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無名探偵  作者: 真島 文吉
二章  血戦
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 ラッパ型の蓄音機から英語の歌が流れる。

 若い女が歌う、神を賛美する歌。

 キリスト教に興味はないが、純粋に歌い手の声が好きだった。


 広く豪奢ごうしゃな空間。磨き上げられた石床の上には絨毯じゅうたんが敷かれ、高い天井からはシャンデリアの光が降り注いでいる。男は部屋の中央で長椅子に座り、右目を閉じていた。

 左目は開かれ、まばたきをしない。ぎやまん(ガラス)の眼球は透き通っていて、中に入った松ヤニの塊が、瞳の代わりに天井を睨んでいる。


 義眼の男はカーキ色の軍服を着ていて、両手を膝の上で組んでいる。端麗な顔つきではあったが、髪は中途半端に伸びて襟にかかっており、無精髭も生えている。どことなく疲れた雰囲気がまといついていた。


 男には名前がない。

 かつての露西亜との戦争を境に、彼は自分を表すあらゆる名称を取り上げられていた。



 日本と露西亜が衝突したかの戦争は、最終的には日本の勝利という形で幕を閉じた。

 だが、世界を席巻していた白人国家を、有色人種の国である日本が打ち倒したという華々しい筋書きとは裏腹に、戦後日本が得たものは国民が納得できる類の戦果ではなかった。


 他の戦勝国が当然のように得ていた賠償金はろくに支払われず、代わりに南樺太みなみからふとの領有権や、かつて日本が清との戦争で勝ち取り、三国干渉で放棄させられた遼東リャオトン半島の租借権そしゃくけん等がもたらされた。


 これらの戦果は後に国際社会での日本の地位の確立や、関税自主権の回復などにつながるのだが、具体的な戦果としての賠償金を得られなかったことは国民を激怒させた。

 その怒りは政府や軍上層部に留まらず、時に戦場を生き抜いた兵卒にまで向けられた。



 かつて兵士として銃器の取り扱いに精通し、狙った的は決して外さないとまで言われた男の左目は、敵の銃弾に貫かれ距離感を失っていた。戦後、ふらつきながら港に降り立った彼を真っ先に出迎えたのは、見知らぬ老人の拳だった。


 勿論老人はすぐに取り押さえられたが、その口は自分の国の兵士達への憎しみを吐き出し続けた。自分の息子が、戦場から帰って来なかったこと。彼の死に報いるだけの戦果を、誰も勝ち取って来なかったことへの怒り。そして、のうのうと無事に帰って来た者への、憎しみ。


 港に集っていた人々の半数は、老人に同情しながらも所詮八つ当たりに過ぎない暴力をとがめた。だが残る半数は、あろうことか老人に殴られた男に罵声ばせいを浴びせ始めたのだ。


 老人と同じように、戦争で家族を失った者。あるいは全くの外野から、世論を根拠に政府と軍を非難する野次馬。そういった人々が、老人に殴られたことで戦争の実行者の象徴のようになった男に、ありったけの怒りを嵐のようにぶつけた。


 その怒号の中に、男を迎えに来た母親の悲痛な叫びがあったはずだった。だが父と兄弟を同じ戦場で亡くし、多くの戦友の死を目の当たりにし、片目と、兵卒としての命と言える銃の腕を奪われていた男は、胸に満ちるどす黒い感情をとどめることができなかった。


 断末魔のような凄まじい咆哮を上げ、取り押さえられた老人の頭部を蹴りつけた。若い兵卒の蹴りは老人の額を割り、そのまま襟を掴んで殴りつける。


 観衆が悲鳴を上げ、老人を取り押さえていた兵士達が慌てて男を制しに腕を伸ばした。だが引き離される前に、男は老人のまぶたに食らいつき、獣のように噛み千切る。


 男はそのまま連行され、血にまみれた軍服のまま営倉にぶち込まれた。


 後日、老人が病院で息を引き取ったと聞いた瞬間、男の人生は終わった。

 軍からのあらゆる庇護を断たれ、兵卒ではなく、一般人として牢に入れられた。

 多くの目撃者がいたせいで詳細な経緯が証言され、多少の情状酌量じょうじょうしゃくりょうはあったらしいが、それでも数年の禁固刑を受けた。


 ……刑を終えて自宅に帰った時、母は既にいなかった。


 彼女の代わりに住んでいた老婆が男に差し出した手紙には、ただ短く『名ヲ捨テ、幸セニ生キヨ』とあった。


 母の消息は、分からない。

 男は命ぜられたままに名を捨て、しかし幸せになる方法も思いつかず。

 今、山田栄八の元で働いている。



 フォードが停車したのは、棚主が千秒を三回数えた直後だった。

 銀座から車で約一時間、視界を奪われた闇の中、潮の臭いと波の音が聞こえる。


「降りてください。足元に気をつけて」


 眼鏡の男の柔らかな声が聞こえた後、乱暴に腋を持ち上げられる。

 目隠しをされたまま車を降りると、靴底がごつんと音を立てて板の上に乗った。


 そのまま両腕を取られ歩き出す。靴底に意識を集中させると、板の下にしっかりとした地盤のようなものを感じる。さらに途中で、鉄の感触が等間隔に数度、足を伝ってきた。脳裏に桟橋と、そこに走る軌道の絵が浮かぶ。


「……横浜港」


 小さく呟くと、両脇から息を呑む気配を感じた。

 すかさず眼鏡の男の声が、正面から返ってくる。


「ほう、何故分かったんです?」


「銀座からフォードで一時間以内。複数の軌道がある鉄造桟橋となれば、横浜港だ。船にでも乗せる気か?」


 返事の代わりに、目隠しの布が勢いよく外される。

 夜の大桟橋、居並ぶ船。静まり返った横浜港。棚主の予想通りの光景。

 眼鏡の男は外した目隠しの布をぽいと投げ捨て、自身の後方に停泊している鉄造船をてのひらで示した。


「少し無骨な外見ですが、れっきとした客船です。あなたと天道雨音のために、山田栄八が用意しました」


「随分気前がいいじゃないか。金がかかったろうに」


「そうでもありません。ご存知かと思いますが山田家は大変な名家でしてね、この船は来年運航が開始されるのですが……所有している会社が山田家の持ち物なのです」


 傾斜のきついタラップを上りながら、眼鏡の男は愉快そうに両腕を広げて続ける。


「これからお客を乗せるための設備を整えるのですよ。徹底的に掃除しますので、二つぐらい生ゴミが増えても問題ないというわけです。ちなみに叫んでも無駄ですよ、港周辺はすでに手を回してありますので、助けは来ません」


「あんた、警官か」


 唐突な問いに、眼鏡の男は甲板に降り立ちながら微笑む。


森元もりもとと申します。一応警部補の端くれでして」


「警官のくせにこんなことに加担かたんして、恥ずかしくないのかい」


「あなたに私を責める資格が? 金次第で何でもする犯罪者でしょうが」


 嘲笑する森元を、棚主は静かに睨みつける。夜の海の向こうで、何か大きな生き物が音を立てて海面を跳ねた。


「私もね、同じなんですよ。山田栄八の権力の恩恵を受けられるなら、警官の正義は二の次なんです。あの方は職を辞した後も私を傍に置いてくださった……何故か分かりますか?」


「知ったことか」


「忠節を尽くしたからです。警官時代、私はあの方のためにどんな汚れ仕事でも引き受けてきた。便利な男なんですよ、私は……だからこれ以降も、あの方の下で甘い汁が吸えるんです」


 これ以降も、という言葉に、棚主が怪訝な顔をする。


 森元はそんな棚主の表情を楽しむように、軽やかな足取りで船の内部へと続く階段を下りて行った。

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