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無名探偵  作者: 真島 文吉
二章  血戦
17/110

 針金の先に僅かな手ごたえがあった。


 手錠の鍵穴を探り続けて一時間以上。穴の奥底、やや右側の突起を、針金が押し上げたのだ。

 この突起が正に解錠のカギだ。押し上げたまま、針金を奥に滑り込ませようとする。


 だが、その瞬間社交室の扉が開く気配がした。喉をのけぞらせていた棚主は迷うことなく針金を口中に吸い戻し、作業を中断する。内心舌打ちをしたが、仮に急いで自分の手錠を外しても雨音の足枷が残っている。騒ぎになって敵が集まって来た時、真っ先にまとになるのは動けない雨音だ。


 扉を開けて入って来たのは森元だった。彼は扉を後ろ手に閉め、棚主達を睨む。

 深く息をつき、しっかりとした足取りで近づいて来る森元に、棚主は違和感を感じた。森元の左手には拳銃が握られている。しかし逆の手には、金属の鍵の束が下がっていたのだ。


「……何をする気だ」


「あなたがたの理屈など認めない」


 森元は雨音のそばにしゃがみこみ、拳銃を長椅子の背に置いた。目をみはる雨音と棚主に手にした鍵束を交互に示し、脂汗の浮いた顔で言う。


「復讐は正義ではない。あなたがたは間違っている。……ただ……山田栄八は、もっと間違っている」


「お前……?」


「私はスパイだ。山田栄八に何年も取り入り、ヤツの尻尾を掴もうとしていた。言い逃れのできない悪事の証拠を握り、暴露し……腐った警察幹部の代わりに、警察の責任を果たすために」


 棚主は思わず唾と一緒に針金を飲み込みそうになった。


 以前、派出所で巡査から山田栄八に関する話を聞いた時、棚主は警察内部の内偵者の存在をおぼろげに想像した。山田栄八と鴨山組のつながりを、世間に暴露した警官がいたのではないかと。腐敗した警察組織の中で、個人の正義感か、使命感で動き、戦っている男がいるのではないかと。


 それが森元だったのだ。彼は強張った笑みを浮かべ、念を押すように二人に言った。


「見張りは追い払いましたが、すぐに戻って来ます。助けて欲しければ、私に協力を」


「何をしろと?」


「あなたがたは生き証人だ。山田栄八の悪事を法廷で証言してもらいます。必然的にあなたがたの罪も露見しますが……」


 言葉が終わらぬ内に棚主は「分かったから、急げ」と雨音の足枷を顎で示した。


 迷っている時間はない。雨音を法廷に立たせる気はなかったが、成り行き次第では自分だけ証言してもいいと思った。警官である森元に事情を知られている以上、知らぬ存ぜぬで通すことはできないだろう。ともあれ、細かい相談や交渉は生き延びてからすればいい。


 森元は震える手で雨音の足枷を外しながら、口端を歪めて笑っていた。


「ふふふ……これだ、この時を長年待っていた! 山田栄八の犬と影で笑われながら、金魚の糞と罵られながら、他の誰もが成し得なかった正義を執行する瞬間……いったい何階級昇進してしまうことやら……」


「警察幹部のほとんどが山田栄八の味方なら、逆に粛清しゅくせいされてしまうんじゃないのか?」


「『ほとんど』ですよ。つまり残る一握りは山田栄八を糾弾したいと思っている。私は水面下でそういった正しい幹部を探し出し、志のある仲間を増やしていたのです。私達が船を脱出すると同時に、彼らがここになだれ込んで来る手はずになっているんですよ」


 雨音の足枷を外し、得意げに説明する森元。

 それを聞いた棚主は考え込むように目を細め、自分に寄って来る森元に問いかけた。


「仲間を増やした、とは……どうやったんだ?」


「時間がかかりましたよ。山田栄八の悪事を噂に乗せ、嫌悪感を示す警官を一人一人当たって引き入れたんです。勿論表立ってはできませんから、いちいち遠まわしの接触と連絡でした。この場所を仲間に知らせるにも、わざと何度も例のフォードで署と横浜港を行き来したりしてね。仲間の目に付くように振舞ったわけです」


 背伸びをして棚主の手錠に鍵を近づけた森元の肩が、血を噴いてぜた。


 一瞬何が起こったのか分からず硬直した森元が、鍵を取り落とし、ゆっくりと入り口を振り返る。扉は開いていて、鴨山や軍服の男、数人の部下達を引き連れた山田栄八が、鬼の形相で森元を見ていた。その隣では能面をかぶった天道栄治が、煙を漂わせる銃口をこちらに向けている。


 撃たれたのだと分かった瞬間森元は奇声を上げ、長椅子に置いた自分の銃に手を伸ばした。その腕に向かって天道栄治が、気取った仕草で三発立て続けに発射する。一発は長椅子を撃ち抜き、もう一発はそばにいた雨音の肩をかすめ、最後の一発が森元の二の腕にまともに命中する。


 被弾の衝撃に転倒し、森元は床で腕を押さえてもだえた。


 山田栄八が取り巻き達と共に数歩室内に侵入する。無様に泣き叫ぶ森元に、彼は侮蔑の目を向けて言った。


「森元、よくも長年、私の周囲に下らん噂と嫌疑を撒いてくれたな。鴨山組や談合のことが流布るふされていた時点で、犯人が身内であることは分かっていたのだ」


「あぁ……!」


「考えてもみろ、いくら私が天下の山田家の当主になるとはいえ、そこの二人を始末するためだけにこんな大仰な舞台を用意すると思うか? 客船を借り、密室を作ったのは何のためだと思う? 新たな人生に出立しゅったつするにあたり、警察時代の遺恨を一掃しておくために、この状況を作ったのだ」


 取り乱し、血を溢れるままにしている森元の腕を、雨音が止血しようと手を伸ばす。だがその動きを天道栄治がすかさず銃口を向けて制し、人さし指を立てて首を傾けた。


 山田栄八は懐から煙草を取り出し、部下に火を点けさせながらさらに続ける。


「私が二人を拉致らちさせ、自らの立会いのもと死に至らしめると聞いた貴様は狂喜したろう。今まで悪事には徹底して間接的にしか関わって来なかった私の、尻尾を掴む最大の機会だ。しかも私は横浜港の客船という、ある意味逃げ場のない明確な場所で犯行に及ぼうとしている。……身内に裏切り者がいるなら、この計画を聞いて動かぬはずがない。罠を張って待ってみれば、貴様がかかったというわけだ」


「やめろ! お前達は……お前達はもう終わりだ! 私の仲間が既に横浜港に来ているんだ、我々を傷つければ余計罪が重くなるぞ! 言い逃れはできない!」


「その仲間達なら、今頃自分の持ち場で真面目に働いているよ。警部補以下ばかり、二十三名だったな」


 森元が息を呑み込み、目を見開いた。山田栄八が紫煙を吐き出し、あざ笑う。


「貴様が頼みにしていた城戸きど警視殿が、先ほど使いをよこして教えてくれたよ。彼はご子息を政界にやりたいらしい……そのために山田家の協力が欲しいんだそうだ」


「うっ……」


「嘘ではないぞ。二十三名全員分の名簿を届けてくれた。城戸警視殿はけっして彼らをここに向かわせないことを約束してくれたし……貴様の死体さえ上がらなければ、失踪扱いで処理してくれるとも言ってくれた。なにしろ貴様は既に辞職していて、警官ではないからな。一般人の失踪など、珍しくもない」


 森元が床に額をつけ、あえいだ。体を細かく震わせる彼の頭に、山田栄八は火のついた煙草を指で弾いて飛ばす。


「後に復職する手はずだったのだろうが、あてが外れたな……しかし城戸警視殿もやるもんだ、よき協力者としてぎりぎりまで貴様を泳がせておくことで、貴様に警察内部の『掃除』をさせたわけだ。私に反感を持つ警察官を集めさせ、その素性をそっくり私に手土産として報告した……これで、連中の頭を押さえ続けることができる。城戸警視殿のご子息は、きっといい政治家になるだろう」


「た……助けろ……」


 低くうなる森元に、山田栄八は首をかしげた。次の瞬間、森元はそばにいた雨音の両肩を掴み、顔をゆがめて叫んでいた。


「私を助けてくれ! こんなのは絶対におかしいっ! おかしいじゃないか! 何故私がこんな目にわなければならないんだ!?」


「っ……! 森元さん……!」


 手加減せずに細い肩を掴んでくる森元に、雨音は苦しげな声を出す。森元はそれでも肩を離さず、強く揺さぶり涙さえ浮かべてわめいた。撃たれた二の腕から流れる血が、雨音の胸にしたたり赤く染めてゆく。


「警察は法と正義の守護者だと皆言っていたじゃないか! なのに誰も彼も……邪悪だ! 警官のくせに! 私を、私を見てくれ! 私ほど立派な警官がいるか!? 帝都に私ほど、高潔な正義を貫いた人間がいるのか! 私が殺されるなんて……道理にかなってない!」


 まるで駄々っ子のように叫ぶ森元に、棚主が歯を食いしばり、鴨山が眉間に人さし指を当ててため息をついた。


「こりゃ……俺とは相容あいいれねえわけだ。正義ときたか……」


「栄治、よく見ておけ。あれが夢想を追い続けた人間の末路だ。この場に自分の力で立っているのは、全てある種の現実家ばかりだ」


 山田栄八は吐き捨てるように言い、天道栄治の手から拳銃を取り上げた。残弾数を確認する彼に、鴨山が肩をすくめて言う。


「このまま殺しちまうのかい? 俺は別に構わねぇが、あんたとしちゃあじっくり時間をかけていたぶりたい相手なんじゃないか。何年も内偵されてたんだろ」


「いや、もう疲れた。目の上のこぶはさっさと潰してしまった方がいい」


 そうかい、と笑った鴨山が、次の瞬間胸を撃たれて仰向けに倒れた。


 その場の山田栄八以外の全員が硬直し、彼を見る。鴨山は目を見開き、口から血を吐きながら何事かうめいた。その腹に、さらに一発弾丸がめり込む。


 船体に反響する銃声。空になった拳銃を天道栄治に投げ渡し、山田栄八は手を軽く払った。


「子分達には一足早く逝ってもらったよ。鴨山組……棚主への意趣返しを代行してもらえるとでも思って、物見遊山でこの船に乗ったんだろうが……お前達もまた、目の上の瘤のひとつ」


「ひどいわ……!」


 顔色一つ変えずに鴨山を射殺した山田栄八に、雨音がおののく。次いで依然手錠に繋がれたままの棚主が、足元の森元に潜めた声を飛ばした。


「鍵をよこせ! ここまで投げるんだ!」


 だが森元は顔面蒼白になり、棚主の声には反応しない。代わりに山田栄八の取り巻きの一人に、手を伸ばして懇願した。


「お願いだ、助けてくれ……私の味方についてくれ……」


 森元の伸ばした手の先には、山田栄八の護衛である、軍服の男がいた。

 彼は周囲の視線を受けながら、目を僅かに見開いて森元を見る。


「……何故……俺に頼む……?」


「君は、軍人なのだろう……除隊された、傷病兵か……素性は知らないが……軍服を着ているのは、きっと、軍人だった頃の自分に誇りを持っているからだ……」


 山田栄八は腕を組み、鼻で笑いながら軍服の男を見る。顎をしゃくって応えるよう催促すると、軍服の男は眉間にしわをよせて顔を背けた。


「だったらどうだと言うんだ……」


「軍人は国のために戦う。大義を鼻で笑ったりしない……私達警官と、同じだ」


戯言ざれごとを」


「君はそれでいいのかッ!?」


 森元の声から、一瞬弱々しさが消えた。

 無様にいつくばった男の突然の怒号に、軍服の男は再び視線を戻す。


 森元の顔には恐怖や命惜しさが未だありありとにじんでいたが、目の奥にはそれ以上に強い感情が宿り始めていた。おそらくそれはこれまで、山田栄八を糾弾することで得られる名声や賞賛、昇進への打算的な期待以上に森元を突き動かし、孤軍奮闘させてきたものだった。


 軍服の男が驚くほどの、青臭い人間性の叫びだった。


「君が守っているその男は、正義を背負う警官でありながら世を蝕んできた最低の人間なんだぞ! 自分の都合でたやすく法を犯し国民を泣かせてきた悪党だ! そんな男を許して……君の誇りは保たれるのか!? その軍服を着続けられるのかッ!」


 顔をゆがめた軍服の男が、自分の胸元を見下ろした。着古した兵卒の制服は、血と汗と、火薬の臭いが染み付いていた。


 彼の隣で山田栄八が目を剥き、部下の男達に「銃を貸せ!」と怒鳴る。森元は目から落涙らくるいしながらも、まっすぐ軍服の男を見て断末魔のように叫んだ。


「正義が冷笑される時代は間違ってる! 我々の子らが育っていくこの国を……悪の掃き溜めにするのかあーッ!」



 山田栄八が森元に銃口を向けるのと、社交室の窓が砕け散るのはほぼ同時だった。

 棚主の後方で突然四散したぎやまんに驚く間もなく、船の外壁をさらに無数の何かがけたたましく叩く。鉄の船体を弾く音と、甲板で上がる悲鳴。さらに次々と割れる窓に、棚主以外の全員がその場に伏せる。


 何者かが客船を銃撃している。そんなあり得ない想像を誰もが巡らせた。港の警備の人間はもちろん、森元の仲間の警官も駆けつけて来るはずがない。ではいったい誰が、どうやってこの状況に乱入して来たのか。


 棚主は窓を割って部屋に飛び込んできた飛来物を見る。床に転がったそれは拳銃弾ではなく、太く長い、鉄製の『矢』だった。




「何だ! 何が撃ってきてる!?」


「お……応戦……!」


 客船からタラップを降りて来た山田栄八の私兵達は、桟橋をこちらに向かって来る襲撃者に目をみはった。


 月光に照らし出された夜の桟橋に、無数の白い狐の顔が浮かび上がっている。正確には稲荷狐の面をかぶった、背広姿の男達だ。彼らは各々の手に匕首や木刀、そして大きなバネ仕掛けの弓、『』を持っている。


 慌てて拳銃を構える私兵達に、弩を手にした狐達が一斉に鉄の矢を放つ。

 まだお互いに距離がある内での撃ち合い。小さな拳銃弾はいずれも重力と海風に着弾点をずらされて命中しなかったが、強力な弩のバネから放たれた矢は力強く闇を貫いて飛び、私兵達の胴体を次々と貫通した。


 弩は矢を装填するのに時間を要するため拳銃のような連射性を持たない。だが、こと一撃の破壊力と命中精度においては、一般的な拳銃を遥かに凌駕りょうがしていた。しかも拳銃と違い、派手な発射音もしない。


 船内の私兵達が弩を警戒して物陰に身を潜めた隙に、襲撃者達は桟橋を占領する。

 絶え間なく客船に矢を放ち続けながら、周囲に置かれていた積荷の詰まった木箱を動かして弾除けをこさえる。さらに後から箪笥たんす土嚢どのうを満載した荷車が引かれて来て、それ自体も弾除けとして配置された。


 荷車の箪笥には弩に装填する矢と医療品が入っていて、弩を持った襲撃者達は荷車を中心に陣取る。やがて白い狐の面をかぶった襲撃者達の群の中から、赤い狐の面をかぶった三人の男が飛び出した。


 白い狐の面には吊り上がった目と引き結んだ口が彫られていたが、赤い狐の面には歯があった。剥き出された人間の歯を持った狐の顔はまがまがしく歪んでおり、稲荷狐のような神の使いとしての落ち着きは一切ない。怒り狂った三匹の赤い狐は、手ごろな木箱を弾除けとして押しながらタラップを上り始める。


 木箱を押す狐は大きな体を屈めながら器用にタラップを進み、別の丸坊主の狐は両手に拳銃を持ち、船内から狙ってくる敵を見事な銃さばきで射殺していく。


 三人目の狐は日本刀を手に息を潜め、タラップを上りきると同時に甲板を走り出し、目に付く敵に斬りかかった。遮蔽物しゃへいぶつを利用して素早く敵に接近し、斬りつけた瞬間物陰に飛び込み、別の敵に走る。甲板に仲間が到達すると、白い狐達も続々とタラップを上って来た。船室から私兵達もさらに飛び出してきて、乱戦になる。


 日本刀を振るう赤い狐は、悲鳴と怒号の渦中で棚主と天道雨音の名を叫んだ。棚主達がいる社交室は、緋田が乗船したタラップから、最も遠い位置にあった。




「襲撃です! 桟橋から甲板に入られました! 避難して下さい!」


「ば、莫迦を言うな! 一体誰が襲撃などしてくると言うんだ!?」


 社交室の入り口から叫ぶ部下に、山田栄八が床を這ったまま怒鳴り返した。

 部屋に飛び込んでくる矢は減ったが、甲板からは今まで以上に凄まじい怒号と悲鳴が響いてくる。おそるおそる立ち上がった山田栄八の私兵の一人が、割れた窓から外をうかがおうと近づいた瞬間、目が合った白狐の一人に眉間を矢で射抜かれ、絶命した。


 「うわっ!」と驚愕の声を漏らす山田栄八が、這いつくばったまま部屋の入り口へ逃げ始める。彼の部下達も、主を守るため同じように身を低くして部屋を脱出し始めた。


 取り残される森元は恐怖にただただ絶叫し、棚主は手錠の鍵穴に食らいつくように針金を差し込み、解錠を試みる。雨音は頭上で絶え間なく上がる悲鳴に耳を押さえていたが、彼女の前方に突然飛び込んできた矢が床に刺さり、何かを弾き飛ばしてきた。


 雨音の目の前に飛ばされてきたのは、森元が取り落としたままにしていた、鍵束だ。棚主の手錠を解く鍵が、束の中に入っている。目を見開いた雨音は反射的に手を伸ばしたが、指が鍵束に触れる寸前鋭い視線と殺気を感じ、はっと顔を上げた。


 逃げ始めている父親達に見向きもせず、天道栄治が床に這いつくばったまま、拳銃を雨音に向けていた。銃を持っていない方の手には弾丸が一つつままれており、それをゆっくりと、見せつけるように装填する。


 雨音の心臓がじわじわと鼓動を早め、汗が噴き出してくる。鍵束に伸ばしたままの手が、震え出した。天道栄治はそんな雨音を狙いながら、能面の奥で深く息を吐いた。


「雨音……お前には、できナいよ。お前は臆病な女だ。その鍵ヲ拾うことは、できない」


「……もう……構わないで……!」


 雨音は震えながら、かつての夫に言った。自分を拉致し、拷問している間、この男は一言も自分と話そうとはしなかった。どんなに泣いても許しを請っても、無言で顔を殴り、髪を切り刻み、爪を剥ぎ続けたのだ。


「もう十分いじめたでしょ? 仕返しはしたでしょ!? あんたの顔は元に戻らないでしょうけど、私の人生だって元には戻らないのよ! 信じてたのに……本当に、愛してたのに、あんたは私を……」


「殺してやる」


 天道栄治の声は、喧騒の中、重く冷たく雨音に届いた。


「俺は、愛なんザどうでもよかった。思想家として成功していタら……お前は、俺の偉業のいい宣伝にナるはずだった……俺の愛は、『施し』だ。哀れな小便臭い田舎娘に、いい夢ヲ見せてやった恩を……あだで、返しやがっテ……」


 引き金に、指がかかる。事態に気づいた棚主が、雨音に何かを叫んだ。


 雨音は鍵束を拾いながら、ふと考えた。栄治が言った『夢』とは、自分が見せてもらった夢とは、何だったのだろうと。

 栄治が偉い思想家になって、社会を良い方向に変えたいと言っていたのは何度も聞いた。それが彼の夢だった。では、自分の夢とは何だったのか?


 雨音には、何をしたいとか、何になりたいとか、そういった欲求はほとんどなかった。お腹いっぱいご飯を食べたいとか、日が昇るまでぐっすり寝ていたいとか、好きな本を自由に買って読みたいとか、そういう欲を出すことは父のしつけで禁じられていた。将来の嫁ぎ先も親が決めるものであって、雨音が勝手に思い描いていいものではなかった。まして就職して働きたいなどとは、口が裂けても言えなかった。


 雨音が思い描いていた夢、望んだこと、それは思えばいつも受身の欲求だった。


 優しくして欲しい。愛して欲しい。誰にも殴られず、ひどいことを言われず、平和に暮らすことを許して欲しい。


 自分の話を、素直な気持ちを聞いて欲しい。暴力で意志を縛らないで。人間として扱って欲しい。


 ……いい子にするから。何でも、言うことを聞くから。



「ああ……」


 立ち上がり、棚主に鍵束を差し出した瞬間に銃声が響いた。

 背中から上がった血が髪に噴き上がり、雨音の首を温かく濡らす。


 ――莫迦みたいだ。私――


 声を出さず、口の動きだけで、そう呟いた。


 結局自分は、誰かに幸せを乞い続けてきた。不幸な境遇から自力で抜け出そうとはせず、救い出してくれる優しい誰かを待ち続けていただけだ。

 守ってもらおうと、幸せにしてもらおうと、何の努力もせずに甘えていた。

 自分の手で幸せを掴もうとしなかったから、具体的な夢ひとつ思い出せないのだ。


 自分は、何がしたかったのだろう。どんな未来を、結末を望んでいたのだろう。

 誰か一人に優しくしてもらえればよかった。死ぬまで愛してもらえればそれでよかった。


 だが今、死にゆく自分を愛してくれている者はいるのか。差し出した鍵束は、何のためか。


 彼に生きて欲しかったのか。それとも相も変わらず、手錠を解くことで自分を守らせようとしただけなのか。

 雨音にはもう、何も分からなかった。




 目の前に、棚主の顔がある。その顔が、何かの感情で歪んでいる。眉を寄せ、口を引き結び、そして……鍵束を載せたままの雨音の手を、手錠から解き放たれた手が上から握り締めた。


 閉じかけた雨音の目が、ゆっくりと見開かれる。雨音の腰に回された棚主の左腕が、彼女の代わりに弾丸を受け、雨音の背に鮮血を噴き上げていた。頭上の手錠の鍵穴には、役目を終えた針金が差し込まれたままぶら下がっている。




 直後、船体が震え、二人の体がかたわらの長椅子に倒された。ごぎぎぎ、と異常な音が窓の外から響き、さらにどすんと船体が揺れる。突然の異変に天道栄治も拳銃を構えたまま、一瞬割れた窓に視線をやった。


 混乱のさなか、誰かが船を動かそうとしているのだ。恐らく操舵技術を持たない者が、いかりを引き上げもせずに発進させたのだろう。窓の外では船体に激突された桟橋の破片が、高く夜空に舞っている。


 それを確認して視線を戻した天道栄治の眉間に、銃口が向けられた。


 長椅子に置きっぱなしにしていた森元の拳銃を、棚主が倒れながらに手にしていたのだ。長椅子に深く腰掛け、雨音を負傷した腕に抱いたまま、棚主は無表情に天道栄治を見る。


 天道栄治の拳銃は、既に二人を正しくポイントしていない。能面の奥でひきつった声を出す彼から、雨音は目をそらし、棚主の胸に顔を埋めた。


「『死刑の利点』だ」


 死んだ男は、誰も傷つけない。二度と、雨音をさいなむことはない。


 揺れる船上にもかかわらず、片手撃ちにもかかわらず。

 棚主の放った弾丸は天道栄治の能面の眉間を撃ちぬいた。


 床に顔を叩きつけ絶命する天道栄治に、山田栄八が絶叫する。




 息子の死体に駆け寄ろうとする山田栄八を、彼の部下達は力を合わせて引き止め、部屋の外に連れ出して行った。最後尾からその後を追う軍服の男が、一度棚主達を振り返る。


 拳銃を握った棚主と、未だ棚主にすがりついて泣いている雨音、頭を抱えたまま、怯えた目を向ける森元。最後に床で冷たくなっている鴨山と天道栄治にも視線を巡らせ、そして……声もなく、笑った。

 親指と人さし指でフィンガーサインの銃を作り、それを棚主に向け、撃つ。


 楽しげな男を、棚主は銃口を向けることなく見送った。彼の仕事は、山田栄八の護衛。だが確実に、その過程で再び棚主に挑んで来る。

 あの男と戦う前に、守るべき人を逃がさねばならない。


 窓の外で、また桟橋が砕ける音がする。船体がぐらつき、誰かが甲板から海に落ちていく声が聞こえた。

 棚主は拳銃をズボンのベルトに差し込み、子供のように軽い雨音を右腕だけで抱え上げた。


「首に腕を回すんだ。……一緒に帰ろう」


 声も出ない雨音に微笑むと、棚主は気合を入れて長椅子から立ち上がった。

 拷問を受け、長時間拘束されていた肉体が、今更に痛みを訴えてくる。体中の関節の軋みを弾き飛ばすように、棚主は一度、床を強く踏みつけた。


 甲板から聞こえてくる悲鳴が、ひときわ大きくなる。棚主は背後に視線もくれず、大声で叫んだ。


「逃げるぞ森元ッ! 立てぇーッ!」

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