脱出(1)
しばらく連中は何やらささやき合っているようだった。
「それでは沢渕君、こちらへ来てもらおう」
佐伯の合図で、市川が足下のプラケースを脇にどけると、そこには床下収納が現れた。腰を屈めて正方形の蓋を跳ね上げた。
沢渕の腕を進藤が乱暴に引っ張る。
「さあ、この中に入りな」
腕の自由が利かないため真下に落下させられた。石畳の上を転がる。冷気が身体を包み込んだ。
進藤と市川がはしごを使って下りてきた。
沢渕は二人に脇を抱えられた。
「まったく気に入らねえ奴だ。うまく院長に取り入りやがって」
「本来ならとっくに殺されていたのに、悪運だけは強いんだから」
二人はそんな話をしている。
天井の薄暗い蛍光灯を頼りに進んだ。カビの臭いがした。
「ここは?」
「いいから黙って歩け」
市川が乱暴に言った。
石畳を数メートル行くと、正面に鉄の扉が立ちはだかっていた。鍵が外されて扉が開くと、さらに別の異臭が漂ってきた。大勢の人の気配を感じる。遠くで咳込む音や、近くでうめき声を聞いた。
沢渕は突然背中を押されて、冷たい床に転倒した。直ぐさま背後で扉が閉められた。乾いた音とともに施錠された。
誰かが駆け寄ってくる気配。
「沢渕くん?」
それは彼にとって天の声に違いなかった。
紛れもない、森崎叶美である。彼女は無事だったのだ。どれだけこの瞬間を待ったことか。別れて何十年も経つ旧友に出会えたような喜びだった。
こんな薄暗い空間でも、叶美の姿はひどく眩しかった。
「先輩、怪我はありませんか?」
「私は大丈夫。それよりあなたこそ、酷い目に遭わなかった?」
なりふり構わず、沢渕の顔を間近で覗き込んだ。それから優しく沢渕の頭を膝に載せてくれた。
「大丈夫です」
「嘘」
叶美はすぐに頬の腫れや鼻から流れ出す血に気づいた。慌ててハンカチを取り出すと、丁寧に拭き取ってくれた。
「それよりも朗報があります。佐々峰姉妹もクマ先輩も無事です。命に別状はありません」
「ああ、よかった。本当によかった」
身体が床に崩れ、嗚咽を漏らした。これまで押し殺していた感情が一気に爆発したようだった。
「探偵部はみんな無事なのね」
涙混じりに言った。
「先輩、時間がありません。僕の質問にだけ答えてください」
沢渕は身体を起こした。
「分かったわ」
叶美は泣くのを止めて、沢渕と正面から向かい合った。
狭い廊下は奥で行き止まりになっているのが見える。左右の部屋は扉が解放されていて人の気配がする。
「ここにいる人質の数は?」
「全部で十人」
「辺倉祥子はいますか?」
「いない」
「残りの七人は?」
「分からない。私が連れられて来た時にはもう、この人数だった」
沢渕は立ち上がって、部屋を覗いてみた。一見して古風な木製ベッドに病人が寝かされている。人質というよりは、今は患者と言った方がよかった。身体は小学生ほどに痩せていて、とても自分で動ける様子ではない。過酷な人体実験の末、変わり果てた人々の姿であった。自然と野戦病院を連想させた。
「話のできる人は?」
「誰もいない」
「病室以外に部屋は?」
「こっちに手洗と給湯室があるわ」
叶美についていくと、看護師の詰所のような小部屋があった。ベッドはなく、棚と机が置いてある。棚の中には薬品がぎっしり詰め込んであるが、最近出し入れした様子はない。机の上にはカルテや雑誌が無造作に積まれていた。辺倉祥子はここでメッセージを書き付けたのだと、沢渕は一瞬で理解した。
簡易的な流し台もあった。蛇口を捻ると弱々しく水が出た。
他に利用できる物はないだろうか、沢渕は部屋を見回した。ハサミでもあれば、両腕を縛りつけている結束バンドを外せるのだが、凶器に転用できるような物は最初から置いてないだろう。
「ここは地下一階です。上に昇る階段はありませんか?」
「これじゃないかしら?」
叶美が指さした壁には簡易的なはしごが備え付けてあった。しかし長年使われた様子はない。部屋への出入りは先程の鉄の扉から行っているようだ。真上を見ると、天井の一部に正方形の切り込みがあった。本来ここが蓋として可動する部分なのである。今は開くかどうか分からないが、病院の一階と繋がっていることは間違いなかった。
沢渕は考える。
ここにいる人質は十人。ということは、残りの七人は上階へすでに移動させられたということである。恐らく体力、気力の弱っている者だけを残して、ここで死滅させる気ではないだろうか。また、七人が病院外の別の場所へ移送される恐れがあった。時間がない。
沢渕には前々から考えていた作戦があった。それは堀元直貴にも伝えてある。しかしそれは人質に十分な体力が残されているか、または数人の救助者がいることが前提条件である。しかし今ここで動ける者は、沢渕と叶美の二人しかいない。果たして完遂できるだろうか。
しかし、やるしかない。躊躇っている暇はない。そのための準備もしてある。
「森崎先輩」
「はい」
「僕は腕の自由が利きません。ですから、僕の指示通りにしてください。いいですね?」
「分かったわ」
叶美の顔が自然とこわばった。
「このままここにいても事態の進展は望めません。それどころか上階に移された、証言能力のある人質もどうなるか分からない。ですから一発勝負の賭けに出たいと思います」
叶美の大きな瞳には涙が浮いていた。それでも目を逸らすことなく沢渕をじっと見つめていた。
「どうするの?」
「この地下病室に火を点けます」
「ええっ?」
さすがの叶美もこれには声を上げた。
「でも、そんなことをしたら…」
「黙って聞きなさい」
沢渕は一蹴した。
「今、犯人の動きを止められるのは外部の力しかない。病院を火事にして消防と警察を出動させます」
叶美の身体は震えていた。
「まさか、本当にここから出火させる気なの?」
「そうです」
「しかし…」
「言いたいことは分かってます。ここにいる人質たちの命が危険に晒される」
「ええ」
「地下から火が出れば、確かに僕らには逃げ場はない。しかし消防車が駆けつけて大量の放水を開始すれば、全ては地下に流れ込み、必ず鎮火できます。だから、やるしかないのです」
「分かった。沢渕くん、あなたを信じる」
叶美は細い両手を沢渕の背中に回すようにした。
「きっとみんなを助けてね」
沢渕は彼女を引き剥がすと、
「火は奥の詰所に点けます。まずは人質全員を反対側に運んでください」
「はい」
二人はそれぞれ右と左に分かれ、寝たきりの患者を運んだ。全員がやせ細っているため、叶美にも軽々と担ぎ上げることができた。
次に沢渕は水道水を出しっ放しにして、
「毛布やタオル、布切れを全て集めて、水に浸してください」
「人質の口や身体に当てるのね」
「はい」
叶美は慌ただしく廊下を行ったり来たりした。
「準備できたわ」
「ありがとう」
沢渕はカルテの一部をポケットにしまった。もしかすると証拠になるかもしれないと考えたからである。そして叶美の方を向き、
「棚の中に入っている薬品を全部床にぶちまけてください」
と言った。
「はい」
叶美にもう躊躇いはなかった。ガラス戸を外して、棚をゆさゆさと動かした。ガラス瓶が次々に落下して、耳をつんざくほどの悲鳴を上げた。人質の中にはその異常に気がついたのか、大声で叫び出す者がいた。部屋には有毒と思われる煙が立ち込めた。
「離れて!」
沢渕はそれから靴下の中にしまい込んであった電子式ライターを取り出すと、点火して紙に燃え移らせた。それを床に投げ捨てた。
ドンという爆発音がして、一気に火がついた。あっという間に小部屋は炎に包まれた。煙が天井の隙間から立ち昇って行くのが見えた。それを背に二人は廊下を走り出した。
部屋の調度品が木製だからか、一度ついた火の勢いは留まることを知らなかった。火柱が天井に到達して、炎は舌なめずりをした。これで天井の隙間から病院内に煙が出ている筈である。
次々と人質が怯え始めた。廊下のほんの十メートル先で、轟音とともに炎が立ち上っているのだ。無理もなかった。
「先輩、人質の身体をできるだけ低くして、顔全体を濡れたタオルで覆ってください」
沢渕の指示が飛ぶ。
果たして外部からの救助はいつ来てくれるだろうか。