雅美と晶也の共同捜査(4)
沢渕は重いガラスの扉を押して病院の中へ入った。
確かに外観はモルタル仕上げで近代的に見えるのだが、中へ入ると印象ががらりと変わった。
玄関周りは設計も古く、ドアも自動ではない。さらに天井は現代の常識からすれば低く、真正面に構える受付にはスライド式の小窓がついていた。内装は茶色を基調としていて、今の病院には珍しく暗いトーンである。昔の基準で言えば、これは重厚で威厳を感じさせるものだったのだろう。
待合室は人もまばらで、ベンチシートに腰掛ける患者は数えるほどしかいなかった。午前中に来ているという、植野老人たちの姿もこの時間には見当たらない。
待合室の片隅に車椅子がひっそりと置かれていた。事件当夜に現れた女のことを思い出した。
受付の中には数人の看護師が詰めていた。その一人が沢渕に強い視線を投げかけていた。やはり若い高校生が入れ替わり立ち替わり出入りするのは違和感があるようだ。
それでも沢渕は真っ直ぐに受付を目指した。こんな場合、こそこそするのが一番よくない。堂々と胸を張っている方がむしろ怪しまれずに済むものだ。
「すみません」
沢渕は小窓から声を掛けた。
中年のやや太り気味のナースが応対してくれた。
「市川先生にお会いしたいのですが」
市川とは雑誌のはがきに名前の一部を残した人物である。事件に関係があるかどうかは不明だが、佐々峰姉妹の調査では医大生である可能性が出てきた。医療つながりでこの病院に出入りしているとも考えられる。
「市川先生、ですか?」
恰幅のよいその女性は怪訝そうな声を上げた。
そして仲間の方を振り返り、
「ねえ、うちに市川先生なんていたかしら?」
と訊いた。
受付の中では誰もが首をかしげているようだった。
沢渕はその自然な様子から、市川という人物はこの病院に無関係であることを悟った。ただしそれはあくまで表向きには、という意味である。現場に出ている看護師らに面識がないだけのことかもしれない。
「いえ、居なければ結構です。以前祖父がお世話になったと聞いておりましたので、ちょっとお礼が言いたかったのです。どうやら僕が名前を聞き違えたみたいですね」
「それでは、進藤真矢先生はいらっしゃいますか?」
続けて沢渕は切り出した。
進藤真矢というのは、犯人が二度目の取引の際、新野社長の娘と取り違えて返してきた人質の一人である。警察は訳あってこの件を発表していないが、沢渕はこの女性は実は犯人グループの一味だと考えている。事件当夜、車椅子に乗ってバスを遅延させた実行犯の一人である。
「そういった方もいませんが」
応対した看護師は少々怒ったように言った。
「ありがとうございました」
一礼すると、さりげなく受付を離れた。
受付の先は診察室になっているようだが、今は看護師の目もあり、入っていくことはできなかった。
沢渕は受付の視線を背中に感じながら、二階へと向かった。
この病院にはエレベーターは設置されていない。そのため階段を使うことになる。
もし誰かに咎められたら、親族の見舞いに来たことにするつもりだった。その時の台詞は何度か心の中で反復してある。
階段を上がると、二階は静まりかえっていた。廊下には誰の姿もなく、病室のドアだけが奥へと並んでいた。
窓からの強い日差しのせいで、廊下は暑かった。病室の前で立ち止まっては患者の名札を確認し、その人数をメモしていった。
名札がない部屋があったので、辺りを見回してから静かにノブを回した。ドアが開くと、雅美の言った通り、空のベッドが六台並んでいた。
この大部屋を使えば、人質十七名は三部屋に分けて収容することになる。外には少なくとも見張りを一人配置せねばならないだろう。
本当にこの病院内に人質が監禁されているのだろうか。
沢渕は、次こそは次こそはと階段を上がっていった。しかしどの階の廊下にも人影はなく、怪しい部屋は一つもなかった。
ひょっとすると、見込み違いではなかったか、嫌な予感が走る。
しかしこの病院をシロと断定するのはまだ早い。なぜなら表向きの病室とは別に、隠し部屋があるかもしれないからである。
すなわち一般患者が立ち入ることのできない領域が存在するのではないか。もしそこに人質が監禁されているなら、問題は病院の職員のうちどれほどが犯罪に関わっているかである。
調べたところ、部屋の使用率は三割程度である。病室の名札を信用するなら、入院患者の数は三十ほどだった。先の調理師が用意している食事の数が五十。やはりそこには二十のずれがある。
やはりこの病院は怪しいと思う。
雅美が言っていたように、廊下の途中に増築の跡が見られた。その辺りを念入りに調べてみたが、特に隠し部屋がある様子もなかった。
五階の窓から庭が見下ろせた。職員の車の屋根がきちんと並んでいた。問題のマイクロバスも見える。しかし雅美の姿は確認できなかった。果たして彼女はうまくやっているだろうか、沢渕は少々心配になった。
突如、館内のスピーカーが鳴り響いた。
「山神高校の沢渕様、至急受付までお越し下さい」
それは女性の声で二度繰り返された。
自分の名前が呼ばれたことに、沢渕はさほど驚かなかった。このような事態が起こることは、ある程度予測していたからである。雅美が職員に見つかって拘束されたのだろう。
ここは病院である。それに今のところ佐伯が窮地に追い込まれている訳でもない。よって直ぐさま雅美に危害が及ぶとは思えなかった。病院側はあくまで紳士的な対応をするであろう。そう考えると、佐伯と面会できることはむしろ意義のあることと言ってもよかった。
沢渕は階段を駆け足で降りると、受付に舞い戻った。
そこには白衣を身にまとった男が立っていた。背は小柄だが眼光は鋭い。野心家のような印象だった。
「君が沢渕君かね? 私はこの病院の院長、佐伯佳克だ」
その声は思いの外、明るかった。
「初めまして、沢渕晶也と申します」
沢渕は丁寧に頭を下げた。
「どうぞこちらに来てくれたまえ」
沢渕は受付奥の院長室へと案内された。看護師らは仕事の手を止めて、二人の行方を目で追った。
ドアが開かれると、橘雅美の姿が飛び込んできた。
二人の白衣に挟まれて、行き場のない様子だった。いつもの元気はどこかに消えてしまっていた。
それでも沢渕の姿を認めると、一瞬顔が明るくなった。そして声には出さず、口びるを「ゴメンナサイ」と動かした。
佐伯はドアを開けたまま、
「ここはもういいから、君たちは持ち場に戻ってくれ」
と職員に声を掛けた。
雅美は解放されると、すかさず沢渕の元へと駆け寄った。勢い余って制服がぶつかった。
「君たちは山神高校の生徒さんだってね?」
佐伯が二人の方を向いて言った。
「はい」
「どうしてこの病院を調べ廻っているのかね?」
果たして雅美はどこまで喋ったのだろうか、沢渕は瞬時に思いを巡らせた。まだシラを切ることはできるだろうか。
「実は僕の父親が心臓を患っておりまして、今通っている病院は面倒見が悪いものですから、こちらの病院にお世話になろうと思っていたのです。それでお任せできる病院かどうか確かめたかったのです」
佐伯は不敵に笑い出した。
「なるほど。しかしその割りには、こそこそと泥棒のようなことをしていたようだね」
それには答えなかった。雅美は怖くなったのか、横から沢渕の腕をギュッと抱きしめた。
「それで、何かお宝は見つかったかね?」
「いえ、残念ながら何もありませんでした。しかしこの病院にきっと秘密が隠されていると思います」
「その根拠は?」
「それはまだ言えませんね」
佐伯は笑みを浮かべた。
「沢渕君、実のところ根拠なんて何もないんだろう? 君たちが何を調べているかは知らんが、憶測で物を言うのは止めたまえ。仮にもここは人の命を預かる病院だ。場合によっては業務妨害として君たちを訴えることだってできるんだぞ」
「そうですね。申し訳ございませんでした」
素直に頭を下げると、隣の雅美もつられて頭を下げた。