も何人か夜の海に投げ出されていた。若頭補佐の二人が救助の指揮を執っているが、このまま船を暴れさせたら桟橋と船体に挟み潰される者も出たかもしれない。床に倒れた男を、二度と起き上がらぬよう日本刀で念入りに刺し貫く。
後から操舵室にやって来る白い面の舎弟達にその場を任せ、緋田は再び船上を走り出した。
甲板の敵は殲滅しつつあるが、山田栄八や天道栄治らしき者を仕留めたという報告はない。やつらがいるとすれば、下の船室だ。棚主と天道雨音も、生きているならそこにいるはずだった。
同士討ちを避けるため、既に桟橋からの弩による援護射撃は止んでいる。緋田は途中で何人かの舎弟と合流しながら、船内へと続く階段を駆け下りた。
「お前ら、兄さんと天道雨音の顔は分かっとるな!?」
「はい! 全員に写真を回してあります!」
棚主は元々緋扇組に出入りしていた人間だ。その顔は緋田をはじめ、多くの組員が日頃から見知っている。問題は緋扇組と何の縁もなかった雨音だが、彼女の写真は寄桜会から送られてきた。
男達の慰み者になっている、あられもない姿を写した写真だったが、緋扇組の組員達は皆顔色ひとつ変えずにその写真を目に焼きつけ、最後には全て燃やしていた。寄桜会は今回のことに関しては緋扇組に協力的だったが、少なくとも若頭である緋田の心象が、その協力でよくなることはなかった。
緋田も女遊びを好み、変わった趣向を試すことも多かったが、女の方が好まない遊びを無理強いすることはなかった。写真の中の雨音は、皆泣いて顔を背けたり、頬を腫らした状態で無理やり笑わされていた。何の咎もない女のそんな哀れな写真を、そのまま送りつけてきた寄桜会を緋田は許さなかった。義をわきまえない、下劣なヤクザども。そう唾棄しただけだった。
階段を下りると同時に、突き当たりの廊下にメイド姿の女が飛び出して来た。髪をアップにした女は手にショットガンを構え、銃口を緋田に向ける。
緋田はとっさに身を屈めて前方に跳び、廊下の左右に並ぶ船室の扉を開けて視界をさえぎった。ショットガンが火を噴き、扉に無数の穴を開ける。緋田と舎弟達はそれぞれ船室に飛び込み、武器を手に銃撃をやり過ごす。
立て続けに何度もショットガンの銃声が響き、開け放たれた扉を吹き飛ばしてゆく。緋田は銃撃の回数と間隔から、女の装備したショットガンの弾丸の装填数を推し量った。
結果、女は五発撃ってから間をおいて、さらに五発撃つという射撃を繰り返している。フェイクでなければ、ショットガンの装弾数は五発。射撃の速さと銃声から、恐らくブローニングのオート5であると当たりをつけた。歴史上初の、半自動散弾銃。素人が持つには高価な銃だ。
緋田は自分とは逆側の部屋に隠れた舎弟にハンドサインで拳銃を要求する。投げよこされたのはスミス・アンド・ウェッソンのリムファイアリボルバー。女のオート5より五十年近くも昔に開発された骨董品だ。扱いが難しく、素人が扱えば不発の可能性すらある。緋田はそれを皮手袋をはめた手で素早く点検し、女の射撃間隔を計る。
五発目を撃ち終えた瞬間緋田が通路に寝転ぶように飛び出し、既にボロボロになっていた扉を舎弟が拳で破壊する。弾を込めていた女の驚愕の表情が見えた瞬間、緋田のリムファイアリボルバーが火を噴いた。
胸に弾丸を受け、女がショットガンを握ったまま尻餅をついた。血を吐きうめく女に、緋田がさらにとどめを刺そうと銃口を向ける。
だが緋田が引き金を引くより早く、女がショットガンの銃口を咥えて、自分の頭を吹き飛ばしていた。自決した女の肉片が、壁に大きな赤い花のように広がり、こびりつく。
「……もったいねぇ」
思わずうめいた舎弟に、緋田は立ち上がり、女に歩み寄った。彼女の意志か、偶然か、血に染まった口元は笑っていた。
「気合の入った姉ちゃんやな。ホンマ、山田家なんかの兵隊にゃもったいないわ」
緋田はリムファイアリボルバーを舎弟に返し、女のショットガン……オート5を拾い上げた。女の周囲に転がる弾を数発拾い上げて装填すると、そのまま両手を左右に広げる。
廊下の突き当たりは、T字路になっていた。舎弟達が二手に分かれて先に進む。
一人残された緋田は少しの間女を見下ろしていたが、やがて右手から聞こえてきた銃声に、そちらに向かって走り出した。
「どっちだ森元! どっちに行けば外に出られる!?」
「突き当たりを左へ! 桟橋とは逆側の、一番低い窓を割れば海に逃げ込めます!」
それぞれの腕を、破いたカーテンやベッドのシーツで止血した棚主と森元が、混沌とした船内を逃げる。足の爪を剥がされ走れない雨音は、時折すぐ近くを通り過ぎる悲鳴や銃声に身を硬くしながら、必死に棚主にしがみついている。
船を襲撃したのが緋田達であることは、棚主がすでに察して二人に話していた。他にこの場に駆けつけて来る人間はいない。だが、だからと言って戦闘の真っ只中である甲板に出て行くわけにはいかなかった。
緋田の仲間達に保護される前に、流れ弾にやられる可能性の方が高い。騒ぎを利用して船を脱出する方が得策だと、棚主達は判断したのだ。
角を曲がった時、目の前に山田栄八の私兵の背が見えた。足音に振り返った私兵の足首を、棚主が躊躇なく踏み折る。
悲鳴を上げて転倒する私兵に、棚主は雨音を抱えたまま嵐のような蹴りを放ち続けた。腹や首を蹴りつけ、体を丸めた私兵の頭に、二人分の体重を乗せて飛び込むように膝を叩き込んだ。白目を剥きかけた私兵の首をそのまま両足でからめとり、床で回転するように捻り折る。
目の前で炸裂する棚主の暴力に、森元はずれた眼鏡の位置を直すのも忘れて青ざめていた。半日以上も拘束されていた男のどこにこんな力が残っているのかと、立ち上がり、何事もなかったかのように走り出す棚主に続きながら、顔を引きつらせる。
「おい、どこだ? どこに窓がある?」
通路の突き当たりが見えた時、棚主が森元に再び声を飛ばした。通路の先はやや広い空間が広がっていて、いくつかの絵画や調度品が絨毯の敷かれた床に置きっぱなしになっている。だが、そこには窓どころか扉もない。完全な袋小路だった。
緊張した視線を向けてくる棚主に、森元は足下の絨毯を剥がしにかかりながら言った。
「この下です、非常時に使う階層移動用の梯子が……くそっ! 何も考えずに絨毯なんか敷きやがって莫迦がッ!」
わめきながら絨毯の上の調度品を移動させる森元に、棚主は雨音を部屋の隅に降ろした。
「俺も手伝ってくる……立てるかい?」
「うん……ごめんなさい」
雨音が何を謝っているのか、棚主は気にもしない様子で「いいさ」と答えて、森元を手伝い始める。調度品や絵画を手荒く投げたり転がしたりする音が響く中、雨音は深く息をつき、ふと顔を横に向けた。
壁にかかった絵画の中、ひときわ大きな絵が雨音の目に入った。
絵の中にはきれいな女性がいて、雨音を首をひねるようにして見ている。その女性は、白いターバンを頭にかぶり、うつろな目をしていた。
ベアトリーチェ・チェンチの肖像。絵の下にはそんな題名が記されている。雨音がその絵を見るのは初めてだった。
だが、雨音には一目で分かった。絵の中の女性には、生気がない。悲しいほど美しい顔には、一切の希望のかけらすら残っていなかった。絶望に、何もかもを諦めた表情。雨音が、何度も鏡の中に見出してきた表情だ。
題名の下には、絵と、ベアトリーチェ・チェンチの人生に関する説明書きが連なっていた。
父親に虐待され、辛い目に遭い続け、復讐を果たしたがそのせいで司法に裁かれた女の物語。
彼女の事情と訴えを司法は無視し、尊属殺人の犯人として断頭の刑を科した。法の正義の名の下に、秩序を保つために、ベアトリーチェの父の罪を裁かず、ベアトリーチェだけを断罪した。
法を犯した人殺しには、人を傷つけた者には、必ず罰が与えられねばならない。たとえかつて被害者であったとしても、復讐のための行為であろうと。司法が、彼女達を守らなかったとしても。ベアトリーチェは、雨音は、けして許されてはならない……
「法は間違っている」
思考に割り込むように、棚主の声が響いた。
絨毯を剥がしながら、視線もくれずに言い放った棚主に、雨音に続いて森元も手を止めて視線を向ける。
「法は往々にして間違っているんだ。だからしょっちゅう『改正』されている。改正とは、間違っているものを正すことだろう。つまり法は、間違っている」
「それは……」
森元が何事か言おうとしたが、棚主は首を振ってさらに言葉を続ける。
「確かに法は必要だ。法とは社会を維持するための仕組みであり、規範だ。法がなければ世界には犯罪が溢れ、平和は消えうせる。だが……それでも法は、絶対的な正しさなど持ち得ない」
「人が共有する『善悪観念』は必要です。法が間違っているのではなく……法が常に正しいわけではない……それだけです」
最後の方は消え入りそうな声で、森元が言い返す。棚主は絨毯を片手でめくり上げ、引きずりながら、軽く頷いた。
「間違い、矛盾をはらみ、時に形骸化し、それでもより正しくあろうと進化を続けるのが法という概念だ。だがそれゆえに、山田栄八が言ったような、歪んだ権力者の道具になってしまう隙もある……雨音」
名を呼ばれた雨音が、びくりと肩を震わせる。棚主は絨毯を剥がした後に現れた四角い扉に屈み込み、その取っ手を握りながら言った。
「君をベアトリーチェにはしない。ベアトリーチェの時代には、彼女を守る者はいなかったのかも知れないが……君には、俺がいる」
取っ手を握る手に、腕の筋肉に力が込められ、鉄の扉が持ち上がる。
「復讐者が幸せになって何が悪い! 法が救えない人生を救って何が悪い! それを法が、正義が阻むと言うのなら……それすらも滅ぼすだけだ!」
扉の先に現れる梯子を睨みながら、棚主が豪語した。雨音も森元も、悪鬼のような表情を浮かべる棚主から目を離せなかった。
この男はきっと、必要があればどんな正義の使徒にも臆せず牙を剥くのだろう。
雨音は、全身を貫く得体の知れない震えに、そっとそんなことを思った。
梯子を降り、さらに進んだ先はホールになっていた。用途は分からないが、やはり異常に広い空間にはテーブルがいくつも並べられていて、壁際には食料が詰まっているらしい木箱が大量に置かれている。
照明は機能していなかったが、代わりに壁の一面にはめこまれた巨大な窓から、充分すぎるほどの月光が差し込んでいた。森元の言ったとおり窓の向こうには夜の海だけが広がっていて、桟橋からの攻撃を受けた跡はなかった。
棚主は梯子を降りた後抱えていた雨音を再び降ろし、ベルトに差していた拳銃を窓に向かって構える。素早く二度発砲すると、穴の開いた箇所をさらに拳銃の底で叩き割った。
凄まじい音が響くとともに、海風がホールに吹き込んでくる。窓の下を覗き込む棚主に、森元がテーブルクロスをありったけかき集めてきて言った。
「これを結んでロープ代わりにしましょう。靴は脱いでください、泳ぎますので」
「傷口に海水はこたえそうだ……何か浮き袋はないか」
「これでどうかね」
ホールの入り口から、ゴム製の避難浮き輪が転がってきた。
愕然として入り口を見る雨音と森元を背に、棚主は窓に向かったまま、深くため息をつく。
「あんたもここから逃げるのかい。それとも……」
「もちろん、君らとご一緒するのは御免だよ」
髪を乱し、誰かの血を半身に浴びた山田栄八が、鬼のような苛烈な表情で笑った。
彼の隣には、同じように血まみれの軍服の男しかいない。他の部下達はどうなったのか、それは銃弾を受けたらしい軍服の男の右腕が、力なく垂れ下がっていることで察せられた。
彼らもまた、脱出するために船内をさまよったのだ。そして敵と出会い、交戦した。二人が浴びている血は果たして敵のものか、仲間のものか。
山田栄八は拳銃を握った棚主に、手ぶらでゆっくりと歩み寄って来る。その後にもちろん軍服の男も続く。
「いや、よくもまあ、ここまで私をこけにしてくれたね。よくも、よくも、よくも、こんな……息子を殺して、三人仲良く逃げきるつもりとは。いやはや」
「必要ならあんたも殺すよ。躊躇する理由はない」
一瞬で銃口を向ける棚主に、山田栄八は怯えもせずに笑い続ける。余裕をもって、軍服の男が彼の前に立った。
強い護衛に守られる山田栄八は、動けずにいる雨音に視線を向け、片手を上げてみせる。その仕草はどこか、ふっきれたような軽さがあった。
「雨音。天道雨音さん。ひょっとしたら私の家族になったかもしれないお嬢さん。ひとつだけこの老人に教えてくれないかね」
「何を……」
「私の孫はどうなったのかな」
雨音の喉が、ひくっと音を立てた。
棚主と森元が顔を動かすことなく視線を交錯させ、山田栄八がその様子を見て、声を立てて笑う。
「聞いてくれよ、君達。この雨音さんはなんと栄治の子を身ごもってらしたんだ。栄治が彼女を売り飛ばす前にだよ? なあ雨音さん、君はそれから毎日毎日ヤクザの慰み者になっていたんだってね? それは母体にはあまりよろしくない運動だったんじゃないかねぇ」
「……」
「だが私は一縷の望みをかけて訊くよ。雨音さん、君が身ごもっていた子はどうなったんだね? ひょっとして、奇跡的に、無事出産されていたなんてことはないかな? 君は長年ヤクザに囲われていたわけだが、子供だけ外に逃がしたなんてことはないのかね? たとえば孤児院に送ったとか――」
「死んだわよ」
雨音の冷たい声が、山田栄八の表情をそのまま凍結させた。
月光を浴びた雨音が、唇を噛み、震えながら、睨みつける。
「無事なわけないじゃない。すぐに流れたわよ。でもね、それはあなたの孫じゃなくて、私の子。私の赤ちゃんだったのよ」
「……な……」
「栄治を憎んだわ! だから復讐を頼んだのよ! その憎しみの半分は……殺された子供の分よ! あの人に愛されなかった子供の!」
叫ぶ雨音の声を掻き消して、山田栄八の怒号がホールを満たした。
獣のような、意味をなさない咆哮。気圧されたように一歩下がる雨音と森元。棚主と軍服の男は、表情ひとつ変えずにその場に立っている。
「なんて、愚かな! 愚かなやつらだ! 私の血脈は絶たれた……こんな愚かな連中のせいで! 子も、孫も、血を受け継ぐ者は全て殺されたのか!?」
「復讐は復讐を生む……だったか」
取り乱す山田栄八に、棚主の声が届く。血走った目を向けると、棚主は犬歯を剥いて侮蔑の表情を返した。
「だが、憎む相手が違うな。あんたの孫を殺したのは、父親の栄治だ。恨み言はやつの死体にでも吐くがいい」
「やかましいッ! こいつを……こいつらを殺せぇッ!」
山田栄八が、棚主達を指さし、叫んだ。三人の視線が軍服の男に集中する。
だが軍服の男は直立したまま、動こうとしない。数秒の間の後、山田栄八が愕然とした目で彼を見上げた。
「何をしている……? 殺せと言っただろう……」
「……誰に言ってるんだろうな」
呟くような男の声が、ホールを煙のように這う。
「名前を言ってくれないと……分からないな……」
「おっ……!」
軍服の男の言葉に、山田栄八が口を開け、絶句した。
唖然とする棚主に、軍服の男は小さく笑ってみせる。次いで首を傾けるようにして、山田栄八を見下ろした。
「俺は山田家に雇われた、護衛屋だ。仕事は、あんたを守ること……誰かを殺しに行くことじゃあない」
「ふざけるな! 貴様いったい誰から金を貰っていると思ってる!?」
「あんたから支払われたことは未だない。あんたは未だ、山田家の当主じゃないからな……俺の雇用料は、先代の当主の懐から出ていた。あんたを守っているのも、それが先代の頼みだったからだ」
つまり、と軍服の男は視線を棚主に戻す。
「俺には、山田栄八を護衛する義務しかないということだ。誰かを殺したければ……自分でやれ」
顔を真っ赤にした山田栄八を残して、軍服の男は棚主に数歩、歩み寄る。
服のボタンを外しながら、ぎやまんの目を月光にきらめかせて、低く言い放つ。
「二人は先に行かせてやる……お前は俺を倒してからだ。無名の探偵」
「……恩に着ると、言うべきなのかな……無名の兵卒」
棚主は拳銃を手元で持ち替え、握り手を森元の方に差し出した。
森元は棚主と軍服の男を交互に見る。軍服の男が、彼に一度うなずいてやった。
森元は急いで棚主に近づき、拳銃を受け取る。銃を離す瞬間、棚主は森元に、口端に笑みを浮かべて言った。
「雨音を頼むぞ。警察官」
森元は言葉もなく、ただしっかりと相手の目を見て、うなずく。
こちらに駆け寄ろうとした雨音を手の平を向けて制すると、棚主はそのまま人さし指以外の指を折り、顔を向けずに柔らかい声で、約束した。
「その足が治ったら、今度は俺が帝都を案内するよ」
「……絶対だからね……」
名残惜しそうに、心配そうに棚主を見つめる雨音を、森元が手を引いて窓際へつれて行く。
テーブルクロスを結んで窓に垂らし始める二人を襲うこともできず、山田栄八は歯を軋ませながらどこかへ走って行った。
やがてテーブルクロスを伝って雨音達が降りて行くと、棚主と同じように上半身裸になった男が、首の骨を鳴らしながら部屋を時計回りに歩き始める。
棚主もまた同じように歩きながら、右の拳を顎に当て、ぼきりと鳴らした。
お互いに片腕を負傷した二人は、動く方の腕を構え、次第に歩く速度を落としてゆく。
窓の外で、不意に一際近い銃声が響いた。瞬間二人は床を蹴り、肉薄する。
拳が、それぞれの敵の顔面めがけて、飛んだ。




