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狙われた久万秋進士(2)

 廊下は騒然としていた。逃げ惑う人々、慌ただしく駆けつける職員、そして野次馬で溢れかえっている。特にトイレ付近は人垣ができていた。おかげで、沢渕はすぐに現場を特定することができた。

 野次馬をかき分けるようにして進む。途中腕章をした係員に制止された。

「関係者です。通して下さい!」

と大声で突破した。

 男子トイレだった。

 洗面台の脇に、巨大な柔道着が横たわっていた。ここでも沢渕は係員の両手をすり抜けて駆け寄った。

 紛れもなく、久万秋進士だった。

「クマ先輩!」

 係員たちの腕が沢渕の身体を羽交い締めにした。

「君、下がって!」

「彼は僕の親友です。放してください!」

 そんな大声に気圧されたのか、係員たちは沢渕を解放した。

「早く救急車を!」

 そんな指示に、一人が駆け出していった。

「クマ先輩」

 沢渕はあえて身体には触れず、耳元で呼び掛けた。しかしまるで反応がない。

 後頭部には血が滲んでいた。柔道着の襟元が瞬く間に赤く浸食されていく。柔道着からはだけた腹部は大きく上下に動いている。息はあるのだが、意識不明の状態である。頭部に損傷を受けている場合、不用意に身体を動かしてはならない。

 頭頂部が腫れ上がっていた。暴漢は後方から不意を突いたに違いない。クマの身長からすると、相手も上背がある人物だと推定できた。

 しかし納得のいかない点もある。

 おそらくクマは背後から襲われたのであろうが、彼の真正面には鏡が設置されていた。よって後方から現れた不審者には当然気づく筈である。

 沢渕は鏡の反対側に目を遣った。個室が整然と並んでいる。今は全て扉は内側に折れて、内部が見通せる。犯人はこの中で待ち伏せていたのだろうか。

 それにしても、その時クマは何かに気を取られていたのだ。とすれば、これは二人による犯行ではないだろうか。一人が洗面所でクマに話し掛け、もう一人がその隙に個室から飛び出して犯行に及んだのだ。

 トイレ全体を見回してみた。なるほど、少し離れた窓際に、赤い消火器が一つ転がっている。真ん中辺りから不自然な形に折れ曲がっている。恐らくこれが凶器だろう。背後からクマの頭に打ち付けたのだろう。

 沢渕はそれだけをすばやく考えて、立ち上がった。

 まだやるべきことがある。

 犯人はそう遠くへは行っていない筈だ。今なら追跡は十分可能に思われた。

 トイレのすぐ外には、幾重にも人垣ができていた。犯人は何食わぬ顔をして、こちらの様子を窺っていることも考えられる。

 沢渕はそんな野次馬たちをぐるりと見渡した。そして背の高い男を探した。もし居れば、すぐに見つかる筈である。

 残念ながら該当する人物はいなかった。しかしその途中、慌てて目を逸らす人物を捉えた。明らかに沢渕の顔を知っているに違いなかった。小柄な若い女だった。沢渕が一歩近づいたところで、突如反転すると逃げ出した。

「待て!」

 沢渕は駆け出した。

 犯人グループの中に、一人女がいた。

 進藤真矢だ!

 沢渕は野次馬に押し戻されながらも、何とか人垣の外へ出ることができた。一目散に女を追う。廊下に二人の慌ただしい靴音が響き渡った。

 武道館はそれほど広い施設ではない。自分の足なら追いつくことができる、沢渕はそう確信した。

 女は階段を降りて、入口へ向かっている。あと一息で追いつける。

 係員が玄関付近を固めていた。それは追う者にとって有利な状況だった。

 ところが女は係員の一人に追いすがると、何か一言、二言口にして、たやすく玄関をくぐり抜けた。

 沢渕は軽い焦燥を感じながら、後に続いた。

 しかし係員は追跡者をすんなりと通してはくれなかった。腕が沢渕の身体に絡みついた。

「待ちたまえ!」

 次々と加勢する腕が動きを鈍らせる。ついにはその場で動けなくなった。

「通してくれ、あいつが犯人なんだ!」

 沢渕はもがきながら叫んだ。

 こうしている間にも、女の姿はどんどん小さくなっていく。

 沢渕の身体は、いつの間にか冷たい廊下に押しつけられていた。

「話は事務所で聞こうじゃないか」

 妙に冷静な声が降りかかってきた。

 事務所で誤解を解くことになった。

 どうやら逃げた女は係員に、

「痴漢に追われている、助けてくれ」

と言ったらしい。

 咄嗟のことで女の言葉を鵜呑みにして、係員は団結して沢渕を押さえ込んだのである。

 沢渕は身体のあちこちに痛みを感じながら、

「あの女は殺人未遂の容疑者だったのですよ」

と悔しそうに言った。

 いつしかサイレンが近づいてきた。救急車が玄関前に着けると、久万秋進士は担架で運ばれていった。沢渕も付き添いとして救急車に飛び乗った。

 後方の扉が閉められると、再びサイレンを鳴らして車は発進した。

 救急隊員の応急処置が続けられる。

「クマ先輩」

 沢渕は無反応の彼の手を握った。

 隊員の一人が無線で、緊急手術の要請した。

 今、クマには人工呼吸器があてがわれた。まだ意識は戻らない。

 左に右に揺れる車内で、柔道着を脱がせて他に損傷がないか診断がなされた。沢渕はその様子を横で観察していたが、外傷はないようだった。

 犯人は頭部だけに危害を加えたということである。すなわち強い殺意があったということになる。

(他の部員たちは大丈夫だろうか?)

 救急病院に着いて、救急車から降りると、沢渕は直貴に電話を掛けた。

「沢渕くん、今どこに居るんだ?」

 直貴の緊張した声。

「今、病院に来ています。クマ先輩がやられました」

「さっきの救急車か?」

「はい」

「それで、クマの容体は?」

「消火器で頭部を殴打されてます。出血していて、意識がありません。これから手術に入ります」

 直貴は言葉を失っていた。

 やや間があって、

「助かるのかい?」

 ぽつりとそう言った。

「クマ先輩なら、きっと助かると思います」

 沢渕は自分を励ますように、強い調子で答えた。

「ところで、他の部員に連絡はつきましたか?」

「森崎と鍵谷先生は無事だ。だが、佐々峰姉妹はどちらも電話に出ない」

 その言葉に何故か底知れぬ恐怖が湧いてきた。

「あっ、ちょっと待って。橘が戻ってきたから」

 電話は突如、雅美の声に変わった。

「沢渕くん、驚かないでね。タキちゃんと奈帆子さんが…」

 涙混じりの声だった。語尾がよく聞き取れなかった。

「二人がどうしたって?」

 沢渕よりも先に、直貴の声が漏れ伝わる。

「踏切事故で死んじゃったのよお」

 男二人は二の句が継げなかった。

「先輩、落ち着いてください」

 沢渕は雅美にそう呼び掛けた。

「一体、何の話なんだ? もっと分かりやすく言ってくれ」

 直貴の怒った声。彼も冷静さを失っているようだ。そのもどかしいやり取りが不安を増大させた。

 雅美は嗚咽を漏らして、途切れ途切れに語った。

「今、ロビーのテレビでニュースをやっていたのよ。昨夜、踏切内で車と列車が衝突する事故があったんだって。それで、佐々峰奈帆子、多喜子って二人の名前が画面に出てた」

「そんな馬鹿な!」

「まさか!」

 直貴と沢渕の声が重なった。

「列車に押し潰されて、酷く歪んだ車が映ってた」

「橘、しっかりしろ。まだ二人とも亡くなったと決まった訳じゃないだろ」

 直貴は叱りつけた。

 雅美はさらに声を上ずらせて、

「私、怖くなって、最後まで聞いていられなかったの。でも、死んだに決まっているわ。あんなに激しい事故なんだもの」

「堀元先輩」

 沢渕は電話に向かって大声で呼び掛けた。

「先輩たちは佐々峰姉妹の搬送された病院へ行ってください」

「わ、分かった。それで、君はどうする?」

「僕はクマ先輩の傍に居ます」

 沢渕は病院の名前を伝えた。

 電話を切ると、すぐにまた着信があった。

 今度は、森崎叶美だった。

 すぐに応答する。

「沢渕くん、私どうすればいいの? 奈帆子さんとタキちゃんが…」

 震えた声だった。

「今、僕も知りました。二人の容体は分かりますか?」

「詳しくは分からない。テレビでは意識不明の重体って言ってるけど」

 叶美は突然、泣き出した。

「先輩、落ち着いて」

「これが落ち着いていられる訳ないじゃない!」

 彼女の怒りが爆発した。

「先輩、今、どこに居るんですか?」

「おじいちゃんの店よ」

「これから、そちらへ迎えに行きます。絶対に一人で店を出ないで」

「でも、私、これから病院へ行かないと」

 叶美はパニックに陥っていた。会話がうまく噛み合わない。

「タクシーを飛ばして行きますから、二十分もあれば着きます。いいですか、それまで絶対そこを動かないで」

「沢渕くん、早く来て頂戴。お願いよ」

「分かりました。すぐに行きます」

 そう言って電話を切った。すでに病院玄関のタクシー乗り場に着いていた。

 果たして叶美の無事な姿を見ることができるだろうか。そんな不安を抱いて、沢渕は車に乗り込んだ。

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