その少年、狂犬につき
「やあ、ナラカ」
「……?」
廊下を歩いていると、自分を呼び止める声が聞こえた。
よく通る、高い声。少年的なそれに、覚えがあった。
「僕だよ、狛枝一樹だ。忘れちゃった?」
コマエダ、カズキ。――ああ、狛枝一樹か。
「……ああ、狛枝か。忘れるわけないだろ」
さっきまで記憶喪失してたのは棚の上に上げておく。
「ふふ、男みたいな口調だね……」
「お前は女みたいだけどな、なよっとしてて」
身長は百七十センチ程度――目に少しかかるぐらいの長さの、色素の薄い髪――中性的な容姿――。
「きっと女性ホルモンのが多いんだよ、僕は」
「知るか、男は男だろ」
加えて――。
「最近じゃあ、性同一性障害って病気もあるじゃないか。心は乙女なんだ、許してよ」
「……………………」
――こういった冗談が得意技だ。
「あは、そんなに引かれると傷つくなあ……。でもね、ナラカ。人間は誰しも、男性ならその中枢に女性が、女性ならその中枢に男性が、それぞれ存在してるんだよ。人はその相反する性質を持ち合わせるが故に、儚くて、脆い」
そうそう、狛枝はこんな奴だった。
会話の中に突然放り込まれる科学的、哲学的な、どうでもいい薀蓄。
俺も知識量としては対抗できるレベルなのだけれど、ここまで情熱的に語ることはできない。そして、正直言って……ウザい。この上なく、ウザい。
「で、完成された物質なんてこの世には無い……神でさえ、こんな不完全な世界を造りたもうたのだから」
やれやれ、といった具合で狛枝は首を軽く横に振った。
「話の横取りなんて酷いね。……ああ、以前のナラカはそんな人間じゃあなかったのに」
「悪かったな、長い薀蓄は聞き飽きてるんだ」
「はは、悪かったね。でも、語りたくて仕方ないんだよ、君に」
すれ違いざま。
「君ほど面白い人間も、いないからね」
囁くように言って、隣を抜けていく。
「じゃあ僕は授業があるから。またね、ナラカ」
振り返りざまにそう続けて、狛枝は廊下の向こうに消えていった。