高天原の少女
階段を昇りきって、屋上の扉を押して開く。
風の所為か微動だにしなかったドアは、数秒力をかけるとすんなりと開いてくれた。
さあっ、と全身を撫でていく風が心地いい。不快感を拭い去ってくれる。
「……?」
その風に、少しの違和感。
花の香りがするのだ。風に乗って運ばれてきたらしい。……ただ、見渡す限りが群青の、この視界のどこに花などあるのだろう。
その芳香を鼻を頼りに目でなぞりながら歩いてゆく。それほど広くないんだ、すぐに謎は解ける――。
そう思いながら、振り返るとそこには。
「……花、畑?」
咲き乱れている、色とりどりの花々。幾つもの季節がそこに立ち止まっているかのように、それらは多種多様な輝きを放っていた。バラにチューリップ、パンジーやスズラン――。
――そうだった。屋上は、生徒の心を癒すため……とかいう理由で『屋上庭園』として開放されていたんだった。
本当に痴呆が始まってるのかもしれないな……なんて思っていると、その中に一際美しい光沢を放つ黒を見つけた。
黒い花なんて、珍しいな――そう考えながら歩みを進める。黒い花、というとどんなものがあったろうか――。それにしても、本当に綺麗な黒だ。そう、まるで女性の髪のような……。
「……髪?」
さらりと流れる、黒い川。そこから少しだけ覗く、白い首筋。艶かしくも美しい、それは確かに女の人の頭で。
思い込みとはなんて恐ろしいものなんだろうか――女性を花と見間違うなんて。
本当に花にしか見えなかった。花と思い込んでいたにしても、やりすぎなほどに。
花弁の一つ一つだって、俺の目には確かに見えていたというのに。
「何を……してるんですか?」
だから、少しでもその謎を、自分に対する疑念を払いたくて声をかけた。
やはり美しいその背。屈んでいるため丸まってはいるが、まるで気品を失っていない。むしろ神々しささえ――。
「……花を、見てたの」振り返らず、彼女は言う。「綺麗、だったから」
その姿に、何かが重なる。
純白。高貴。そして、淡い。
それは、百合。それは、睡蓮。それは――。
「Forget me,not?」
「……ええ、そう。勿忘草」
「勿忘草、ねえ……」
青やピンクのパステルカラー。その花が持つ想いは『どうか私を忘れないで』。
この少女には、誰か想う人がいるのだろうか。
この花には、良いイメージがない。忘れないで、という言葉の持つ悲壮な響きがそうさせるのか。はたまた、その頼りなさげな姿がそうさせるのか。
……沈黙。
頼りなさげに揺れ動く彼女の瞳は、俺の方へ向けられていて。粒子の如く儚げな少女は、俺の様子を伺っているようにも見えた。
「……誰かを、待ってるんですか?」
空気の重さと気恥ずかしさに耐え切れずに、口を開いた。
そうか、と一つの答えにたどり着く。
不思議と、人の心に触れるところが嫌いなんだ。ずけずけと心を侵しては、波のように気まぐれに引いてゆく。
……だけど、それを思わずにはいられない。
一つの歌が、脳裏をよぎる――。
『水を渡り、また水を渡り。
花を見、また花を見る。
春の風が吹く、この道で――。』
――さて、この続きはいったい何だったか。
「はい、待ってるんです。いつまで経っても帰ってきてくれなくて……」苦笑する少女。「なんだか、寂しいな……なんて」
「……名前は?」
「はい?」
「ええと……よかったら、名前を教えてほしい」
「アマノ、です」
アマノ?ああ、なるほど。苗字か。
「天野さん、か。よろしく。俺は堂島ナラカっていうんだ」
そうだ、思い出した。続きは――『――覚えず、君が家に至る。』。
群青のカーテンは、その身をちらりと揺らして、俺たちを包んだ――。
◆◇◆
役者は、全て揃った。
これは、何の変哲もない――崩壊と、再生の物語。