シト、新生
一面の、茜色。
ほの暗くて、どこか儚げで、そして妖しい――目を開くと、そこにはそんな風景が広がっていた。
未だ、まどろみの中にいるような……そんなぼんやりとした意識が、輪郭を得ようと静かに動き始める。
――徐々に視界が開けて。
茜の縁に鉛の囲いが、鉛の囲いを更に覆うように真白の壁が、順に確認できた。
びょう、と吹いた風が茜を揺らす。
ああ、これは窓なのか。
なら、とその傍を見ると、壁と同じ色をしたカーテンがあった。
……閉めてこようか。
毛布の温もりを手放し、冷たい床にぺたりと裸の足を降ろす。
窓際までぺたぺたと足を進めてから、何故か振り返る。
夕暮れ時。夕日がその身を地に落とす時間。
その時の影が、この白い部屋を彩っていた。
自分の分身をそこへ残して、窓へと向き直る。
それから、柔らかな光に晒されて数十秒。暫くぼうっと空でも眺めていようかという気になっていた。
ここの窓には手を掛けられるような縁がないようなので、行き場のない手を仕方なくポケットの中に収めて、外を見た。
地平線を隠す、白っぽい金属色の塀。
時折ピントが合う、窓に張られた金網。
空以外に見えるのは、ただそれだけだった。他のモノはその二つに追い出されていて、お陰で美しさなんてものが存在する余地は無い。呆れるほどに何もない風景。そこには何の風情もないし、情緒もない。
……だが、それが何故か真新しい景色のように思える。初めて日の光を浴びたかのような感覚さえ覚えていた。
既に見慣れた景色のはずだ。既に順応した環境のはずだ。もう、随分と長い間ここに居たんだから。
日が昇るのも、落ちるのも。同じように、星が夜空の上を這い回るのだって見てきた。
……そんな、慣れ親しんだはずの自分の記憶が、どうにも曖昧になってしまっている。
確信が持てるのは、思考の――あるいは、記憶の――底から語りかけてくる一つの思いだけ。
その言葉を確かなものにしたくて、吐き出す。
「……外への憧れや、未練なんて持っちゃいけない。そんなものは、この柵と塀に阻まれてしまう」
自分の声は、はたしてこんな音だっただろうか?それさえも不安になってくる。だから、唯一信じられたこの言葉に縋った。
「心だろうと、体だろうと、外へは出て行けない。それ、は――」
ここで、思考の糸はぷつりと途絶えてしまっている。だが。
「――許されない、ことだから。……絶対に、許されないことだから」
口が勝手に、その続きを紡いでいた。
買ったばかりのまっさらなノートに、その言葉だけが書かれていたような、そんな違和感。
「……なんだよ、これ……」
その不気味さに思わず、両の手で小刻みに震え出した自分の肩を抱いていた。
違和感が、ぞわりぞわりと体の内側を舐め回していく。それに呼応するかのように、ひりひりと痛み出す皮膚。
肩に爪を食い込ませるのに、さほどの力はかからなかった。鋭い痛みの後、自分の指の先に生暖かい感触。……それさえも、自分の証明にはならない。
自分で自分を確かめることが出来ないというのが、これほどに気持ちの悪いことなのか。
どろどろと、自分が力のない陽に溶かされていく。切れ端といっても六千度の切れ端だ。そんな霞に触れようものなら……。
奇怪。自分が、自分でなくなってしまう。
不快。精神が、沈んでいく。
……限界だ。
視界が薄紫の陽炎に揺らめき、黒い影と無色の自分が溶け合う。
――ワタシは、誰だ?
――ボクは、誰だ?
――オレは、何なんだ?
頭の中で繰り返される質疑の嵐。吹き荒れる雨風は、正気をどこか遠くへ奪い去ろうとする。
「う……あ……」
ゆら、と影が蠢く。それは、通常必要とするはずの他の物の助けを借りず、そのまま立ち上がった。
「―――は―――たし―」
耳に届くのは、その影が発したと思われる声。
嫌だ、嫌だ、嫌だ……!何も見たくない、何も聞こえない、認めるものか――!
そんな思いに反して声の主は、だんだんとその背を伸ばして歩み寄ってくる。
影が、音が、化物が。
その姿に、俺は……。
「う……うあああああああああああ!!」
……ただただ、恐怖した。