狙われた森崎叶美(2)
携帯が鳴った。慌てて画面を見ると、それは堀元直貴からであった。
「沢渕君、森崎は無事かい?」
開口一番そう言った。
「いえ、残念ながらまだ確認できていません」
「そうか」
直貴は喉の奥から捻り出すようような声を上げた。
「そうだ、佐々峰姉妹のことなんだが」
沢渕は自然と身構えた。
「安心してくれ。二人とも無事だ。確かに踏切事故には遭ったが、大怪我で済んだ。命に別状はない」
「本当ですか?」
沢渕は天を仰いで、大きく深呼吸をした。今は神の存在を素直に信じられた。
「橘先輩が死んだなんて言うから」
そう不満を漏らした。
「ああ、僕もあの時は驚いたよ。でも許してやってくれ。橘もパニックに陥っていたんだ。今僕は二人が収容された病院に着いたところだ」
「クマ先輩の方は?」
「ああ、こちらも心配はない。手術するまでもなく意識を取り戻しらしい。一時的な脳しんとうだったようだ。クマの身体は思ったより頑丈にできているよ。そちらは橘が付き添ってる」
身体から緊張が解けていくのを感じた。残るは叶美の安否である。
「森崎先輩は佐々峰姉妹を心配していたようですから、もしかするとそちらに行くかもしれません」
その可能性は極めて低かったが、直貴を安心させるためにそう言った。
「分かった。しかし佐伯たちに連れ去られたかもしれないんだろ?」
「はい」
二人はしばらく押し黙った。
沢渕はその沈黙を破るように、
「堀元先輩、たとえ部長からメールが来ても、無視してください」
「どういうことだい?」
「犯人に捕まっているとしたら、おそらく残りの探偵部全員に招集を掛けてくると思います。その際に不用意な返事をするのは得策ではありません」
「僕たちを招集してどうするんだ?」
そう言ってから愚問だったことに気がついた。犯人は探偵部員一人ひとりに危害を加えようとしているのだ。
直貴は素直に、
「分かったよ。橘にも言っておくよ」
と言ってから、
「それで、この後どうする?」
「呼び出しがあれば、僕一人で行きます」
「しかし…」
「騙された振りをして、奴らの懐に飛び込んでみます。そうすれば、森崎先輩の所へ連れていってくれるでしょう」
今はどうしても叶美の無事な姿を確認したかった。
「だが森崎がやられていたらどうする?」
「その点は大丈夫だと思います。部長を利用して、必ず部員を集合させようとする筈です」
もし叶美に危害を加えるのが目的ならば、この喫茶店内に彼女が倒れていてもおかしくないからである。それは敢えて口にはしなかった。
「だが君が奴らにやられてしまうぞ。警察を呼んだ方がよくないか?」
直貴は厳しい口調で言った。
「残念ながら、確たる証拠を揃えている時間はありません。奴らにシラを切られれば、それでおしまいです。事態が急変した以上、もうこれ以上待てません」
「そうかもしれない。人質の命もいよいよ危なくなってきたと見るべきだろうね」
もちろんそれもあるが、叶美の命は奴らに握られている。状況も分からぬまま、警察に大袈裟に動かれるてはどうなるか分からない。
「ですから、犯人と駆け引きをしようと思います。そのためにも堀元先輩と橘先輩には別行動を取ってもらいたいのです」
「なるほど。具体的にはどうすればいい?」
「佐伯病院を見張ってください」
「見張ってどうする?」
「何か動きがあったら、必要な支援をしてくれれば結構です」
「動きというのは?」
「それはまだ分かりません。ですが僕に一つ考えがあるんです」
沢渕はある計画を伝えた。直貴はさすがに驚いていたが、
「本当にそれでいいんだな?」
と最後に念を押した。
「はい。きっと成功させてみせます」
沢渕は自信を持って言った。
雨はいつしか止んで、窓の外はどっぷりと暮れていた。室内の明かりもつけず、沢渕は叶美からの連絡を待っていた。
もし彼女からの呼び出しがなければ、こちらから佐伯病院まで出向くつもりでいたが、それでは奇襲攻撃を掛けたようで、相手の気を緩ませたことにならない。犯人側も探偵部がどこまで事件のことを調べ上げているか関心がある筈だ。必ずや連絡は来る。その点には自信があった。
気掛かりがあるとすれば、それは直貴と雅美の安全である。しかし二人が一緒に行動する限り、その心配も少ないだろう。
暗闇の中、椅子に腰掛けて、沢渕は一人思い出に身を委ねていた。春、入学早々探偵部に入ることになり、様々な人との出会いを果たした。中学時代は経験することのなかった、チームワークを学んだ。時に人の優しさや悩みに触れ、その度に大きく成長することができた。素直に探偵部、そしてメンバーたちに感謝したいと思った。
そして今、メンバーのために命を懸けようとしている。どんな結果が待っていようとも、沢渕に悔いはなかった。
闇の中、突然ディスプレイが光を放ち、メールの着信を告げた。
件名には、「事件解決に向けて」とある。
沢渕は苦笑した。このメールは部長が一斉送信したものであるが、真っ赤な偽物である。まるでルールを守っていない。探偵部のしきたりでは、部員への連絡は件名を空欄にし、集合場所と時間だけを書くことになっている。これはまさに犯人が叶美に無理矢理打たせたメールであった。
本文は次のようになっている。
「探偵部は全員、午後九時に廃ボーリング場に集合のこと。そこで合流後、直ちに人質の救出作戦を実行します」
直ぐさま直貴からの電話が鳴った。
「沢渕君、メールが来たね」
「はい」
「しかしこのメールには笑っちゃうね。犯人に命令されて、森崎が嬉々として書いたって感じだ」
「同感です。探偵部のメールは送受信後すぐに削除することになっていますから、犯人たちも普段どうやってやり取りしているか確認のしようがなかったのでしょう」
「ああ。でも、そのおかげで森崎は無事だということが確認できた」
「そうですね」
自然と弾んだ声になった。
「沢渕君、森崎はわざとこんなメールを送りつけて、逆に探偵部に集合するなとメッセージを発している訳だ。それでも君は単独で行くというのかい?」
「はい」
「最後にもう一度だけ訊くが、本当にやるんだね?」
「はい」
「誰かが犠牲になるかもしれないよ」
「覚悟はできています。万一、僕たちに何かあった時は、先輩二人で事件を解決してください」
「おいおい、物騒なことを言うなよ」
直貴はたしなめるように言った。
「いえ、それだけ自信があるということです」
沢渕はわざと自信ありげに言った。
「僕と橘はあくまで保険という訳だな?」
「そうです」
「分かった。もう止めない。思う存分やってくれ。君ならきっと成功するよ」
「ありがとうございます」
沢渕は喫茶店を出た。すっかり夜のとばりが下りた商店街を駅へ向かって走り出した。
(先輩、待っていてください)
漆黒の空に黄色く輝く月が、彼のひたむきな姿を見守っていた。
指定された廃ボーリング場に着いたのは午後九時少し前だった。以前、叶美が犯人と偶然出くわし、怪我をさせられた場所である。沢渕は写真では見ていたが、実際に来るのは初めてだった。
廃墟というのに駐車場だけは広大で、建物に近づこうものなら、こちらの動きは完全に見通されてしまう。犯人にとって絶好のロケーションに違いなかった。
沢渕は今、その駐車場の真ん中付近に立った。廃墟の方へ歩もうとしたところで、まるで予期していなかった方角から車のライトが点灯した。それはちょうど沢渕の右の頬を照らす格好となった。
沢渕に向かってその存在を主張したということは、こちらに来いという合図だろう。
叶美もそこに居るのだろうか。明かりの方に向きを変えた。その動きに満足したのか、車のライトは消灯された。
急な光の点滅が沢渕の目は眩ませていた。白い光源が残像となってちらつく。そのため勘を頼りに進まなければならなかった。しかし徐々に目が慣れてくると、乗用車が一台停まっているのが分かった。
やはりここへ一人で来て正解だったと言えよう。もし探偵部全員で来ていたら、あやうく車に轢かれていたところだ。姿を現したのが沢渕一人だったため、向こうも探偵部の出方を窺うことにしたのだろう。
車まであと十メートルというところで、再びヘッドライトが照射された。急な輝度の変化に思わず顔をしかめた。闇夜を利用して、他にこっそり近づく者がいないかどうかを確認したように思われた。
「そこで止まれ」
男の低い声がした。
沢渕はその言葉に従った。
「他の仲間は?」
「僕だけです。他のメンバーは恐れをなして逃げました」
沢渕は闇に向かって言った。
どうやら人影は二人のようだった。
「ふん、本当かどうか怪しいものだ」
そう言って一つの大きな影が近づくと、沢渕の身体を検査した。背の高い男だった。ポケットにあった携帯電話が取り上げられた。地面に叩きつけられて粉々になった。
「森崎叶美さんは無事ですか?」
「ああ、今のところはな」
男が言った。
「彼女を解放してもらえませんか。僕が身代わりになります」
男は笑った。
「まあ、そう慌てるな。これから彼女の所へ連れて行ってやるよ」
隣にいた女がふふふと笑い声を立てた。
「おや、進藤真矢さんも来てたのですか?」
沢渕の言葉に女はぴたりと黙った。
「うるさい!」
そうヒステリックに叫んだ。
今度は男の方が、
「お前は自分の立場が分かってないようだな。今ここで痛い目に遭わせてやろうか」
と凄んだ。
「おお、怖い怖い。以前女子高生を背後から襲って気絶させ、さらに進藤さんと共謀して柔道着の高校生を襲った市川さん。今晩は息子さんはいらしてないのですか?」
「黙れ!」
突如、市川の拳が沢渕を襲った。頬がえぐられて彼は地面に倒れ込んだ。だがそれは相手を油断させるための作戦だった。
「車に乗せろ」
「分かったわ」
意識が朦朧となった沢渕を二人で引きずると、車の後部座席に押し込んだ。男がエンジンを掛ける。女はそのまま沢渕の横に腰を下ろした。アイマスクを着けられ、さらに両腕はプラスチック製の結束バンドで固定された。
「どうする気だ?」
沢渕はかすれた声で訊いた。振動で身体が座席からずり落ちる。
「お前たちがどこまで掴んでいるか、交互に拷問に掛けるのさ」
ハンドルを握りながら市川が答えた。
「拷問?」
「ああ、言っておくが普通の拷問じゃないぞ。一人を拷問に掛けて、もう一人に吐いてもらうという方法だ」
それは嬉々とした声だった。
「お前たちは仲が良さそうだからな。そういう相手にはこのやり方が一番効果があるんだよ」
沢渕は朦朧とする頭で、叶美を救うにはどうしたらよいか、そればかりを考えていた。