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無名探偵  作者: 真島 文吉
二章  血戦
14/110

 緋田は新しい背広をきっちりと着込み、畳の上に正座していた。


 極道組織、緋扇組本家。正月には数十人の組員とその家族が一堂に会する大広間に、今は緋田と、三人の男が座っている。


 中央に座る緋田の後方、両脇に二人の男。若頭である緋田の腹心を務め、それぞれ自分の子分とシマを持つ若頭補佐だ。一人は片目に大きな傷があり、もう一人は丸坊主で眉がない。いずれも非常に体格のよい、剛の者といった風体だった。


 そんな迫力のある三人を下座に、上座であぐらをかくのは、緋扇組の『次期』組長。

 わずか十四歳の少年だった。


「棚主さんが消えました。びるぢんぐにも戻ってないようです」


 片目に傷のある補佐が、低く重い声で告げる。間髪をれず、丸坊主の方の補佐が拳を畳につけて身を乗り出す。


「寄桜会の連中が身内を洗ってくれてますが、恐らく山田栄八の方の仕業でしょう。ヤツの足取りはウチの賄賂わいろを受けてる警官に当たって調べてますが……ちょっと難しそうです」


「なんでや」


 顔も向けずに問う緋田に、丸坊主の補佐は「へぇ」と頭を低くし、喉に絡むような声で続ける。


「山田は辞職した後、きれいさっぱり警察署から姿を消してます。家の使用人もクビにして、今朝確認したら自宅も売り払われてました。多分、自分の実家に戻るつもりなんでしょうが……とにかく、警察署を出た後のヤツの足取りがぷっつり途絶えちまってるんです。どこへ向かったのか、どの出口から出たのかさえ、見た者はいねぇ」


「唯一の手がかりは森元 れいという警部補です。この男、どうやら警察組織における山田の傀儡かいらいの一人だったようなのですが、他の部下を差し置いて、一人だけ山田と同じ日に辞職しています。きっと、山田が連れて行ったんでしょう」


 片目に傷のある補佐が、やはり畳に両の拳をついて身を乗り出す。


「森元は辞職する数日前……ちょうど、棚主さんと天道雨音のことが山田に伝わった頃ですが……その頃から、勤務中に頻繁に自動車に乗ってどこかへ出かけていたそうです」


「どこか、とは?」


「恐らく、横浜港」


 子分のその答えに、初めて緋田が振り返り、顔を向けた。

 傷に縁取られた目がゆっくりと開き、もはや視力を持たない灰色の眼球が緋田を見返す。


「森元は同僚や部下の警官に、銀座から横浜港までの地理を訊いていたようです。安全で混んでいない道、夜間に自動車の走りやすい道、そういった情報を集めて、実際に何度も行き来していたんじゃないでしょうか。つまり、棚主さん達を何らかの方法で拉致して、迅速じんそくに連れ去るための予行演習……」


「あのさ、ちょっといい?」


 今まで黙って聞いていた上座の少年が、そこで口を挟んだ。

 一斉に自分に視線をやる三人の大人達に、少年は腕を組んで首を傾げる。


「するってぇと何か? その棚主さんは夜中に、自動車に押し込まれて横浜港まで連れて行かれたと、そうお前は思ってるわけか」


「可能性は高いと思います」


「自動車って目立つよ? 今世間にどれだけ普及してるよ? いくら夜中でも走行音で人目引くだろ……だいたいなんでわざわざ時間かけて横浜港まで行くんだよ。もっと近い海岸いくらでもあんだろ」


「思うのですが、山田は棚主さん達を船内で殺して、そのまま出航して洋上で死体を始末するつもりなのではないでしょうか。他の船に混じって出航し、怪しまれることなく外洋に出るにはより多くの船舶が利用する、大きな港から船を出した方がいい……となると、銀座から一番近い国際港である横浜港を選んだのも納得できます。あれだけ大きな港なら御大尽が自動車で送迎されることも珍しくありませんしね。逆に目立たないかと」


 感心したように「なるほどね」と頷く少年に、緋田は補佐二人に続いて畳に拳をつけ、頭を下げた。


「今度のこと、言ってみりゃあ棚主の兄さんの自業自得って面もあります。あの人にはあの人なりの筋があったんやろうが、所詮暴力を金に換える生業……こういう問題が起こるのは、覚悟しとくべきです」


「うん、そうだね」


 少年が上座で足を投げ出し、緋田に向かってにんまりと笑った。「でも、見捨てる気はないんだろ」と、そう続ける少年に緋田はさらに頭を下げる。


「ワシは極道です。ヤクザとはちゃいます……千住緋扇組、規模は大きゅうないかもしれんが、正月や祝い事の時にはよその組の大親分が、何人も挨拶に来てくれはる……何でか分かりますか、『若』」


 若と呼ばれた少年は、にやにや微笑を浮かべたまま首を傾ける。


 緋田の役職である『若頭』は、組の()い衆の()目、子分の筆頭という意味だが、上座の少年の呼称である『若』は、()様の若であり、組長の跡継ぎを意味する。


 緋田は既に死亡した組長を除くと、自分の唯一の上司である若に、頭を垂れたまま低い声を重ねる。


「ワシらが命の賭け時に、打算をせんからです。いつ官憲や無法者に叩き潰されるか分からん自警団やったワシら緋扇組には、金や損得勘定よりも大事なモンがある。それが筋であり、義理人情です。自分らが死んでも民を守る……そのために結成されたのが、緋扇組なんです。よその親分達は、そのさがうてくれとるんです」


 緋田が顔を上げ、懐から封筒を取り出して畳の上に置いた。少年改め若が、「うはっ」と声を上げて笑う。


「ワシの署名と血判を押した紙が入っとります。あとは封筒に破門状でも、絶縁状でも、好きな字を書いてください。山田家の連中が緋扇組に狙いをつけたら、こいつがモノ言いますよって……」


「山田家ってそんな凄いの? ありふれた名字だけど」


「ワシは最悪、山田栄八をぶっ殺すつもりです。ヤツは本家の当主になる男やから、親戚の政治家やら何やらが動くことは十分考えられます……もしワシが帰らんかったら、この二人が万事対処しますんで」


 補佐二人が頷くと、若は「そっか、頑張れよー」とひらひら手を振った。


 緋田が深々と頭を下げると同時、畳の上を足音が近づいてきて、頭上でびりびりと嫌な音がした。

 むっと口を引き結ぶ緋田の顔を、畳に這いつくばるように若が覗き込んでくる。


 ぞっとするような笑顔でばらばらになった封筒を差し出してくる彼に、緋田が勢いよく顔を上げて深いため息を吐いた。


「こんの、ガキャぁ……」


「緋田。お前心底俺のこと舐めてんのな。あれだろ、死んだ親父にまだまだ及ばないとか、もうちょっと年取らせなきゃ組長任せられねぇとか思ってんだろ」


「当たり前や。十四のガキに組長張られてたまるかいな、阿呆らし」


「わ、若頭わかがし、言葉遣いが……」


 動揺する補佐二人の前で緋田はあぐらをかき、煙草まで取り出してマッチを擦った。


 緋扇組は数年前に抗争で組長を亡くして以来、組長不在の状態で活動を続けている。跡継ぎである若がまだ幼く、また、幹部の誰もが代行を務めることを拒んだためだ。

 故に今は、若頭である緋田があくまで組織のナンバー2として、若が成長するまでの期限付きで組を取り仕切っている。


 紫煙を吐き出しながらふて腐れる緋田に、若は天井を見上げて何事か熟考していた。

 やがて「よし!」と手を打つと、緋田の頭をぱしんと叩いて宣言する。


「若頭緋田の義理は組の義理だ! てめぇ一人じゃ行かせねぇ!」


「兵隊つけてくれる気なら結構でっせ。同じように血判押した子分、何人か連れてくつもりやから」


「俺も行く!」


 若が叫んだ瞬間、その眉間を緋田の中指が音を立てて弾いた。

 補佐二人が「あっ」と同時に声をあげ、若が怒り狂って緋田の首を腕で固めにかかる。

 顎を引いて軽く若の締めを防ぎながら、緋田は不機嫌そうにやや大きな声を出した。


「先代やったら黙って行かせましたわ! 若! 駄々こねるんも大概にしてください!」


 緋田の首に腕を絡ませたまま、若がぶすっと顔を曇らせる。


「だってよぉ、俺は棚主とかいう人に会ったことないけど、緋扇組が助けてやらなきゃなんねぇ人なんだろ?」


「……あの人が穴鳥組に目ぇつけられた原因が、うちに出入りしとったことですから。見捨てたら侠客の名がすたります」


「だろ? つまりお前は義理人情でそいつを助けに行くんだよな? だったら俺達も義理人情でお前を助けなきゃいけないことにならねぇか? 同じ組の仲間なんだからさ。お前だけ筋通そうとするなんて汚くねぇか? 汚ぇよな?」


 緋田を指さして「こいつ汚ぇーぜ!」と叫ぶ若に、とうとう補佐二人が笑い出した。

 煙草を持った手でこめかみを押さえる緋田に、片目に傷のある補佐が「諦めましょう」と肩をすくめる。


「確かに若の仰ることも道理だ。俺達は全員侠客であり、極道です……全員に戦う理由がある」


「阿呆ぬかせ。山田家を敵に回したら面倒やぞ、下手したら組の存続に関わるかもしれん」


「自警団は命の賭け時に打算をしない……ですよね」


 緋田の顔が歪み、他の三人を順に睨んだ。


 家族を持つ人間で構成される組織が、義理人情を動機として存亡を賭けた戦いに挑む。こういったことを大真面目に行うのが本来の極道であり、侠客だった。


 特に緋扇組は、元来が悪法や官憲の理不尽をも敵に想定し、自ら犯罪者となり戦うことを選んだ民間の決死隊がルーツだ。そもそも組を利益重視の『会社』のように運営し、繁栄を図るという発想がない。


 どんなに大所帯になろうと、たった一つの『義理』で全体が動く。そんな組織なのだ。組員達の家族も、それを常に心得ている。


 若がようやく緋田から身体を離し、偉そうに顎を上げて言った。


「自分が死んでも民を守る、筋を通す。それが極道なんだろ? 奇麗事叫びながら戦死するのが極道の本懐なんだって、お前いつも言ってるじゃねえか」


「……腹立つわぁ、ホンマ……なんやねん、お前ら」


「語るに落ちたりってやつですなあ。ま、若にはここで総司令官の役でもやってもらいましょう」


 事実上の留守番を言い渡され慌てて口を開こうとした若を、緋田が「しゃあない!」と叫んで押しのけた。


「組員召集や! 志願する者だけ連れて横浜港へ行く! 残る者は家と若を守れ! 得物と馬車の手配、それと何ぞ顔隠すモン用意せえ! 緋扇組が動いとることは意地でも悟らせるんやないぞ!」


 補佐二人の気合の入った返事を受けながら、緋田は棚主にどれだけの時間が残されているのか、知りようのないことを考え、歯を軋ませた。




 同じ頃、棚主の捕らえられた客船が停泊する横浜港では、立て続けに何度も銃声が響いていた。

 山田栄八に買収された港の警備員達は、その銃声を他の利用者に「船上パーティーで爆竹と空砲を使っている」と説明し、わざわざ港の入り口に同じ文句を記した看板まで設置していた。


 銃声の発生源は客船下層の、だだっぴろい鉄壁に囲まれた空間。未だ用途すら決めていない空き部屋だった。その中央に軍服の男が立ち、古い軍用拳銃を様々な射撃姿勢で発砲している。


 人間の形をした木製の的は、跳弾ちょうだんを防ぐために床に重ねられたもみ殻袋の山の中に立っていて、未だ一発の弾丸も受けてはいない。

 代わりにもみ殻袋のいくつかに穴が開き、中身をこぼしていた。


「……くそっ……!」


 小さく悪態をつき、男は拳銃を撃つ。乾いた音を上げて発射された弾丸は的の右腕をかすめ、薄暗闇の中に消えていった。弾丸を撃ち尽くした男は拳銃を的に投げつけたが、それすらももみ殻袋にしか当たらず、空しく床を転がる。


 男と的との距離はかなり離れていて、常識的な射撃訓練の基準距離を大きく上回っていた。それでも両目が揃っていた頃は、全ての弾をたやすく命中させられたのだ。


 棚主との戦いで傷ついた口端や胃が痛むのも構わず、男は懐から酒の入った水筒を取り出してラッパ飲みした。かつて必中とさえ自負した射撃の腕を取り戻そうと足掻くのは、既に彼の日課となっていた。その努力が実を結んだことなど、一度としてないのだが。


(お前は撃たなければ価値のない人間だ)


 かつて先輩の古年兵こねんへいから言われた台詞が脳裏をよぎる。


 人を褒めるにも傷つけながらでしかできない男だったが、その毒舌すら帳消しにするほどの羨望せんぼうの色が、彼の目には宿っていたものだ。


 誰もが自分の銃の腕に憧れていた。そして頼っていた。地獄の戦場を突き進む時、隣にいるのが自分だと知った時の仲間の喜色に満ちた顔。それこそが一兵卒に過ぎない自分にとっての勲章くんしょうだったはずだ。


 前線に出て来ない高級将校には理解できない名誉だ。彼らにとってはくだらない、ささやかな誇りかもしれない。


 雑兵が、ちょっと的当ての才に秀でているだけ。そのために同じ雑兵の信頼を、多く得ているだけ。出世に直接影響するわけでもない、戦局を大きく変えるわけでもない。


 だがその才能を片目と共に奪われた時、男は正に何の価値も認めてもらえなかったのだ。軍にも、上官にも、そして、港に迎えに来た国民にすら。


 銃を撃てなくなった男は戦後一方的に除隊を宣告され、上官にはねぎらいの言葉一つ貰えず、まるで荷物のように輸送船に押し込まれた。

 そうして帰還した祖国で待っていたのは、頭のおかしい狂った民衆の罵詈雑言ばりぞうごんだったのだ。


「俺は英雄だ……国のために戦い、負傷した……誰にも嘲られるいわれなど……」


 震える声で呟き、男はさらに酒をあおった。


 戦後、男はどんなに飲んでも酔うということを知らなくなった。胸の奥に常に火種のように燃え続ける不満と憎悪が、男からあらゆる逃避と休息を奪い続けていた。


 心因性の異常は体中をむしばみ、人生の快楽を拒絶する。舌は味覚を失い、食事の喜びを伝えなくなって久しい。脳は微妙な熱を持ち続け、夜の眠りを妨げる。女性を抱きたいと思うこともなくなった。


 男が最近感じた喜び。心から楽しいと思った出来事。

 それはつい先程の、棚主との殺し合いだった。


 そもそも男が護衛屋などをしているのも、ただ食う金に困ったからではない。

 長く兵卒として戦争を戦ってきた男は、たとえ一番の武器である射撃の才能が潰れても、戦いこそが自分の本分になってしまっていたのだ。


 正しい距離感を持たない、銃を撃てない自分は軍においては無用の長物。だがだからといって一般社会に戻り、傷病兵として周囲の哀れみの目を受けて生きるなどまっぴらだった。


 夜の街をさまよい、わざと治安の悪い場所に出向いて犯罪者やヤクザと乱闘を繰り返す内、たまたま不埒者ふらちものに襲われていた山田家の人間を助け、腕っ節を買われて護衛に雇われたのだ。


 殺意をもって向かって来る敵と相対している時のみ、男は全ての悲哀を忘れることができた。相手の肉体が壊れる音と悲鳴が、懐かしい戦場を、強い兵士としての過去の自分を、鮮明に思い出させてくれた。


 だからこそ男は悔しかった。

 護衛屋となってから出遭った数々の敵の中でも、棚主は特に強く、手ごわい相手だった。

 かつて一対一の戦いでこれほど多くの拳を受けたことはなかったし、逆にこれほど多くの打撃を食らわせて倒せなかった相手もいなかった。


 打ち合って、死の危険を感じる強敵。彼と殴り合っている間、男は惨めで無残な自分の半生など忘れ、心から楽しいと思う死闘に興じることができた。自分が戦士である、確固たる実感を得ることができていた。


 ……彼ともう一度戦いたい。横槍の入らぬ場で、決着をつけたい。


 かつて国を愛し、国民を愛し、兵士としての大義を信じていた青年の姿はそこにはなかった。

 戦争で家族と戦友を失い、全てに裏切られた彼は、今、更なる戦いだけを求めている。


 誰かを、何かを守るための戦いではない。

 それは自分の魂を慰めるためだけの戦いだった。




「紳士淑女の皆様、本日は当客船をご利用頂き、まことにありがとうございます」


 芝居がかった口調でほざく森元に、鴨山がへらへら笑いながら拍手をした。


 社交室の床には雨音が変わらず長椅子に繋がれていて、そのすぐそばに棚主が立っている。

 上半身は裸で、銃弾を受けた左肩には包帯が巻かれていた。頭上に伸ばした両手を拘束する手錠の鎖には、さらに別の鎖が通され、天井を走るはりと繋がっている。


 座ることも倒れることもできない、万歳の姿勢で拘束された棚主を、鴨山と天道栄治は交互に十分以上もかけて殴った。


 常人なら死んでもおかしくないはずだったが、棚主は殴られている間息をほとんど吐くことなく身体を強張こわばらせ、二人の拳を無言で受けきった。殴られた口の端や鼻から血が滴り、胃から押し出された胃液と未消化の肉が床に落ちたが、眼球や骨を砕かれることはなかった。


 まるで熊のような硬い筋肉に、天道栄治は逆に殴っていた拳を痛め、鴨山も殴り疲れて自分から離れてしまったのだ。信じがたい、正に獣のような頑強さだった。そもそも棚主は拷問の前に軍服の男と散々殴り合い、銃弾まで受けているのだ。


 森元はそんな棚主のそばに歩み寄り、顔を覗き込みながら愉快そうに笑う。


「本船は今日一日で出港準備を終え、広い広い公海へと出て行きます。ここでゲストに訊いてみましょう。『生ゴミ』に分解されるのは出航前がいいですか? 後がいいですか?」


「あんたが決められることなのか」


 俯いて喉を守ったまま低く返す棚主に、森元は肩をすくめて仲間を振り返る。


 絨毯の上に座った鴨山の後方には天道栄治がいて、忌々しげに痛めた拳を冷水で冷やしていた。鴨山が顎に手を当て、「ま、なんだ」と首を傾ける。


「我らが山田栄八が決めることだ、が、正直あのおっさんもどっちでもいいと思ってるんじゃねぇかな。一日ありゃぁたっぷり恨みは晴らせるし、助けの絶対来ねぇ海の上で絶望するざまを見るのも、悪くねぇしな」


「そうですね、他にもどっちが先に死ぬか、順番のリクエストも聞いてもらえるかもしれませんよ」


 森元が雨音を見ると、彼女は泣き尽くして涙も出なくなった目で睨み返す。


 その様子に「おお」と声を上げると、森元は軽快なステップを踏んで雨音の目の前にしゃがみ込んだ。


「なんと力強い目でしょう、これは面白い! 一人さらわれて来た時は子供のように泣いて許しを請っていたのに、今はこんなにも生意気だ! よほどお仲間が増えたのが心強いと見える」


「地獄に落ちればいいわ……」


「地獄? 我々が? それともあなた方が?」


 森元は顎に手を当て、雨音と棚主を交互にわざとらしい仕草で見る。


「まさか、自分達が被害者だなんて思ってませんよね? ぼっちゃんを結託して二目と見られない顔にしたくせに……」


「あなたに何が分かるのよ!」


 吼える雨音に、森元は感情の見えない彫刻のような笑顔を向けた。


 森元の膝がゆっくりと伸ばされ、長い両腕を左右に広げながら天井を仰ぐ。


「あなた方の態度を見ていると、どうも不当な制裁を受けているように感じておられる気がしてなりません。特に棚主さん、あなた先ほどぼっちゃんに大層なご高説を垂れておられましたが……」


 棚主の反応がないことを確認すると、森元はその場でくるりと一回転して床を踏み鳴らす。


「『雨音はお前を待っていたんだぞ』……ですか。いやはや、なんとも勝手な言い分だ」


「……」


「それが人を切り刻む理由になるとでも? 恋人が自分の元に帰って来ないから、いっそ傷つけてしまおうなんて発想は、病的としか言いようがない」


 目を伏せる雨音の代わりに、そこで始めて棚主が顔を上げ、森元を見た。

 無言無表情の棚主に、森元は首を傾け、あざ笑うように問う。


「義賊のつもりですか? 哀れな女性に助太刀したつもりですか? 自分がどんなに薄っぺらいことを言ったか、理解してます?」


「雨音にどんな罪がある?」


 真顔で返した棚主に、森元が笑顔を消した。

 軽薄で大仰な男の顔が、不意に凍った湖面のような冷気を帯びた。


「実家から金銭を盗んだことと、傷害の教唆きょうさ。これは立派な犯罪ですよ。動機は罪を軽減することはあっても、帳消しにはしない」


「根拠は法律か? あんたは元警官だ……善悪を法律で判断する習慣が染み付いてるんだろう」


 睨み合う二人の脇で、鴨山と天道栄治が唖然として目を見開いていた。顔にも腹にもさんざん拳を入れたはずなのに、棚主の受け答えは拷問の前と少しも変わらず、しっかりしていたからだ。


 棚主はくいと顎を上げ、森元を見下ろす。冷ややかに、口角を下げたまま、無感情に。


「ああ、俺達は犯罪者だよ。法の基準に照らし合わせても、被害者なんかじゃない……こうしてあんたらの私刑にかけられるのも、自業自得だろうさ」


「……『しかし』?」


「法なんざ知ったことか」


 棚主が突然森元に顔を寄せ、歯を剥いた。


 反射的に一歩下がる相手に、棚主が異常に低く、別人のように濁った恐ろしい声を放つ。


「法は所詮社会を守るためのものだ。人間を守るためのものじゃない。雨音を罰することはあっても、彼女を飢えさせ、傷つけ、隷属させた父親や、善意の人として希望をちらつかせておきながら裏切った、そこの栄治を罰することはない。父親の行為は今の法では『しつけ』として是認されるだろう。そして栄治の罪も、雨音には糾弾できない。警察に行けば先ず雨音の方が逮捕されるし……栄治は、山田栄八が守るだろうからな」


 棚主の口角が上がり、歯茎が見え始める。だがそれは笑顔ではなく、犬や狼が相手を威嚇いかくする時の、敵意の表れとしての表情だ。目は笑っておらず、鼻面にしわがいくつも走り、人ならざる顔に変えていた。


 森元はさらに一歩下がったが、その目は棚主をまっすぐ見返していた。唾を飲み込み、言葉の続きを待っているようだった。棚主はさらに続ける。


「雨音が栄治への恨みと未練を捨てるには、何らかの形での決着が不可欠だった。……五年以上の猶予ゆうよがあったのに、そいつ(栄治)は行方をくらまし続け、何の義理も果たそうとしなかった」


「会えるわけがないでしょうよ、自分が……」


 売った女に。そう続けようとして、森元は慌てて自分の口を塞いだ。

 背後の天道栄治の鋭い視線を感じたからだ。棚主はそんな森元に、吐き捨てるように言った。


「そうだ。そして雨音もまた、今更自分から会いに行こうとは思わなかった。栄治の前に再び姿を現せば、復讐を終えた時に真っ先に彼女に嫌疑がかかるし……恨みを捨てられるだけの言葉や誠意が、栄治の口から出てくるとも、思えなかった」


「だからあなたが復讐を代行した? 金づくで? それで雨音は満足して、幸せになると?」


「そうだ」


 森元はポケットからハンカチーフを取り出し、額の汗を拭った。棚主の形相が次第に元に戻っていくのを横目に、首を振りながら息をつく。


「まるで獣だ。復讐の末に幸せになろうなんて……」


「おい、もういいだろ」


 鴨山が立ち上がり、少しいらついた様子で森元に声をかけた。


「あんた、つまらねぇことを気にしすぎだ。やっぱり『元』がついても警官だな」


「どういう意味です」


「俺達は理屈なんざどうでもいいんだよ」


 鴨山が自分と棚主を『俺達』とくくったのを聞いて、森元は片眉を上げた。


「社会規範だの、法だの……自分の考え方が他人にどう思われるかなんざ、気にしちゃいねぇんだ。やりてぇようにやる。文句言うヤツはぶっ殺す。悪党ってのはそういうもんなんだよ」


「あなたはそう開き直ってるんでしょうが……」


「そう、開き直るのが大事なのさ」


 森元の肩に腕を回し、鴨山がにやりと笑う。


「あんたも儲からねぇ腐れ警官から、山田家お抱えの悪党になるんだろ? 甘い汁を吸いたけりゃ、どんどんゲスな考え方を覚えるべきだ。理路整然とした思考は捨てっちまいな。それが金持ちへの早道だぜ……とりあえず」


 鴨山の目が棚主に向けられ、下卑た笑みに歪んだ。


「この糞生意気な野郎に地獄を見せる方法でも考えようぜ。殺すなとは言われてるが、五体満足でいさせろとは聞いてねぇ……ぼっちゃんだって、やりてぇことがあるだろうしよ」


 天道栄治を見ると、彼はどこから取り出したのか、短刀の刃をシャンデリアの光にかざして肩をゆすっていた。


 森元はようやく顔に笑みを取り戻し、眼鏡を中指で押し上げながら応える。


「……では、船医に準備をさせましょう。安全に、生かしたまま、まぶたと唇を剥ぐ準備を。ついでに料理人も呼びますか、剥いだ肉を焼いて女に食わせるのも面白い」


「おっ、いいねぇ。悪い顔になってきたぜ森元さんよ」


 愉快そうに笑う彼らから目を背け、雨音は唇を噛んで棚主を見た。棚主はあざの浮かんだ顔を誰にも向けることなく、俯いている。


 棚主の舌が、静かに歯をなぞり、隙間に潜んでいた針金を押し出し始めていた。

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