狙われた久万秋進士(1)
柔道大会当日は、朝からあいにくの雨だった。
午前九時。参加選手たちはすでに会場入りしていたが、各高校の応援団の姿はまばらであった。この時間、武道館に足を運ぶ人は、決まって恨めし気に空を見上げては傘を閉じた。
そんな中、正門前でタクシーが急停車した。降りてきたのは、沢渕晶也と堀元直貴だった。
「何とか間に合ったようだね」
「はい」
昨夜、大きな踏切事故が発生したとかで、始発からダイヤが乱れていた。おかげで二人とも予定が大幅に狂ってしまった。そこで連絡を取り合って、駅からタクシーを飛ばしてここまでやって来たという訳である。
一時はどうなることかと、沢渕は肝を冷やした。クマの勇姿を見逃したとなれば、彼は荒れ狂うに決まっている。この先ずっとその話を蒸し返されてはたまったものではない。沢渕は胸を撫で下ろした。
ふと、視界に派手な服装が飛び込んできた。柔道という日本武道の荘厳さを意に介さない色彩。しかも雨もやのせいで、まるで水墨画を思わせる風景の中、それは一際異彩を放っていた。一体何が始まったのか、それを考えるより早く、その人物は二人の前に立ちはだかっていた。
橘雅美である。
黄色のシャツと白いミニスカート。胸には「山神高校」という英文字があしらわれ、両手には金色のポンポンがまるで生き物のように動いている。まさしくチアリーダーの衣装だった。
男二人に言葉はなかった。互いに顔を見合わせるので精一杯だった。
「二人とも、遅刻よ」
雅美はポンポンを二人の顔面すれすれで揺らした。
直貴は咳き込んでから、
「その格好は一体、どうしたんだい?」
と声を詰まらせた。
沢渕はつま先から頭のてっぺんまで、彼女の全身に視線を這わした。ポニーテールで、しかも手足の長い彼女は、この日のために生まれてきたのではないかと思わせるほど似合っていた。
「チアリーディング部の子に借りたのよ」
「いや、そうじゃなくて。今日は柔道の試合を応援しに来たんだろう?」
「えっ、何か問題でも?」
雅美は訳が分からないといった顔である。そして助けを求めるように、
「沢渕クン、私って魅力ないかしら?」
と訊いた。
見る見るうちに肩が下がって、表情が曇った。
「いえいえ、とっても似合ってます」
沢渕は慌てて言った。
雅美の顔がパッと明るくなった。またポンポンを揺らした。
「ほら、沢渕クンは理解してくれているじゃない」
「他にもチアの人は応援に来てるのですか?」
沢渕が念のため訊くと、
「この後、二人来る予定よ」
と平然と答えた。
「その二人って、まさか?」
直貴が恐る恐る言った。沢渕も覚悟を決めた。
「もちろん、奈帆子さんと多喜子さん」
予想はやはり当たってしまった。
「ということは、佐々峰姉妹の衣装も用意してあるんだよね?」
「当たり前じゃない。三人分借りたんだもの」
「佐々峰姉妹はまだ来てないのかい?」
先に衝撃から立ち直った直貴が訊く。
「それがまだなの。私一人にこんな格好させて、どういうつもりかしら」
あの姉妹は、果たしてチアの衣装を着てくれるだろうか。いや、その後会場での応援も待っている。ハードルは極めて高い。ひょっとして、これが嫌で来るのを止めたということはないだろうか、沢渕は真剣に考えた。
三人は会場に入ることにした。
雅美の派手な格好は係員に制止されるのではないか、むしろ制止してほしいと、心のどこかで叫んでいたのだが、その願いは届かなかった。係員は物珍しそうな顔をしてはいたものの、口を開けたまま何も言ってはくれなかった。
応援は二階席からである。まもなく予選が始まるというのに、意外と人は少なかった。やはり鉄道ダイヤの大幅な乱れが影響しているのかもしれない。
武道館の中央を見下ろすと、畳が整然と敷かれ、柔道着たちが受け身を取ったり、身体をほぐしたりと最後の調整に余念がなかった。
「あっ、クマゴロウだわ」
雅美は今日の主役を素早く見つけると、ポンポンを高く振って、
「ヤッホー」
と声を出した。
柔道着が一人慌てて駆け寄ってきた。大柄な身体は途中、二度三度転けそうになった。その動きは実にコミカルであった。
「お、おい、橘。あんまり目立つ行動は慎しめよ」
応援席の真下で仁王立ちになったクマは、周りを気にしながら言った。
「何よ、せっかく応援しに来たのに」
「いや、だからひっそり応援しろっての」
「それじゃあ、応援にならないじゃない」
雅美の不満気な声が会場に響く。
「とにかく、お前は目立ち過ぎなんだよ」
確かに今やチアガールは選手、審判、観客全ての目を、一斉に惹きつけているようであった。
「何だか、応援する気が失せていくわね、まったく」
雅美はポンポンを放り出した。
「おい、晶也、他の連中はどうした?」
クマが訊いた。
「あとは、佐々峰さんたちが来る予定です」
「しっかし遅いな。もう始まっちまうぜ」
森崎叶美は家庭の用事で来られないことは、クマも先刻承知している。他のメンバーは知らされていないが、祖父の喫茶店の店番があるということだった。
「クマ先輩の出番はいつですか?」
「俺は最後だ。ちゃんと見ててくれよ」
「私がついてるからね、絶対負けないでよ」
雅美が言った。
「ついでにこいつも見張っててくれ」
クマは雅美を指さした。
「何ですって!」
試合前という、緊張感漂う雰囲気の中にあっても、二人はいつもの二人であった。
沢渕は一度席を離れて、多喜子に連絡を取ってみた。しかし電源が入っていないというメッセージが流れるだけだった。念のため、姉、奈帆子の方にも掛けてみたが、やはり同じであった。普段一緒に生活をしている姉妹二人が、共に電源を切っているというのはどんな状況なのだろうか、沢渕は少々不審に思った。
予選が始まった。
山神高校は順調に勝ち続けた。三番手が一敗を期したが、それでも他の選手は圧倒的な力で相手をねじ伏せていく。
「あっ、いよいよ出番ね」
雅美は立ち上がって、
「クマゴロウ、頑張って!」
と、小躍りしながら黄色い声で叫んだ。
クマは恨めしそうにこちらを睨んだが、それでも襟を正すと、中央に歩み出た。
「一本!」
試合開始数秒で決着がついた。会場からはどよめきが起こった。
「凄いわ」
雅美は応援も忘れて感心しきりだった。
クマの活躍もあって、山神高校が決勝戦に駒を進めた。柔道部員たちが一斉に頭を下げると、会場は惜しげもない拍手に包まれた。
「クマゴロウって、やっぱり強いのね。ちょっとだけ見直したわ」
雅美が興奮気味に言った。
山神高校の柔道部員たちは控室へと消えていった。
休憩時間である。会場には喧騒が戻ってきた。
沢渕は直貴の横で、小声で話し始めた。どうしても話題は事件のことになる。
「例の佐伯病院はどうでしたか? 何か分かりましたか?」
「調べてみたよ。君の睨んだ通り、古い病院だった。戦前からあの場所で開業していたみたいだ」
雅美も病院に潜入した一人である。隣で耳をそば立てていた。
「戦後、増築を二回しているようだ」
「中を見た限り、人質を監禁できるような場所は見当たりませんでした」
それには黄色のチアも頷いて、
「隠し部屋でもあるのかしら?」
「そうですね。考えられるのは屋上か地下ですが、昔の建物は戦火を逃れるために、地下室をよく利用していたと聞いています」
「そうよね。地下室なら見つけ難いわ」
沢渕の顔にポンポンが接触した。
「それに妙な噂があるんだ」
直貴が声を落として言った。沢渕とチアが身を乗り出す。
「あの付近で、人が失踪する事件が何度か起きているんだ」
「そうなんですか?」
「被害者数は少ないから、今回のように大袈裟には扱われていないのだけど、警察は家出か事件か決められなかったケースがある」
「なるほど。ではあの病院は以前から、人を誘拐して、新薬を投与するという実験を繰り返していたのかもしれませんね」
「でも、今回は誘拐した人数が多いわよ」
またポンポンが沢渕の頬をかすめた。
「これまでの誘拐が成功しているので、徐々に大胆になってきたのかもしれません」
「あと、これは事件に関係ないかもしれんが、あの付近では夜中に夢遊病者がうめき声や奇声を発して歩いているのが目撃されているんだ」
「何、それ怖い」
また、ポンポン攻撃。
「しかし、人質が自由に外を歩ける筈がないから、事件とは関係ないかもしれない」
直貴は慎重に言った。
「いや、むしろ逆かも知れませんよ」
沢渕の目が光った。
「夜中、監禁していた被験者のうめき声が近所に聞かれたため、夢遊病者を装って、その噂を収束させようとしたのかもしれません」
「つまり、夢遊病者は佐伯病院のでっち上げってことかい?」
「ええ、そうなりますね」
沢渕がそう言うと、会場内には爽やかなチャイムが鳴り響いた。
「おや、もうすぐ決勝戦が始めるようだ」
「さあ、またクマゴロウを応援しなきゃ」
雅美が中央付近に目を戻すと、
「あら?」
と素っ頓狂な声を上げた。
「どうかしたのかい?」
「クマがいないのよ」
沢渕も目を遣ると、確かに山神高校の柔道部員たちは、すでに一列に並んでいたが、クマの姿だけがなかった。部員たちも心配そうに辺りを見回している。
沢渕はこの時、何か心にざわめきを感じた。虫の知らせと言ってもよい。思わず後ろを振り返った。誰かに見張られている感じがしたからだった。
しかし何も異変はなかった。
その時である。
背後の廊下で女性の悲鳴が響き渡った。続いて職員が慌てて駆けていく足音がした。
「しまった!」
沢渕は突然立ち上がると、
「先輩たちは、ここを動かないでください」
と早口に言った。
直貴も雅美もぽかんと口を開けている。
沢渕は構わずに、
「至急、佐々峰姉妹と森崎先輩、それから鍵谷先生に連絡を取ってください」
と、二人に指示をした。
「連絡なんか取ってどうするの?」
雅美ののんびりした声に軽い苛立ちを覚えながら、
「とにかく、早く所在確認を」
と言い残して、廊下へと走り出した。