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無名探偵  作者: 真島 文吉
二章  血戦
15/110

「だから、本当にやばいんだって! 棚主さん、ヤクザに連れてかれちゃったんだから! あたしがこの目で見たんだよ!」


 銀座の派出所の前でお近が声を張り上げ、巡査の肩を掴んで力の限り揺さぶる。

 かたわらには木蘭ともう一人の女給もいて、巡査を逃がすまいと両腕を広げて彼を包囲していた。


 制服をいつも以上にきっちりと着込んだ巡査は、襟を掴もうとするお近の手を必死に払い、とまどいながらも強い口調で言った。


「そうは言うがな、あいつは探偵だぞ? 現実の探偵ってのは小説と違って、法律すれすれの汚い仕事もこなす職業なんだ。ヤクザと関わってたって何の不思議もないだろう」


「こんの無能警官ッ! こないだ鴨山組が暴れたとこじゃねえか! きっと棚主さんをシメに来たんだよ! あの人昨日から帰ってねぇんだぜ!」


「こらっ! 若い娘がなんて言葉遣いだ! 大人の男が一晩帰らなかったからって事件性は……あいた!」


 巡査の髪をもう一人の女給が背後から掴み、すがりつく。「抜ける抜ける!」と騒ぐ巡査に、おかっぱ頭の女給は「後生ですから、後生ですから」と念仏のように繰り返し、本当に髪を引き抜いてしまう。


「この女ども! いい加減にしないとお前達こそ縄つきに……」


「してどうするんだ! 女ばかり三人も縛ってどうする気だ! この狭い『鳥かご』の中で醜い欲望のけ口にする気か! 嫁さんに言うぞッ!」


 この娘なんちゅうことを……と愕然がくぜんとする巡査の耳に、道行く人々の笑う声が容赦なく響いてくる。


 わめく女達の口をふさごうと必死に足掻く巡査の肩を、不意に大きな男の手がぽんと叩いた。「何だ!」と怒鳴って振り返った巡査の顔が、一瞬にして青ざめる。彼の目の前には、大柄で垂れ目の別の警官が立っていた。


「大西君、何事かね」


「失礼しました部長殿! 実はこの女ども……」


「巡査部長さん! 知り合いの危機なんです!」


 お近と木蘭が巡査こと大西を放り出し、より身分の高い警官に事情をまくし立てる。

 福々しい面相の巡査部長はうんうんと頷きながら女達の話を聞き、その後部下に向き直ると、大きくさらに首を縦に振った。


「調べてやろうよ、大西君。そろそろ横山君が交替に来る頃だし、一緒にちょっとその辺を探してみよう」


「部長殿が御自おんみずからですか? いや、しかしまずいですよ」


 大西は派出所の中の時計に視線をやり、「今日は……」と口ごもった。

 巡査部長はため息をつき、部下に近づくと耳打ちした。


「例の件は見送りだ。さっき連絡があった……都合が変わったらしい」


「何ですって! こんな土壇場どたんばで……」


「仕方あるまいよ、上がそう言うんだ。我々には現場の詳しい事情は分からんしな」


「……なんてこった」


 何やらぼそぼそと小声を交わしている警官達に、木蘭達が顔を見合わせる。

 大西は巡査部長と共に酷く落胆した顔を彼女達に向けると、深くため息をついてから頷いた。


「……分かったよ。とりあえず、ヤツが行きそうな場所を当たってみる。あんたらは一旦店に帰ってくれ、何か分かったら連絡するから」


「あ、ああ……ありがとう」


 警官達の様子に困惑した表情を見せながらも、木蘭達は礼を言って頭を下げた。

 二人の警官はきびすを返すと、銀座の往来を歩き出す。


 その背中は何故か、普段の彼らを知る者達にとっては、妙に小さく見えた。




 森元達が出て行くと、社交室は墓場のようにしんと静まり返った。


 棚主は針金を歯の隙間から取り出し、口に含んだ状態で手錠の鍵穴をこじ開けようとしていたが、途中で軍服の男が入って来たために作業を中断せざるを得なかった。


 奥歯と頬肉の間に針金を隠す棚主に、軍服の男は持参した水差しをすすめてきた。口元に直接差し出された水差しを、棚主は拒んだ。何が入っているか分からなかったし、針金を含んだ口を敵の目の前で開きたくなかった。


「お前達は、このまま家畜のように、繋がれたまま殺される」


 おびえる雨音の足を掴み、爪を剥がされた指を薬で消毒しながら男は言った。

 何故そんなことをするのか。どうせ殺される女を治療する彼を、棚主は不思議そうに見ている。


「……さっき、森元と話しているのを廊下で聞いていた。盗み聞きするつもりはなかった」


 治療を続けながら呟く男に、棚主はますます怪訝けげんな顔をして言った。


「部屋に入って来ればよかったろう。わざわざ廊下に突っ立っていなくとも」


「俺はあいつらが嫌いだ」


 あいつら、とは、森元や鴨山、天道栄治のことか。


「俺は山田家に雇われた傭兵に過ぎん……今の仕事は山田栄八を、直接的な暴力から守ること、それだけだ。やつらと馴れ合う義務はない」


 雨音の指に包帯を巻く男の言葉に、雨音と棚主が思わず顔を見合わせる。


 妙な男だ。山田栄八の他の取り巻きとは、雰囲気が違う。


 雨音は自分の怪我をいたわるような男の手つきに、唾を飲み込んで、わずかな期待を込めた声で訊いた。


「あの……あなた、お名前は?」


「ない」


 返ってきた答えに目をみはる雨音に、男は包帯を巻き終え、俯いたまま続ける。


「名は捨てた。俺は名無しだ」


「だって、それじゃ……」


「俺は、無名の兵卒だ」


 感情のない、淡々とした声。


 ゆっくりと持ち上がる顔にはまった松ヤニの瞳に見つめられ、雨音は即座に顔をそむけた。透明なぎやまんの中に、凍った炎のように浮かんだ松ヤニ。命の通っていない人工物に見つめられることが、恐ろしかったのだろう。


「名前は人間の証明だ。人が産まれて、最初に親から与えられる……己自身を、自分だけを表す、唯一の言葉だ。一生使ってゆく、言霊ことだまだ」


 それが俺にはない。そう続けた男が、皮の手袋をつけた両手で顔を押さえた。

 言葉に詰まった雨音に代わり、棚主がそんな男に、頭上から声をかける。


「名前がなけりゃ、自分でつければいい。俺はそうしたよ」


「……お前も?」


「孤児でね。親の顔なぞ見たこともない」


 口角を上げる棚主に、男は一瞬黙った後、顔から手を離して首を振った。


「自分でつけた名前など、名前じゃない」


「失敬なやつだな。名前なんか、所詮は記号だろう」


「お前も無名の者だ」


 視線もくれずに言い放つ男に、棚主が薄く口を開けて目をみはった。

 男の声が、煙のように床を這い、棚主の足に絡んでくる。


「犬猫や、時には物にさえ名前はある。名前には、名づけた者の愛情と意志がこもっている。だから、単なる記号以上の意味がある……存在を認められたからこそ、名前をもらえるんだ。俺達には、自分を肯定してくれる名付け親すらいない……」


 犬猫以下の、人外だ。

 そう続けた男の言葉に、棚主は何故か頭がかっと熱くなるのを感じた。速まった心臓の鼓動が、はっきりと胸を伝って響いてくる。

 人ならざる、犬猫以下の生き物。名前を持たない、ケダモノ。


 棚主は気がつけば全く無意識に、表情も変えずに喉を揺らしていた。くつくつと、自分の意志では制御できない笑い声が、勝手に漏れてくる。


「……なるほど、確かに道理だ……俺達は人が当然に持っているものを持っていない。本当の意味で価値のある名前を持たない……野の獣と同じか」


「獣は噛み合い、墓碑銘ぼひめいすらもらえずに死んでゆく」


 男が棚主を見上げ、生身の右目を細めた。


「お前とは、もう一度戦いたい。獣は殺し合いが好きだ……」


「意外に気障きざなやつだな。俺もそう願いたいが、この状況じゃな」


 手錠をがちゃがちゃと鳴らしてみせる棚主に、男は初めて、薄く口元をゆるめた。「残念だ」と呟きながら立ち上がる男に、黙っていた雨音が慌てて声をかける。


「待って! 何故手当てをしてくれたの?」


「……」


「お願い、私達を助けて! このままじゃどうせ殺されてしまうわ……手当てをしてくれるぐらいなら、枷を外して!」


「……」


「本当はこんなことしたくないんでしょ!? だから」


 男が突然床に置いていた水差しを蹴り砕いた。

 凄まじい音と共に飛沫しぶきを上げて四散する水差しに、雨音が悲鳴を上げて顔をかばう。

 男は無表情に虚空を見つめていたが、吐いた声には静かな怒気がこもっていた。


「敵に助けを乞うな……女め……!」


「そう、助けるのは俺の役目だ」


 振り向く男に、棚主が笑ってみせた。敵意のない、友人に向けるようなのんきな笑顔だった。


「まあ、見ていてくれ。やるだけやってみるから」


「……何をだ?」


「もう一度戦いたいんだろ? 俺と」


 今度こそ、やっつけてやる。


 目元に不敵な色をにじませた相手に、男は少し沈黙してから、一瞬だけ歯を見せた。


 そのまま部屋を出て行く彼を見送ってから、棚主は笑顔を消し、再び手錠を外しにかかった。



 さんざん殴り合った相手に、何故あんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。敵である男に、手錠の鍵を外すあてがあるのだと言ったも同然だ。


 だが、棚主には何故か根拠のない確信があった。あの軍服の男の言葉には、一切の嘘がない。そう感じるだけの、ある種の誠実さが彼の声と態度には宿っていた。


 彼には棚主達に手を貸す気など毛頭ないが、拘束を解こうとするのをはばむ気もないのだ。だからわざわざ自分が傭兵であり、その仕事が山田栄八を暴力から守ること『だけ』だと断った。


 そんな甘い考えを、つい起こしてしまうような会話だった。


 手首に食い込む手錠の痛みに耐えながら、棚主は身体を懸垂けんすいの要領で持ち上げ、咥えた針金で鍵穴を探る。


 解錠の経験は幾度となくあるものの、警察が使う手錠だけあって一筋縄ではいかない。せめて両手が使えれば……棚主は額から流れてくる汗に片目を瞑りながら、横目で雨音を見た。


 彼女は彼女で、自分の足枷を外そうと長椅子の脚を蹴りつけている。だが長椅子の脚は鉄製で、しかも足枷は座枠と分厚いボルトに挟まれて固定されていた。

 全身で足枷を引っ張りもがく雨音の、足に巻かれた包帯が赤くにじむのを見て、棚主は一旦針金を口中に戻し声を上げた。


「よせ、無理だ。また傷口が開くぞ」


「いいの、構わないで」


 うわずった声を返した雨音が、鼻をすすりながら首を振った。切り散らされた髪から、短い毛がはらはらと床に落ちる。


「私、本当にどうしようもない人間だわ。最初から最後まで、人を巻き込んで、不幸にして……なんて、なんて莫迦な女なの!」


「よせと言うんだ!」


「自分じゃ何もできない……何も……」


 棚主に怒鳴られ、雨音は顔を背けて俯く。唇を噛んで、爪が刺さるほど手を握り締め、震えていた。


「棚主さん……何故、そんなに優しくしてくれるの? 面倒事を引き受けさせられて、こんな目に遭って……ううん……そもそも、何故助けに来てくれたの? 私達出会ってまだ間もないじゃない……生きて帰れるかどうかも分からないのに……」


「君が『友達』だからだ」


「それも気になってた」


 雨音が目の周りを赤くして、棚主を見る。その目には親しい友人ではなく、何か、知らない生き物を見るような、そんな色が含まれていた。


「棚主さん……最初から優しかったけど、でも、どこか冷たい感じだった。皮肉を言ったり、突き放したり……復讐を頼むような女に気を許せないのは当然だけど……でも」


 雨音の喉が、唾を飲み込む。


「次に会った時は、凄く親しげだった。その時は私がきれいにお洒落して来たからかなって思ってたけど、多分、違う」


「……」


「そうだよ……棚主さん、私と『友達』になってから優しくなったんだ」


 棚主の目が、雨音を見る。


 感情の読み取れない、空洞くうどうのような目。雨音はその目を、何かに怯えるように見つめながら、続ける。


「私の生い立ちとか、駆け落ちの理由とか、そんな話をする前だよ。一緒にご飯食べたり、散歩したり、仲良くなるようなことを何もしてない内から棚主さん……私への態度が豹変ひょうへんしてる。『友達になろう』って、ただ言葉だけで約束した瞬間から、本当に……関係が……」


「雨音」


「あなたにとって『友達』って何なの?」


 まるで、呪文。





 雨音がそう言った瞬間、棚主が小さく笑った。

 いつもどおりの、雨音が好ましいと感じる笑顔。だがそこに、言葉では言い表せないような暗い影が差していた。


「俺には『友達』しかいないんだ。孤児だからな……親も親戚もいないから、友達以上に大事な関係がないし、作れないんだ」


「……棚主さん」


「でも誓うよ。嫌いなやつと友達になんかならない。君のことは本当に、本当に大事だ。天道雨音という人間だから、助けに来た……君だから、ここまで来たんだ」


 雨音は俯き、少しの沈黙の後、呟くように「ごめんなさい」と言った。

 不安と危機感に負け、感情のままに言ってはならぬことを言ってしまった気がした。


 棚主の言うとおりだ。雨音にはこの状況で出来ることは何もないし、足掻いても血を流すだけで何の解決にもならない。今は棚主が隠し持っていた針金で手錠を外すことが、唯一の希望なのだ。それを中断させ、貴重な時間を無駄にさせたことに、雨音はさらに強く自己嫌悪した。


 だが棚主は身体を休めるように全身の力を抜いて息をつき、手錠に繋がれたまま身をのけぞらせて欠伸をした。

 針金を落とさぬよう、歯と頬肉の間に潜り込ませてから、俯く雨音に変わらぬ親しげな声をかける。


「実はね、親戚がいないと言ったところだが……俺には一人、兄弟『らしき』人間がいるんだ。そいつの名前も、棚主という」


「えっ……」


「同じ名前を名乗っているのにはわけがあるんだ。そいつは恐らく俺の兄弟なんだが……どっちが兄貴で、弟か、分からない。ただ兄弟であるということは、多分間違いない」


 要領を得ない言葉に首を傾げる雨音から、棚主は視線を外す。頭上のシャンデリアを見上げると、まるで万歳の姿勢で光を仰ぐような図になった。


「物心ついた時から、俺達は一緒に浮浪者の婆さんに育てられていた。とは言っても、家も着物も、食うものすら満足にない生活だったがね。毎日路上や山の中をさまよって、動物の死骸やゴミ箱をあさっていた……劣悪な環境で、よく子供が育ったと思うよ」


「そのお婆さんは……孤児院に連れて行ったり、してくれなかったの?」


「俺達は孤児院には入れない。人間の子じゃないからな」


 信じられないようなことを言い出す棚主に、雨音は先ほどの軍服の男の言葉を思い出していた。


 親に認められない、名前を持たない、ケダモノ。人外。

 棚主も同じことを考えているようで、軍服の男が去って行った扉に細めた目を向けている。


「人間の定義など、いい加減なものだ。今、世の中は民権や人権を至高のものとして祭り上げようとしているが……人権を持たない日本人は、多い。ちょっと他人と毛色の違う者が、見世物小屋で犬のマネをさせられるような時代だからな」


「毛色……」


「ゲスな興行師が、耳や鼻のない子供なんかをさらし者にしてるのを見たことはないかい? まあ最近は世間の目も厳しくなったから少ないかもしれないが、俺が子供の頃は結構そういう輩がいたんだよ。『怪奇なり! 天狗に呪われし子!』なんて、莫迦莫迦しい文句をわめいてな、悪趣味な客から見物料を取る」


 聞いているだけで気分が悪くなるような話に、雨音は口を押さえて眉をひそめた。棚主はそんな雨音に、懺悔ざんげでもするように目を伏せて言う。


「俺達兄弟も、そういう輩に狙われた。飯を食わせてやるから見世物になれと何度も声をかけられた」


「でも……棚主さんは、その……」


「健康な人間に見えるだろう? だが、違う。俺達は見世物小屋が欲しがるような、そんな生き物だった」


 手錠をはめられた両手の、その指を組み、棚主が顔を自分の腕にうずめる。

 一瞬雨音は泣いているのかと思ったが、すぐに低い笑い声が聞こえてきた。当然だが、楽しげな響きの一切ない、誰かを嘲るような声だった。


「……ある日、兄弟が流行り病にかかった。酷い熱が出て、親代わりの婆さんも『これは死ぬな』と、諦めて念仏を唱えていた。何しろ栄養をつける食い物も、布団すらないんだ。俺は野ざらしで苦しむ兄弟を見ていられなくて、町に行って医者の家や病院を訪ねて回ったんだ」


「……」


「小汚い俺を見て、ほとんどの医者は門前払いで追い払った。金もないし、仕方ないことだったろう。でも一人だけ、優しそうな年寄りの医者が話を聞いてくれたんだ」


 棚主が顔を隠したまま、語り続ける。その声が、次第に暗く、沈んでいく。


「地獄に仏だと思った。その医者は薬の入った鞄を持って、わざわざ俺についてきてくれた。金も後払いでいい、苦しんでいる人を助けるのが医者の責務だと、涙が出るくらい優しいことを言ってくれた。……俺は、生まれて初めて人間の偉大さを信じたよ」


 心から。そう呟く棚主の肩が、一度ぶるりと何かの感情に震えた。


「医者を連れてきた俺を、婆さんは物凄い顔で睨んだ。何故か分からなかったが、草むらに寝ていた兄弟に屈み込んだ医者も、そのうち同じ顔をして俺を見た。それで、何も言わずに帰ろうとするんだ。驚いてすがりついた俺を、その医者は別人みたいに突き飛ばして、何度も蹴りつけた」


「そんな、何で……」


「兄弟が、俺と同じ顔をしてたからさ」


 腕の間から、棚主の見開かれた目が覗いた。憎悪に歪んだ、今まで見たこともないような凄まじい目。ヤクザに囲まれて生きてきた雨音が、言葉を失うほどの苛烈な、人間性のない目だった。


「女が一度に二人以上の子を産んだ時、その体を『畜生腹』と言って忌避する文化がある。人間は一度に一人ずつ子を産む、犬猫は二匹以上産む……だから、二人以上の子を産む女は、人ではない畜生だ。そんな考え方が、あるんだ」


「迷信よ……ただの、双子じゃない……」


「迷信の根付き続ける田舎は多い。母親が畜生なら、産まれた子も畜生……俺達兄弟が捨てられた理由も推して知れる。俺達は、本当にそっくりだった。だから医者は俺達に言ったんだ、『畜生者ちくしょうものめ』ってな」


 畜生者。その言葉を吐いた瞬間、棚主の目から感情が抜けた。体の震えも止まり、静まり返る。腕に隠された口から、あとは淡々と言葉が連なるだけだった。


「年を食った医者だったし、古い考え方を持っていても仕方なかったのかもな。見捨てられた俺は途方にくれて、結局その晩にもう一度医者の家に行って、彼を殺した」


「えっ?」


「台所から包丁を取ってきて、背後から首に何度か突き刺した。案外簡単に死んだよ。考えてみれば門前払いした他の医者よりは優しいやつだったんだろうが、仕方ないな。俺の兄弟が危篤きとくなんだ、仕方ないことだった」


「待って、棚主さん」


「彼は死にかけてる兄弟の目の前で『畜生者』と言ったんだ。仕方ないじゃないか。俺は鞄を盗んで薬を持って帰って、兄弟に飲ませた。どれが効くのか分からなかったから、運を天に任せて二つ三つ……十日後には、彼は立てるようになったよ」


 顔を腕から離し、棚主は冷めた表情で息をついた。


 雨音は棚主の言葉に、考え方の根幹に、何か致命的な狂気を感じ始めていた。

 恐れてはいけない。この人を、恩人を恐れることだけはしてはいけない。

 そう強く思っても、雨音は自分の肩が震えるのを抑えることができなかった。


「人の尊厳を奪うやつは、同じように奪われても仕方ない。俺達を畜生者にしたのは誰だ? 人外に仕立て上げたのは誰だ? ……俺はケダモノだ。あらゆる意味で獣同然の男だ。だが世の『人間様』の何割が俺より立派だって言うんだ? 人権を得るに値するって言うんだ? いくら考えても納得がいかないよ、雨音。医者も慈善家も、俺達兄弟が揃っていると気味悪がって遠ざけ、一人でいると哀れに思って、いたわりに寄ってくる。俺は……そんな『善』は、認めたくなかった」


「……その……兄弟の人は、今は……?」


「田舎で『友達』に囲まれて暮らしてるよ。……結局俺は、大人になるまであいつから離れられなかった。お互い別れれば、違う孤児院に保護されて、違う養い親の家に行けたかもしれない。でも、そうしたらきっと違う人生を歩んで、二度と会えなかったと思う。畜生者だと周囲に知れることで、いろいろな物を失う恐怖で、きっと、お互いを遠ざけていた……それが嫌で、怖くて……その恐れがなくなるまで、離れられなかったんだ」


 棚主が雨音を見た。冷静な、静かな表情で。


 雨音は肩の震えを手で制しながら、その視線を受けた。何故肩が震え続けるのか、彼女自身にももう分からなかった。ただ、今間違いなく自分は、今まで表面しか知らなかった棚主という男の、心の奥底をかいまみている。その自覚があった。


「俺達は結局、同じ顔で、同じ名前で生き続けることにしたよ。どこの養子になることもなく、名字を継ぐこともなく、絶対に絆を断たないという約束なんだ。年齢も、背丈も同じ……兄弟というよりは、もう一人の自分、そう思うようになった」


「もう一人の自分……」


「そうさ、何も変わらない、自分自身だ。だからけっしてきずなは切れないし……だからこそ『俺達』には、友達しかいないのさ」


 世の人々が聞けばあまりに複雑で、とんでもない屁理屈に聞こえるだろう棚主の言葉。


 だがその屁理屈は、凄惨な人生を生きてきた棚主が、自分に残された唯一の肉親との絆を守るため、必死にね上げた筋道なのだ。


 棚主という男は、きっと人間の善性に不審を抱いて生きてきたのだろう。


 棚主を畜生者とののしった医者の吐いた立派な言葉は、慈悲の心は、全て『普通の人間』のためのものだった。健康で、世の大多数の人々と同じ外見の、人権を得るに値する者達。そう彼自身が判断した対象のためだけの、優しい態度だった。


 ……人権は、まだまだ全ての人に適用される権利ではない。性や年齢、障害の有無、出身や、世間に忌避される要素を持っているか否かといった判断材料で、平気で蹂躙され、剥奪される。


 棚主はそんないい加減なものをありがたがり、自由民権、人権擁護と誇らしげに叫ぶ世の善人達を、どんなにか冷めた気持ちで見てきたことだろう。


 どんなにかさげすんで、恨めしく思ったことだろう。みすぼらしい格好をした双子の浮浪児は、社会の隅っこでとうとう双子としての自分達に誇りを持てぬまま、人間扱いされぬまま、大人になってしまったのだ。


 だが、それでもなお、棚主は人との繋がりを求めている。友達という、他人同士ではぐくめる強い絆を信じたいと思っている。博愛や慈悲の精神ではなく、ただ単に生身の相手を好き、対等の立場で尊重しあう関係を、彼は生きる寄るとしようとしているのだ。



 雨音は気がつくと足枷の限界まで棚主に近づき、腕を伸ばしていた。


「友達は、家族の代わりなのね」


「ああ」


「棚主さん達を守ってくれる、受け入れてくれる、唯一の人間関係」


「そうだよ」


「だから私も助けてくれるの?」


 そう訊いた雨音の表情は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。

 涙はれて出てこない。だが弱い雨音は、あの日暗い自分の部屋で棚主に拒絶されてからずっと封印してきた言葉を、無様に、涙声で吐き出していた。


「友達だけじゃ、悲しいよ……棚主さん」


 未練がましい、図々しい、莫迦な女。自嘲しながら、雨音は無理やりに笑ってみせる。


「お嫁さんは……要りませんか……?」


「……」


「子供も……きっと、可愛いよ。産めるか、分からないけど……」


 軽蔑されるだろうか。下品で、愚かで、身の程知らずな女だと、目をそらされるだろうか。


 だが棚主は申し訳なさそうに笑って、雨音の視線を正面から受けてくれた。



 ああ、と雨音は目を閉じる。微笑んだまま黙っている棚主に、雨音はもう、何も言うことができなかった。

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