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無名探偵  作者: 真島 文吉
一章  無名探偵
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序章

この作品は一次創作です。

 時代は明治から大正へと移った。

 世の人々はそれを、まるで新世界の幕開けであるかのように祝い、歓迎する。


 だが少なくとも棚主たぬしという男にとって、大正という言葉自体には、何の偉大さも重みもなかった。


「時代の区切りが変わっただけ。呼び方が変わっただけ。世界は何も変わらず、何も解決しちゃいない」


 棚主はそうつぶやき、度数の高い電気ブランを水のように飲み干す。

 口中をう、正に電気のようなしびれ。心地良さそうに唇を舐める彼を、対面の席に座った女が射殺すような目で睨んだ。


 暗い室内。木製のテーブルに置かれた安っぽいキャンドルの明かりが、かろうじて二人の顔を照らし出している。

 黒髪を撫で付けた精悍せいかんな顔つきの棚主。対して女の方は、白髪交じりの髪を手入れもせずに伸ばしっぱなしにして、少し、痩せ過ぎていた。


 女の名前を、棚主は知らない。ただ彼女が自分同様、大正という新時代を歓迎できない人間だということだけは知っていた。彼女は今、未来ではなく、過去と向き合っている。


「好きなだけ飲んで。電気ブランだけは沢山あるのよ……夫が好きだったから」


 かすれた声を出す女に、棚主は歯を見せて、ニッ、と笑ってみせた。


 自分の亭主より遥かに素直な笑い方をする彼を、女は睨み続ける。怒りゆえではない。その視線は自分の人生に欠けているものを、渇望する視線だ。

 強い男。余裕のある男。……世の道理を、分かっている男。


 女は乱れ果てた髪を申し訳程度に指でいてから、酒を飲み続ける棚主に精一杯の猫撫で声を出した。


「それで……どうだったの? 私の夫は、どこにいたの?」


「品川の遊郭ゆうかくで、遊女の間夫まぶをしていましたよ。間夫ってのは、つまりヒモみたいなもんです。……御依頼どおり、二度と女に近寄れない顔にしておきました」


 棚主が笑顔を消して、いきなりテーブルの上にバン! と左手を叩きつけた。

 その掌からじわりと赤黒い液体が広がり、テーブルを伝って女の膝に滴ってくる。

 唾を飲み込む女の両手が、そっと棚主の左手を取り、テーブルから引き剥がす。


 ……そこには、女の見慣れた『顔』があった。女が幼く愛らしかった頃、その耳にむずがゆくなるような愛をささやいた唇。そして恥らう女をじっと見つめていた目を縁取っていた、形のよいまぶたが、そのまま切り取られて張りついていた。


「ああ……!」


 恐怖とも歓喜ともつかぬ声を上げる女が、手に取ったままの棚主の左手を握り締めた。

 伸びた爪が食い込むのを気にもせずに、棚主は電気ブランを空け続ける。


「失踪人の捜索はよくある仕事ですがね。その後の復讐ってのは、普通、探偵には頼まんものです」


「……組のお兄さんから聞いたの。憎い男をらしめるには、あなたに頼むのが一番だって……」


 組とは、つまりヤクザの組のことだ。女は地方の有力者の家に生まれながら、惚れた男と共に家を捨てて上京して来ていた。


 当初は男の方も女に本気で惚れていたらしく、仲睦なかむつまじく真面目に暮らしていたらしい。だが、ただ愛だけを頼りに世間知らずの男女が生きていけるほど、帝都東京は甘くない。


 男はせっかく見つけた仕事を、片っ端からヘマをしてクビになり、すぐに働かなくなったという。女が家から持ち出した金を酒に替え、賭場とばに出入りするようになった。


 生活費が底をつくのに、一ヶ月とかからなかった。男は何も知らぬ女の元に金貸しとヤクザを連れてきて、あっさりと借金のカタに引き渡したのだ。


 以降、男は自由の身となり、女はヤクザの情婦となった。


「言っては何だが、ありがちな話です。若気の至りの代償は、人生の破綻はたんだ」


「借金は五年で返せたわ。昼も夜も、ケダモノどもと床を共にして……でも、私にはもう帰るところがないの。駆け落ちした私を、実家の連中は許さないわ。だから私は……ずっと、ずっと、ヤクザの情婦よ」


 自嘲を隠しもせずに笑う女を、棚主は初めて憐憫れんびんの目で見た。いつまでも自分の左手を離さない女の剥き出しの肩を、咳払いと共に軽く押しのける。


 ……寒くないのか。


 男と寝た後、裸のまま棚主を出迎えた女は、闇の中でずっと服を着ようとはしなかった。

 まるで、闇をまとっていれば服を着ているのと同じだとばかりに、女は堂々としている。


 その白く整った顔に、あからさまに媚びの色がにじんだ。女の手が、キャンドルのそばに厚い封筒を置く。


「謝礼よ。ありがとう、私の過去に決着をつけてくれて」


「仕事ですから……それより、くれぐれもこのことは他言しないように。別に私ゃ困りませんがね。もしあなたの言葉が原因で、私が一時でも警察に睨まれたりしたら、あなたに私を紹介したヤクザの面子めんつが、潰れることになる。私があなたの復讐を代行したことは、当然違法行為に当たるわけですから。墓まで持って行く秘密にしてもらいますよ」


 封筒の中身を確認する探偵の言葉に、女は「大丈夫よ」と、俯きながら笑った。


 棚主はあくまで非合法な依頼をも受ける『探偵』であり、ヤクザの身内ではない。

 ただ同じ犯罪者として、協力者や情報提供者として、一部の組に顔見知りがいるだけだ。

 女がヤクザを本気で怒らせた時、仲裁してやれる保証はない。


「面子を潰されたヤクザの怖さは、よく知ってるわ……ねぇ、探偵さん。また会って下さる?」


「何故会う必要があるんです?」


「そのおひげ、素敵だわ」


 棚主のあごに数本の線のように生えた髭は、ごく短いものだ。

 それがよく見える距離まで顔を寄せてくる女の胸元が、キャンドルの明かりに浮かび上がる。

 だが、挑むような目を向ける女に対し、棚主は封筒の金を数える指を止めない。視線を外したまま、女に言った。


「何故『電気ブランだけは沢山ある』んです」


「……え?」


「自分をヤクザに売った、憎い亭主が好んだ酒を、何故あなたは今も買い続けてるんです。この家には、満足な明かりすらない。あなたには他に買いたい物がなかったんだ」


 封筒を懐にしまい、棚主が闇の中から、ハットを取り出して、被る。

 呆けたような顔をする女の肩に、立ち上がった棚主がそっと手を置いた。


「あなたは帰って来て欲しかったんだ。この電気ブランは、御亭主のための酒だった。あなたの前に座るのは、私ではなく、御亭主のはずだったんだ」


「いい加減なこと、言わないでよ」


「心の底で、ある日突然、迎えに来てくれることを夢見ていたんだ」


 肩に置かれた棚主の手に、女の長い爪が再び食い込んだ。鬼の形相に変わった女が、ふー、ふー、と、鼻で息をする。その目に、怒りで涙がにじんだ。


「ゲス野郎よ……あいつのせいで、私は地獄を見た」


「そのとおりでしょう。だが、故郷に帰れないあなたにとって、この東京では御亭主だけが身内だった……憎くても、未練があったんだ」


「勝手な憶測で女をなぶるのも仕事の内? 莫迦ばかにしないで!」


 立ち上がった女の平手が、棚主の頬を打った。乾いた音が響くが、同時に、打った頬がびくともせずに掌を受け止めていることに、女は驚愕きょうがくする。

 無言で見下ろしてくる棚主に、やがて女の方が腰をぬかし、尻餅をついた。その顔が、闇の中でくしゃくしゃと崩れる。


 すすり泣く声に、棚主は被ったばかりのハットを脱いで、頭を下げた。


「申し訳ない。わざと泣かせました。『俺』はこういうヤツですよ、奥さん」


「……はっきり拒まれた方がマシだわ! なんて酷い人!」


 泣き続ける女を後に、棚主は闇の中に消える。暫くしてから、きぃぃ、と頼りない音と共に扉が開き、月明かりが室内に差し込んだ。


「どこかに、窓を開けた方がいい。この部屋は外よりも暗い」


「ねぇ、待って……おねがい、謝るから。また会って頂戴。ね? ね?」


「だから、何故、会う必要があるんです」


 月明かりの中、背中越しに振り返る棚主に、女は目元を拭ってから、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。


「友達が、欲しいのよ」


 一瞬目を見開いた棚主が、少し間を開けて……


 そいつはいい、と、笑った。


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