補完計画
瞼の裏にまで届く真白の光が眩しくて、目が覚めた。
ーーいつか、同じようなことを思わなかっただろうか?
ふと感じた記憶の残滓は、粘液のような不快感に流されてゆき。
「……う、あ……」
ぼんやりとしている意識。それと連なる視界。
完全に脳が覚醒するには、あと少し時間がかかりそうだ……と分析する。
もう一度、眠ろうか……そう思って、瞼を閉じようとしたその時ーー。
「……起きた?」
ーーしゃあ、とカーテンを捲る音がして。
「……はい、起きてはいます」
俺に声をかけた女の人の声に答える。
短く、乱雑に切られた茶色がかった髪。学生のような幼い顔立ち。身に纏った白衣。足を覆う、黒いスラックス。そして、顔に似合わず大人びた声色。知らないような、知っているような。そんな声だ。
「いつもながら、綺麗な顔よね。中性的っていうのか、なんていうのかな。思わず悪戯しちゃいたくなるぐらいに……」
……その砕けた口調は、記憶にない。だけど、どうにも頭の奥に疼く。思い出そうとしている?無い記憶を?
「……ねえ、ちょっと。冗談なのに黙られると気まずいんだけど」
親しげな口調。俺とこの人は……どういう関係だ?
さらに思案に耽る。――はずだった、のだが。
「……ナラカ、聞いてる?」
ナラカ。その言葉に強く引き寄せられた。
ナラカ、ナラカ、ナラカ――。耳によく馴染んだ名。
「堂島、ナラカ……?」
確かめるように、ゆっくりと口に出してみる。
すると、心配そうな顔で女の人がこちらの顔を覗き込んできた。
「そう、それがあなたの名前でしょ。記憶喪失にでもなった?」
記憶喪失。そういうことか。俺には、記憶が無い。この人を知らないのも、名前がしっくりこないのも、全て辻褄が合う。
「――そうかも、しれません」
俺がそう答えると、彼女はふむふむと大げさに頷いて再び口を開いた。
「……興味深いねー。じゃあ、ちいとばかし質問しようか」
「はい」
「ああ、もう……調子狂うなあ……」
この言葉遣いはおかしいんだろうか。もしおかしかったとしても、アジャストなんてできないから構わないんだけど。
「……はい、じゃあ質問1。自分が倒れた時のこと、覚えてる?」
「倒れた?俺が……?」
ずきん、と頭が痛む。
「ええ、そうよ。もしかして、それも忘れた?」
……忘れてなんかいない。
そう――俺は――あの部屋で――確かに――倒れた。
「――いえ、覚えてます」
意識を手放す直前。俺は確かに人の声を聞いていた。
記憶の中の靄を払って、断片をなんとか掻き集めてみる。
(―――は―――たし―)
……影に襲われそうになった、というのは幻覚か何かだろう。きっと、あの影が彼女なんだ。
「もう、先生のこと忘れるなんて酷いなあ」
(―先生―――わ―し―)
ノイズだらけの記憶から、先生、という単語がハッキリと聞き取れた。
――おそらく、彼女はこういったはずだ。
「『先生』……『呼ぶ』……」
「そうよ、私は貴方にそう言った。覚えてるじゃない。……断片的過ぎるけどねー」
女の人が羽織った白衣。その胸の部分にプレートが安全ピンか何かで留められている。
研修、という文字が左上に見えた。その下に、多分名前だろう……4文字の漢字。中嶋、冴子。ナカジマ、サエコ……。
その名前に、覚えがあった。
記憶が、それに連なる記憶が構築されていく。
明瞭になる意識。そうだ、そうだよ!俺は――!
「……人の胸を凝視して、何してるのよキミは……」
「ごめん、中嶋先生。どうかしてたよ。人の名前をこんなにキレイサッパリ忘れてるなんて」
「うむうむ、失礼にもほどがあるよ。で、ちなみに他に思い出したことはある?」
もうバッチリだ。全快した、といってもいい。
「中嶋冴子。ここの研修生。25歳独身で、彼氏募集中を立場に関係なく誰彼構わず公言する痴女だった」
「……自分が客で未成年だってことに感謝しなさいよ、ナラカ」
「で、担当教科は理科。……合ってるよね?」
「……」
「なんで黙るのさ。……あ、痴女発言については謝るよ。ゴメン。怒らないで」
流石に失礼だったか。失敬。
ううむ、となにやら思案に耽っている中嶋先生。ひとしきりウンウン唸った後、難しそうな顔をして彼女は口を開いた。
「……ついでに、ここについても説明してもらおうかな」
「なんだよ、それ。当たり前のことだろ。……先生なんだから、先生のほうが知ってるじゃないか」
「いいからいいから。記憶の整理だと思って」
「……むう」
そうだな……まず、覚えていることを整理しよう。
「翆翔館学院。全国から各分野に優れた学生を特待で引き抜いて生徒を集めている、ヘンテコな学校。全寮制で、学生数は案外少ない。……こんぐらいでどうかな」
メモを取っている。なんだよ、それ。
「……うん、分かった。OK。質問終わり!」
帰った帰った、と手を振られる。
「自分の部屋で、いいんですよね?」
「ああ、授業には遅れるなよー。気分が悪くなったら先生に言うように」
びし、と指差される。
それを背に受けながら「分かりました」と答えて、この部屋を後にした。