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無名探偵  作者: 真島 文吉
二章  血戦
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 海に沈む夕陽を眺めながら、山田親子は甲板で食事を取っていた。

 白いクロスをかけたテーブルを挟み、山田栄八と天道栄治は、それぞれ違う料理を口に運ぶ。


 血の滴る分厚いビフテキを頬張る山田栄八に対し、天道栄治はむき出しの歯で、塩をかけずにまるごと焼いたさばを、手掴みでかじっていた。


「……まだ塩がしみるのか」


「ああ」


 顔も上げずに頷く息子に、山田栄八はナイフとフォークを置き、実家から連れてきたメイドにワインを注がせる。


「いいか、栄治。お前は父親の私を裏切り、長年あの天道雨音と世を放浪してきた」


「……」


「若気の至りの代償は、人生の破綻だ。お前も今痛いほど感じていることだろう……今のお前は、まるで墓から起き上がってきた亡者だ」


 山田栄八は隣に立つ、髪をアップにした若いメイドに問いかけた。


「おい、君はこいつをどう思う? 上流階級の社交場に出せる顔に見えるかね?」


「いいえ、旦那様」


「君の主人になると言ったらどう思う?」


「できれば、御免こうむりたいです」


 淡々と答えるメイドを、天道栄治は目を血走らせて睨んだ。

 つんとすまして横を向くメイドに代わり、山田栄八が続ける。


「お前は我が家を出る前よりも、さらに弱々しい、情けない人間に成り下がったというわけだ。最早私の庇護なしでは外を歩くこともできない……分かるな?」


「……おやじ……」


「正直に言ってみろ。お前、本当にあの天道雨音を愛していたのか」


 山田栄八の目が、すぐ隣に停泊している鉄造船に流れる。

 人気のない甲板では、海鳥が一羽、途方にくれているように空を見上げていた。


「お前の雨音に対する態度を見ていると、とてもそうは思えん。髪を切り刻み、殴るまではいい。だがお前は彼女の足の爪をすべて剥ぎ、小便までひっかけようとしたんだぞ」


「どうセ……殺すだろ……」


「それにしても、何のためらいもなかった。彼女を連れて来る時も、森元が止めなければもう少しで石で頭を叩き割るところだったそうじゃないか……復讐し合う関係になったとは言え、あの女はお前の妻だったんじゃないのか? ひょっとしたら、私の孫を産んでくれるかもしれなかった女に、お前は……」


 天道栄治が、ぐぐぐ、と、くぐもった笑いを漏らした。

 山田栄八の冷たい視線を横顔に受けながら、天道栄治は夕陽に視線を移す。


「『あれ』は……しぼりかすさ……」



 天道栄治……かつて山田栄治だった青年は、今とは別人のように純粋で、自信家だった。

 警察署長の父を持ち、裕福な家で育った彼は様々な思想を学び、社会運動にも積極的に参加した。世に次々と展開される思想活動に関わり、悪しき旧時代の因習を払拭する力のひとつになりたいと、心から願っていた。


 それ故に保守的な考え方の父親とはたびたび衝突し、彼が示した警察幹部への道にも不満を隠さなかった。自分は思想家、運動家になりたいのだ、権力にくみする警察官になど絶対になるものかと、常々思っていた。


 そんな時に出会ったのが、雨音という少女だった。婦女子の権利の保護が叫ばれ始めていた当時、雨音は見るからに不幸で、因習にしいたげられる存在の象徴のようだった。


 哀れみといつくしみの精神でハンカチーフを施すと、彼女はまるで救世主を見たかのように感激し、自分を頼ってきた。彼女は自分の不幸な生活を訴え、前時代的な考えで行動する愚かな家族への不満を語った。彼女の話に怒りを表明すると、彼女は喜んで、犬ころのように甘えて抱きついてきた。



 大日本帝国に近代思想の種をまく、絶好の機会がめぐって来たと確信した。


 このままでは自分は父親の手で警察組織に送り込まれ、思想を弾圧する側に回ってしまう。だが今は、自分の話を喜んで聞き、世の近代化を真に必要としている人間が隣にいる。


 若き思想家の第一歩として、この少女を連れて逃げるのは実に浪漫ろまん溢れる美談となるのではないか。今後思想家として自分を語る時、少女を救うために恵まれた家庭を捨て、世の近代化と文明化を図るため奔走ほんそうしたという経歴は、誰にでも誇れる実績となるはずだ。


 人生を変えるなら今だと、家を出る計画を立て、実行に移した。天文観測に出かけると嘘をつき、荷をまとめて街道に出たのだ。帝国の未来のため、活動資金は雨音の愚かな家族から、雨音に拝借してきてもらった。存外に額が大きく驚いたが、将来を思えば手持ちが多いに越したことはないだろうと思った。


 父親の捜索をかわすため、灯台下暗しとあえて実家に近い帝都周辺に潜み、生活を始めた。どんな偉大な人間も最初は苦労をするものだ。日々を堅実に生き抜いて、水面下で匿名の思想家として本を出し、同志を集めるのだ。


 最初の数週間は実に充実した日々だった。うさぎ小屋のような小さな借家で若く可愛らしい雨音と暮らすのは楽しかったし、気のいい異人の店主が経営する食堂で雑用をするのも新鮮だった。


 店主が密航者で、同じ国の犯罪者をかくまっていると警官が踏み込んでくるまでは、正に理想の新生活だった。


 以降の就職が上手くいかなかったのは間違いなくこの店主のせいだ。犯罪者の店で働いていたという過去が、周辺の人々の目を厳しいものにしていた。


 雇われて数日で解雇されるような仕事や、学のない低能な連中と身を寄せ合う耐え難い仕事ばかりが続き、やがて街頭で配るはずだった思想書を書く筆も止まってしまった。


 世の莫迦どものせいで高尚こうしょうな精神を持つ自分が、こんなにも苦しんでいるのが許せなかった。疲れ果てて帰ってくる自分を出迎える雨音は、毎日家事と傘張りの内職をしているが、どう考えても自分ほど苦労しているとは思えない。


 いつも楽しそうに笑っているし、暇なのか玄関に飾っている花はしょっちゅう種類を代えているようだ。そもそも花瓶を買ってやった覚えもない、一人で市に出て遊んでいるのではないか。


 苛立って怒りをぶつけるように抱いてやると売女ばいたのようによろこんで「愛してる」などとほざく始末だ。夫婦は苦楽を共にするものなのに、この女ばかりがいい目を見ているのはどういうことだ?


 世の理不尽さに憔悴しょうすいしきった頃、職場の同僚にさ晴らしに行こうと賭場に誘われた。上手くやれば持ち金が倍になると聞き試しについて行ってみたのだが、はたして賭場を出る頃には同僚の言ったとおり持ち金は倍増しており、労せずして金を得る、賭博の魅力に心が支配されていた。


 汗水たらして働いて稼ぐのと同額の金が、ただ座って遊んでるだけで手に入るとはなんと楽なことだろう。勤めていた職場を辞め、毎日賭場に通って勝ったり負けたりしている内に、酒をおごってくれる知り合いや掛け金を貸してくれる友達ができた。


 地道に働いている時よりも何倍も充実した日々を手に入れたと喜んでいたのもつかの間、ある日突然運が尽き、信じられないほどの負けをこさえてしまった。その場は件の友達連中が負け分の金を貸してくれたから収まったものの、最早負けを取り戻すための掛け金すらない。


 借りた金は返さねばならない。弱り果てて頭をひねっていると、彼らは金以外のもので代用してくれてもいいと言う。


 さて何を渡そうかと考えた時、家で亭主の苦労も知らず、のほほんと暮らしている女の顔が浮かんだ……




 息子の話を一通り聞いた山田栄八は、あまりのことに絶句していた。


 天道栄治はその顔を面白そうに見つめながら、聞き取りにくい声でさらに続ける。


「あの女は、しぼりかすだ……おやじ……孫の話ヲしたろう……雨音を、ヤクザに引き渡した時……あいつ……身ごもってたんだぜ」


「なっ……!」


「ぐぐぐ……きっと、流レたろうな……いい気味だ……俺に、復讐なんかしやがッテ……」


 山田栄八が、テーブルに拳を叩きつけた。カップが割れ、料理が床に落ちる。

 それでも顔色一つ変えない息子を、山田栄八は震えながら指さした。


「何という男だ! 本当に私の息子か!? 私の……私の孫を、貴様!」


「……何ヲいまさら」


 天道栄治が白けたように、椅子の背もたれに肘をかけながら言う。


「知ってるんだぜ……あんたが昔、鴨山組に始末しテもらった『若気の至り』も、似たようなモンだったんだろ? 家に奉公に来ていた女にガキを仕込んデ、捨てた……」


「ふざけるな! 私は殺しなどしなかったぞ! 母親に口を閉じてもらい、帝都から出て行ってもらった……子供は今も生きているはずだ!」


「お優しいねエ」


 天道栄治が虚空を見つめながら言うと、山田栄八はこめかみを手で押さえて首を振った。怒りと失望でめまいがする。我が子の言うことが、何もかも理解できなかった。


「お前を見つけ出すのが、遅すぎた……子供のまま、何一つ成長せず悪人になってしまった……」


「悪人? あんたもだろ」


「莫迦な悪人は生き残れない。報いをかわし、最後に笑うのは頭のいい者だけだ」


 山田栄八の目から、すっと激情が消えた。冷ややかな視線が傲慢ごうまんな息子を見る。


「栄治、これからの人生でお前を教育し直す……その甘ったれた根性を叩き直し、せめて狡猾こうかつな悪党として、生き抜くすべを教えてやる」


「何を……」


「まずはお前が堕落する原因となった、理想主義を完全に捨てさせる。思想だの社会運動だの、くだらん夢想を追い求める者がどんな末路をたどるか、もう一度じっくりと見るがいい。過去の自分がどれほど愚かで、下らん人間だったか……心の底から理解し、反省できるだろう」


 怪訝な目をする天道栄治の前で、山田栄八は懐中時計を取り出し、時刻を確認した。


 部下達には明日の早朝に船を出せと命じてある。ならば、息子を再教育する機会は夜の内に訪れるはずだった。


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